週末、スマホを片手に祐麒は見慣れぬ街を歩いていた。
この前、理玖に弱味(?)を握られ連絡先を教えることとなったのだが、さっそくメールが来て呼び出しを受け、指定された場所に向かっているのである。
"運動ができる服を持ってくるように"、という指示はあったもののそれ以上のことはなく、尋ねてみても『来てからのお楽しみ』と返されるだけで余計に不安が募るばかり。とはいえ無視することも出来ずにこうしてのこのこと出向いている。
画面に表示される地図と道を見比べて歩き、やがて辿り着いたのは大きいけれど古い一軒の家だった。
木造の平屋と見えるその家の周囲はぐるりと垣根がめぐらされており、中を窺うことは難しい。荒れ果てたという様子はないが、人が住んでいるのかどうかも良くわからない、少なくとも積極的に関わりたいと思えるような場所ではない。
それでも指定された場所で間違いないことを確認し、指定された時間であることを画面で見て、覚悟を決める。
深呼吸をしてから呼び鈴を押す。
低音のブザーが響いているのが耳に届き、呼び鈴がちゃんと機能していることを知る。
そして待つことしばし、家の中から現れたのは。
「はーい、どなた……って、あら福沢くん? どうしてここに」
理玖本人だった。
「どうしてって、理玖先生がここに来いって……っ」
話しかけたところで口を塞がれる。
眼鏡の下、理玖の目が睨みつけてくる。
「ちょっと、あたしが呼びつけたって知られたらまずいでしょ。あくまで、福沢くんが自分の意思で訪ねてきたってことにしてよね」
小声ながらもきつめに言われたが、そもそも何の目的が呼ばれたかもわからないのに無茶な話である。口を塞いでいた理玖の手の平が離れたところで文句を口にしようとして、動きが止まる。
「――どうしたの理玖、誰が」
奥から出てきたのは冴香だった。
「え…………福沢くん?」
二人して、目を丸くしていた。
「――なるほど、強くなりたくていろいろ調べて、ここのことを知ったわけね。よく知ったわね、こんな場所のこと」
うんうんと頷いているが、呼びよせた張本人の理玖だから少しばかりわざとらしい。
「本当、びっくりしたわ」
まだ驚きを隠せないでいるのは冴香。
「そんなにあたし、有名だったかしら」
首を傾げているのは、祐麒の正面に座っている女性。やや吊り上がった目に鋭い眼光を宿した、四十前後と見える女性。
「なんといっても全日本を四連覇していますから、そりゃもう」
「何年前の話よ。今はただの主婦なんだけど」
その女性は宮野木響といい、理玖の言う通りかつて全日本を連覇していた剣道の選手で、冴香と理玖にとってもかつて剣道を教わったことがあるらしい。結婚して子供が出来てからは一線を退き、指導する方に専念をした。しかし、指導者としても既に現役を終えて本人の言う通り主婦として生活をしているとのことだが。
「強引に指導させるなんて、酷い教え子よ。こっちはもう体力も落ちているし、大変だっていうのに」
愚痴をこぼす響だが、見る限り体は引き締まっており、今でも相当に出来るのではないかと思えた。
話を聞くと、剣道の稽古をするために冴香がこの家を訪れ、渋る響を説得して稽古の場所と指導を受けるようになったらしい。学園の道場を夜間に使用することはできないし、休日に剣道部が使用していない時は柔道部などが使用していたりして、自由に使うことはできない。その辺の不自由もあるし、練習を見てくれる人も必要で、響を頼ったのだ。
「響さん、まだ時々教えているとも聞いたので」
「教えるっていっても、近所の子供に教えるとかよ?」
「それでも、響さんの指導を受けて強くなった、勝てるようになったという評判を聞きますから」
「そんな評判もあって来たのよね、福沢くんも」
「え、あ、はい」
理玖に振られて咄嗟に頷いておく。
「冴と理玖の教え子なんだって? 困るんだけどねぇ、本当に教えているわけじゃないし」
「いやいや、でも丁度良いんじゃないかしら、姉さんは稽古の相手が出来るし、福沢くんも姉さんの稽古相手になれば強くなれる。お互いにWIN-WINの関係じゃない」
「あのねえ理玖、それは福沢くんが私と同じレベルの強さであればってことでしょう」
「いやー、一人で竹刀を振るより余程良いでしょう? それに男の子だから力は強いし」
「えーと、理玖先生が稽古相手じゃないんですか?」
「あたしは時間の合う時だけ、大学もバイトも忙しいし、そういう意味では福沢くんが来てくれた方が姉さんも助かるんじゃない?」
「それは……」
否定しないところ事実なのだろう。
とはいえ、響の意思を無視して勝手に来るわけにはいかないだろうと思っていると。
「確かに、相手がいてくれた方があたしは助かるわね。冴は頑固であたしにどうしても竹刀を持たせようとしてくるから」
ちらと祐麒に視線を向けてくる響。
「……どうせ、冴は強情で一度決めたら動かないから、それなら相手をしてくれる人がいた方が助かるのは事実だし」
「姉さんも、いいでしょう? あたしも明日とか予定あるし」
「そうね……」
「……よっしゃ」
陰で小さくガッツポーズする理玖。
どうやら冴香の稽古相手にされることから逃れたく、祐麒を引き込んだようだ。
「福沢くん、だっけ。冴の稽古は厳しいけれど、いいのよね」
響に問われた祐麒だったが、頷くしかなかった。
「それじゃあ、さっそく始めましょうか。大丈夫、道具とかは揃っているから」
理玖のこの言葉が、地獄の始まりだった。
「……………………」
声を出すことも出来なかった。
荒い呼吸を整えることも出来ず、ただ大の字になって寝転がるだけ。体の節々に痛みがあり、腕と足の自由が利かず動かすこともままならない。
「……おーい、大丈夫かい福沢くん。生きている?」
人の影が顔にかかるのを感じる。
理玖が覗き込んできているのを理解したが、目を開けることも声を絞り出すことも出来なかった。
自分のための稽古ではない、冴香の稽古相手を務めるのだということは事前に理解していたが、実際に相手をしないと分からないことがある。
冴香はとんでもなく強かった。少なくとも、今の祐麒が敵うような相手ではないし、稽古相手として役に立っているのだろうかと思えるくらいだった。
せめて体力だけなら負けないと思っていたのだが、剣道で使用する体力、冴香の剣を必死に避けて受けて消費する体力は通常の二倍、三倍にもなることを知らされた。
「いやー、でも助かったわ。あたし一人だときつかったから」
汗を拭う理玖もまた冴香の相手をしていたが、途中からは要領よく立ち回り、結局は祐麒の方が多く冴香の相手をすることになった。
「起き上がれる?」
「…………はい」
地に手をついて上半身を起こそうとするが、腕が震えてうまいこと力が入らない。それを見かねたのか理玖が手をのばして祐麒の腕を掴むと、よいしょ、と引き起こしてくれる。
一方で冴香は汗こそかいているものの息が乱れる様子もなく、表情も涼しいままである。
「姉さんは化け物よ、体力もそうだし、あの馬鹿力もね」
剣を受けていて祐麒も分かったが、打ち込みの際の力強さが半端なく、打たれた腕が痺れてジンジンする。単純な力であれば同級生の野郎共の方が強いはずだが、一撃が鋭くて重く感じるのは冴香の剣の特徴なのかもしれない。
「部では、全然本気を出していなかったんですね」
「そりゃそうよ、教える方の立場だしね」
理玖の腕もそれなりのものだが、力強さや鋭さでは冴香に大きく及ばない。ただ、受け流し方が上手く相手の力を削ぐような動きをして捉えづらい。姉妹ではあるが、表現する剣は大きく異なっている。
どうにか体も動くようになってきたところで稽古後のストレッチを軽く行い、後片付けをして帰宅の途につく。
「姉さん、福沢くんと連絡先の交換しておいた方がいいんじゃない。稽古の日とか合わせる必要あるでしょ」
「でも、生徒と個人的な連絡先を教え合うのはどうかしら」
「もう、お堅いんだから。ここは学園でもないし、教師と生徒ではなくて同じ道場門下生の仲間じゃない」
「うーん、そうは言うけれど」
あくまでも生真面目に考え込む冴香。
「いいから貸して、あたしのと一緒に登録しといてあげるから」
「あ、こら……まったく」
勝手に冴香のスマホを取り上げると、祐麒のスマホとアドレスを交換しあう。理玖とは既に交換しあっているのではないかと思ったが、今日は偶然会ったという体にしているのだと、理玖のウィンクによって気付かされて口を閉じる。
そこまでされては冴香も無理に止めるつもりは無いらしく、黙って祐麒のアドレスが登録されたスマホを受け取る。
「でも本当に、先生の稽古の役に立っているんでしょうか。今日だって、何も出来なかったですし」
理玖に巻き込まれて色々と言いたいことはあったけれど、最も気になるのはそこだった。わざわざ休みの日に稽古をするくらいなのだから、冴香だった本気なのだろう。相手をしていてそれはひしひしと感じ取ることが出来たのだが、だとすればその相手として自分が適当だとはとても思えない。
「稽古の相手なのだから大丈夫よ。実戦形式の場合、ちゃんと強い人に頼んで相手をしてもらうし……って、ああごめんなさい。別に福沢くんが駄目と言っているわけじゃ」
「いえ、自分の実力くらい分かっていますから」
中学時代に体育の授業で齧った程度の祐麒が高校の部活動で始めたのである、自惚れようもない。
「でも福沢くん、経験が少ないけれど筋は良いわよ。ねえ、姉さん?」
「――そうね、運動神経が良いのよね」
「あ、ありがとうございます」
部活の最中に褒められたことなど殆ど無かったので、こうして面と向かって良いところを言われて少しばかり照れる。
そんな会話を交わしつつ駅まで到着し、電車に乗る。途中までは同じ電車であることを知る。
「それじゃあまた明日学校で……そうそう、今日の稽古のことは他の生徒には他言無用でお願いね。偶然とはいえ、一人の生徒を贔屓しているとみられかねないし」
「はい、わかりました。それではお疲れさまでした」
先に電車を降りる姉妹に頭を下げ、電車の扉が閉じたところで肩の力が抜ける。知らず知らずのうちに、やはり緊張していたようだ。
しかしここ数日で驚きのことばかりである。
理玖は教育実習生として学園で見せる姿と異なり、どうもかなり周囲を振り回す性格をしているようだし、冴香は物凄く剣道が強くてしかも今でも学校とは別の場所でわざわざ稽古をしているくらいだし。
かつての師を引っ張り出し、妹の理玖を稽古相手に引き込み、そこまでして強くなろうというのは何か目的があるのだろうか。そこのところは気になるところだが、とはいえ今の稽古に付き合っていたら自分の体がもたないかもしれない。たった一日で、普段の学園の稽古の何倍も疲れ切った体、痛んだ節々。
確かに強くなれるかもしれないが、自分はそこまで剣道で何かを成し遂げたいという思いはない。野球を諦め、他に何かやろうと思ったときになんとなく剣道を選んだだけだ。
それでも。
電車の窓に映る自分の表情は、疲れてはいるけれどどこか充実しているようにも見える。
「次か……どうするかな」
理玖に強引に呼ばれただけであり、今後も顔を出す必要があるわけではない。こんなキツイ思いをあえてしたいとも思えない。
車窓の外を流れる街を眺めながら、誰ともなく息を吐き出す祐麒だった。
そして週が明けての月曜日。
冷たい視線が祐麒の頭からつま先まで突き刺さる。
「――課題を忘れたわけですね」
冴香の怜悧な声が耳に痛い。
「土日を挟んでいたけれど、やる気が無かったのかしら」
「そ、そうは言いますけれど、昨日は……」
稽古のことを口にしかけて、冴香に睨まれて口を噤む。
ここは教室内、他の生徒も見ている中で余計なことを口にするわけにはいかないと理解するが、少しは祐麒のことについても察してほしい。昨日の激しい稽古のお蔭で、帰宅して風呂に入って食事をしたら何をする気も起きず、ベッドで横になって気が付いたら朝になっていたのだ。それもこれも、冴香の稽古に付き合ったせいではないか。
とは、さすがに言えなかったが本音では言いたい。
「日曜だけでなく、土曜もあったでしょう」
「う……」
それを言われると弱いが、それでも。
「仕方ないですね」
ため息を吐き出す冴香。
「それではもう一度機会を与えます、来週のこの時間までに終わらせて提出すること」
「は、はい」
「もちろん、今回忘れたことに対する追加の課題も含めて」
「なっ……え、ええっ!?」
「文句、ありますか?」
鋭い眼光で見下ろされる。
「――――いえ」
諦めて項垂れながら席に着く祐麒。悄然としたまま授業を終えた後、小林が同情の声をかけてきた。
「ついてないなユキチ。でも、冴ちゃんの課題を忘れる度胸はたいしたものだ」
「くっそー、なんで俺ばかりこんな目にっ。あんなに昨日……っ」
「なんだ、さっきも言いかけていたよな。昨日、何していたんだ?」
「何してたって…………ああくそっ」
言いたいが冴香には釘を刺されているし、それに言ったら言ったで友人達からもからかわれそうで面倒なことになりそうだった。
「……遊んでいただけだけどさ」
「うん、気持ちは分かるぞ。試験前とかの方がなぜか遊びたくなるんだよな」
結局、誰に言うことも出来ずもやもやを抱えたまま過ごすことになる。
稽古の相手をしたとはいえ、冴香も理玖も学校での態度が変わるわけではない。祐麒もそれくらい分かっていたつもりだったが、本当に何も変わらないと逆に少しばかり気を遣ってくれないかと思ってしまうのは自分勝手だろうか。
授業で便宜を図れとは言わないが、部活動ではと思っていた。特に月曜日は、前日の稽古がたたって体の節々が痛んでいたのだが。
「福沢くん、姿勢が悪い、足の捌きもバラバラ! ほら、どこ見て振っているの!」
容赦ないどころか、いつもよりも厳しいくらいだった。
そんな感じで日は過ぎ、課題にも殆ど手が付けられていない状況のまま進んだ木曜の夜、理玖から連絡が入った。この週末は土日両日とも冴香は稽古をするというから、都合があえば来てほしいというもの。
いやいや、一日だけというならまだしも、土日両方というのは何かの冗談か。課題だって終わらせなければいけない中で、二日とも冴香の相手をしたら他に何をする気力も体力も残らなくなってしまう。
返事は保留にしつつも、行く気はほぼ消え失せていた。
そして金曜日。
「だらだら練習しない! 何も考えずに竹刀を振っても何も身に付かないわよ。ほらっ、ガチャガチャ振るなって言ってんでしょ!!」
疲労はピークに達している。
日曜日に激しい稽古をこなしてから部活が休みの日は一日だけ、集中力も切れてきているし、練習にも身が入らない。今では、とにかく時間をやり過ごして早いところ土日に休みたいという思いだけしかなかった。
そんな祐麒を見かねたのか、他の部員から遅れて歩いているところに歩み寄ってくる冴香。どんな苦言を言われるのか、それでもどうでも良いと思えた。
冴香と目が合う。
腕を組んで鋭い目つき、その口が開く。
「…………無理しないでいいのよ?」
「――――」
その一言だけを残し、踵を返してゆく。叱咤されると思っていただけに拍子抜けしたが、言われるまでもなく無理をするつもりは無かった。お言葉に甘えて、土日は体を休めさせてもらいましょう、そう考えながらこの日の練習を終えた。
翌土曜日。
「――――」
「いらっしゃい、福沢くん」
にこやかに出迎えてくれる理玖の後ろで、目をぱちくりさせて祐麒のことを見つめている冴香。
驚きの表情を目にして、内心でにやりと笑う。
口を開きかけて閉じる冴香。言いかけたのは「どうして……」という言葉だろうか。
確かに、自分でも「どうして?」と思わなくもないが、全ては昨日の冴香の態度だった。
家に帰り、疲れた体をベッドに横たえてそのまま眠ってしまおうかという時、なぜか冴香の表情と態度が脳裏に蘇って来た。
思い返してみれば、あの時の「無理しないでいい」という言葉と口調、表情と態度、それは祐麒に対する哀れみとも諦めとも思えた。体を気遣ってくれたのではない、「この子はもう無理だ、自分の稽古についてこられる程じゃあない」と思われたのだ。
そのことが逆に祐麒を奮い立たせた。
野球部でもリトルシニアでも、どんなに激しい練習でも、どんなに膨大な練習量でも決して音を上げることなどなかった。体の大きくない祐麒は、他の体格に恵まれた選手に対し練習では絶対に負けないと誓い、歯を食いしばってやりこなしてきたという自負がある。
監督にもコーチにも負けず、最後には逆に「もうやめろ」と止められたくらいだったのに、野球と異なるとはいえ練習についてこられないと見限られるのは屈辱だった。
午前中、渋る祐巳に無理矢理マッサージをやらせて少しでも体をほぐし(中学時代から頼んでいたので、あれで結構上手なのだ)、気合をいれてやってきた。勿論、いまでも身体は疲れているけれど、表情には出さない。
「良かった、福沢くんが来てくれたなら、あたしは早めに抜けてもいいよね。今日、合コンだからさ」
「いいですよ」
「明日は予定があってあたし来られないんだけど……福沢くんは?」
さすがに理玖がいない中、一人でずっと冴香の相手をするのはキツイ。キツイ、が。
冴香の視線を頬に感じる。
「問題ありません、俺一人で大丈夫です」
言い切る。逃げられないよう自分を追い込む。
冴香は何も言わない。
そして激しい稽古も変わらない。
祐麒が疲れているのを知っていても、土日と二日連続であったとしても、冴香の剣はいささかも揺るがない。
打たれて、捌かれて、突かれて、払われて、叩きのめされて、それでも祐麒は立ち続けて相手をする。
日曜の稽古が終わった後はふらふらであったし、終了後には無様に尻から崩れ落ちてしまったが、それでも「大丈夫」と言い張るのは意地だった。
そんな祐麒を見ても冴香は変わらない。
よくやったとか、大丈夫かとか、褒めることをしなければ労わることもない。ただ、
「お疲れさまでした」
と挨拶をして一日を終えるだけだった。
そんな冴香だったが。
「…………」
「どうしましたか先生。ちゃんと、課題をやってきましたよ」
月曜日、課された通り倍になった課題を提出すると、冴香の表情が変わった。
稽古はこなしたけれど課題が出来なければ意味がないと、また冴香に何を言われるか分かったものではないから、土曜と日曜の夜にこれまた意地で終わらせた。
「……課題をやってくるのは当然です。むしろ、前回は忘れていたんですから、得意げな顔をされても困りますけど」
冷たく言い返されたが、それでも少し満足する。最初の冴香の表情は、明らかに祐麒が課題をやってくると思っていなかったからこそ出たものと思えたから。
軽く笑みを浮かべ、自席に戻る。
これでもう、文句も言えないだろう。稽古はちゃんとこなし、課題も終わらせた。 さあ、どうだ――
「……それではこの問題を」
教科書から顔を上げて教室内を見回す。
当てられたくなくて顔をそらす子、一生懸命に問題を眺めて頭を悩ませている子、いつ当てられても大丈夫だと澄まして冴香から目をそらさない子、様々だ。
そんな中で。
(――――――)
後方、窓際の席が視界の端に入る。
机に突っ伏して気持ち良さそうに寝入っている少年。
(まったく、いくら頑張っても授業中に寝たら意味がないわよ)
内心で少し上がった評価がまた戻る。
そもそも、授業中の居眠りから始まったのにまた寝てしまってどうするのか。稽古と課題をこなしたのは良いけれど、もう少し考えてほしいものである。
ここでまた指名してしまうのは簡単だ。
だけれども。
「……それじゃあ、軽部さん」
「は、はいっ」
立ち上がる女子生徒に目を向けながら。
(――今回はまあ、見逃してあげます)
心のうちで苦笑いするのであった。
おしまい