『第二幕』
「本当に、受けていただけるんですか?」
驚きに目を見開き、瞳子は問い返してきた。
それもそうだろう。今日、リリアンを訪れたときには受ける気はなかったから、おそらくそういった雰囲気が出ていたはずで、勘の鋭い瞳子が感づかないはずもない。
既に練習は終わり、校門へ向かうべく瞳子に連れられて歩いている途中、祐麒は演劇部の依頼を受ける旨、回答した。
「こちらとしてはありがたいですけれど……失礼かとは思いますが、本当に大丈夫ですか?」
軽く首を傾げ、見上げてくる瞳子。
「大丈夫、受験はまだ先だし、真面目に練習する。可能な限りこっちに顔も出すし、遠慮なく厳しく指導してくれて構わない。それでも舞台に立たせられないと判断したら、正直に言って降ろしてくれて構わない」
瞳子の心配も分かるので、最初にはっきりと宣言しておく。浮ついた気持ちで参加できるものではないということは、今日の練習を見学してよく分かった。それでも、祐麒は参加したいと思ったのだ。
動機は不純なので、瞳子に言うことはできないが。
「そうですか。そこまで仰るのであれば、何も言うことはありません。いえ、こちらからお願いしたんですものね、むしろ喜んで歓迎いたしますわ、祐麒さま」
ようやく瞳子は、笑顔を見せた。
「それでは、申し訳ありませんが少し、待っていてください」
来客用の玄関に到着したところで、瞳子は頭を下げて身を翻す。生徒用の昇降口とは別であるため、外に出るためには一度戻って外に出て回り込んでくる必要があるのだ。
一人で帰ることは造作も無いが、リリアンでの決まりだから仕方が無い。
靴を履き替え、玄関の脇に立って待っていると、しばらくして瞳子がやってくる。
「お待たせしました、では」
と言いかけたところに、横から新たな声が加わった。
「ああ、いいわよ瞳子ちゃん。私が送っていくから」
心臓が止まるかと思った。
不意に現れた新たな人物は、彼女だったのだから。
「でも、典さま」
「ミーティングがあるでしょう、ちゃんと参加してらっしゃい。大丈夫、お客様はきちんと私が見送るから」
そこで不意に、典が祐麒の方に身体を向けた。
「はじめまして、福沢さん。私は高城典、三年生です。先ほどの練習にも参加していたのですが――」
「ええ、その、覚えています」
覚えているどころではない、練習中のことについては、ほとんど彼女の姿に目を奪われ、彼女の声に耳を奪われていたのだから。
「一応、元・部長なのだけれど、今は新部長に代わっているし、三年生の私はある程度部活動にも自由がきくから、私が送らせていただきます」
「は、はい」
「ああ、それとも……ひょっとして、瞳子ちゃんの方が良かったですか?」
「いえ、そんなっ」
慌てて首を振ると、瞳子が怒ったような顔をした。
「あら、祐麒さまは私と一緒なのはお嫌でしたか。それならそうと、早くに言っていただければよかったのに」
「ええっ、そ、そんなわけないじゃないっ!」
あたふたとしながらも、言い訳がましく否定した祐麒であったが、すぐに瞳子と典が笑い出したのを見て、単にからかわれただけと気がついた。
まさかそのような悪戯を受けるとは思っていなかったので、祐麒としては照れたように苦笑いするしかなかった。
「それでは、この先は典さまにお願いします。祐麒さま、中途半端な場所で申し訳ありませんが、失礼致します」
「いえ、こちらこそ今日はありがとうございました」
礼をかわして瞳子と別れ、典と二人になると、自然と祐麒は意識をしてしまう。典は覚えていないかもしれないが、祐麒は公園で見た典の姿を忘れたことは無かった。
正門に向けて歩きながら、隣の典の様子がどうしても気になってしまい、ちらりと視線を向けると、ちょうど典と目があって慌てる。
「どうか、しましたか? 私に、何か」
「いえ、その、歩く姿勢が凄く綺麗だなって、見惚れてしまいました」
咄嗟に口をついて出たが、決して嘘ではない。
「ああ、昔からの癖なので、自然とそうなってしまうの。それより福沢さん」
「はい、なんでしょう?」
「前に、公園でお会いしましたよね」
「……覚えて、いたんですか」
驚いた。
典が覚えているとは、思ってもいなかったから。
「人の顔を覚えるのは、得意ですし……それに」
そこで、典の表情がわずかに翳ったように見えた。
「……いえ。でも、今の様子だと福沢さんの方も覚えていたみたいだったのに、何も言ってくれないなんて、意地悪ですね」
くすっ、という感じで笑われる。
「あ、いえ、そういうつもりじゃないんですっ。まさか、高城さんが覚えているとは思っていなくて」
「そうですか? それでは、どうして福沢さんは私のこと、覚えていたんですか?」
問いかけて来て、典がじっと祐麒のことを見つめてくる。
典が綺麗だったから。
一目見て、気になったから。
そんな言葉も頭の中に浮かびはしたが、実際に口に出せるはずもない。それに、そんなこと以上に、典のことを印象付けたものは。
「あなたが、泣いているように見えたから」
「――――え?」
祐麒の言葉を聞いて、典は目を見開き、まるで信じられないものでも見るような表情で、祐麒のことを見た。
「いやっ、実際に泣いていたとかじゃなくて、なんかそう俺が勝手に思っちゃっただけなんです。多分、冬のどんよりとした空の下で、イメージしただけだと思うんですけど」
言ってはいけないことを口にしたような気がして、取って付けた様な言いわけをする。だけど、典の表情は晴れない。むしろ、余計に祐麒のことを訝しむような、険しい表情に変わっていっているように見えた。
同年代の女の子との接触に慣れない祐麒は、焦り出した。何か、自分が地雷を踏んでしまったのか、余計なことを言ってしまったのか、ただ分からずに狼狽し、なんとかフォローしようと口を開く。
「ええと、それにそうっ! 凄く綺麗だったんですよっ」
「はぁ。そんな、軽いことば……」
「高城さんの周囲だけが、他の場所と全く異なって見えて、まるで本当に映画や劇のワンシーンを切り取ったように綺麗で!」
「――――はっ?」
少し早口で、たたみかけるように言うと、典が面くらったような、少し面白い顔をした。今まで、澄ました表情をしていただけに、祐麒にとってはとても新鮮に映って見えた。
「今思えば、それも頷けるなって、何せ演劇部の部長さんということで、俺の眼力もたいしたものだって……あれ、なんか言おうとしていました?」
「……コホン。いえ、別に」
わざとらしく咳払いをして、ふいと顔を横に向ける。
やはり怒らせてしまったのだろうかと、不安になる。
「それでは、この辺で」
「え、あれっ、もう正門か」
いつの間にか、正門まで辿り着いていて、典が立ち止まる。
「それでは福沢さん、これから、よろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそ。ご迷惑をおかけするかと思いますが」
ぺこりと頭を下げる。
典を見ると、表情も戻っていて、特に怒ったり、不機嫌そうだったりには見えなかった。気になりながらも、尋ねるのも憚られたので、祐麒はそのまま帰途につこうとする。
「あ、福沢さん」
その前に、声をかけられる。
振り返り、正門の前に立つ典を見る。
「先ほどの言葉、少し嬉しかったです……それでは、また」
「あ……」
深々とお辞儀をする典。
祐麒は声もなく、立ちつくす。
頭を上げた典が、立ったままの祐麒を見て、不思議そうに僅かに首を傾ける。
慌てて祐麒は身体を半回転させ、バス停に向かって歩き出した。
体が少し熱を持っているのが分かる。ひょっとしたら、頬も赤くなっているかもしれない。背中に典の視線を感じ、鼓動が速くなる。
『嬉しかった』と口にした時の、典のごく自然な、僅かな微笑に魅せられた。
やばい、と思った。
たった一度の笑みで、既に心の半分くらいを持っていかれたから。
そうして、演劇の練習が始まった。
配役は、ロミオが祐麒、ジュリエットが瞳子というもの。ちなみに典は、祐麒の代役ということで、祐麒がろくな演技が出来ないと判断された時点で、ロミオを演じることになる。三年生である典は、活動のメインを二年生達に譲っており、問題がなければ劇に出演するつもりはないのだ。
で、実際の劇の方だが、普段は花寺の演劇部に協力をしてもらって指導を受け、時にリリアンに顔を出して一緒の稽古をするという形式。
だけど当然、そうそう甘いものではない。
「会長、なんですかその声は! そんなんじゃお客様に聞こえませんよっ」
「どこの大根役者だっての、もう少しまともな演技が出来ないのか」
「表情が硬いっ、あと手足の指先まで感情をこめて」
「顔なんて見えない人もいるんだから、体全体を使って感情を見せるんだよ!」
三年生だとか、生徒会長なんていう肩書など通用もしないわけで、望むところではあったけれども、本当に容赦ない。何せ、所詮は素人なのだから。
休憩しているなか、同級生である演劇部員に声をかける。
「しかし悪いな、こんなに真剣に稽古をつけてもらって。ここまで演劇部が活動熱心だったなんて、知らなかった」
高校の演劇部といえば、女子の方が部員数は多い、というのが普通ではないだろうか(あくまで祐麒のイメージだが) 実際、花寺の演劇部も部員数は少ないし、目立った活動というのもあまり記憶になかったのだが。
元演劇部部長の三年生は、真剣な表情で祐麒を見据えた。
「――違う、なんで俺たちじゃなくて、お前がリリアンに呼ばれるんだ!?」
「は?」
「演劇に素人のお前が主役として呼ばれ、俺達には声もかからないというのはおかしくないか? せめてオーディションをすべきだろう! そうすれば、俺達にだってリリアンの女子と一緒に演劇をするという機会がっ……!」
「先輩!」
「部長!」
大仰に頭をおさえて嘆く三年生に、悲痛な顔をしてしがみつく後輩。
いきなり繰り広げられた茶番に、祐麒はため息をついた。
どうやら厳しい真剣な稽古は、嫉妬によるものだったらしい。だがそれでも、単に祐麒をしごくだけでなく、きちんと上達させようとしてくれている点は有り難かった。この辺は、花寺の生徒達はなんだかんだいって良い奴ばかりということだ。
「福沢っ、他に役があれば、俺達を是非にと推薦しておいてくれ」
「はは、了解、そういうのがあればな」
こうして、練習をこなしていく。
リリアンの稽古に参加すると、花寺で頑張ったことなど無駄なのではないかと思ってしまうことがある。花寺の演劇部と異なり、リリアンはレベルが高いし、部員自体のレベルも近年ではかなり高いとのこと。
その一因は、目の前にいる縦ロールの少女だろう。
「祐麒さま、もう少し発音を丁寧にお願い致します」
「は、はい、申し訳ありません」
下級生である瞳子は言葉づかいも態度も丁寧だが、演劇に関しては決して手を抜くことなく、ビシバシと指摘をしてくる。それも、決して祐麒のプライドを損ねないようにしていて、気を遣わせて申し訳ないと思うと同時に、有り難くもある。
さすがに、大勢の女の子の部員の前で、下級生の女の子に叱られる図というのは、あまりお見せしたくないものである。
稽古をしていて思うのは、演劇というのは非常に体力が必要なのだなということ。舞台を動き回り、大きな演技をして、感情をこめた台詞を放ち、疲れや自分の感情を見せてはいけない。
精神的にも、肉体的にも、物凄く疲弊する。山百合会の舞台では、まだ、余興という意識が多少なりともあったが、今はそんな隙すら見当たらない真剣勝負そのもので、以前とは段違いだった。
「祐麒さまは、凄く努力家なのですね」
休憩時間、持参のミネラルウォーターを口に含んでいると、隣に腰をおろしてきた瞳子が話しかけてきた。
「リリアンに来られるたびに、物凄く上達しているのが分かります。真剣に、取り組んでいただいているのが分かります」
「いや、元がゼロだから、上達しているように見えるだけで、実際の実力は皆さんの足もとにも及ばないから」
謙遜ではなく、本気である。
「……そうかも、しれません。ですが、演劇というのは才能というのも大きく、何もやっていなかった人でも、凄く人を惹きつける演技を、いきなり出来たりするものです。基本は、練習で誰でもおさえることができますが、そういうのは才能であったり、個性であったりします。祐麒さまには、多少なりとも人を惹きつけるものがあるように見受けられます」
「買いかぶりすぎじゃあないかな。あるいは、一人だけ男だから、目立っているだけとか」
「その可能性も、充分にありますわね」
可笑しそうに微笑む瞳子。
紅薔薇の蕾ということもあるし、配役のせいでもあるだろう、祐麒は瞳子と話すことが必然的に多くなっていた。
「はい、それじゃあそろそろ休憩は終わりにしましょう」
典が手を叩くと、部員達の気が引き締まるのが分かる。
しかし。
「典さま、あの、現部長の立場が……」
控えめに口を挟む一人の部員に、典が「しまった」というような顔をする。
「あ、ごめんなさい、つい、癖で」
赤面する典。
明るい笑いが起こる。最上級生の失敗を笑えるというのは、部員達の仲が良い証拠であろう。
「典さま、以前はあのようなミスをなさる方ではなかったのですけれどね」
隣の瞳子が、ぼそっと呟くように言った。
「でも、人間なんだし、ミスくらいした方がらしいんじゃないかな」
祐麒が言うと、瞳子がなぜか無言で見つめてきた。
「な、何か?」
「……いえ。やっぱりお姉さまと姉弟なんだなと思いまして」
「祐巳が何か関係あるの?」
「なんでもありません、さ、練習です」
瞳子は背を向けて、他の部員の中に入っていってしまった。
意味も分からず、祐麒は頭をかくのであった。
稽古が終了すると、祐麒は他の部員に先だって帰ることになる。部員達は片づけやミーティングがあるし、そもそも客である祐麒より先に帰宅するわけにはいかない。なので、祐麒としてはリリアンの部員のためにも、適度な時間に切り上げる必要がある。
そして帰る祐麒を送っていくのは、すっかり典の役割になっていた。
練習場所から正門までの時間が、祐麒と典の二人の時間だった。
演劇のこと、学校のこと、大学受験のこと、テレビドラマのこと、音楽のこと、他愛もないような事を話しながら歩く。
クールで大人びた顔をしている典だが、話してみれば、やはりあくまで同学年の女の子だということが分かった。大人びている雰囲気であることに間違いはないけれど、普通に笑うし、普通に戸惑ったりもする。当たり前と言えば、当たり前のことだが。
祐麒は、この僅かな時間を大切にしたくて、ことさらに歩みを緩めるようにしていた。マリア像の前で立ち止まり、わざわざリリアンの作法に従ってお祈りもした。典も、そんな祐麒に付き合うような歩調で、歩いてくれていた。
「正直、初めは福沢さんの代役を務めることになるだろうと予測していたんです。でも、そんなこともなさそうで、私の眼力もたいしたことなかったです。失礼な予測をしていて、すみませんでした」
「いえ、それが当然だと思いますよ。あの中に入って、俺一人が浮いてますし」
「そんなことないですよ、部員の皆ともすっかり仲良くなっていますし。特に、瞳子ちゃんと仲良くされていますよね」
「そうですか? やっぱり、役柄的なせいでしょうかね」
典から見ても、そう感じるのか。
「瞳子ちゃんも、福沢さんとの練習は楽しそうですし、ね」
どこか意味深な台詞を呟く典。
普段の瞳子を知らない祐麒には、よくわからない。もちろん、典のことだって分からない。分からないことだらけの中、ただ一つ分かっているのは、瞳子よりかは典のことの方が気になるということ。
そうこうしているうちに正門に辿り着き、別れの時間となる。
典はいつもと変わらず、丁寧にお辞儀をして祐麒を見送る。
「あの、高城さん」
「はい」
「その、一つお願いがありまして。その、良かったら、練習につきあってくれませんか?」
そのまま別れがたく、祐麒は考えていたことを思い切って口にしてみた。
「練習、ですか?」
「は、はい。その、今のままではなかなか厳しいことは自分でも分かっています。かといって、リリアンにしょっちゅう来られるわけではないですし。それで、本当にご迷惑かと思いますが、放課後とか、休みの日に、少しでいいので指導していただければと」
口を開いた勢いで、一気に言ってしまう。典のことは気になっているけれど、いきなり遊びに誘う程の度胸もなく、こうして劇の練習という口実で誘ってみたということ。
目の前で典は、しばし思案する。
「分かりました、私でよければ、よいですよ」
「ほ、本当ですかっ? ありがとうございますっ」
「そんな、大げさですよ。私も演劇が大好きで、教えるのも好きで、今度の舞台を成功させたい思いは同じで、だからお互い様です」
そう言って、典は柔らかく微笑む。
「ええと、それじゃあ、どうしよう。こ、今週末とかどうでしょう」
「今週末というと、土曜日、とかですか」
「ええと、はい、土曜日で」
「はい、いいですよ。ちょうど土曜日は、何も予定がなかったので」
思いがけず、とんとん拍子に決まっていく週末の予定。
デートではない、真面目な劇の練習である。
だけど、それでも。
その日が楽しみで、土曜日までもどかしい毎日を送ることになった祐麒であった。