なんとなく寝苦しくて、俺は目を覚ました。布団の中にくるまっているせいかと、はじめは思ったが、どうも違うようだった。
今まで感じたことの無いような物体に顔面を覆われているというか、包み込まれているというか。多少、息苦しくはあるものの、だからといって決して不快というわけではなく、むしろ安心できる心地よさというか、いつまでもこのままでいたいと思わせる何かがソレにはあった。
なかば寝ぼけながらも、俺はもっと感じていたくて、無意識に手を伸ばして求めていた。温かくて柔らかくて、まるで手の平に吸い付いてくるようで、この世にこんな気持ちよいものがあるのかと感動したくなる。
「や……ん、はぁっ……だめぇ」
甘く、切なく、鼻をくすぐるような声が耳に入ってくる。
――――え?
途端に、意識が鮮明になってくる。
そして、おそるおそる、今の状態を確認してみて凍りつく。
とんでもないことになっていた。
俺が顔を埋めていたのは、なんと可南子ちゃんの胸であり、しかもあろうことか手で揉みしだいていた。薄いTシャツ1枚越しに感じる可南子ちゃんの胸は、ボリュームもあるし、暑さでわずかに汗もかいているのか、しっとりと張り付くようで、感触もそりゃあ、たまらないというもの。
「~~~~~~~~っ!!!!」
かろうじて声を出すのを堪えて、体を離す。
こんな状況で目を覚まされたら、確実に変態、変質者として警察に突き出される。朝だし、美少女のこんなあられもない姿と感触を堪能して、さぞかし大変な状態になっているだろうと思ったものの、傍と気がつく。
「……そっか、今、女の体なんだっけ」
昨日と変わらぬ女体が存在していた。
ひょっとしたら、目が覚めたら元に戻っているんじゃないか、などと淡い期待を抱いてもいたのだが、やはりそう上手くいくわけもなかった。というか、この状況で戻っていたら別の意味で大問題であるが。
俺はがっくりと頭を垂れ、ため息をついた。
「はぁ~っ、やっぱ、夢じゃなかったか」
膨らんだ胸を触り、現実を知る。
どうしてかなんて分からないけれど、女の体になってしまったのだ。これからどうすればよいのか、皆目見当もつかなかった。
と、一人で悩み、髪の毛をかきむしっていると。
「ユウキちゃん、朝から何、ぶつぶつ言っているの?」
「にゃあっ!?」
背後から話しかけられて、飛び上がりそうになる。
「ななな、なんでもないよ、そう、ちょっと夢見が悪くて……」
言い訳しながら振り向くとそこには、長い髪の毛がとんでもないことになっている可南子ちゃんの姿があった。
「そう? 大丈夫?」
わずかに心配そうな顔をして、こちらに身を乗り出してくるが、その拍子に豊かな胸が弾むように揺れるのが目に入った。途端に、先ほどまでの感触が蘇ってきて、一気に顔が熱を帯びてくる。
このままではいかん、ここは全く関係ないことでも考えるのだ。そう、数学の問題を思い浮かべるのがセオリーだ。ええと、フェルマーの最終定理が……
「ユウキちゃん、血が!」
「……え?」
ぽたり、と滴が落ちて、シーツに赤い染みを作る。
「うわ、うわああああっ!?」
「お、落ち着いて、ちょっと」
「だだだ駄目、そんな格好で近づかれたらぁっ!?」
この日俺は、Hなことを想像して鼻血を出すという経験を、生まれて初めてしたのであった。
鼻血の後も、色々と大変だった。
俺の目の前で堂々と着替え始める可南子ちゃんの肢体を、どうにか見ないように欲望を理性でねじ伏せ、女の子の服を着させようとする可南子ちゃんと可南子ちゃんのお母さんを無理矢理説得し、なんだかんだと内心では冷や汗ものの時間を過ごして細川家を後にしたのは、お昼近くになってからだった。
しかし、外に出たもののどうしたらよいのか分からず、途方に暮れているというのが正直なところだった。何せ、女になっているのだ。家に帰ったところで、どう説明すればよいのか思いつかないし。
俺はふらふらしながら、街を歩いていた。
ショックが抜け切らないというのもあったが、無いはずのものがあって、あるはずのものが無いので、どうも体のバランスがうまく取れないようだった。背も縮んで歩幅も変わっている。
「まさか俺、このまま一生、女のままなんじゃ……」
家に帰ることもできず、そうかといって行き先があるわけでもなく、なるべく人の姿の少ないところをうろつく。
夕方くらいまでは大丈夫だろうが、さすがに二日続けて外泊というのは許されないであろう。
さてどうしようかと思い、適当に本屋で立ち読みし、ファーストフードで腹を満たし、ゲームセンターで時間を潰し、そんな風に何の解決にもならない逃避にも似た行動をしているうちに、夕方近くになってしまった。何も、良いアイディアは浮かんでいないというのに。
こうなったら不自然は覚悟で、今日も友人の家に泊まることにしておくか。でも、実際にアテがあるわけでなし、お金もそんなにあるわけではない。金のかからない場所でぎりぎりまで時間を潰し、ネットカフェで朝まで過ごす方向に心が傾いてくる。明日に先延ばしするだけだというのは分かっても、他に良い選択が思い浮かばない。
ただ一つ幸いなことは、太陽が沈むのも随分とゆっくりになっていて、夜になっても寒いというほどではないこと。外でもどうにか時間を潰すことができる。無料のタウン誌を手に、公園や広場のベンチにでも行こうかと歩を進める。
「あれ、ユウキさんではないですか?」
「え?」
自分の名前が呼ばれた。ふと前方を見てみると、一人の女の子が、とてとてと駆け寄ってくる姿が。
誰かと思ったら、菜々ちゃんである。昨日とは違って私服だったので、遠目ではちょっと判断できなかったのだ。
パーカーにデニムのパンツというカジュアルな格好に、なぜか野球帽など被っているので、見た目はまるで男の子のようにも見える。
「あれ、その格好。ひょっとして、昨日からまだ、自宅に帰られてないのですか?」
帰るに帰れないともいえず、曖昧に笑って誤魔化そうとするが、菜々ちゃんはそう簡単には離してくれそうもなかった。
「何か、ワケありですか? 昨日も様子、変でしたし……もしかして、家出っ娘とか」
訳ありには違いないが、話せるわけもない。
だけど今の俺にとって、菜々ちゃんは女の姿での数少ない知り合いの一人であって、丁度、心が弱っていた俺は思わず縋りつきたくなって。
「菜々ちゃーん。俺、どうしたらいいんだろう」
気がついた時には、菜々ちゃんに抱きついてしまっていた。
そんな俺を、驚いたような顔をしながらも、菜々ちゃんは黙って受け入れていてくれた。
そんな再会を経て、今。
「じゃあ次、デュエットしませんか? 『奇跡の地球』でハモりましょう」
なぜかカラオケボックスに来て、二人で歌っていたりなんかする。しかも菜々ちゃんの選曲は、最新の曲から渋い曲までレパートリーが広い。
あの、今思い返せば恥しくて仕方が無い再会の後、菜々ちゃんは俺をこのカラオケボックスに半ば強引に連れ込んできた。そして、何を訊ねるわけでもなく歌いはじめたのだ。ちなみに一曲目はELTだった。
今、隣で歌っている菜々ちゃんを再び見る。小柄だけれど間違いなく女の子で、抱きついた体は柔らかかった。二人用の個室ということで部屋も狭くてかなり距離が近く、動くと触れてしまいそうな間隔。昨夜の可南子ちゃんといい、先ほどの菜々ちゃんといい、今までの人生でも経験がない女の子との接近遭遇に、今さらながらドキドキする。
いや、今は自分も女なわけであるが。
「――さっきからユウキさん、男性ボーカル曲ばかり歌ってますね。好きなんですか?」
しばらくしたところで、菜々ちゃんが不思議そうに聞いてきた。男性ボーカルばかり歌っているのは、女性ボーカル曲などほぼ歌ったことがないからだが、ふと、今は女で声も高くなっていることに思い至った。
試しにとばかり、好きな女性アーティストの曲を入れてみる。
「……おおおおっ、何この声、歌えるっ!?」
曲のさわりを歌って、ついマイクに向かって大きな叫びをあげてしまった。
「……どうしたんですか?」
隣でリモコンをいじっていた菜々ちゃんが、目を丸くして見ていた。俺は誤魔化すように続きを歌う。
やばいこれ、快感かもしれない。好きな歌は多いけれど、女性歌手ということで自分では歌うことのできなかった、声の出なかった曲を、自然に歌うことが出来る。男の声じゃなく、女の声で歌うことが出来る。
そんな些細なことに喜び、この後も何曲も女性ボーカルの曲を歌い続けてしまった。
そして、カラオケを始めてから一時間半ほど経過したところで。
「――で、ユウキさんは一体、どのような訳ありなのでしょうか」
いきなり思い出したかのように、直球で訊ねられた。歌いまくって、俺ですら忘れかけていたというか、完全に忘れていたことを。
次に歌う予定だった、調子に乗って入れた中島美嘉の曲の演奏が流れる中、菜々ちゃんと隣同士で向き合う。
「ここなら他の人にも聞かれる心配はありません」
「えと……菜々ちゃん、それはそうかもしれないけれど、なんで今になっていきなり」
「最初に話すと、その後は歌えないと思ったので。せっかく来たんですから、私も歌いたかったですし」
だから、終了三十分前になるまで切り出さなかったのか。納得はしたものの、随分とマイペースな子だなと思った。
「さあ、ずずい、と告白なり懺悔なりを遠慮なく。言いたくないことは言わなくて結構ですので、言えることだけでも言ってしまえば楽になります。何かお困りであれば、もしかしたら妙案でも浮かぶかもしれません」
「ありがとう。でも、そう言われても何をどう話したものやら」
困る。菜々ちゃんの厚意は素直に嬉しかったが、話せないことしかない気がする。
「そうですね、とりあえず昨日、私が帰った後のことでもお話したらどうでしょう。関係ない事柄からの方が、話しやすいのではないでしょうか」
「うーん、そ、そうだね」
完全に菜々ちゃんのペースにはまってしまったようで、菜々ちゃんに請われるがままに昨日のことを話していく。
とはいっても、特に変わったことはないのだが。
「――なるほど、それで可南子さんの家を出た後は、ずっと街をうろついていたと。やはりユウキさんは、ご自宅に帰れない、もしくは帰りたくない理由があるのですね」
「ま、まあ、そういうことになります」
なぜか敬語になってしまった。
「ふむ……となると、男性関係ですか」
「ぶっ!? なぜに?」
「いえ、この年頃で親と軋轢となると、進学問題か恋愛関係あたりかと。ユウキさんは二年生とのことでしたので、今の時期に進学問題が深刻になるとも思えず、恋愛関係の方が確率は高いかなと」
「な、なるほど……はは、いや、そういうんじゃないけれど」
男に関係があるといえばあるが、なんと言ったらいいものやら。
「むー、となると純粋に家族関係の悩みでしょうか。そうすると、私が迂闊に話しに踏み込むわけにもいきませんね」
菜々ちゃんは一人で唸っている。ぶつぶつと、「父親の後妻との関係とか……」、「まさか家庭内暴力が……」、「血の繋がらない兄に道ならぬ想いを寄せてしまったとか……」なんて言葉が端々から聞こえてくる。
想像力が逞しいというか、あるいは本やドラマに影響されすぎているというか。
もっとも、「本当は男なのに、ある日いきなり女になっちゃって、男に戻れず家に帰れなくて困っている」なんてことを考えつかれても困るが。
会話が止まったところで、室内のベルがけたたましく鳴る。
「あ、三十分延長しておきますね」
「それじゃ、ちょっとトイレに」
菜々ちゃんが受話器を取るのを確認して、部屋を出る。クセで男子トイレに入りそうになったところ、手前で気がついて女子トイレに入って用を足す。既に何度か用を足しているが、未だに慣れない。
一人、赤面しながら部屋に戻る。
「さて、話の続きを、といいたいところですが、どうも残念なことにこれ以上私が力になれそうなことがなく……」
「そんな、気にしないでよ。菜々ちゃん、気遣ってくれたんでしょう? カラオケに連れてきて歌ったのだって、元気付けるために。ありがとう」
「お礼なんか。何の役にも立てていないですし」
「そんなことないって、本当に嬉しかった…………っ!?」
俯く菜々ちゃんに謝意を伝えようとしたその時。
急に、体の中を電撃のようなものが貫いてゆく衝撃がはしり、思わず胸を抑える。高熱を帯びたように体が熱くなる。
「ゆ、ユウキさん、どうしたんですかっ!?」
俺の様子に気がつき、菜々ちゃんも心配そうな顔をして腰を浮かせる。
「な、なんでもな――――え??」
次の瞬間、体を包み込んでいた熱も、わずかばかりの不快感も消え去っていた。いや、それだけではない。
「戻って……いる?」
胸の膨らみがなくなっている。発した声も、男のときの声だ。頭に手をやると、髪の毛も短くなっている。股間に手を当てる。あった。
理由は全く分からないが、男の体に戻っていた。
歓びを爆発させたい、拳を握り締めて叫ぼうとした。
しかし。
「え……え、ええっ!? ゆゆ、ユウキさん――ど、え、あ?」
目をまん丸に広げた菜々ちゃんが、何を言ったらいいのか分からない様子で、俺のことを指差して見つめていた。
そりゃそうだろう、女だと思っていた人間が、目の前でいきなり男に変身したとなれば。
「――って、うおわあああああああああああ、失礼ーーっ!!!!」
一声叫び、俺は一目散に逃げ出した。
菜々ちゃんには申し訳ないが、説明しろといわれても出来ないし、どう対応したらよいかもわからないしで、逃げるしかなかったのだ。
厚意には素直に感謝するが、ここはお互い夢でも見たことにして忘れるのが一番よいと、一人で勝手に結論付ける。そうだ、これ以上余計なことを探求したところで、誰も良いことなんかない。"野口ユウキ"は消えたのだ。関わった人間は三人だけだし、それも深く関わったわけではない。菜々ちゃんだって、しばらくすれば忘れるだろう。
俺はそう決め付けて、暗くなった夜の街を駆けるのであった。
実に一日ぶりの、男の体で。
家に帰ると、外泊したことを少し注意されたが、それ以上のことはなかった。夜も、翌日になっても、女の体になることはなかった。
「いやー、男の体はやっぱりいいなあ」
「は? 何、変なこと言っているんだユキチ?」
「いやいや、なんでもない。はっはっは」
隣で小林が変な顔をしていたが、気にならない。男の体でいられることはごく自然で、気分が良かった。
しかし、こうして男の体に戻れたことを考えると、少しばかり勿体無かったかとも思う。はっきりいって戸惑うだけで、女の体を見たり、楽しんだりする余裕など全くなかった。自分の体とはいえ、もうちょっと楽しんでおけば良かったなどと調子よく考える。
あと思い出すのは、可南子ちゃんの姿。
長身でスタイルの良い美少女。せっかく知り合ったけれど、男に戻ってしまったからには接点は無くなった。家は分かるし、リリアンの生徒だということも分かるけれど、押しかけていくわけにもいかない。
なんとかもう一度、仲良くなれないものだろうか。
ふと、可南子ちゃんのことばかり考えていることに気がついた。
ひょっとして俺は、可南子ちゃんのことが気になっているのだろうか。
「あれ~、確かここに」
「どうした、アリス」
アリスと小林の声が聞こえてくる。
アリスは、冷蔵庫を開けて首をかしげている。
「前から言っているだろ、自分のものには名前を書いておかないと他の人間に持ってかれても文句いえないって。なあ、高田?」
「ん、ああ、そうだな、俺は筋トレで喉が渇くとつい手を出してしまうからな。すまんなアリス、俺かもしれん」
「あ、ううん……」
曖昧な返事のアリス。
「おい、そろそろ打ち合わせ始めようぜ。今年の文化祭についてだが……」
こうして、何事もなく変わらない日が一週間ほど続き、女になってしまったなんて夢か幻だったんじゃ? と俺も思い始めていた。
そして、土曜日。
街にCDを買いに行って、そのままぶらぶらしていたのだが、歩いていると前方に思いがけない人の姿が目に入った。
菜々ちゃんだ。
今は男の姿だが、カラオケボックスで男に戻った瞬間を見られている。向こうが覚えているかどうかは分からないが、触れ合わない方が無難だろうと考えていると、菜々ちゃんと一瞬、視線が交錯した。
すぐに目をそらし、顔を隠すように進む方向を変えたが、逆に変な印象を与えたのかもしれない。菜々ちゃんが、こちらに向かってくるのが分かった。
「あのー、ユウキさん、ですよね?」
直球だ。
「は? いえ、人違いじゃないですか?」
だが俺は知らん顔を決め込む。当たり前だ。証拠があるわけでもなし、やり過ごしてしまうしかない。
菜々ちゃんは諦めることなく、ひっついてくる。俺は早足で進んでいるので、体も歩幅もちっちゃい菜々ちゃんは、少し駆け足になる格好だ。かわいそうだと思うが、このまま振り切らせてもらおうと、更にスピードを速くしようとして、『ソレ』はやってきた。
予兆とでもいうのだろうか。
体の芯を何かが走りぬけるような感覚。
まずい、と思った俺は、無意識のうちに人気の無い薄暗い路地に駆け込んでいた。後ろから菜々ちゃんが何か言いながら追ってくるが、気にしていられない。
「ちょっと、どこに行くん……で……あ……」
呆然とする菜々ちゃんの目の前で。
「う、嘘……だろ」
長い髪の毛が、肩から背中に流れる。
ウエストが緩くなり、ズボンがずり落ちそうになるのを手でおさえる。咄嗟にしゃがみこむと、胸が不自然に揺れた。
「えええーーーーーーっ!?」
こうして俺はまたしても、女の体となったのであった。