<前編>
夏休みに入ってからは忙しなくなっていた。
何がといえば、色々と隙を見つけては小笠原家に行くようにしていたから。
学校がある平日は行くことなど出来ない。夜はもっての外。だからといって休日に出向くことだって出来やしない。
だが夏休み期間中の平日日中であれば、主人である融はまず不在である。祥子は在宅のことが多いが、それでも山百合会の活動で学校に行ったり、小笠原家関連のつきあいであったり、家をあけることもある。そういう隙をついて、小笠原家を訪れるのだ。
もちろん、祐麒にそのようなことが事前に察知できるわけではない。
自宅の部屋で夏休みの宿題に手を付けていると、携帯電話がメールを着信した。
『From:アンリさん』
送信者の名前を確認して、すぐにメールを開く。
『明日、祥子様は日中出かける。来るなら来るがいい』
いつも通り素っ気ない文章であり、どこか不穏ささえ感じさせるのだが、その割には絵文字や顔文字で可愛らしくデコられているのでアンバランスである。
そう、情報を仕入れるために小笠原家の住み込み使用人であるアンリとメル友になったのだ。
祐麒の立ち位置からすれば祥子を訪れる方がよほど自然なのだろうが、祥子とはあくまで花寺とリリアンの生徒会関連での関係しかない。そもそも、祥子に都合よく便宜を図ってもらえるとは思えない。そういう性格ではないし、目的が実の母親であればなおさらだ。
結局、色々と知られていて協力もしてくれるアンリを頼るしかないのだ。
もっとも、小笠原家に行ったところで、何ができるわけでもない。祥子や融が不在だといっても使用人たちはいるわけで、となるとお茶を飲んでお喋りするくらい。それも出来れば良い方で、清子と会うことだってできないこともある。そうなると、結局はアンリの部屋に通されてアンリと遊ぶだけで終わったりしてしまう。
ちなみにさらに言えば、アンリ自身も仕事で祐麒の相手をしてくれないことすらある。その時はアンリの部屋で一人、本を読んだりして時間を潰すことになる。
そんなんでいいのかと思いつつも、アンリからの情報を待っては小笠原家に足を運んでいた。
明日も、日中の予定は特にない。生徒会の仕事も毎日あるわけではないし、支障がない範囲であれば調整もきく。
メールの返信をする。
さて、明日はどうなるだろうかと考えながら。
カラフルなカーテン、丸っこくて可愛らしいソファにクッション、ローズ系のベッドや布団カバーに枕、アンティーク風猫脚の机にスツール、そして部屋のあちこちに配置されたぬいぐるみたち。
ここは小笠原家の中にある離れであり、住み込みで働いているアンリの部屋でもある。
アンリはいつもの使用人服を着ており、仕事の合間の休憩に部屋にやってきている。
「残念ながら、今日は奥様は時間がとれなさそうだ」
「そうですか。まあ、仕方ないですよね」
祐麒は応じる。これも予想されていたこと。
「とりあえず、茶でも飲んでいけ」
「すみません、いただきます」
やってきて中に通されてあまりに早く退去してもなんなので、こうしてアンリの部屋でいくばくかの時間を過ごす。
「えーっと、三日後なんだけどさ」
「はい?」
「その日なら多分、奥様も時間が取れると思う……けど」
「けど?」
「確定しているわけじゃないから、またメールで連絡するな」
「あぁ、はい、分かりました」
その後、アンリと最近読んだ漫画の話をして、アンリの休憩時間が終わって、小笠原家を辞去した。
帰ってその日の夜、翌日の夜、翌々日の夜と、アンリからのメールを受けて、当初の話通りの日、清子は問題なく家に居るようなので訪れることを約束した。
☆
祐麒が訪れてきた日の夜、一日の仕事を終えた後のアンリはベッドの上に座り携帯でメールを送っていた。
清子の予定については把握している。仕事をしているわけではないし、気まぐれで出かけることもあるけれど、二、三日くらいの予定ならまず変わることはない。そういう意味では、今日の時点で三日後の予定は分かっていた。
それなのに、なぜか祐麒に正確には教えなかった。教えておいて、もしも予定が変わったらその時に改めてメールで連絡すれば手間も少なくて済むことなのに、わざわざ別でメールすることにしてしまった。
効率的でない、理に合わない自身の行動に苛つく。
「……ったく」
メールの返事が届く。
内容を見て、アンリもまた返信する。
メールでも、内容をぼかしてしまった。また明日、メール連絡することにしている。効率の悪すぎる、無駄にも思える作業。
だけどアンリは、なぜかそれを止められなかった。
☆
インターフォンの音を聞き、掃除の手を止める。小笠原邸の使用人の中で一番の下っ端であるアンリ、なんでもかんでも率先して行うべき立場ではあるが、来客に関しては最寄りの使用人が応対する。お客様を待たせては失礼だからだ。
今回も、アンリが応対するより前に他の先輩使用人が出たようで、アンリは気にせずに掃除を続ける。
しばらく掃除を続けていると、ぱたぱたと近づいてくる足音。
「アンリ、お客様よ」
顔を見せたのは、先輩である明日葉亜科(アシタバ アカ)。24歳のアンリ、28歳の益田亜芙羅に続いて若い、現在30歳の先輩使用人。というか、この三人以外の使用人は一気に40代後半以上に年齢が引き上がるのだが。
「私に、ですか」
となると、相手は一人しかいない。
「ふふ、彼もなかなか積極的じゃない。夏休みになってから、よく来るわよね」
亜科はこの手の話が好きなので、いつも困る。
「ですが、私はまだ仕事が終わっていませんので……」
普通、使用人に対して個人的な客が訪れてくるなどということは殆どない。アンリの場合住み込みなので、他の使用人に比べてみればおかしくはないが、それでも仕事中であることに変わりはない。仕事中に訪ねられても困るし、他の使用人だって気分は良くないはず。自分が情報を与えて呼び出しているとはいえ、こればかりはどうしようもない。
「あとはここの掃除くらいでしょう。それが終わったら休憩していいわよ」
ゴシップ、恋愛話の好きな亜科は、ネタになるならと許容してくれることが多い。
「福沢様も学生だから、夏休みの日中というのは絶好の機会なのでしょう。仕事中と分かっていても訪れてくるその熱意、素敵じゃない」
「あの、ですから私と福沢様はそのような関係では……」
「またまた、照れなくてもいいのよ。使用人だからって恋愛禁止令があるわけじゃないし」
亜科を含めて他の使用人達もアンリが住み込みで異性と出会う機会がないことから、祐麒とのことに関しては寛大で、生ぬるい目で見守ってくれている感じだ。亜科以上の使用人となると、アンリなど子供みたいな年齢に近いので、そういう思いも強いのかもしれない。
好都合といえば好都合なのだが、困るといえば困る。
「休憩じゃなくて、"ご休憩"、でも良いけれど?」
わざとらしく笑う亜科。この手のセクハラ発言にもある程度慣れたので、流せるようになった。
「ええと、それでは邸内にあがっていただいてもよろしいでしょうか」
「あら、それは構わないけれど、アンリの部屋にお通ししなくて良いの?」
「良いのです」
自分の部屋に通しては、清子に会わせることが出来ない。今日は清子も特段外出もなく、祐麒とお茶をする時間はとれるはず。
自ら清子の部屋に赴き、祐麒が訪ねてきたことを告げ、よかったら仕事が終わるまで一緒にお茶でも飲みませんかとお誘いをする。祐麒ならば清子も顔なじみで、大抵は喜んで引き受けてくれる。
「真由さんも、一緒に来ればいいじゃない」
「まだ仕事がありますので。公私混同するわけには参りません」
「相変わらず真面目ねぇ」
「当たり前の仕事を当たり前に出来ない人間が、偉そうに自分のことをするわけには参りません。これは、奥様からも教えていただいたことです」
「そうなのだけれど、せっかく祐麒さんが訪れてきているのだから。真由さんだって、早く会いたいでしょう。仕事も大切だけれど、女は恋することも大切よ」
「やるべきことをこなさないで、恋などする資格はありません」
「もうっ」
あくまで言い張るアンリに対し、頬をぷくっと膨らませる清子。
アンリにしてみれば仕事があるのは事実であり、仕事をできるだけ伸ばして清子とアンリが一緒に過ごす時間を増やすのが役目でもある。
一礼をして清子の部屋を辞し、仕事に戻る。
淡々と仕事をこなしながら、少し時間も気にする。祐麒と清子は二人でどのような会話をしているのだろうか。祐麒はうまいことやれているのだろうか。メールでやり取りしても、部屋で話しても、なかなか煮え切らない態度の祐麒。
確かに相手が清子ということもあり、難しいのは分かる。だが、清子も祐麒に対してはかなり心を開いており、充分にうまくいく可能性はあると思っている。アンリも女だから当然、清子の味方だ。愛人を作っている融になど同情する余地はない。融が愛人を作って好きなようにやるなら、清子だっていくらでも好きなようにやればいいと思う。
さすがに結婚、なんてのは無理だろうが、若いツバメとして囲うことくらいは構わないだろう。問題としては潔癖症の祥子だろうが、今そこを考えても仕方ないので除外しておく。
もしこれで清子と祐麒がうまくいけば、晴れてアンリの役割も終わることとなる。まあ、当面は家族や他の使用人たちの目を誤魔化す必要があるため、アンリが中継役をこなす必要はあるだろうが、それも時間の問題だ。
面倒くさい祐麒とのメールや電話でのやり取り、清子の都合が悪い時のアンリの自室でのお喋り、そんなこともなくなるのだ。
「――――」
掃除の手が、ふと止まる。
「なんだ……?」
煩わしいことが終われば、嬉しいはずなのに。
なぜか、胸がざわつく。
「ん~~、まいっか。祐麒のやつ、一人じゃ間がもたないだろうし、行ってやるか」
腰に手をあて、担当部分の掃除が一通り終わったことを確認し、アンリは祐麒が通されているであろうリビングへと向かうのであった。
お茶とお茶請けを持ってリビングに行くと、清子と祐麒が歓談していた。入口からその姿を見ると、なぜか胸がざわついた。首を傾げつつ、足を踏み入れる。
「あら、いらっしゃい真由さん。祐麒さんがお待ちかねよ」
一礼をして向かう。既にテーブルの上には他の使用人が用意したお茶が置いてあったが、ちょうど飲み終わっているらしく新たなお茶を渡し、許可を得たところでアンリも腰を下ろす。
家主と同等の席に座るなど許されないはずだが、清子がおおらかで気にしないこと、祐麒がアンリの客ということで許される。
清子、祐麒、アンリという不可思議な三人でのお茶会、としか言いようのない場はなんともいえない雰囲気のままで続く。
アンリはさっさと清子とうまいことやれと祐麒にプレッシャーをかけるし、祐麒は緊張と生来の気性と立場からそう簡単にうまいことなど持っていけないし、清子はアンリと祐麒を二人きりにしようとするし、思いが皆バラバラなのだから。
事あるごとに清子の方が若い二人に、みたいな態度を見せるのをアンリがどうにか引き留める。清子は清子で、アンリが照れて恥ずかしがっているのだと思っているようで、結局は何の進展もなく時間だけが進みお開きを迎える。
帰宅する祐麒を玄関先まで見送り、他に人がいないことを確認してアンリはため息をつく。
「……ったく、本当にどうしようもないなぁ、お前は」
「んなこといったって、無茶ですってやっぱり」
何度訪れたとて、変われるとは思えなかった。
「まあ、あたしもこのままじゃあまずいとは思っている。祐麒もヘタレだしなぁ。とりあえず何か手を考えておくから、お前は心を決めておけよ」
「心を決めてって言われましても……」
「男だろ、決めるときはビシッと決めろよ。とにかくまた……連絡、入れるから。じゃあ」
軽く手をあげて別れる。
真夏、夕方とはいえまだ明るいが、融だっていつ帰宅するかは分からないのだ。
「…………あ、そうか」
そこでアンリは、一つ思い出した。
いい機会があるかもしれない。
うまく使えそうか確かめてみようと考えながら、アンリは仕事へと戻る。
☆
アンリの朝は早い。
小笠原家に住み込みで働いており、朝からやるべきことが沢山あるというのはもちろんのことだが、仕事に従事する前の日課としてジョギングと筋トレを行うため、より早く起きなければならにからだ。
使用人の中で最も若くて下っ端のアンリは、必然的に働く量も多くなるし力のいる仕事も多い。もちろん、男の使用人もいるのだが、女にしか任せられないようなことはあるし、女だからといって力仕事を男に譲る気はさらさらない。だから、体力、筋力の維持向上は必要不可欠とアンリは考えていた。それにもともと、小笠原家に拾われる前もトレーニングは欠かさなかったから、その延長戦でもある。
トレーニングの汗をシャワーで流してから、使用人としての仕事が始まる。仕事は基本的に清掃やら倉庫の整備やらがメインだが、単に清掃といっても広大な小笠原家、一人でできるはずもない。
毎日使用する場所は毎日綺麗に掃除し、滅多に使わないような部屋は間隔を空けて掃除を行う。
邸内だけでなく庭も重要だ。外から見えるのはまず庭になるのだから、常に綺麗にしておかないといけない。庭の手入れは専門の庭師が行うが、それ以外は殆どアンリたちが掃除することになる。
夜になって一日の仕事を終えた後の自由時間、アンリは再びトレーニングを行う。夜は拳法の特訓、とはいってもかつて海外にいたときに、怪しい中国人のおっさんか手ほどきを受けた我流である。それでも、こうして毎日きちんと練習を積み重ね、いざというときには悪漢どもから身を盾にして守るべく鍛えているのだ。
鍛錬を終えたら、少しの時間ではあるが勉強の時間。中学中退で学の無いアンリを拾った清子は、使用人として雇いながら勉強させてくれた。小笠原家の使用人として働くうえで、一般的な知識、教養は必要不可欠であった。清子たちに恥をかかせてはいけないと、こうして今も勉強の習慣は忘れずに継続している。
寝るのは夜遅く、起きるのは早朝だが、眠りが深く、そもそも中学を中退して以降の怒涛の人生の中ではロクに眠れる時間もなかったから、それで十分だった。
他の使用人たちの倍以上も働くアンリだったが、それくらいやらないと駄目だと自覚していた。何しろ、他の使用人と違って正式に雇われたわけではなく、清子に拾われてなし崩し的に働いている、いわば周囲から見れば"清子のお気に入り"なわけで、そんな自分が手を抜いてさぼったり、へまをしでかしたりしたら清子に迷惑がかかる。自分が他の使用人達から笑われたり馬鹿にされたりするのは構わないが、清子に波及させるわけにはいかない。だから、それくらいの労苦は当然なのだ。
(もちろん、小笠原家の使用人の中にアンリを馬鹿にしたりする者はいない。むしろ、あまりの働きっぷりに呆れているくらいである)
一か月内で定期的に休日はあるのだが、住み込みで働いているアンリにはあまり意味がないし、休日といっても特にすることがないので大抵はいつもと同じように働いている。有給休暇も取得した記憶はないが、不満は全くなかった。
「…………真由さん」
この日もやはりアンリとしては休みのはずだったが、朝からいつものようにルーチンワークをこなしていた。
「おはようございます、奥様」
「貴女、今日はお休みでしょう。いつも言っているけれど、お休みの日はちゃんと休みなさい」
「ありがとうございます。ですが、私は働くことが好きです。お心遣いはありがたいですが、私でしたら問題ありませんので」
「せっかくの休みなのに」
ため息をつく清子に対し、アンリはあくまで機械的に答える。
「特に趣味もありませんし、部屋で寝ているくらいなら働きます。一緒に遊ぶような友人もおりませんし」
「デートでもすれば良いのに」
「そのような相手はおりません」
「祐麒さんをお誘いすればよいじゃない」
「なっ…………わ、私と祐麒さまは、そのような関係ではありません」
それまで表情も変えず淡々と話していたアンリの言葉が、不意に乱れる。
「そんなことを言っていると、他の人にとられてしまいますよ? 今、祐麒さんは男子校に通われているけれど、大学生になられて多くの女性の目に触れれば、きっとすぐに多くの女性から好意を寄せられるでしょう。今こそ、真由さんのチャンスなんですよ」
拳を握り、なぜか力説してくる清子。
結局、清子との話は平行線に終わるのがいつものことだ。アンリの方から祐麒の気持ちを清子に伝えるわけにもいかず、清子の話を受け入れるわけにもいかず、かといって雇用主である清子のことを無碍にも出来ず、そんな感じになってしまうのだ。
清子との話を終え、とりあえず仕事に戻ることにする。掃除をしながら、清子に言われたことを頭の中で再生する。
「……ありえないし」
青春時代、バイオレンスでスプラッタな人生を過ごしてきたアンリに、恋愛経験はないし想像することも難しかった。
ただ、祐麒のことを考えると――
「――――ば、馬鹿っ、あいつは大体、奥様のことが好きなんだ」
なぜか、微妙に頬が熱くなる気がする。
「くそっ、変な気持ちになるのも、あいつがいつまでもぐずぐずしているから。そうだ、こうなったら」
アンリは携帯を手に、メールを打つ。
祐麒へのメールを。
おしまい