~ 二つの唇 ~
放課後の校舎の中、あたしは皆から集めた課題ノートを抱えて廊下を歩いていた。最初こそさほど重くないし楽勝なんて思っていたけれど、こうしてずっと持って歩いていると徐々に腕が疲れてくる。
「うう、そもそもなんであたしが運ばなくちゃいけないのよー」
ぶーたれたことを言うと、斜め前から冷たい視線が向けられる。
「文句言わないの」
「でもー」
「この前の貸し、返してもらってないでしょ」
「ぐぅっ……」
そう、本来なら当番でも何でもないのだけど、乃梨子ちゃんに命令されて手伝っているのだ。体育の時の借りのことなんて忘れていると思ってたのに、こうして放課後に手伝いをさせられるとは。
百歩譲って手伝うことは良しとしよう、借りがあることは確かだから。ただ、こうして二人で歩いていても何を話してよいやら分からずに戸惑うことが嫌だった。乃梨子の方はもちろん、自ら話しかけてくるなんてことないし、荷物は重いし、うんざりだった。
ようやくのことでノートを運び終えたと思ったら、今度は化学室に備品を返却しておいてくれなんて余計なお使いを追加されてしまった。化学室は上の方の階で、しかも反対側だからまた遠い。そう考えるとため息が出ちゃうのも仕方ないところ。
「これくらいなら一人でも十分だし、笙子さんは先に帰ってもいいよ」
「いいよ、最後までつきあうよ」
ここまできておいて後はよろしくではバツが悪いし、どうせ日出美ちゃんも先に帰っちゃったし、家に帰っても特にやることがあるわけでもないし。たいして重くもなければ量もない備品を乃梨子ちゃんと分けて持ち、化学室へと向かう。
「――くすっ」
すると、不意に乃梨子ちゃんがわずかにだけれども笑った。
「何、あたし何かおかしなことでも言った?」
「別に。ただ、意外と律儀なんだなって思って。貸しは2つだったもんね」
「あ……あたしはそんな、別にそんなんじゃ、ないし」
かあぁっと頬が熱くなって、慌てて顔を見られないように乃梨子ちゃんより前に出て足早に歩き出す。熱くなったのは別に乃梨子ちゃんの言葉に恥ずかしくなったからではない、ふっと見せられた乃梨子ちゃんの笑みに、なぜかドキッとしてしまったのだ。クールでいつも仏頂面をしている乃梨子ちゃんの、思いがけない自然な、柔らかな笑みだったから。
見慣れないものを見たからだと自分に言い聞かせ、足早に歩く。手伝うと言って放り出すこともいかないし、こうなったらさっさと終わらせて帰るに限ると、階段も素早く上っていく。
「あっ……と」
しかし慌てていたせいだろうか、備品が一つ転がり落ちてしまった。
「ちょっと、気を付けないと」
ちょうど三階にあがったところで下に落ちていかなかったのは幸いだが、化学室の方とは反対側の廊下の方に転がっていくのを、乃梨子ちゃんが追いかけていってくれる。落ちた物を拾おうと腰をかがめて手に取ったところで、乃梨子ちゃんの動きが止まる。
「どうしたの、乃梨子ちゃん」
あたしも戻って乃梨子ちゃんの方に行くと。乃梨子ちゃんの目は丁度、わずかに開いた扉の中へと向けられていた。
つられるように、あたしも目を向け――――
「これでよし、と」
化学準備室の中に入り、指定されていた場所に備品を置いたあたしは、ことさらに声を出して任務が終了したことを告げる。わざとらしかったかなと思いつつ乃梨子ちゃんの方を見てみると、他の備品を棚にしまい終えたところで目が合う。
「あっ、び、びっくりしたよね、まさか教室でキスしているなんてっ」
それまで我慢していたのだけれど、とうとう抑えきれなくなって言ってしまった。
そう、先ほどあたしと乃梨子ちゃんが扉の隙間から見たのは、教室の中で向かい合い、手をつなぎ、そしてキスをしている二人の女の子だった。顔はよく見えなかったけれど、一人は髪の毛の長い子で、もう一人はショートカットだった。
あまりのことに茫然として見入ってしまったが、しばらくして乃梨子ちゃんに手を引かれ、慌てて逃げ込むように化学準備室へとやってきたのだ。
「あの二人、き、キスなんかして、恋人同士なのかな?」
「さあ。今時、友達同士でもキスとかするんじゃないの」
「そうかもだけど……」
だけど、さっき見た二人はどう考えてもただの友達同士には見えなかった。だってキスしながらロングヘアの子は、ショートカットの子の胸を触っていたようにも見えたし。
「キスくらいで大騒ぎしていないで、さっさと帰りましょう」
「何よー、じゃあ乃梨子さんはキスしたこと、あるとでもいうの」
「それとこれは、話は別でしょう」
そう言った乃梨子ちゃんは、どこかちょっとだけいつもと違うように感じられた。もしかしたら口ではああ言っても、実際はあたしと同じようにドキドキしているのかもしれない。何せ学校内でキスシーンを目撃してしまったのだから。あたしや乃梨子ちゃんと同じ年頃で、同じ学園に通っている生徒で、ドラマでも小説でもないところで。
優等生で真面目で鉄面皮の乃梨子ちゃんを驚かせたいという思いが沸き起こったのだろうか、次にあたしはとんでもないことを口にしていた。
「それじゃあ、あたしとキスしてみない?」
なんて。
「はぁ? なんでそんなこと」
「あ、もしかして恥ずかしい? キスくらいで」
「そ、そんなわけないでしょ、キスくらいで」
成績の良い乃梨子ちゃんのこと、負けず嫌いでプライドも高そうだからちょっとつついてみたら、面白いくらいに乗ってきてくれた。
けど。
「じゃ、じゃあ…………する?」
ほんのりと顔を赤らめて言う乃梨子ちゃん。いつもと変わらないよう冷静さを装おうとしているのは分かるけど、落ち着きがないこともよくわかる。勉強でも体育でもあたしの方がいいようにやられていたけれど、意外なところに弱点発見。
「あ、う、うん」
って、あたしだって余裕があるわけじゃないけれど、それを見せるわけにはいかない。
乃梨子ちゃんの前に立ち、制服の上から二の腕を掴むと、ぴくりと反応する。身長はさほど変わらないから、どちらも無理な姿勢をすることはない。
乃梨子ちゃんのクールな瞳が近づいてくる。吐息がかかる。
そして。
「――――ん」
唇が重なる。
少しひんやりとしてて、柔らかい。
「…………どう?」
そっと離して、尋ねる。
「ん、まあ、こんなもん?」
見ると、見事なまでにポーカーフェイスを保っている。なんだか、あたしの心臓だけバクバク激しくて馬鹿みたいと思ったけれど、よく見てみれば乃梨子ちゃんのほっぺも少し赤くなっていて、やっぱり少しは動揺しているのだなと思うと嬉しくなる。
「さあ、さっさと帰りましょう」
素っ気ない口調で歩き出す乃梨子ちゃんだったけれど。
帰り道の歩調は、いつもより速いように感じた。
「うわぁ……あたし、なんかとんでもないことしちゃった……!?」
家に帰って部屋に入って落ち着くと、改めて放課後の乃梨子との一件を思い出してしまい、身悶える。
あの時は直前のキスシーン目撃、そして化学準備室の狭くて独特の雰囲気に流された感があるけれど、よくよく考えると、乃梨子ちゃんとキスしちゃったのだ。
明日、どんな顔をして乃梨子ちゃんに会えばいいのか、何を話しかけたらよいのか。それとも、こんな風に考えているのはあたしだけで、乃梨子ちゃんにとってはたいしたことなんかないのだろうか。赤くなっていたと思えたけれど、もしかしたら夕日のせいで赤く見えただけかもしれないし、乃梨子ちゃんにとってはそれこそ"キスくらい"って感じなのかもしれない。何せ、中学までは共学校だったわけで、彼氏とかいてもおかしくないし、友達とだってノリでキスしちゃうこともあったのかもしれない。まあ、あの優等生面した乃梨子ちゃんが、ノリで女の子友達とキスするとはあんまり考えにくいけど。いくらノリこちゃんといっても(うまくない)
だけど、乃梨子ちゃんはどうだとしても、あたしにとっては実はファーストキスなわけで、どうしたって意識し、思い出さずにはいられない。
柔らかくて、ひやっとしていた乃梨子ちゃんの唇。気持ちよかったような、そうでもないような、よくわからない感じ。ドキドキはしたけれど、初めてのキスを、学校の中でしたことにドキドキしていた部分が大きいような気がする。
夜ご飯を食べているときもなんだか上の空で、お母さんに怒られた。そんな状態は食後も続いていた。
「――――笙子。笙子ったら」
「……え。あ、な、なに、お姉ちゃん?」
あたしがそう言うと、お姉ちゃんは呆れたようにため息をついた。
「なに、じゃないでしょう。笙子が宿題を見てほしいってお願いしてきたんじゃない」
「あ、う、うん、そうだね、ごめんね」
叱られ、慌てて教科書に目を戻して問題に集中しようとする。
だけど、どうしても集中できない。
ちらと上目づかいでお姉ちゃんの方を見てみる。
頬杖をついて参考書に目を落としているお姉ちゃん。こうして見ると、唇は乃梨子ちゃんと比べて薄くてサラッとしているように感じる。唇が渇いたのか、僅かに開いた口から舌がちょっとだけ出て、軽く唇を舐める。
なんだろう、お姉ちゃんの唇がやけに色っぽく感じてドキドキしてくる。高校の頃は化粧っ気もない、かさかさした唇だとばかり思っていたのに、大学生になってから急に口紅とか使いだして、だからギャップがあって変に感じちゃうんだ。
「――――何、じろじろと人のこと見て」
視線に気が付いたのだろう、頬杖をついた姿勢は変えず、目だけあたしの方に向けてお姉ちゃんが聞いてきた。
「え、あ、やっ、お姉ちゃんってキスしたこと、あるかなって」
「…………は?」
って、うああああああああっ!! あたしの馬鹿!! なんで口に出してそんなこと聞いてしまったのだろう。
だけど、後悔したところで既に遅い、口に出してしまったことは戻せないのだから。
呆れた目で、呆れられたことを言われる前に、あたしは言い訳するように続ける。
「あ、あの、あのねっ。実は今日学校でキスしている子達を見ちゃって、友達同士がおふざけでしているようなのじゃなくて、こう、しっかりキスしているっていうか。それで、なんかキスってどんな感じなのかなって思っちゃって…………」
最後の方は声が小さくなる。だって、お姉ちゃんが憐れな子羊を見るような目になっているのだから。
「はあっ……それで、やたら集中力がなかったの?」
「う、うん、ごめんなさい……」
本当はそれ以上に、乃梨子ちゃんとしたキスのこと、乃梨子ちゃんの唇の感触を思い出していたせいだけど、さすがにそれは言えない。
あたしがしょんぼりしていると、案の定、お姉ちゃんはため息をついた。果たして、あたしのせいで何回、お姉ちゃんにため息をつかせただろう。
お姉ちゃんは「やれやれ」といった感じで立ち上がり、あたしの隣までやってきて腰を下ろす。
え、何、どういうこと?
と、いきなり近くなった距離にどぎまぎしていると、お姉ちゃんの手がすっと上がり――
「――あいたっ!?」
でこぴんされた。
額に、じんわりと痛みが染みてくる。
「全く、何かと思えば……」
「だ、だってぇ」
額を手でおさえて涙目になる。
そんなに痛かったわけじゃないけれど、なんだか情けなくなって。
「ご、ごめんねお姉ちゃん…………あたしのこと、嫌いになっちゃった?」
「ん? 何よ、どうしたの本当に最近。中学生の時は、"お姉ちゃんのことなんて大嫌い"って言っていたくせに」
「そそ、それはっ、そのっ」
事実なだけにバツが悪い。
中学生の頃は本当に、面白みも何もないお姉ちゃんのことが好きになれなかったのだ。もちろん、今では単に自分の思い込みのせいだと分かっているけれど。華やかな薔薇様たちと比べてしまっていたあたしが馬鹿なんだけど。
「しようのない子ね」
本当に呆れられてしまっただろうか。お姉ちゃんは、なんともいえない微妙な表情であたしのことを見ている。
「……そんなに痛かった? ちょっと見せてごらんなさい」
「え、あ、うん……」
額から手を離す。
「もうちょっと、上を向いて」
「うん」
心もち、顔をあげる。
すると。
「――――っ!?」
次の瞬間、お姉ちゃんの指が頬に触れたかと思うと、いきなり接近してきたお姉ちゃんの顔、そして唇に触れる温もり。
「ん…………ぁ」
「ちゅっ……ん」
押し付けられた後、軽く上唇を唇で挟まれる。
「はぁっ……あっ……」
離れてゆく感触。
お姉ちゃんを見る。
眼鏡の下の瞳が、きらりと光って見える。
「――どう? これで、分かった?」
言いながらお姉ちゃんは、あたしの耳を指でくすぐるように触れる。
「あ……えと…………うん……」
ぼーっとしたまま、あたしは頷く。
乃梨子ちゃんとキスした時よりもドキドキして、ぽわーんとして、胸が、お腹が、顔が、とにかく熱い。
「そう」
「うん」
「笙子は馬鹿ね」
「え……な、なんで?」
そりゃあ、確かに頭は良くないけれど。
面と向かって言われるとムッとする。せっかくキス……してくれたのに。
「お姉ちゃんが、笙子のことを嫌いになるわけないでしょう。こんなに可愛い妹なのに」
そう言って、お姉ちゃんはあたしの頭を優しくなでてくれた。
「ほわぁ……」
「何よ、変な声出して」
苦笑いするお姉ちゃん。
だって、自然と出ちゃったんだもん。
「ね、ねえ、お姉ちゃん」
「なぁに、まだ何かあるの?」
「あのね、本当にあたしのこと、嫌いじゃない?」
「嫌いじゃないわよ」
「じゃ、じゃあ……その証拠がほしいな」
「何よ、証拠って。今、私が言ったことがすべてじゃない」
「で、でも、口では何とでも言えるしっ」
「私の言うことが信じられないっていうの」
「そうじゃなくて、あの、そのっ」
あああ、どうしよう、なんだかどんどんお姉ちゃんを怒らせちゃっている。欲をかいたのが失敗したかもしれない、どうにかして誤魔化さないといけないと狼狽していると。
「――ああ、もしかして、そういうこと」
「あの、お姉ちゃんっ」
「仕方ないわね、もう」
何とか取り繕おうと開きかけた口を、またしてもお姉ちゃんの唇で塞がれた。今度は、下唇をつままれる。
「――――どう、これで信じられたかしら?」
「う……うん……」
「もう、いつの間に、そんな甘えん坊になっちゃったの?」
「甘えん坊の妹は、嫌……?」
「そんなことないわよ、今まで甘えてくれなかったから、ちょっと戸惑っているだけ。分かったらほら、宿題の続きするわよ」
「うん」
ぽんぽん、と軽く二回あたしの頭を叩いてからお姉ちゃんは元の位置に戻り、あたしは宿題を再開する。
だけど。
あたりまえだけど、お姉ちゃんのことばかり気になって、宿題なんて全然捗らなかった。