祐麒くんと付き合い始めてから、初めての春を迎えていた。
生まれて初めて、バレンタインデーの日に彼氏である男の子に本命チョコレートをあげて、その喜ぶ顔を見て幸せを感じたり、ホワイトデーのお返しデートで行ったスケートで一緒になって転んで笑ったり、祐麒くんと会うたびに色々な気持ちが芽生え、惹かれ続けていた。
今日もまた、二人で出かけていた。
新学期が始まれば、学校が始まって忙しくなる。特に祐麒くんは受験生となり、先に進めば進むほど時間の制約がかかることが分かっていた。
無理をすれば時間を作ることは出来るだろうし、きっと祐麒くんだったら時間を作ろうとするだろうけれど、私はそんなことは望んでいない。
会えた方が嬉しいのは確かなことだが、だからといって縛ったり、勉強の足を引っ張ったりするようなことはしたくない。無理のないペースで二人の時間を作っていけばよい。
公園に足を踏み入れる。
あまり有名な公園ではないし、花見をするにもまだ少し早いというのに、それでも花見をしている人の姿が結構な数、見られた。
二人でゆっくりと、園内を見て回る。
手にしたデジカメで公園内の景色を、ただ気ままに撮影する。
二人で一緒に見た光景を、一緒に過ごした時間を、画像として残す。友達に聞いたときは、そんなことをしなくても心の中に刻み付けておけば十分、なんて思ってもいたが、いざやってみるとなかなかに良いもので。
記憶の中だけにとどめておくと、映像はぼやけるし、いつか忘れてしまうかもしれない。残るのは美化された思い出だけだから、明確なものとして残しておきたいというのが、その友人の言である。
私はこだわるつもりはないが、それでも画像として残せる利点は確かにあると思う。いつでも好きなときに、祐麒くんの姿を見ることが出来るから。
データとして残すのと、瞳に、脳に、心に焼き付けるのをあわせて行い、決して忘れないようにする。 それが、最近の私の考え方。
公園の中を一周して、入り口へと戻ってゆく。
そこは少し大きな通りになっていて、道の左右に並び立つ桜の木々が、満開になると見事なアーチを作って出入りする人たちを迎え入れ、また見送ってくれる。
今はまだ、目を見張るほどではないけれども、おそらく来週には見事に咲き誇っているはず。
ふと、祐麒くんが私の髪に手を伸ばしてきた。なんだろう、と思っていると、「ほら」といって私に見せるのは、一枚の桜の花びら。どうやら、風に舞った花びらが髪の毛にくっついていたようだ。
差し出された花びらを、手の平で受け取る。
柔らかな手触りが、心地よい。
きっと、来週になればもっと凄いことになっていて、ひょっとしたら歩いているだけで花の冠が頭に出来てしまうかもしれない、なんてふざけて笑いあって。
だから、来週になったらまた一緒に見に来ようと笑顔で話した。
公園を出た後は、軽くお茶をして、ウィンドウショッピングをして、早めに別れた。もっと長く一緒に居たいという気持ちがないわけではないが、まだ高校生である祐麒くんを夜遅くまで引っ張るのも躊躇われるし、毎回毎回、夜ご飯を食べに行くほど二人とも経済的に独立できているわけではない。
それじゃあ、と言っての別れ際、はにかむような笑顔。
付き合い始めてからゆうに半年以上が経っているというのに、未だにキスの一つもしていないなんて、他の人に話したら幼稚園のおままごとかと言われそう。
多分、私も祐麒くんも、お互いに意識はしている。
だけど、祐麒くんは私より年下だからということで、私は女だからということで微妙な遠慮が入ってしまっているのだ。あと、多分二人とも妙なところが生真面目で、そういう状況にうまく持って行くことができない。
自分自身、なんて不器用なんだろうと思いながらも、決して、嫌な気持ちにはならなかった。祐麒くんが私のことを想ってくれているのは、近くに居て素直に感じられたから。きっと祐麒くんも同じように感じ取ってくれているだろうと思いたい。
帰り道、バスの窓に映る自分の顔を見て、そっと息を吐く。
昔から落ち着いているとか、大人びているとか、言われることが多かったけれど。
こと恋愛に関しては、子供もいいところだ。
でもそれは逆にいえば、まだまだ成長する余地があり、色々と知らないことを知り、新たなことを得る楽しみがあるということであある。
楽しくなるであろう未来を思い描き、私の表情は知らずと綻んでいた。
このとき、もちろん私は、私自身に待ち構える出来事を知るはずもなく。
ただ無邪気に、今という瞬間を素直に喜んでいた―――
ファミリーレストランのボックス席で、私はテーブルに突っ伏して、大きなため息をついた。
自己嫌悪に陥る。
なぜ、こんなことになってしまったのか、頭を抱える。
「あの、お客様……」
「あ、ごめんなさい。ええと、アイスティーをいただけるかしら」
「はい、かしこまりました」
変な目で見られていたウェイトレスに、取り繕った笑顔を向けて注文をする。公の場で情けない姿を晒すほど、取り乱していたというのか。
幸い、中途半端な時間帯のせいか客の姿は疎らなため、私の無様な姿を見ている人はいなかった。
落ち着け、と自分に言い聞かす。
運ばれてきたアイスティーに口をつけ、冷たい液体が体に染み入ると、ようやく熱くなった心が落ち着くようだった。
だけど、冷静になったらなったで、自分の言動を省みて落ち込みそうになる。
「ああ……失敗しちゃったなぁ」
自然と、何度となくため息が漏れてしまう。
一週間前まではいつもと変わらなかったのに。
"ソレ" が起きたのは、つい昨日のこと―――
☆
嘘だ。
嘘だ、嘘だ、嘘に決まっている。信じられるわけがない。だってだって、祐麒くんに限ってそんなコトするわけがない。
街中でありながら、私は動揺しまくり、動転していた。
「―――そうかしら? 祐麒くんだって若い男の子だもの、分からないわよ」
まるで私の神経を逆なでするように、背後から声をかけてくるのは江利子。睨み返すものの、江利子は平気な顔をして見つめてくる。
落ち着け、落ち着くのだ。
そうだ、祐麒くんを信じるのだ。私が信じないでどうする。私が祐麒くんの恋人だし、二人の仲はうまくいっているし、真面目で誠実な祐麒くんが私に隠れて私を裏切るような行為をするはずがない。そもそも、嘘なんかつくことができない人だ。
「あれじゃない。蓉子がさ、いつまでたってもエッチなことさせてくれないから、溜まりに溜まった欲望がバーストして」
わざといやらしい口調と表情で茶化すようにしてくるのは、聖。
「そ、そんなことない。祐麒くんは、私のこと大切にしてくれているんだもん!」
「……もん?」
思わず小学生みたいな口調となってしまい、江利子と聖がびっくりしたように目を見合わせているが、気にしている場合ではない。まあ、さすがに言動を省みると恥しいところは多々あるので、顔が少し赤くなるのを感じたが、あえて気にせずに歩を進める。
今、何をしているかというと。
聖と江利子と久しぶりに三人で会い、食事をしていたところ、聖が外を歩く祐麒くんの姿を発見。
聖に先に見つけられたことに少し不満を抱きながら祐麒くんの様子を見ると、どことなく挙動が怪しい。それで私は二人に断って祐麒くんのところに行こうとしたのだけれど、なぜか二人もついてきて、しばらく後をつけてみようと言い出してきた。
恋人のことを疑うなんて嫌だったけれど、心の中にほんの少しでも疑いの気持ちがあったのかもしれない。昨日たまたまテレビで観たドラマで、浮気とか不倫のことが描かれていたのが頭に残っていたのもあるだろう。私は、二人に促されるままに祐麒くんの後をつけていたのだけれど、祐麒くんの足が向かったのはネオンの輝く歓楽街。まさか、まさかと思いながらも、それでも祐麒くんはどんどんと怪しい場所へと向かい。
「おー、どこの店に入るのかね?」
「あそこの店とか入ったら凄くない? かなり過激そうよ」
後ろで聖と江利子が好き勝手に楽しそうに話しているが、それを諌めている余裕もない。私はただ、祐麒くんの姿を見つめるのみ。
信じている、と言いたいけれども、そんな私を嘲笑うかのように目の前で事態は進行してゆく。
「あ、あの女の人、祐麒くんに」
言われるまでもなく、分かっている。
遠くからだから顔などはよく分からないが、一人の若い女性が祐麒くんに近寄り、話しかける。何を話しているのか分からないが、祐麒くんは頷き、女性はその祐麒くんの腕をとって、二人で薄暗い路地裏の方に消えていってしまった。
「あー、あっちの方って」
「ホテル街だっけ……?」
後ろで、二人が何かを言っているが。
私は呆然と立ち尽くし。
「うううううううそよ、祐麒くんが祐麒くんが祐麒くんが祐麒くんが祐麒くんが祐麒くんが祐麒くんが」
「あ、蓉子が壊れた」
手にしていたポーチを取り落とし、目の前で繰り広げられた事態が信じられず、脳裏に焼きついた光景に我を忘れ、私はただ自分の周囲が暗黒に包まれてゆくのを一人、感じていた。
衝撃のあまり固まっていた私が我に返ったときは、もはや祐麒くんと謎の女性がどこに行ったのか分からなくなっていた。
聖と江利子の言葉も耳に入らず、気がついたら家に帰っていて、自室で呆然としていた。よほど錯乱していたのか、まだお風呂にも入っていないのにパジャマに着替えていた。
落ち着けと、何度目になるかわからない呟きを発する。
確かに、祐麒くんが知らない女性と仲良さそうに歩いている姿を見たが、それだけではないか。何か直接的な行為に及んだとか、浮気をしているとか、そういう明白な証拠があるわけではないのだ。
私が祐麒くんを信じられれば、それで問題ない……わけがない。
信じたいけれど、あの光景が目に浮かび、じっとしていられない。
――結局、どうしたらいいか分からないまま、ほとんど眠ることなど出来ないままに夜は更け、朝を迎えた。
丁度、大学が春休みの間でよかった。とてもじゃないが、今の状態で授業をまともに受けることなどできそうになかった。
枕の横に置きっぱなしになっていた携帯電話を手に取り、ディスプレイを眺めてみる。メールは一通も入っていなかった。
ちょっとボタンを押せば、祐麒くんにつながる。だけど、そのちょっとしたことが出来なくて、何度も思い躊躇って時間ばかりが無駄に過ぎてゆく。メールが来ないのは、まだ時間が早いからなのか、たまたまなのか、それとも何かあってのことなのか、判断はつかない。
やがて、なかなか起きてこない私を心配したのか、母がやってきたが、とても何かを口にする気にはならなかった。
このままでは良くないと分かっている。
電話を手にする。
大きく息を吸い、私はボタンを押した。
呼び出し音が聞こえる。胸の鼓動も、早くなる。
『――もしもし、蓉子さん?』
いつもと変わらぬ祐麒くんの声に安心する自分と、これから話さなくてはいけないことに緊張する自分がいる。
「ごめんなさい、変な時間から。大丈夫だった?」
驚くほど、いつもと変わらない声が出た。
『蓉子さんからの電話だったら、いつでも大丈夫ですから』
その言葉に、嘘や偽りは感じられなかった。
だからしばらくは、いつもと同じような感じで、おしゃべりをすることができた……と思う。
いつまでも、他愛もない話を続けていたかった。
このまま、何もなかった顔をして電話を切りたかった。
でも、それは出来ない。何も知らないふりをして普通に接していけるほど、私は強い女ではなかった。
「……そういえば、さ。昨日は何していたの。私は、聖と江利子と会って、一緒に夜ご飯食べていたんだけれど」
突然すぎただろうか。
だけど、口にしてしまった以上は引き返せない。電話を握る手に、自然と力が入る。
『昨日ですか、昼はリビングの模様替えの手伝いさせられちゃって大変でしたよ。今日も少し、体が張っている感じで』
「あら」
聞きたいことは、そこではない。
笑ってみせる声に、違和感はないか。
「……じゃあ、無理に呼び出さなくて良かったわね」
震えそうになる手を、無理矢理におさえる。
『――そうですね、昨日は疲れきって、夜ご飯食べたらすぐに寝ちゃいましたよ』
―――――――っ
言葉に、ならない。
祐麒くんの言葉を信じるならば、昨日はほとんど外に出ていないことになる。特に、夕食の後は。
しかし、間違いなく、私は祐麒くんの姿を見た。彼の姿を見間違えることなど、ありえない。
受話器の向こうから、続けて何かを話しているけれど、全然頭に入ってこない。
『――で、――――だから』
いつもだったら聞き逃すことも無い祐麒くんの声が、どこか別の世界の言葉のようで、頭の中で上滑りしてすり抜けてゆく。
「……どうして、嘘をつくの?」
『えっ?』
「どうして嘘をつくのっ!? 私、見たのよ。昨日の夜、祐麒くんが綺麗な女の人と腕を組んで街を歩いてゆくのを……どうして私に嘘をつくの? 言えないようなことなの?」
自分の声が、自分の声ではないようだった。
それでも、もう抑えることなど出来なかった。
『え、蓉子さん、それは、あの』
電話の向こうで、慌てたような口調。
そんな祐麒くんの様子に、私の不安と怒りは、更に加速する。
受話器に向かって、色々な言葉を投げつけるが、自分でも何を言ったのか覚えていないくらいだった。
『蓉子さん、聞いて。昨日のはそんなんじゃなくて、ちょっと相談されて。確かに蓉子さんに黙っていたのは悪かったと思っているけれど』
「腕を組んで歩いて、相談? 一体、何の相談だったのかしら」
『そ、それは、そのっ』
狼狽している祐麒くんに苛立つが、冷静になることができない自分も、嫌だった。
「……ごめんなさい。今は冷静に話せそうにないわ」
『蓉子さんっ?』
「…………」
『待って、蓉子さんっ。ちょっと、俺の』
電話を切る。
そのまま電源も切って、私はベッドに倒れこむようにしてシーツに顔を埋めた。
「…………っ」
声にならない想いが、口から重く、漏れた。
☆
そうして今、ファミリーレストランで一人、落ち込んでいる真っ只中というわけである。
祐麒くんの態度、言動もそうだが、むしろ自分自身の動揺の大きさと、動揺がもたらせた現状に落ち込んでいるというところだ。
もう少し、冷静に話すことができなかったものか。祐麒くんは何やら相談を受けていた、みたいなことを言っていたから、きっと理由があるのだとは思う。でも、腕を組んでいたというのはあまりに不自然で。あのときの情景を思い浮かべてしまうと、なかなか冷静でいられることもできなくて、結局、どうにも出来ない。
テーブルの上に置かれた携帯電話は、今も電源は切られたまま。祐麒くんと一緒に買ったストラップについているキャラクターの間抜けな顔が、今はなんとも恨めしい。
祐麒くんのことだから、きっと、何度も電話をかけてきていて、メールも送ってきていることだろう。
分かっているけれど、電源を入れるという気にならない。
暗い気分のままファミレスにいたけれど、次第に人が多くなってきて、家族連れやカップルの姿も目立つようになると、一人で座っているのがいたたまれなくなり、私は立ち上がった。
結局、注文したアイスティーには殆ど口をつけることは無かった。
☆
ファミリーレストランを出た後、特に目的もなく歩いていたが、気がつけば公園へと足を運んでいた。
思えば、祐麒くんと一緒に公園にやってきたのは、つい一週間前のことである。
そのときは、今日、再び一緒に来ようと約束していたのに、現実には一人で歩いている。
桜並木を歩けば、先週と比べてみても圧倒的に咲き誇る桜が私を見下ろしている。風は冷たいけれど天気はよくてお花見日和、溢れんばかりの人たちが、それぞれ思い思いに桜を楽しんでいる。
仲間で料理やお酒を楽しみ、家族連れは子供達が楽しそうに駆け回り、バドミントンをしているカップル、犬を連れてきている老夫婦、写真を沢山撮っている人、キャンバスを立てて絵を描いている人など、様々である。
ただ共通しているのは、誰もが皆、幸せそうな顔をしているということ。
暗い顔をして歩いているのは、私一人だけではないかと思えるくらい。あまりに惨めで、涙が出そうになる。冷たい風に身を縮めると、情けなさもより一層、増すようだ。しかも、今日のジャケットとパンツは祐麒くんにプレゼントされたもの。余計に色々なことを思い出してしまいそう。
手にしたデジカメを構え、様々な光景を画面にとらえれば、溢れんばかりの幸福が映っているように見える。左右どこに動かしてみても、それは変わらない。
瞳が潤んでいるのだろうか、画面も一瞬、ノイズがはしったかのように歪んで見えた。
カメラを持った手を下ろし、声もなく俯き、ため息。
本当であれば、私も他の人たちと同じように、笑いながら歩いているはずだった。祐麒くんと並んで。
それに加えて、今日は祐麒くんの誕生日である。
お弁当を作ってきて、桜を見て、色々と悩んだ末に購入した誕生日プレゼントを渡して、照れたようにしながら喜んでくれる祐麒くんを見るのを楽しみにしていたのに。
私は、ため息をつく。
すると、ため息にあわせたかのように、強い風が吹いた。
桜が舞い、視界が閉ざされる。思わず腕をあげて顔をかばい、目を閉じてしまう。
(――――?)
その瞬間、私はなんともいえない不思議な感覚が私自身を襲うのを、感じていた。
酩酊感ともいうか、平衡感覚を失っていくような、今までに感じたことのないもの。おそらく一瞬のことなのだろうが、私にとってはとてつもなく長い時間に思えた時が過ぎ、ゆっくりと目を開けると。
変わらない、公園の光景が目の前に広がっている。
――――――――え?
そう、同じ公園の、同じ場所に私は立っている。
それにもかかわらず、言いようの無い違和感があった。目を何度か瞬かせてみて、ゆっくりと周囲を見回してみて、違和感の正体に気がついた。
桜の量が、違う。
目を閉じる前と、明らかに咲いている桜の量が、異なっている。減っている。色も、鮮やかなピンクで一面が染まっていたはずなのに、隙間が随分と見える。花見の人の数も、少なくなっている。
そして何より。
「この、格好……?」
私自身の服装が、つい先ほどまで身につけていたものと、全く違う。
このセーター、このスカート、このジャケット、このスニーカー、このバッグ。
間違いない、祐麒くんと一緒に公園に来たときと、同じものだった。
「何、これ……」
自然と、疑問の声が出る。
気分が悪くなってくる。
「どういう、こと……」
よろめきそうになる。
信じられないけれど、目の前の景色が、何より自分自身が、証明している。周囲が変わっただけなら、まだ分からなかったかもしれない。でも、私自身が意識もしていないのに変わるなんて、ありえない。
それでも、心では信じられなくて。
そういえば今日は四月一日、エイプリルフールだから大掛かりな嘘ではないのかと勘繰りもするけれど。
「う……」
吐き気がこみ上げてきて、口元をおさえる。
おかしい、こんなことありえない。
私は藁にもすがる思いで、近くを歩く人に日付を尋ねたけれど。
――――三月二十五日。
何人の人に聞いても、同じ答え。
信じられない。信じられるわけが無い。そんな、小説や映画の世界じゃあるまいし、過去に戻るなんて事、あるわけがないのだ。
あるわけがないとしたら、どう説明すればよいのか。
一瞬にして目の前の世界が、自分が、一週間前の姿に戻ってしまったということを。
混乱の極みにあった私は、このとき、一週間前との違いに気がついていなかった。
一週間前のこの日のこの時間、隣にいたはずの祐麒くんが、いないことに――――