春となり、桜も咲き誇り、祐麒たちはめでたく最上級学年に進級した。もうしばらくしたら祐麒も生徒会長職を後輩に譲り、受験勉強などに専念していくことになる。
そんなある日、祐麒は祐巳から思いがけない依頼を受けることになった。
「――え、瞳子ちゃんが、俺に会いたがっている?」
二人は今、福沢家内、祐麒の自室にいた。祐麒は勉強机の椅子に座り、祐巳はベッドに腰をおろしている。
瞳子といえば、この春に祐巳と姉妹の契りをかわしたばかりで、特徴的な髪型を持つ女の子だった。祐麒も何度か会ったことがあるし、かつては家に連れ込んだ(というと語弊があるかもしれないが)経緯もあった。
その瞳子が、祐麒に会いたがっていると聞き、少しばかり動揺した。
祐麒も年頃の男であり、相手はなかなかに可愛らしい少女である。淡い期待、甘い予想のようなものを抱いてしまっても仕方ないことだろう。
「そう。祐麒もなかなか、隅に置けないじゃない」
「え、ほ、本当に?」
顔が熱くなるのが分かった。
何せ福沢祐麒17歳、生まれてこの方、女の子とつきあったことどころか、告白をしたりされたりということも経験がないのだから。
すると、そんな祐麒の様子を見ていた祐巳が、堪えきれなくなったように笑い出した。
「あははっ、ごめん、そういうのじゃないよ多分。瞳子は、何か祐麒にお願いしたいことがあるんだって言ってた」
「な、なんだ」
祐巳の態度と言葉を聞いて、微妙に腹が立つと同時に、ちょっとばかり気分が落ち込んでいた。
「ごめんごめん、あーでもほら、『私と付き合ってください』というお願いかもしれないじゃない」
がっかりした祐麒を見て悪いと思ったのか、取り繕うように祐巳が言ったが遅い。祐巳の表情、態度からして、明らかにそういう話ではないのだろうと見当がついたから。
「もういいよ。で、いつ会えばいい?」
「リリアンに来られそうな、都合の良い日をいくつか教えて。それで瞳子に聞いてみる」
「ん、分かった」
幾つか、近い日にちを伝える。基本的に生徒会の活動は二年生主体になっていくので、祐麒たち三年生はそれなりに自由がきく。
瞳子が一体、何の用なのだろうか。
予想もつかないまま、祐麒はリリアンを訪れるのであった。
『第一幕』
数日後にリリアンを訪れ、瞳子に案内されたのは薔薇の館であった。何度か来たことがあるから、懐かしいという気がした。
館内には、他に誰も人の気配がしなかった。
瞳子に聞いてみると、今日はちょうど活動のない日ということで、皆にお願いして場を提供してもらったということ。
二階に案内されて席につき、祐麒はどことなく落ち着かずにいた。
校舎からも少し離れた、この静かな建物の中で女の子と二人きりだからだ。薔薇の館に行くと聞いたときは、てっきり山百合会の他のメンバーも同席すると思っていたから、余計に意識してしまうのかもしれない。
出された紅茶に口をつけ、あたりさわりのない挨拶のような会話をした後で、瞳子は切り出してきた。
「本日、祐麒さまに来ていただいたのは、実は一つお願いがあったからです」
姿勢正しく、真正面から見つめてくる瞳子だが、明らかに甘い空気はない。分かっていたつもりではあったが、告白とかその手の類ではないことを、ここでようやく祐麒は心の底から確信をした。
そんな祐麒の内心など当然知る由も無く、瞳子は淡々と口を開く。
「実は、これを」
そう言って瞳子が静かに机の上に置いたのは、一冊の本。
なんだろうと思ったが、瞳子がそっと祐麒の方に本を押し出すので手に取ってみると、それは本ではなく、どうやら演劇の台本のようであった。
1ページ目を開くと、タイトルが目に入った。
『ロミオとジュリエット』
当然、祐麒も聞いたことのある有名な話であるが、では、果たしてこの台本がどうしたのだろうかと、目で瞳子に問いかける。
「今度の春の校内発表会で、我が演劇部が演じるのがそちらです」
「はあ……」
女の子ばかりだし、ベタではあるけれど、やっぱりこの手の演目が人気のなのかな、まず祐麒が思ったのは、そんなことだった。
「それでお願いというのは、祐麒さまにこの演目に出演してほしいということです」
「なるほど……って、ええっ!?」
思いがけなかった依頼に、祐麒はつい大きな声を出してしまった。しかし瞳子の方は、ある程度反応を予想していたのか、特に表情を変えることもなく落ち着いて祐麒のことを見ていた。
「……と。取り乱してごめん。ええと、でもなんで俺がまた?」
素朴な疑問である。リリアンの学園祭で『とりかえばや』を演じたとはいえ、演劇に関しては素人も同然である。しかも今度は、れっきとした演劇部の演目となるのだから、難易度、ハードルだってぐんと上がるだろう。
瞳子は理由を答えた。
そのリリアンの学園祭で祐麒を見た生徒達から、是非、もう一度舞台に立ってもらえないかという要望が沢山上がったのだと。
本当のことかと、正直、信じられなかった祐麒であるが。
「まあ、これは花寺の方が山百合会の演劇に出演されると、毎年、起こることのようですけれど」
という瞳子の言葉に納得した。
一昨年の柏木などは、よほど熱望されたのではないだろうか。何せ、性格はどうあれ、見た目的には完全に王子様だ。
しかし待てよ、と祐麒は思った。
例えそうだとしても、実際に花寺の生徒会長が、リリアンの春の発表会にまで出演したという話は聞いたことが無い。一昨年の柏木は既に三年生だったから、翌年は無いにしても、さらに一年前も柏木は生徒会長で、リリアンの劇に出演したと聞く。だが、その翌年、即ち三年生のときに、春の発表会に出たとは聞いていないし、そんな記憶も無い。
そんな疑問も、瞳子が解決してくれる。
「今までも要望はありましたが、その要望には応えてきませんでした。やはり、正式な演劇部の発表会であり、その場に演劇部でない、しかも他校の殿方を入れるということは、ありえなかったのです」
「それが、なぜ今回は?」
「生徒の要望に応えるのも、一つの道かと」
いくつか理由はあったようだ。
まず、今回の発表会が正式なコンクールではなく、あくまで校内発表会であるということ。さすがに正式なコンクールに、他校の生徒をいれて出場することはない。
次に、新しいことに挑戦してみようという意気込み。女子校ということで、必然的に役者は全て女子となるが、そこに男性が入ることにより劇の幅が広がるのではないかという意見。新たな刺激を取り込もうというものである。
そしてもちろん、花寺の男子生徒を見たいという、他の生徒達の要望。
それら諸々の意見が上がり、部員同士で意見を戦わせ、最終的な結論に至ったという訳である。
「もちろん、強制は一切ありません。祐麒さまも三年生となり、受験勉強もお忙しいでしょうし、そもそも舞台に出たくないという気持ちもあるかもしれません。ですから、遠慮なく断っていただいて構いません」
「はあ、左様ですか」
さすがに、さらりと「断っていいよ」と言われると、少しばかり寂しいものがある。
「ただ、私たちは是非、祐麒さまに一緒に出ていただきたいというのが、希望です」
「それは、瞳子ちゃんの希望?」
「演劇部としての希望です」
瞳子の回答から、瞳子自身はそれほど望んでいないのかなと感じた。普通に考えれば、素人がいきなり来たところで困るだけだろうから、嫌だと思うのも頷ける。
「もし、受けていただける場合、きちんと練習時間を割いていただき、可能な限り練習には参加していただきたく思いますし、万が一に備えて代役は用意させていただきます」
その内容にも、頷けた。
校内発表会とはいえ、れっきとした演劇部の部活動である。生徒達にみっともない姿は見せられないだろうし、他校からの応援だからといって特別扱いするわけにはいかないだろう。失敗して恥をかくのは祐麒だけではないのだ。
だから、仮に祐麒が出演をOKしたとして、もし無様な演技しかできないのであれば祐麒は役から降板させられる。そのために、代役を最初から用意しておく。
全て当然のことだと祐麒は思ったし、面白半分に祐麒に依頼をしてきているわけではないというのが分かった。
そこまで考えたところで、不意に瞳子の表情が変わった。
今までは澄ました顔だったのに、わずかに申し訳無さそうな顔になる。
「あの、申し訳ありません、祐麒さま。こちらからお願いしているというのに、勝手なことばかり申しまして。ご気分を害されたかもしれません」
「いやいや、瞳子ちゃんの言っていることは当然だと思うよ」
「しかも、本来であればお願いをする立場の私どもの方が花寺を訪れるべきでしたのに。遅れながら、お詫び申し上げます」
深々と頭を下げる瞳子を見て、慌てる祐麒。
「そんな、大層なことじゃないって。花寺からリリアンに向かう方が、帰り道に適しているし、気にしないでよ」
「いえ、そういうわけにはいきません。まったく、お姉さまときたら、今日、祐麒さまの方がリリアンに来られると聞いて、私驚くと同時に怒りました。あれほど、私達の方が伺うと言いましたのに」
怒ったような表情で、頬を少し膨らます瞳子。
今まで、大人っぽい感じがしていただけに、その様が年相応に可愛らしく見えて微笑ましかった。
きっと祐巳は、このしっかり者の妹に色々言われているのだろうなと、簡単に想像がついた。
「まあいいじゃない、瞳子ちゃん。俺だって、男ばかりの花寺で迎えるより、女の子の沢山いるリリアンに出向く方が楽しいし」
怒り気味の瞳子をなだめるように、わざと軽口を言う。
「あら、祐麒さま。そんな目的でいらしたのですか。だとしたら女の敵、すぐに追い出さないと」
「わ、ごめん、冗談だって」
「下手な冗談ですこと」
言いながら、瞳子も笑っている。
どうやら瞳子も、わざわざ祐麒がリリアンに来ることとなった件については、これ以上は踏み込まないでくれるようだった。まあ、本人が良いといっているのだから、言いようもないのだろうが。
ひとしきり笑った後で、瞳子は真面目な表情に戻って、再度、訊いてきた。
「それで祐麒さま、いかがでしょうか。もちろん、この場で即答を求めているわけではありませんが」
「うん、そうだね――」
結局、祐麒は数日間の猶予をもらうことにした。
演劇部の要望、期待も聞いたし、きちんと考えさせて欲しかった。というのは建前で、実際のところは既に断るつもりで内心は固めていた。
受験勉強はまだ本格化していないが、やはり、本物の演劇部員の間に混じって演技をするというのは、どう考えても無理があるような気がしたし、自信もない。加えて、女の子ばかりの中で男が一人というのも、出来れば勘弁してもらいたい。
小林などが聞いたら、「ハーレムじゃないか」なんてからかってきそうだが、現実に大勢の女の子の中に男が一人など、針のむしろ状態だ。話す相手だってなかなかいないだろうし、身の置き所に困る。
山百合会の演劇のときは、同じ花寺生徒会メンバーが一緒だったから、さほど気後れはしないですんだが、そう考えると前年の柏木は一人で乗り込んだわけであるから、さすがだなと思ってしまう。
しかし残念ながら、祐麒はそこまでの太い神経は持ち合わせていなかった。
瞳子や演劇部員には申し訳ないが、諦めてもらおう。
鞄の中から取り出した台本に目を向ける。
「ごめん、瞳子ちゃん」
祐麒は口に出して謝りながら、台本の表紙を裏にして机の上に置くのであった。
そして翌週の初め。
当初、結論については祐巳を通じて知らせることになっていたが、せっかく期待して依頼してくれたのだから、せめてきちんと自分の言葉で意思を伝えなければ申し訳ないと思い、祐麒は直接リリアンに出向くことにした。
リリアンに到着すると、校門の前で立って待つ。
一応、家を出る際に、今日は直接返事をするからその旨を伝えてもらうよう、祐巳にお願いしておいた。
時間を確認すると、予定よりもいくらか早かった。
今さら移動するのも変なので、仕方なく動かずに待つが、下校中のリリアンの女子生徒の視線が気恥ずかしかった。
今年入学したばかりの一年生はともかく、二年生、三年生については、花寺の生徒会長である祐麒の顔を知っている者も多い。さほど特徴的な顔立ちではないが、何せ紅薔薇さまの弟であり、同じ顔をしているのだから、すぐに分かってしまう。
時折、挨拶をしてきたり、笑顔を向けてきたり、さらには手を振ったりする女の子がいて、祐麒としては対応に困ってしまうのであった。
そうして、待つこと十分ほどして、そろそろいい加減に来てくれないかと、小市民である祐麒が思い始めた頃、声をかけられた。
「祐麒さま、お待たせいたしました」
「あ、いえ」
振り向いた先に、縦ロールの少女の姿。
さて、これからどのようにして断りの意思を伝えようかが悩みどころである。昨日、考えてはきたものの、いざ本人を目の前にしてしまうと、躊躇してしまう。
「では、どうぞこちらへ」
すぐに先導して案内する瞳子であったが、今日は断るだけなので案内してもらうのも申し訳ない。
そう思い、止めようとしたのだが、まるで祐麒の考えを見透かすかのように、瞳子は先に口を開いた。
「よろしければ、今日は練習を見て行って下さい。本日もわざわざ来ていただいたのですから、それくらいさせてください」
特にこの後に用事もなかったので、祐麒は素直に頷いてしまった。
案内しながら瞳子は、今日は読みあわせをするのだと教えてくれた。教室を一つ借りて、そこに集まって実施するので、見ていってくれとのこと。
「立ち稽古の方が見ている分には楽しいですけれど、まだ始まったばかりですので。でも、部員の皆、祐麒さまが来られると聞いて物凄く張り切っていましたから、楽しめると思いますよ」
「なんか、余計なプレッシャーかけちゃったかな?」
「多少の緊張感は、あった方がよいですから」
軽くそんな会話を交わしながら、校内に入る。
校内に入っても、やはり通りかかる女子の目が祐麒に注がれるので、どうにも落ち着かなかったが、やがて瞳子は一つの扉の前で立ち止まった。どうやら、練習をしている教室に到着したようだった。
扉を開けて瞳子が先に入り、祐麒が来たことを告げると、中からは小さな悲鳴があがった。女の子のノリに、どうにも戸惑う。
「どうぞ、祐麒さま」
瞳子に続いて中に足を踏み入れ、しかしこれは失敗したと祐麒は思い始めていた。こんな風に部員と顔をあわせたり、部活動を見学したりして変に期待を抱かせたら、断りづらくなるではないかと。
後で瞳子と二人になったときにでも伝えるか、あるいは当初の予定通り、祐巳を通じて伝えるしかないだろう。
瞳子に紹介されて簡単に挨拶をして、用意された椅子に座ると、すぐに読み合わせが始められた。
祐麒も、余っている台本を手渡されたので開いて見る。前に渡されたのは、実のところ開いてすらおらず、机の引き出しの中で眠っている。これを知られたら、やる気がないのが一発でばれるところだろう。
そんな祐麒の思いなど知るべくも無く、読み合わせは開始される。
教室の中は当然のように女子ばかりで、華やかだけれどもどこか居づらい。
「それでは、最初から」
教室の中に、声が響く。
そして、その声を耳にした瞬間、世界が変わった。
さすがに演劇部員、よく通る声に、読みあわせといえどもきちんと役になりきったような喋りで、ただの教室だったはずの場所が、瞬時に華やかな舞台の上に変化していくようだった。
だが、祐麒にとってはそれ以上のものがあった。
読み合わせをしている人物の一人に、かつて会った『彼女』がいた。
先ほどまでは、他の演劇部員にまぎれていて気がつかなかったというのに、練習が始まった瞬間、存在感が急速に高まり、祐麒を圧倒した。
他の部員ももちろん、別人のようではあった。
それでも祐麒にとって、なぜか彼女だけは他の人と違って見えた。
彼女、そう、この時点ではまだ名前も知らなかった演劇部の元部長、高城典という少女に、祐麒はいつしかのみこまれていた――