いつ、私は気が付いたのだろう。
いや、一体いつから気が付いていないフリをしていたのだろう。
私だってそれほど鈍い人間ではない。相手が蓉子、自分が好きな人であるならその変化には殊更、敏感なはずだった。だから気が付かなかった、なんてことはなかったはず。
でもそれ以上に、恋は私を盲目にさせていた。
蓉子に変化が表れたのは、おそらく聖と久保栞が互いを知り合ってしばらくした頃からだっただろう。相変わらず、蓉子はしばしば聖のところに行っていたが、聖を見る目が、態度が、変わっていた。
聖と久保栞の仲が深くなってゆくほど、蓉子は狂おしいような、切ないような瞳で聖のことを見つめていた。
それが分かっていながら、いや、理解していたからこそ、私は知らんふりを続けていた。蓉子が聖を見ているのを知っていながら、素知らぬ顔をして蓉子に話しかけた。蓉子を聖から引き離そうとした。
愚かなことに、聖から蓉子を離すことで、私は安心を得ようとしていた。
そんなことで、得られるはずもなかったのに―――
自分が何をしているのか、何をしたいのかも分からずに、私は無為に日々を過ごしていた。心のどこかは焦りを覚えているのに、動くことが出来ない。アンニュイだ、なんてことを言う下級生もいたけれど、そんな格好いいものではなかった。ただの腑抜けた人間が一人、いるだけだった。
そんなある日、最も会いたくない相手とばったり出くわした。
「……聖」
広い学園とはいえ、行動範囲は決まっている。学園で生活している限り、完全に顔を会わせないですむのは難しいのだから、珍しくもないはずなのに。
私は、動揺した。
「何?」
ギラついた目で見つめてくる聖。
様子が、夏休み前と随分変わっているように感じたから。
長い髪の毛、西洋人のように彫りの深い顔立ち、他人を近寄らせがたい空気をまとい、私のことを胡散くさいものでも見るような目をして、見つめている。
聖は色んな意味で有名人だ。
白薔薇のつぼみという山百合会の幹部。リリアンというお嬢様学校で生徒会に属すという立場でありながら、生活態度は決して誉められたようなものではない。にもかかわらず、成績は上位を保っている。
そして今、久保栞という一人の女生徒との仲を、色々な方面から、色々な内容で噂されている。
「……少し、痩せた?」
「さあ?……ああ、そうね。夏ばてで少し痩せたかも」
全く、心の繋がらない会話。
おそらく、私も聖も、会話などしたくなかったはず。さっさと切り上げて、いや、無視して終わらせてもよかったはずなのに、なぜか立ち去ることが出来ない。
「聖はいったい、どうしたいの?」
思わず、そんなことを聞いていた。
言われた方も意表をつかれたようで、一瞬、言葉を無くす。
「なんのこと?」
「分かっているくせに」
「さてね。それより、江利子こそどうしたっていうのさ」
面倒くさそうに長い髪の毛を掻き回しながら、あさっての方向を向く。
「私はどうもしないわよ。あなた、自分がどれだけ心配かけているか、分かっているの」
「心配?江利子が、私のことを心配してるっての?」
鼻で笑う聖。
風が吹き、地面の落ち葉がカサカサと乾いた音を立てる。学園内にいるはずなのに、全く異質な空間に飛び込んだように感じる。少なくとも、対峙している二人を包む空気は、どこか捻じれていた。
「―――別に」
蓉子が心配している、などとは口が裂けても言えない。
「そんなことよりも」
口元を歪める聖。
私のことを、斜に構えるようにして見据え、
「……江利子は、何がしたいのさ?」
「―――」
答えるのを待たず、聖は身を翻す。
シニカルな残影だけを残して。
「私は……」
答えることが出来ない。
銀杏の葉が舞い、周囲を淡い黄色に染めていく。黄色は、私の色。それなのになぜか物悲しく心に染みる。
スカートの裾が広がる。
初秋には似つかわしくない、冷たい風が私の身を切り裂いた。
表面的には、蓉子は山百合会の活動を精力的にこなし、学園生活も真面目に過ごす、文句なしの優等生を続けていた。でも、私には蓉子の表情が日に日に翳っていくようにしか見えなかった。
夏の名残も綺麗に消えうせ、めっきり涼しくなったある日、薔薇の館でたまたま二人きりとなった。以前だったら、他愛もないお喋りや、お茶を飲む時間が何物にも変えられないほど嬉しかったのに、今の私は心から楽しむことができなかった。
「ねえ、江利子―――」
会話の合間。
ふと出来た空白の時間に、蓉子は重い息とともに言葉を漏らした。
「聖に」
"聖"という単語を耳にした瞬間、心臓が"どくん"と波打つのが分かった。一番、聞きたくない人の名前。
冷笑するような、嘲笑するような、冷めた顔が脳裏に浮かび上がる。彼女の残した言葉が心の中に溜まり、気持ちを沈鬱させる。
なんとか表情だけは変えずに、私は視線を蓉子に向けた。
「聖がどうかしたの?あの子のサボりは今日にはじまったことじゃないわよ」
分かっていて、あえて話を別の方向に持っていこうとする。
「そう、ね―――本当に、あの子はどうすればいいのかしら」
そう言って、蓉子は笑った。
でも、私には泣いているようにしか見えなかった。
「放っときなさいよ。あまり、構いすぎるのもどうかしら、聖は天邪鬼だから。小さな子供ってわけでもないんだし」
何を言っているのだろう、私は。こんな、上っ面だけで、吹けば飛ぶような言葉をぶつけたところでどうしようもないのに。
紅茶のカップを持つ手が震える。
ダークブラウンの液体がわずかに波打つ。輝く表面には、ぼやけてゆがんだ私の顔が映っている。
「でも本当に、どうにかならないものかしら」
蓉子は聖の何を、久保栞の何を、知っているのだろうか。聞きたかった。問いただしたかった。
でも、私には出来なかった。
いつか壊れることが分かっていたガラスのお城。それにも関わらず、私は目をふさぎ、耳を閉じ、きっとまだ壊れない、もうしばらくは大丈夫と何の根拠もない理由を作り上げて、動こうとしなかった。
聖を前にしても、蓉子を前にしても、機会は何度もあったにも関わらず、何一つ私は動けなかった。
そして、前進することも、後退することもできない愚かな私を待っていたのは、予想された結末しかなかった。
迎えたクリスマス・イブ。
薔薇の館で開かれた、山百合会メンバーだけで行われるささやかなクリスマス・パーティの場。
蓉子は来て。
聖は来ない。
表面だけを見れば、それが結果。
もともと、山百合会の活動に積極的に参加していなかった聖がいなくても、パーティはそれなりに盛り上がった。令の手作りクッキーや即席ブッシュ・ド・ノエルは文句なしに美味しかったし、白薔薇さまとお姉さまの漫才のようなかけあいも面白かったし、からかわれて玩具にされる祥子も愉快だった。
でも、それだけだった。
蓉子の、心からの笑顔がない。
笑ってはいるけれど、心はどこか他の場所に置いてきているようだった。おそらく、聖のことだというのは分かるが、それ以上のことは考え付かなかった。聖がいないことなんていつものことだというのに、蓉子の様子は明らかにいつもと異なっていた。
蓉子の心を知りたい。
何を考えているのか、あの透き通った瞳はどこを見つめているのか、理解したい。思いを共有したい。
だけど、私には蓉子の心がつかめない。
結局、消化不良のままクリスマス・パーティを終えて。
後片付けをしている中、いつの間にか蓉子の姿はどこかに消えていた。
「――江利子、この後、ヒマ?良かったら家に来ない?」
薔薇の館を出たところで、お姉さまから声をかけられた。
「たまには姉妹水入らずってのも、アリじゃない?あ、それとも令ちゃんと一緒の方がいいかしら」
「いえ、それは別に……」
確か令はこの後、従妹である由乃ちゃんの家に行って、ささやかな食事会を行うことになっているはず。
「ああ、ひょっとして、『イイ人』との約束でもあるのかしら?」
「そんなの、ありません」
からかうようにして、私の背中を叩いてくるお姉さま。
お姉さまと一緒に過ごすのも、いい。それはそれで魅力的ではある。
でも―――
「……すみません、お姉さま。私、ちょっと用事がありまして」
ぺこりと頭を下げる。
そんな私を、お姉さまは何か物言いたげな顔をして見つめていたけれど、結局、何も言わずにただ私の頬を撫でてくれた。
私も、何も言わずにただもう一度、深く頭を下げると、はしたなくない程度の速さで駆け出した。
学園の門を出ると、もう体裁なんか関係なく全力で走り始めた。
体を切り裂くような冷気が、私を貫いてゆく。
だけれども、関係ない。私は今、久しぶりに心が熱くなっているのを感じていた。蓉子に会いたい、その一心で。
蓉子と会ったその先に、何が待ち受けているのかも分からずに。
期待と、それをはるかに上回る不安と恐怖に押しつぶされないように、ただ夢中で駆けることしかできなかった。
ただ、なんとなく分かっていたのは。
今日で何かが大きく変わる、ということだった。
根拠も、理由も、どこにも転がってはいなかったけれど。
一体、どれくらい走り回っていたのだろう。
時間の感覚も、距離の感覚も、体にのしかかる疲労すらも忘れて私は街をさまよっていた。
駅前、繁華街、ショッピングモールから住宅街やオフィス街まで、人のいそうなところからいなさそうなところまで。こんなにも夢中になって何かをしたというのは、いつ以来だっただろうか。
だけど、満足感とか充足感といったものは全く感じられない。走れば走るほど、移動すれば移動するほど、自分がいかに蓉子のことを知らなかったかを思い知らされるから。蓉子が行きそうな場所が、私には全く分からなかったから。
心が焦る。
陽は当の昔に落ち、空はどっぷりと闇に染まっている。星も見えない闇夜は、私の心の中のようだった。
運動神経にもそこそこの自信はあったが、普段から運動をしているわけではない。気持ちとは裏腹に体は思ったように動いてくれず、やがて私は重い体を引きずるようにして歩くようになっていた。
そうしてようやく―――見つけた。
間違いなく、蓉子の姿を。
「蓉子……っ」
疲れた体に鞭打って、私は走り出そうとした。
―――だけど。
この寒空の下、蓉子はなぜ、一人で立ち尽くしているのだろうか。このような遅い時間に、あの真面目な蓉子が。
私は動けなくなった。
蓉子はすぐ側にいる。私が声をあげれば、私の存在に気が付くだろう。いや、声をあげるまでもなく、いつもの蓉子であれば私を視界にとらえていてもおかしくはないはずだった。だけど今の蓉子は、ただ一点だけを見つめている。
駅へと続く、道を。
蓉子のすぐ後ろには24時間営業のファミリーレストラン。中に入れば、体を温めることができるのに、ただ何をするでもなく、寒そうに両手をこすりあわせ、白い息を吐き出し、ただ待っている。
……待っている?…………誰を?
体が震えていた。
寒さのせいなのか、それ以外の何かのせいなのかも分からなかった。ただ、がたがたと震えることしかできない。
「―――?!」
蓉子の顔が、上がった。
見たくもないのに、つられるようにして蓉子の視線の先に、目を向ける。道の先から、人影がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
一人……いや、二人。
街灯の光に照らされて浮かび上がったその姿は。
「白薔薇様……?……に…………せ……い……」
分かっていた。十分に予測できていた。
聖のいないクリスマスパーティ。
浮かない顔の蓉子。後片付けをしている最中、いつの間にかいなくなっていた蓉子。事実をつなぎ合わせれば、私には十分に予測できた。
それなのに、私はそのことを頭の中から追い払っていた。この期に及んで、私は現実と正対できずに逃げていたのだ。しかし、永遠に逃げることなどかなわない。一人ぼっちの鬼ごっこは終焉を迎える。
二人のもとへと、小走りに駆け寄る蓉子
聖に向ける蓉子の表情は、私の、偽りの幸福な日々に幕を下ろしたのであった。
その5へつづく