『第四幕』
いよいよ校内発表会の当日となった。
演劇部にとっては毎年恒例の行事で、発表を通して新たに演劇に興味をもってもらい、あわよくば新入部員を今からでも獲得しようという狙いもある。
発表会自体は観賞義務があるわけではないが、レベルの高い演劇部で、生徒にも演劇好きが多いこともあり、毎年大体は満員御礼となる。しかも今年は、ゲストとして花寺の生徒会長が出演することもあって、事前からかなりの評判となっていた。
祐巳などに言わせれば、「なんで祐麒なんかの芝居で、みんながそんなに気にするのか分からないけれどね」ということで、絶対的に賛成なのだが、期待してくれている人が沢山いることも事実。祐巳からも、必要以上に気張る必要はないが、期待を大幅に裏切るようなことはしないようにしろと言われた。
分かっているが、果たしてそううまくいくかは、何とも分からない。
衣装に着替え、メイクをしてもらい、あとは時間を待つのみとなった。一人静かに椅子に座り、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返す。典との練習の成果か、台詞は覚えているし、動線だって体にしみついている。
「祐麒さま、大丈夫ですよ、何かあっても部員達がフォローしますから」
部長が寄ってきて、祐麒を安心させるように声をかける。
「は、はい」
頷きつつ、周囲に目を向ける。壁際に一人で立っている典の姿が目に入った。祐麒がいることは分かっているだろうに、視線を外してあらぬ方向を見ている。何を考えているのか分からないが、不機嫌そうなことは確かだった。
気にはなるが、今はそれ以上に目の前の舞台を成功させることが第一である。集中を高め、出番に備える。開演までは、あともう三十分ほどしかない。芝居以外のことは頭から追い払うようにつとめ、気合いをいれたのだが。
「大変ですっ!」
一人の部員がそう言って駆けこんできたことで、様相が変わる。
他の部員達は、何が起こったのかと注目する。そんな中、一年生と思しき部員は、泣きそうな顔をしながら口を開いた。
「瞳子さまが……っ」
瞳子の表情は、見るからに冴えなかった。
心配そうに、他の部員が周りから見つめている。
「これくらい、なんともありませんわ」
「無茶です、瞳子さま」
一年生の女子が、瞳子をなだめている。
椅子に腰かけた瞳子が、左足をぶらぶらとさせながら、拗ねたように唇を尖らせている。あくまで強気の表情で、集まってきた部員達を見据える。
話を聞くと、どうやら転んで足を痛めたらしく、歩くのも辛そうで演技は無理ではないか、とのこと。
しかし瞳子は、出演すると言ってきかず、周囲も困っている。誰がどう声をかけようか、様子を窺っている感じだ。
「瞳子さん、いい加減になさい」
声を発したのは、部長だった。
「無理をして、悪化させたらどうするの。それに、他のみんなにも心配をかけるわ」
「これくらい、どうってことありませんわ」
「それじゃあ、立って歩いてみなさい」
部長の言葉に、瞳子は唇を引き結び、椅子から立ち上がる。ゆっくりと歩こうとして、左足に重心を掛けようとした際に体が傾ぐ。慌てて、すぐ側にいた一年生の女子が瞳子の体を支える。
「まともに歩けないのに、舞台にあがろうなんて、無茶だって分かっているでしょう」
「幕があがれば、痛みのことなんて忘れるわ」
「確かに、万全の調子でない時に舞台に上がらなければならないことはある。熱だったり頭痛だったりであれば、確かに演技をしている間は忘れられるかもしれない。だけど、そもそも動けないのであれば、意味がないでしょう。痛みを忘れていたとしても、足が動かない事実は変わらないのよ」
厳しい部長の言葉に、瞳子は挑むように口を開く。
「でも、他に演じることが出来る人がいないでしょう。今回の舞台の主役の一人なんだから、簡単に交代できる役じゃない」
重苦しい沈黙が、皆を包み込む。
今の瞳子の足の状態では、舞台に上がるのは厳しい。
だけど、瞳子の代役をつとめられる部員はいない。
舞台を中止にするわけにはいかないが、瞳子に無理はさせられない。
そんなジレンマが部員達の頭の中でループしているのが、祐麒にも見て取れた。おそらく、正解なんて存在しない問いかけ。誰がどう納得するか、納得する人の割合と、満足度のより高い回答を選ぶしかないのだろうが、果たしてそれは――
「典さまなら……」
そんな雰囲気の中、ふと、誰かの口からそんな言葉が漏れた。
「典さまなら、代役がつとまるのではないでしょうか」
一年生の誰かが口走った内容に、一番驚いていたのは、名前を呼ばれた本人だった。典を含む三年生は、すでに部の中心を二年生に明け渡しているためか、今までもあまり口を出していなかった。それが不意に、呼ばれたのだ。
「……確かに、祐麒さまの代役として準備してきていただいていたけれど、ジュリエットというのは無理じゃあ」
現部長が、困ったように首を振る。
「でも、典さま、ジュリエットの台詞も一緒に覚えていたの、私見ています」
「それに典さん、中学の時に一度、ジュリエット役を演じたことがあった」
思いがけず、周囲からもそんな声が上がってくる。
「ちょ、ちょっと待ってみんな。いきなりそんなこと言われても、今まで一回もあわせてもいないのに、ぶっつけ本番でなんて――」
典が、慌てて壁際から歩いて来て、そう言いかけた時。
「――できますよね?」
その声に、場の空気がまた固まる。
「瞳子、ちゃん?」
声の主に目を向ける典。
「典さまなら、できますよね?」
どこか、有無をいわせぬ迫力をもって、瞳子が見上げてきている。
「確かに、典さまなら……お任せしてもよいかもしれません」
それまでの威圧感が、瞳子からふっと消える。
室内の空気も、心持ち軽くなったかのように感じる。
「だ、だけど、衣装とか」
「大丈夫です、典さま、こちらへ」
途端に慌ただしく動き出す。下級生に手を引かれるようにして、典が消えてゆく。祐麒は一人、どうすればよいのか分からずに立ちつくす。
瞳子は、下級生に付き添われて座ったまま。
「祐麒さまは、練習の時と何ら変わらずに演じていただければ大丈夫です。何かあっても、私達がフォローしますので」
「あ、は、はい」
現部長に声をかけられ、頷く。
ばたばたとした中で、舞台は開幕した。
舞台の上に浴びせられる照明は思いのほか強烈で、緊張とも相まってじっとりと汗が浮かびあがってくるほどだった。
演者の表情やら仕種やらをはっきりと見させるためでもあろうが、慣れていない祐麒にとっては少しきついものがあり、眩しさに耐え表情を崩さないようにすることにも集中する必要があった。
観客席は、リリアンの生徒達で埋め尽くされており、まさに満員御礼である。祐麒が舞台に姿を現したときなどは、幾つかの場所から歓声とも悲鳴ともつかない女子の黄色い声が飛んできて、思わずのけぞりそうになった。観客席の中には特別招待された花寺学院生徒会メンバーもいて、周囲を女子に取り囲まれて、観客のくせになぜか緊張を強いられていた。
劇は、順調に進んでいた。慣れない祐麒も、大きなミスをすることなく演技を続けていくと、どんどんと役にのめり込んでいく。
「おお、ロミオ、ロミオ。あなたはどうして、ロミオなの?」
有名な台詞を口にするのは、典。
ジュリエットのドレスを身にまとった典からは、普段の凛々しさが消え、かわりに清楚で美しい、それでいて情熱的な少女になっていた。確かにウィッグをつけて髪型が変わり、衣装もメイクもしているとはいえ、役に入ることでここまで変身してしまうものかと目を見張ったものだ。
典が最初に舞台に登場した時には、ため息とも、嘆息ともつかないようなものが、観客席のそこかしこから聞こえてきた。それくらいのものを、典は持っていた。
マーキューシオの死、ティバルトとの決闘と、舞台は激しく、華やかに進んでいく。
ロミオと別れ悲嘆に暮れるジュリエットの元に届く縁談。修道士に渡された薬を手に悲壮な決意を胸に結婚式を迎えようとするジュリエット。
愛しい人の死を知り、一目、その姿を見たいとロミオは馬を走らせ、夜中にジュリエットが眠る墓地に到着する。そこで、ジュリエットと結婚するはずだったパリスと鉢合わせをする。
「…………え?」
パリスの役は、現部長が担っていたはずだった。
ところがそこに姿を現したのは。
「とう……」
名前を言いそうになり、咄嗟に口を閉じる。
舞台の端から登場したのは瞳子だった。それも、パリスの格好をしているわけでなく、本来瞳子が着るはずだったドレスを身にまとって。
観客も、突然登場した瞳子にざわめく。
今まで劇に全く登場もしなかった瞳子が、ジュリエットの格好をして現れたのだから、驚きもしよう。
横たわっている典の体が、わずかに震えたが、さすがに典も事態を把握しきれないのか勝手に動くことはできないようだ。
「ロミオ、ああロミオ、待っていたわ!」
瞳子の口から発せられた台詞に、一気に引き込まれる。
声だけではない。
その表情に、身ぶりに、視線に。
「あ、あなた、は?」
「私よ、ジュリエットよ、ロミオ。まさか忘れてしまったとでも言うの、あんなにも愛し合った私を」
「だ、だけどジュリエットはそこに……」
横になり、目を閉じたままの典を指さす。
「その女は偽者よ。弱くて、ずるくて、逃げているだけの臆病な女。ロミオ、あなたが愛する女はこの私なのよ」
いつにない色気と妖艶さをもって、瞳子が迫ってくる。悩ましげな瞳で見上げ、腕をのばして祐麒の頬に触れ、しなやかな体を寄せてくる。
「さあ、永遠の口づけを」
祐麒の頭を引き寄せる瞳子。
なんだこれは。
一体、どういうことなんだ。祐麒に内緒のサプライズ演出なのか。混乱する中、瞳子の唇がゆっくりと近づいてくるのが視界に入る。
「いい加減にしなさいっ」
観客のどよめきが、更に大きくなる。
典が、身を起こしていた。
「ロミオ、騙されないで。私が本当のジュリエットよ。その女の方が、偽者よ」
「逃げ出していた女が、随分と偉そうな口をきくものね」
「一体、なんのこと……っ」
「分かっているのよ、貴女はロミオを私にとられるのが怖かったのでしょう」
「なっ……」
典の顔色が僅かに変化する。
瞳子は祐麒の体から離れると、ドレスの下から短剣を取り出した。つられるようにして、典も短剣を取り出す。本来、死んだロミオの姿を見て絶望したジュリエットが、自らの胸を貫くためのものだった。
それが、今は。
「――はっ」
「ふっ」
瞳子と典が、互いに短剣をふるって戦っている。
二人のジュリエットが、剣を振る。
全く練習などしているはずもないのに、二人の息はよくあっていた。舞台の上で演舞のように剣を交わらせ、軽やかなステップを踏むように互いの位置を変え、戦い続ける。くるくると踊るような二人は、やがてどちらがどちらなのか分からなくなっていく。同じ衣装、同じ髪型、同じメイクで、自分自身に剣を向けている二人のジュリエット。
祐麒はただ、そんな二人の姿を呆然と見ていることしかできない。
華やかな、それでいて激しい二人の剣劇は長くは続かない。
「…………あぁっ!」
やがて、瞳子の持つ短剣が、典の胸に突き刺さる。
だが同時に、典の突き出した短剣が瞳子の胸を抉る。
一瞬の静寂と静止の後、ゆっくりと二人の身体は足から崩れ、舞台に横たわった。
どうすれば良いのか分からず、声を出すことも出来ない祐麒に、照明があたる。
観客の視線が集中し、声にならない悲鳴が出そうになるのを必死にこらえる。汗が肌の表面に滲み出し、心臓が早鐘を打つ。
『……互いの剣で貫き、生命の灯を消してしまった二人のジュリエット』
そこで不意に、ナレーションの声が響いた。
どうやら助けてくれるらしいと内心で息をついたのも束の間、ナレーションはとんでもないことを言いだした。
『最愛の女性を本当に失ってしまったロミオは、最後に、自分が本当に愛していたただ一人のジュリエットに、最後の口づけを求めた……』
えええええっ!? という叫びを懸命に飲み込んだ。
確かに、ラストにキスシーンはあったし、その練習はしていた。しかしこれでは、キスの意味が全く異なってしまう。
どちらかを選ぶ、という意味に。
倒れている二人を見下ろす。
典と瞳子は、互いに頭を寄せるようにして横たわっている。
どうする、どうすればよいと自問する。
観客は、オリジナルの演出と思っているのか分からないが、息を殺して祐麒の動きに注目をしている。いつまでもじっとしているわけにはいかない。 劇の流れを考えれば、ジュリエットの役を演じてきたのは典だが、キスシーンの練習をしてきたのは常に瞳子であり、だけどいきなり登場した瞳子を選ぶというのは不自然にしか思えない。心の中で色々な思いや気持ちが渦を巻く。
だけど。
色々と考えた全てのことを置き去りにして、ただ、自分の気持ちに素直になれば、答えは明白だった。
ゆっくりと膝を落とし、二人の顔を交互に見て、やがて一人の少女の方に顔をゆっくりと近づけていく。
冬の日の公園で初めて見た時から惹きつけられていた、凛とした少女。演劇に対して真摯で、何回も練習につきあってくれて、妥協がなくて、でも甘いものも好きな普通の女の子だった。
選ぶとか選ばないとかそういうことではない。
答えなんか、最初から決まっていたのだ。
観客席は、わずかにざわついている。本来のシナリオとは全然違う展開に、やっぱり困惑をしているのだろう。
だがそれも終わる。
このキスシーンさえ終われば、少し原作とは異なるが、ロミオが自殺して幕が下りることになるだろう。
だから――
「…………っ」
その時、瞳子の口が僅かに動き、祐麒にも聞きとれないような言葉を囁いた。その声は、瞳子の口のすぐ横の位置に耳があった典にだけ届き、その呟きを耳にした典は。
「なっ、私は……っ!?」
目を見開き、いきなり跳ねるように上半身を起こそうとして。
「っ!?」
唇と唇が、衝突した。
歯と歯が「がちん」とぶつかるような音がしたが。
それは、直後に発生した、ホールを埋め尽くすような歓声、悲鳴、絶叫にかき消された。
こうして、リリアン史上に残ることとなる発表会は幕を下ろしたのであった。