家庭教師の日がやってくると、祐麒はどことなく落ち着かなかった。家庭教師がちょっとだけ年上の、凄い美人だというのも理由の一つだが、加えて江利子さんは時々、自分のことをじっと注視してくることがある。それも、教え子の勉強の様子を見ているというよりも、どこか観察しているような目で見てくるので、落ち着かないのだ。
「どうしたの、祐麒くん。手が止まっているわよ」
今は、一人で問題を解く時間。しかし、別のことに意識をとられていたために、問題の方がおろそかになっていた。
「どこか、分からない?」
「あ、は、はい、ここが」
違うことに気をとられていたとは言いづらかったため、咄嗟に頷く。
「どこ?」
江利子さんが、参考書の問題を覗きこむように、すぐ隣に身を寄せてくる。一緒に勉強していて分かったが、江利子さんからはいつも良い香りがする。江利子さんの匂い、とでもいうのだろうか。近くに来ると、より強く感じられる。
参考書を覗き込むため前かがみになり、落ちかかる髪の毛を手ですくい耳にかける。ふわりと揺れる髪の毛の先端が、頬をくすぐる。
横顔も美しいが、その瞳は今まで見たどんな女性とも異なり、なぜか少し気だるげで、とろんとしているように見える。
息が、すぐ側から首筋にかかる。
体が密着しているため、柔らかさが、温かさが間近で伝わってくる。冬場で衣類も厚めではあるが、それでも十分に江利子さんを感じ取ることができる。
無論、江利子さんは教えることに熱心になっているだけで、他意はないのだろう。ただ、祐麒が過剰に意識してしまっているだけなのだが、祐麒とて年頃の男子。これで意識するなという方が無理ではないだろうか。
「……ん、祐麒くん、聞いているの?」
「え、あ、はいっ?」
声をかけられ横を向くと、比喩でもなんでもなく、目の前に江利子さんの顔があった。わずかに、怒ったような表情で、でも綺麗なので、至近距離だと怒られたことに恐縮するよりも先に、美しさにドキっとしてしまう。
「今、説明したの聞いていた?」
「あ、いえ……すみません」
「どうしたの、今日は随分と集中力がないわね」
「す、すみません」
理由を言えるわけもなく、祐麒としてはただ謝るしかない。
「……それじゃ、ちょっと休憩にしましょうか」
仕方ない、といった感じで江利子さんは立ち上がると、ぐっと背伸びをしてベッドに腰掛けた。離れたことにはホッとするが、今度は正面から向かい合う格好となることに緊張する。
今日の江利子さんはパンツスタイルだったので、脚を組んでも目のやり場に困るということは無い。江利子さんはそのまま、膝の上で腕を組んで、軽く首を傾げる。
「そうだ、丁度いい。ちょっと祐麒くんに聞きたいことがあったのよね」
「はあ、なんでしょう」
お茶でも持ってこようかと腰を浮かせたところで、声をかけられる。
中腰の姿勢で江利子さんを見ると、なぜかやけに楽しそうな表情で口を開いた。
「ねえ、由乃ちゃんとはどんな関係なの?」
祐麒は、頭を抱えたくなった。
「な、なんですか、いきなり」
「ちょっとね、気になって」
足を組みかえる。
江利子さんとはまだ付き合いは短いが、今の彼女の表情は、自分にとってあまりよろしくないことを考えているときのものだと悟る。
「別に、花寺とリリアンの生徒会メンバーということで、学園祭準備で交流しただけですよ」
「好きなんでしょう?」
「っ! ……なぜ、そうなるんですか」
「あ、表情変わった」
「か、変わりません」
「分かりやすいなぁ、祐巳ちゃんみたい」
「だから、違いますって」
信用していないのか、にこにこと笑顔を絶やさない江利子さん。一体、どういうつもりなのだろうか。確かに、由乃さんのことは可愛いと思うし、好きか嫌いかと問われれば、好きな方になるけれど、聞かれているのはそういうことではないだろうし、下手に答えるとややこしいことになりそうだから、有耶無耶にするのが良いと判断した。
「そろそろ、勉強、再開しません?」
「逃げる気ね」
ベッドから腰を上げ、近づいてくる。
「本当に、好きじゃあないの?」
「そうですよ」
目を合わせないようにして、参考書とノートを開きシャープペンを手に取る。ふわりと漂う江利子さんの香りに惑わされないように、精神を集中させる。
「じゃあ、遠慮しなくていいのかしら」
しかし、江利子さんはすぐに祐麒の心をかき乱す。頬杖をついて、独特の退廃的な色気を伴った視線で祐麒をねめつけながら、さらりと言い放った。
「……祐麒くん、私の恋人にならない?」
「っ?!」
驚きで顔を上げる。
真正面から、江利子さんと向き合う。
「な、なんでそうなるんです?」
「だって、別に由乃ちゃんのこと、好きってわけじゃないんでしょう」
「それとこれとは、全然話が違うじゃないですかっ」
身を乗り出してくる江利子さんから距離を置くように、座ったまま後退する。
江利子さんは構わずに、微笑みかけてくる。
まるで、蛇に睨まれた蛙にでもなったかのように、その微笑に体が固まる。
「家庭教師の時間以外は、恋人同士。どう? なんか、素敵じゃない?」
真面目とも冗談ともつかない口調で、江利子さんはそう言ったのであった。
祐麒くんの話を一通り聞いて、令は内心、大きくため息をついた。
浮かれていたのか、気が緩んでいたのか、それともはたまた他のことを考えていたのか。今となってはもう分かる由も無いが、自分が変な期待を抱いていたのは確かなようだと令は認めるしかなかった。
喫茶店の奥まった席、コートを脱いで、カットソーにセミタイトパンツという姿で向き合う自分が、どこか滑稽だった。
元はといえば、昨夜にかかってきた電話だった。
祐麒くんからの電話は運よく、令が直接受けることが出来た。もし、母が取っていたらまた何を言われるかわかったものではない。
わずかに高鳴る胸の鼓動をおさえながら、口調がいつもと変わらないように気をつける。少しばかり世間話をしたあとに祐麒くんから告げられたのは、『明日、会えないか』というもの。
わざわざ電話をかけてきて会えないかと言ってきたのは、きっとまた何か相談事があるからだろうと予測できた。にもかかわらず、淡い期待を抱いてしまうのはなぜなのだろうか。何か、特別な意味があって呼び出されたのではないかと少しでも思ってしまう、自分が悪いのだろうか。
そうして、わずかな期待を隠し持ってやってきてみれば、案の定、話というのは相談事で、ほっとしたような残念だったような、どっちともつかない安堵の息を漏らしていたのであった。
同時に、やっぱり自分はこういった役回りが似合っているのだと、諦めにも似た苦い笑いが込み上げてくる。
「……あの」
祐麒くんの声に、我に返る。
どうやら、自分の思考に埋没していたようだ。
「ああ、ごめんごめん。それで、なんだっけ」
気持ちを切り替えて、祐麒くんの相談に乗ろうとするものの、どうしてもうまく心を保てない。姉と妹のことを相談されて、落ち着いてなどいられない。しかも、お姉さまの発言を聞いてからは特に、動揺をしていた。
一体、何を考えているのか。
単に、由乃とのことがあって面白そうだから、からかい半分に言ってみただけなのか。それとも半ば本気で言っているのか。お姉さまの真意は、妹である令にすら量ることは難しかった。
「お姉さまと由乃のこと、だったっけ……」
前にも由乃のことで相談を受けたことがあり、二回目だから話を持ち掛けやすかったということもあるのだろう。
でも、これでは私は―――
「由乃さんも、江利子さんも、何を考えているのか、何があったのか分からなくて、二人にどう接したらいいのか」
困惑の表情を浮かべる祐麒くん。
こうして二人きりでいると、どうしても秋のことを思い出してしまう。足に怪我をした自分、祐麒くんがハンドルを握る自転車の後部座席に腰をおろし、夕闇に暮れゆく街を眺めながら二人で走った、あの日。
テーブルにふと目を落とせば、ティーカップにそそがれた紅茶の表面がわずかに揺れていて、令自身の心の動きを思わせる。
そう、令は揺れていた。
駄目だと思うのに、気持ちは言うことを聞かずに、揺れ動く。
「どうして、由乃さんはあんなにムキになってきたのか」
それは、由乃が祐麒くんのことが気になるから。友達に対する『好き』から、恋する人に対する『好き』の間にある感情を持て余しているから。
「江利子さんは、ただ俺をからかっているんでしょうか。でも、もしもそうじゃないとしたら、いい加減な態度は取れないと思うし……」
分からない。
お姉さまのことだから、本当に面白そうだからという理由でもありそうだし、逆に本気で好きになってしまったというのもありえる。
ただ一つ間違いないのは、それくらい祐麒くんが、お姉さまにとって興味深い相手だということ。
でも、それなら、自分は―――
「令さんなら、由乃さんとも江利子さんとも近く親しいし、二人の考えとか何か分かるんじゃないかと思って―――」
そりゃ、分かることも多い。
祐麒くんに分かっていないことでも、分かっているかもしれない。
だけど。
「令さんなら、二人の間で冷静な目で見ることができるんじゃないかと思って―――」
それは。
それは、つまり。
「……祐麒くんは」
言ってはいけない。これ以上、口を開いたら余計なことを言ってしまう。だから、ここは一度口を閉じ、考える振りをして心を落ち着けなくてはいけない。でも、微妙な歯車が噛みあってしまった自分の心を、止めることはできなかった。
「お姉さま……江利子さまと由乃に対する悩みを、私に相談するんだね」
「え」
テーブルの上で組んだ指に力が入る。
顔をあげることができずに、俯き加減でいると、伸びてきた前髪がかすかに目にかかる。
「信頼されている、っていうことでもあるんだろうけれど」
駄目だ、もう、止められない。
二人で会って、祐麒くんの口からお姉さまや、由乃のことを色々と聞かされて心がざわめく自分がいて。
自分が思っていた以上に、福沢祐麒くんという男の子に囚われてしまっていた、ということに気が付かされて。
「私のことは、由乃や、お姉さまのようには見てくれないのかな」
目の前で、祐麒くんが戸惑っているのが分かる。
いきなり、わけのわからないことを言い出した令に対し、どのような態度をしたら良いのか、どんな言葉をかければよいのか分からずに、ただうろたえている。
申し訳ない、とは思わない。
だって、貴方が悪いのだから。
「私だって、女の子なんだよ? ……祐麒くんの……ばか……」
ゆっくりと顔を上げて、令は、そっと囁いた。
家に帰り、逃げるように自室に駆け込むなり、令は頭を抱えてベッドに倒れこんだ。
「あああ、私のバカ馬鹿ばかーーーっ!!なんであんなこと言っちゃったのーーっ?!」
穴があったら入りたい、いや、むしろ消えてしまいたい。
思い出すだけで恥しくなる、顔に熱が集まってくる、頭がぐるぐるする。あんなことを言ってしまったのだ、いくら祐麒くんが鈍いといっても、何らか感じる部分があったのではないだろうか。
正直、あの後、自分が何を喋り、どんな顔をしていたのか全く思い出せない。ただ祐麒くんも、どこか落ち着かない様子で令のことを見ていたような気がする。確実に言えることは、胸の鼓動が凄く速くなっていたことくらい。
寝返りをうち、仰向けになって天井を見つめる。
「ああ……でも」
腕を伸ばす。
自分の、女の子にしては大きすぎる手が視界に映る。
「やっぱり私、祐麒くんのこと……」
分からない。
確信が持てるわけではない。今まで、ずっとリリアンという乙女の園の中で育ってきた。道場には同年代、あるいは年上の男性も多くいたけれど、あくまでも同じ『門下生』という目でしか見ることはなかった。
だから、恋愛なんて本の中でしか知らなくて。物語のヒロインの気持ちに同調して、素敵なストーリーに心ときめいたことはあるけれど、現実になるとそれだけじゃなくて。
「なんでだろう……胸が、苦しい」
令は一人、ただ呟くのであった。