冬休みが終わり、またしても学園生活が始まる。
まともな学園生活が送れるのだろうかと思っていたけれど、自分が考えていた以上に精神がタフだったのか、それとも単に自分が薄情なのか、それとも他に何か要因があるのかは分からないが、それでも意外と普通に日々を送ることができた。
そうこうしているうちに日々は過ぎていき、いつしか季節は春となり、新たな学年へと進級していた。
即ちそれは、姉であった先代白薔薇様が卒業したということであり、自分が白薔薇様になるということであった。
栞がいなくなったときよりも、姉がいない学園に残ることの方が聖を不安にさせた。栞がいなくても、姉がいた。では、姉がいなくなったら誰がいる?
山百合会の仲間たちの顔が浮かぶが、どこか違う。
聖は、自分の弱さを知っている。
だから、栞の芯の強さに惹かれたのかもしれない。姉の心の強さに憧れ、尊敬をしていたのかもしれない。そんな二人に、結局のところ聖は甘えていたのだ。
一人、誰もいない教会の近くのベンチに腰を下ろし、空を見上げる。
この先、この一年、自分は本当にやっていけるのだろうか。山百合会は、優秀な仲間たちがいるから問題はないだろうが、問題なのは自分自身だ。蓉子だって、いつまでも聖に構ってなどいられないだろうし、いつ見切られても不思議はないのだから。
春とはいえ、まだ風は冷たい。
ポケットから缶コーヒーを取り出して、プルタブを開けて口をつける。熱々ではないけれど、まだそんなにぬるくはなっておらず、体が温まる。
缶をベンチに置いて、体を前かがみにして頬杖をつく。多少風は冷たいが、陽があたっているので大きな問題はない。風さえやんでいれば、むしろほんのりと温かくなってくらいで、目を瞑っていると気持ちがよくなってくる。
のんびりとした時間、不安なことも忘れてこのまま寝てしまおうか、なんて考えていると、不意に影に覆われたような気配。太陽の光が遮られたのか、閉じた瞼の裏からでも、暗くなったのが感じられた。
そして、近づいてくる気配。
ぱちり、と目を開くと、すぐ目の前に美少年がいた。
「うわわっ、せ、聖さま、起きていらしたんですかっ!?」
その美少年、もとい支倉令は、いきなり目を開いた聖に驚いたのか、大げさに飛び跳ねて後退した。
「何、なんか用?」
「あぅ……その」
問うと、途端に令はおたつき始めた。
見た目、凛々しい美少年としか見えないのに、意外と肝は据わっていないのか。この一年後輩のことを、聖はあまり詳しくは知らなかった。
江利子が妹にするくらいだから、それなりに面白いのだろうが、この一年というものの間に令とまともに話をした記憶はあまりなかった。別に仲が悪いとかそういうわけではなくて、単に接点が少なかっただけだ。
ただでさえ聖はサボり癖があるというのに、栞のことにかまけていたから、余計に話す機会がなかったし、話していたとしても記憶をしていない。特に年明けてからこの4月になるまでの間、誰とどんな会話をしたかほとんど覚えていない。姉や蓉子とのことでさえそうなのだから、それまで接点の少なかった令では言うまでもない。
「あ、あの……ですね」
おびえた様子を見せる令。
そんなに自分は恐く見えるのだろうか。確かに、冬の間は人を寄せ付けないようなオーラを自分から発するようにしていたが、今はそこまで酷くはないと思うのだが。
「何さ、用があるならさっさと言ってよ、こっちだって暇じゃないんだし」
少し苛々してきて、きつめの口調で言う。
本当は何をするでもなくボーっとしていただけなのだが、ハッキリとしない令に苛立って言ってしまった。
聖の口調にさらに怯えたように見える令だったが、それでも逃げたりせず、後ろ手に持っていたものを聖に差し出した。
「……何、これ?」
首を傾げる聖。
「えと、あの、クッキーです」
「クッキー?」
「はい」
真剣な表情で頷く令。
令がお菓子作りを趣味としていて、その腕がかなりのものだということは聖も知っていた。実際、薔薇の館などに持ってきているものを口にしたこともある。
だが、なぜ今日の今このタイミングで、いきなりクッキーを渡してきたのかが分からない。
「あの、クリスマスのときとかバレンタインのとき、美味しいと言ってくださったので」
確かに、どちらのイベントでも令は山百合会の皆のためにお菓子を作って持ってきてくれて、それは非常に好評で、聖もご相伴にあずかっている。美味しかったし、褒めたりもしたとは思うが、他のメンバーに比べてみたら聖など愛想ないことこの上なかったであろう。それにもかかわらず、こうしてわざわざ何のイベントもない日にクッキーを持ってきて渡してくれるなんて、何を考えているのか。
クッキーの袋を見ながら、こっそりと令の顔を盗み見る。
そこで、聖は令の意図を見抜いた。
「…………はぁ」
大きくため息をつくと、令が悲しそうな顔をした。
「も、もしかしてお気に召しませんでした?」
「お気に召すもなにも、まだ口にしてもいないでしょうに。てゆうかさ、令、もしかしてあんた、私のこと心配してこんなことしてくれているの?」
「えっ? い、いえ、あの、別にそんな」
手をぶんぶんと振って否定する令だったが、表情と口調で肯定したのも同様だった。
頭をかきつつ、聖は内心で再び大きなため息を吐き出した。蓉子なんかに心配されるのならまだしも、後輩にまでこんなに心配されるとは情けない。しかも、四か月も前のことを今になってとは。
「別に、大丈夫だよ、もう。何か月経ったと思っているのさ」
この場を誤魔化したくて、平気なことを強調するように笑って見せる。
なのに、令はより心配そうな顔を見せる。
「でも、まだ白薔薇さまが卒業されてから……あ、いえ、前の、ということですけれど、まだ1ヶ月ちょっとしか経っていないわけですし」
「――あ?」
なんと、令が心配していたのは栞のことというよりも、先代が卒業したことの方だったようだ。聖はがっくりとうなだれる。姉が卒業したからって後輩に心配されるとは、どれだけ頼りないと思われているのだろうか。
令を見ると、またびくびくしている。先ほどの聖の態度がよくなかったのだろうか。確かに、心配してくれた後輩に対し、「あ?」なんていう返答じゃあ怒っていると思われても仕方ない。
「わ、私にできること、これくらいしか思いつかなくて」
クッキーの入った袋で口元を隠し、大きな体に似つかわしくなくもじもじしている令を見て、ちょっと可愛いなと思ってしまった。この辺のギャップも、江利子を喜ばせているのかもしれない。
とその時、頭にピンと浮かぶことがあった。
この素直な後輩を、少しからかってやろうという。
「そうねー、私も元気になりたいけれど、うーん」
「な、何か? 私にできることであれば、その」
「そうだなぁ、うん、可愛い後輩がちゅーでもしてくれたら、元気が出るかも」
「…………え?」
きょとん、とする令。
そんな令を見上げて、ふいと顔を横に向ける聖。
「……ま、無理よね、そんな」
寂しげな表情を作ってみせる。
令が、わたわたとしているのが分かって笑いそうになってしまうが、堪える。
「あの、えと、そのっ」
狼狽ぶりが面白くて、もっと見ていたい気もしたけれど、自分の妹でもないしこれ以上いじめても可哀想だと、冗談だよと笑って言おうとしたら。
「――わ、分かりました」
思いがけない返答が来た。
え、と思って顔を上げると、頬を赤くしながらも真剣な、思いつめた表情をした令がいて、聖のことを真正面から見下ろしてきていた。
え、マジ? 思わず焦る聖。
しかも今、聖はベンチに座っていて令は立っている。ただでさえ長身の令がその状態で見下ろしてきているわけで、一気に呑み込まれそうになる。自慢ではないが佐藤聖、こう見えて攻められると弱いのである。他人には見せないようにしているが。
「あの、れ、令?」
戸惑っている聖をよそに、令が上半身をゆっくりと屈めてきた。
真面目な子に冗談を言うべきではなかったか、でも今更冗談だったなんて言える雰囲気でもないし、これはこれで儲けもの……いや、でも令のファーストキスだったりしたら申し訳ないし、なんて考えていたら、膝の上に何かが置かれる感触が。
見てみると、クッキーの袋が置かれていた。
「……へ?」
「それじゃあ、ちょっと行ってきますから、待っていてください!」
「――――はぁ!?」
顔を上げると、いつの間にか令は離れた場所で手を挙げていて、聖が何かを言う前に走り出し、あっという間に見えなくなってしまった。
「……えーと、どゆこと?」
取り残された聖は、訳も分からずに座っていることしか出来なかった。
とりあえず、どうしようもないのでぼーっとしていたが、令が戻ってくる気配はない。とはいえ、待っていてくれということは戻ってくるつもりだろうから、勝手に立ち去るわけにもいかず、空を見上げながらぼんやりとする。
別に時間を潰すこと自体は苦ではないが、いつ戻ってくるとも分からない相手を待つというのが微妙な感じだ。
缶コーヒーを手に取って飲もうとしたが、缶から熱さが感じられず、なんとなく気が殺がれてベンチに置きなおす。
仕方なく、渡されたクッキーの袋を開いて中を取り出してみると、また可愛らしくラッピングされた手作りクッキーが姿を見せる。
聖にくれたわけだし、食べたって文句言われないよね、と考えながらラッピングを解き、クッキーを口の中に放り込む。
サクサクとした食感と砂糖の甘さが口の中で溶け合う。シンプルなクッキーながらも、その美味しさはさすがと思わせる物であったが、ちょっとばかり甘すぎる気がする。聖は甘くなった口の中を宥めるために、コーヒーに口をつけた。
「……あ」
ぬるくなったコーヒーのはずなのに、驚くほどの美味しさと飲みやすさに包まれる。クッキーの甘さとブラックコーヒーの苦さが程よく中和され、甘かったクッキーがビターな味わいに変化する。
つい、もう一枚クッキーに手が伸びてしまい、今度は味わいながら咀嚼する。口の中に残っているコーヒーの苦みが、今度はクッキーの甘さにアクセントを与えている。
「う、これは、ヤバい」
コーヒーが手元にある限り、無限連鎖で食べつくしてしまいそうな魔力を持っている。恐ろしい程、ブラックコーヒーに合うクッキーだった。
「……まさか」
そこまできて、思う。
令は、聖がブラックコーヒーを好むことを知っていて、このクッキーを作ってきたのではないだろうか、と。
考え出すと、他にないように思えてきた。あの令のことだ、相手の好みを知り、それを考慮したうえでよりよいものを作ろうとしてきたのだろう。これが、偶然なんかであるわけがない。
「う~~、駄目だって」
言いながらも聖は、三枚目のクッキーをつまもうとする指を止められないのであった。
令が走り去ってから、二十分ほどが過ぎ去った。
クッキーはどうにか4枚で食べるのを止めることが出来た。最後にコーヒーを一気に飲み干したお蔭であろう。
それにしても令は本当にどうしたのか。待っていてくれと言われたが、いくらなんでも上級生を相手に待たせすぎではないだろうか。さすがに、そろそろ帰ってしまおうかな、なんて思い始めたころ、遠くから大きな生徒が走ってくる姿が目に入った。間違いなく令であろう。
走ってきて、聖の前で止まり、両ひざに手をついて荒い呼吸をしている。全速力で駆けてきたのであろう。
「……何してたの?」
呆れつつ問いかける。
「……ご、ごめんなさい、聖さま……っ」
まだ乱れた呼吸のまま、謝罪の言葉を口にする令。意味が分からずに再度、尋ねようとして、顔を上げた令を見てぎょっとする。
「れ、令、あんた何してたの?」
令のほっぺたには、真っ赤な手形がくっきりとついていたのだ。
「えと、由乃に――」
由乃、という名前には聞き覚えがあった。令が一年生の時から、妹にしたいと口にしていた子の名前だ。リリアンに今年入学してすぐにロザリオを渡し、姉妹の契りを交わしたと言い、一度だけ薔薇の館にも連れてきたことがあった。
お下げの髪が良く似合う、可愛らしい女の子だった。
「よ、由乃に、先ほどのことをお願いしたら……馬鹿って言われて、引っ叩かれました」
頬っぺたを押さえてしゅん、とする令。
「…………は?」
「由乃だったら可愛いし、先ほどの条件に充分、あてはまると思ったんですけれど……すみません」
つまりなんだ。
聖が先ほど口にした、「可愛い後輩にちゅーしてもらったら」というのを実現するために、わざわざ自分の妹に頼みに行ったということか。そして頼んだら、平手打ちをくらったということか。そりゃまぁ、敬愛する姉からそんなこと言われたら怒るだろうが、言う方も言う方だし、言われて姉を叩く方も叩く方だろう。
「帰りに、美冬さんにもお願いしてみたんですけれど、断られてしまって……あ、美冬さんというのは同級生で、小さくて非常に可愛らしい方で」
しかも妹だけでなく、他の友人にまで声をかけたらしい。
なんという馬鹿正直さなのか。
「――ぷっ……く、あはははははっ!」
あまりに可笑しくてつい、声を上げて笑ってしまった。
「え、え、ど、どうかしましたか聖さま?」
いきなり笑われて狼狽する令。
これはちょっと、令という後輩のことを聖は見誤っていたかもしれない。こんな、キャラクターだったとは。
「くくっ……いやぁ、これはまた……あれさ、あの場面では目の前に令しかいなかったわけだし、当然、令に向けて言ったことなんだけどね」
涙が出そうになるのを堪えながら告げてやると、令は初め理解が出来なかったのかきょとんとしていたが、やがてわなわなと体を震わせ始めた。
「そっ、そんなっ」
「ごめんごめん、いやジョーダ」
本気でキスしろ、なんて言うつもりは当然ない。慌てる令が見られただけで充分だ、と思ったのだが、令の感性は聖の想像を超えていた。
「だ、だって、私なんかこんな背がデカいし、よく男の子と間違われるし、全く可愛くなんてないですしっ」
赤くなって、必死に否定する令。
どうやら令は、「ちゅーする」という部分よりも、「可愛い後輩」という部分に引っ掛かり、それが自分のことではないと思い込み、「可愛い後輩」を探しに行ったらしい。
そんな令の行動と思考、そして今見せている仕草やら表情やらを目の当たりにして、聖の心の天秤が一気に傾いた。
何この娘、可愛い!?
と。
「……何言ってんの、令だって充分、可愛いよ」
内心を見せないように制御して、噛み含めるように言ってみせる。
「か、可愛くなんかないですよ、分かっているんです、自分で。可愛い洋服もアクセサリも、全然似合わないし」
落ち込む令だが、可愛いヒラヒラの洋服やリボンなどを身に着け、鏡の前で落ち込んでいる令を想像するだけで、可愛さは倍増する。
可愛いというのは、別に見た目で全てが決まるわけではないのだ。
「馬鹿だね、令は。先輩にとってはね、後輩はみんな可愛いものなの」
自分の動揺を悟られたくなくて、あえて一般論を口にする。
「そ、そーゆーものですか?」
「そうそう、そーゆーもの」
一般論にすることでようやく令も納得いったのか、口を閉じた。
さて、良い物も見れたし、いつしか元気も出てきたし、そろそろ行こうかと思ったら、なぜか令が隣に腰を下ろしてきた。
「どうかした、令?」
「あああああああの、そ、そ、それじゃあ、私、いきます」
「ん? ああ、いいよ」
部活か、山百合会の活動か、用事があるのにわざわざ時間を潰して来てくれたのであろう。別に聖に断るまでもなく、自由に行動してくれて構わないのだが、だとしたらなぜ、ベンチに腰を下ろしたのか。
「ね、令……」
言おうとして、止まる。
頬に、柔らかくて温かな、ぷにぷにとした感触が押し付けられたから。温かいけれど、ほんのり湿ってひんやりともしていて、心地よいこの感じ。
「え、え、え、えと、何っ!?」
ゆっくりと離れていく令を見ながら、自分でも思っていなかったほど動揺して、どもりまくってしまった聖。
対して令はといえば。
「あ、あの……ここ、こ、これで元気、出ました……?」
真っ赤になって、潤んだ瞳を上目づかいにして、聖を見上げてきて。まるで捨てられた子犬のような感じだ。
可愛すぎて、興奮しそうになって、でもそんな姿を晒すわけにはいかないと理性もあって、結果としてふざけた態度をとることにした。
「ん、んー、まあそうだね。でもどうせなら、こっちにちゅーしてくれるともっと元気が出るんだけど?」
と、指先で唇を指し示してみる。
「え、ええっ!? そ、そんな、そそそれは、ま、まだ早いですっ」
「まだ、ってことは、そのうちは期待していいのかしら~?」
「あ、あぅあぅ」
首まで赤くなる令だが、嫌だとは言わないのは、良いということだろうか。
考えると、本当に元気が出てきた。あの日以来、こんな気持ちになったことなどなかったというのに、目の前にいる鈍感そうだけど純粋な可愛い後輩のおかげで。
聖は立ち上がる。
体が軽く感じる。
「……ねぇ、令。今度また、お菓子、作ってきてくれる?」
クッキーの袋を手に、ベンチに座ったままの令を見て尋ねてみる。
「は、はい、喜んで!」
笑う令。
子犬が尻尾をぶんぶんと振っているみたいだった。
「あ~~、まずいなぁ……江利子や由乃ちゃん、祥子には謝らないとね」
「???」
聖の呟きを耳にして、首を傾げる令。
それを見て、サラサラのショートカットに手を伸ばし、頭を撫でる。
「ふふっ、なんでもない。行こうか、令」
「え? あ、はいっ」
立ち上がる令。
可愛い後輩は、ベンチの上に置いてあったコーヒーの缶を手に、聖の横に並んで眩しい笑顔を見せるのであった。
おしまい