梅雨の中休みとでも言うのだろうか。久しぶりに雨がやみ、晴天とまではいかないまでも、一応、太陽も顔を出している。こういうとき、湿気は高くて温度は上がりと、体感的には最悪だ。
まあそれでも、二人で一緒にいれば嫌な空気も良くなるものだ、なんていうのは、私の惚気だろうか。この頃ようやく、そんな風に思えるようになってきた。もっとも、内心一人思うだけで、口に出せるものではなかったが。
今日のデートは、映画。
恋人同士なのだから、ベタな恋愛映画を観に行くのが定番でしょう、と言い張る江利子さんに引っ張ってこられた。映画館の中は男女のカップルというのがやっぱり多かったけれど、女の子同士できているのも珍しくない。流石に、男同士というのはいなかったけれど。こういうとき、女の子同士というのはある意味便利だった。
映画は、それなりのものであってそれ以上でも以下でもなかった。けれども、やっぱり感情移入してしまう部分はあるし、ちょっとドキッとするところもあった。
観終わってから、喫茶店で軽食しながら感想を話し合う。正面の席で柔らかな表情で笑みを向けてくる江利子さんは、今日も綺麗だ。こんな綺麗な人の恋人でいられることが、今さらながら信じられない。二月の下旬に告白して付き合い始めたから、すでに四ヶ月近く経っているというのに、まだ慣れないのだ。我ながら、小心者である。
「克美さんは、どのシーンが印象に残っている?」
「うーん、やっぱり……ラスト手前のキスシーンかしら」
悲しくも切ないキスシーンだった。
「ああ、あそこね。うん、確かに」
頷いた江利子さんは、一口、アイスカフェオレを飲んでから。
「ところで、克美さんって……キス、したことある?」
と、訊いてきた。
「えっ? あ、うん……ま、まあ」
いきなりの問いに、なぜか私は嘘をついてしまった。見栄をはる必要などないのに。
「え、そうなの」
と、江利子さんは衝撃を受けたようで、いきなり表情が沈んだ。
私は慌てて弁解をする。子供の頃にふざけてしただけで、本当の意味でのキスというのはまだ経験がないだろうと。
それでも江利子さんはまだ納得いかなげだったけれど、これ以上余計なことを喋って墓穴を掘らないよう、話の矛先を江利子さんに向ける。
「そ、そういう江利子さんこそどうなの」
無意識のうちに私は、きっと江利子さんは経験あるだろうと思っていた。だから、自分はキスしたことなどないのに、ある、と嘘をついてしまったのだ。
ところが。
「え……な、ないわ、そんな……」
江利子さんは何と、わずかに頬を朱に染め、消え入るようなか細い声で恥しそうに言う。
「だってそんな……キス、なんて……」
恥じらいを隠すかのように手の甲で口元をおさえ、伏し目がちになりながら私の方を見る江利子さんの姿は、心を激しく揺さぶる。それくらいに可愛らしいのだ。
その瞬間、私の頭の中で一つの考えが浮かんだ。考えというか、仮説だ。
ひょっとして、江利子さんは物凄く純情なのではないだろうかと……
映画のキスシーンから、自身のキスの話になった途端の態度の急変。キスの話をするだけで、あそこまで恥しがるというのも、少し不自然だ。
デートでも、手を握ってきたり、体を寄せてきたり、スキンシップは強く取ろうとしてくるのに、決してそれ以上に踏み込んでくることがないというのも、今考えれば不思議なところである。
だけどよく考えれば、江利子さんの自宅は大きくて裕福。加えて、お父様や歳の離れたお兄様たちに可愛がられながらリリアンという穢れなき箱庭で育ってきた、お嬢様。普段は飄々とした態度で私のことをからかったりするけれど、その手の話については、てんでウブなのではないだろうか。
思い返してみれば、今までの四ヶ月間、デートは何回もしたけれど、そのような艶っぽい話にはならなかったし、話してこなかった。
私にしてみると、江利子さんがその手の話題に触れてこないし、求めてくることもなかったので、あえて自身から動くということはしてこなかった。それは少しばかり寂しい反面、どこかほっとするところもあった。
やはり私自身、どこか恐れのようなものも抱いていたから、今の関係を持続出来ているのだからそれでいいと思っている部分もあった。いずれ、時がくれば江利子さんの方から求めてくるのではないかという、漠然とした予感を持っていた。
しかし、江利子さんが奥手となると話は異なってくる。
江利子さんとの絆を更に深いものとするためには、私自身が積極的になり、イニシアティブをとっていかなければならないのではないか。むしろ江利子さんは、それこそを待っているのではないだろうか。
いつの間にか、私の中の仮説は確信へと変わっていった。
「そ、そろそろ出ましょうか」
微妙に心が落ち着かなくなってきたところで、内心を隠すかのように私は立ち上がった。江利子さんも、特に異を唱えるわけでもなくついてくる。
レジで精算し、店の外に出たところで私はそっと、江利子さんの手を取った。
「あ……」
一瞬、江利子さんは驚いた表情をした。何しろ、私の方から手をつないだなんて初めてのことかもしれないから。だけど、特に何を言うわけでもなく江利子さんは指を絡めてきて、はにかんだ。
「次は、どこに行きましょうか」
江利子さんと並んで歩きながら。
どこか、私の心は浮ついていた。
結局、いつものデートと大して変わりなく、ショッピングを楽しんで夕食を食べてというコースとなってしまったが、私の内心だけはいつもと大きく異なっていた。
いざ、意識をし始めると不自然になるもので、どのようにして江利子さんをリードすれば良いものか考えるあまり、必要以上に疲労を感じていた。
「なんか、今日の克美さん、少しヘンじゃなかったかしら?」
帰り道、ふとそんな風に尋ねられた。
さすがにばれていたようだが、真実を話せるわけもなく適当に誤魔化す。
「それよりも、門限はまだ大丈夫?」
「あ、うん、そろそろかも」
色々と考えたものの、結局、私自身も経験がないわけだからどうしたら良いか名案が浮かぶわけも無く、こうしてずるずると別れの時間が近づいてくるばかり。また、次回までに何か考えればよいという、弱気な虫がわいてくる。
と、そのとき。
握られた手に、僅かに力が込められた。
そこで江利子さんの方を見てみると。
「……やっぱり、寂しいわね」
何かを訴えるかのような瞳で、私のことを見つめていた。
「―――――っ!!」
どきっとする。
江利子さんの表情、そして握ってきた手は、明らかに私に対しての意思表示。あまりの可愛らしさ、綺麗さに眩暈が起こりそうになるけれど、これは江利子さんから私への精一杯の気持ちの伝え方。
ならば、私はそんな江利子さんに応えなければいけないのではないか。
私がここで気づき、動かなければ、先に進むことはないのではないか。
「あ、あの。江利子さん」
私は意を決し、口を開いた。
だが。
「ん、なに?」
大きな瞳で見つめてくる江利子さんに、途端に何も言えなくなってしまう。
どうしてこんなにも江利子さんは、魅力的なのだろうか。夜、月明かりの下で見るとさらに美しさはグレードアップする。だから私は、魅入られたように動けなくなり、心臓ばかりが激しく波打つようになる。
「克美さん?」
小さな口が動き、私の名を紡ぐ。
わずかに塗られたルージュが、可憐な蕾を薄いピンク色に彩り、月光により妖しく輝く。
私は、自分を叱咤する。ここで止まってどうするのかと。江利子さんは、きっと待っている。私のことを好きだといってくれているし、付き合って何ヶ月も経っている。態度だって、望んでいるとしか思えない。だから、拒絶されるかもしれないなんていうネガティブな思考は捨て去るのだ。
何よりも―――私は、江利子さんの唇が、欲しい―――
人気の無い、夜の住宅街の道端で。手をつないだまま私は微妙に体の角度を変え、江利子さんと斜めに向かい合うようになった。
もう片方の空いている手を江利子さんの肩に置くと、自然と体がより密着するように近くなる。羨ましいくらいのボリュームの胸があたり、感触にどきりとする。
つないだ手、絡んだ指に、きゅっ、と力をいれる。私の震えが、伝わってしまわないように。
私はそっと目を閉じ、顔を近づけた。江利子さんが避ける様子はない。
触れ合う、唇。
押し付けるだけの、拙いキス。それでも確かに、私の唇は、江利子さんの唇に触れた。柔らかくて、滑らかな感触。
一旦、唇を離し、薄目を開けてみると江利子さんは目を瞑っていた。頬はわずかに紅潮している。
私はもう一度、今度は江利子さんの上唇を挟むようにしてついばむ。続いて、下唇。
丹念につまんだ後、次は舌を伸ばして江利子さんの唇を舐める。ちろちろと、小さな猫がするみたいに、江利子さんの唇を舐める。私の唇は、江利子さんの唇に触れるか触れないかぎりぎりのところで、わずかに開いた江利子さんの唇に舌の先端を滑り込ませる。
「んっ……」
江利子さんの唇が、私の舌をはさんだ。
えもいわれぬ快感が、舌先から体に伝わってくる。私はその快楽に酔い、舌をさらにもう少し、江利子さんの口腔に差し入れた。
つないだ手の平が、しっとりと熱く、汗ばんでくる。
「……ん……んっ……」
余韻を残すように、ゆっくりと唇を離すと。
顔を火照らせ、まだ目を閉じてうっとりとした表情の江利子さん。きっと、私も似たような顔をしているに違いない。
私の手をつないでいないほうの手は、いつの間にか江利子さんの頬に添えられ、薬指が江利子さんの耳の穴に入り込んでいた。ゆっくりと指を抜くと、江利子さんは僅かに体を震わせ、そろりと目を開いた。
どことなく潤んだ瞳が、私のことを見つめている。
「あの、江利子さん……」
「ん……ふふ、キス、しちゃったね」
言いながら笑う江利子さん。
不快な様子は見えず、むしろ喜んでいるその表情に、大きく安堵している自分がいることに気がついた。
「あ、うん。その、いきなりごめんなさい」
「謝らないで。私も、嬉しかったから」
はにかむように言う江利子さんの姿が、また凄く可愛らしい。
「……それじゃあ、そろそろ帰らないと」
名残惜しみながら江利子さんと別れ、一人きりになったところで私は先ほどのことが夢ではないのだと改めて認識し。
「……江利子さんと、キス、しちゃった……」
一人呟き、彼女の唇の感触を、温もりを思い出して真っ赤になるのであった。
気がつくと、自宅の前にいた。
はっきりいって、公園から家までどのようにして戻ってきたのか記憶がなかった。夢遊病者のような感じで、ふわふわとした足取りで歩いていたことだけはなんとなく覚えている。
地に足が着かないまま玄関をくぐり、階段を上って自分の部屋に戻る。ベッドの上に座って、公園でのことを何度も何度も思い返す。そして、江利子さんの唇に触れた自分の唇に指で触れようとして、離す。触れてしまったら、彼女の感触が、温もりが、どこかに逃げてしまっていくように感じられて。
そんなことを何度も繰り返した後、不意にドアがノックされて飛び上がりそうになる。
「お姉ちゃん? 帰ってきているんでしょう」
聞こえてきたのは、笙子の声だった。とりあえず、生返事をする。
「お風呂、空いているよ。入っちゃいなよ?」
「あ、うん……」
のそのそと立ち上がり、部屋の外に出る。
「お姉ちゃんが最後だからね」
「ええ」
「……あれ、お姉ちゃん」
笙子が私の顔を見て首を傾げ、その後、笑った。
「な、何よ、いきなり笑って。気味悪いわね」
「へへへー、お姉ちゃん、違う色の口紅、ついているよ」
小さな指で、自身の口元をつついてみせる笙子。
私は咄嗟に唇を隠したものの、もちろんそんなの遅すぎて。
「そっか、良かったね、お姉ちゃん」
などと妹に嬉しそうに言われてしまい。
「ば、馬鹿っ! 子供はもう寝る時間よっ」
と、顔を真っ赤にしながら、使い古された文句を言うくらいしか、私には出来ないのであった。
一方の江利子はというと。
上機嫌で一人、帰途についていた。時折、指先で唇を愛しそうになぞり、他の人に気づかれないように笑う。
「それにしても……」
恋人の姿を思い出し、やはりまた、笑う。
「付き合い始めてから四ヶ月でキスか……まあ、克美さんらしいといえば、克美さんらしいけれど」
色々とモーションをかけてきたつもりではあったけれど、ようやくのことでそれが実った。
震え、がちがちに緊張した克美の姿を脳裏に浮かべると、可笑しさとともに切ないほどの愛しさが胸に満ちてくる。なんであんなにも、あの人は可愛らしいのだろうか。
だけど、キスでこれだけ大変だと、その先にいくのは果たしてどうなることか。そのときの彼女の様子を想像するだけで、楽しくなってくる。
「まあでも、随分と前進よね」
もどかしさはある。
江利子だって年頃の乙女、好きな相手ともっと触れ合いたい、気持ちよくなりたい、直接的に言うならば性交渉したいという欲求を持っている。この四ヶ月というもの、色々と我慢してきた。なかなか、動こうとしない奥手の克美に対して。
克美はきっと、江利子が求めれば応えてくれるであろう。だけど、それでは嫌だったのだ。単なる我が侭かもしれないが、克美に、江利子を求めて欲しかった。
「だって克美さん、私が迫ったら、流れに押されて受けちゃいそうだものね。そうじゃなくて、やっぱり克美さんの意思で、私とそうなりたいと思って欲しいし」
夜空を見上げて、背伸びをする。
「うーん、でもまだ先は長いかなー?」
とりあえず今日は、キスしたことを素直に喜ぼう。
それに、今日の克美のことを思い浮かべただけで、当分はお腹一杯でいられそうだから。
足取りも軽やかな江利子の姿は、夜の闇で踊る妖精のようだった。
おしまい