おめでとう。
おめでとう。
おめでとう。
周囲の人々から口々に祝福の声がかけられる。戸惑いながらも、その声に軽く手を上げて応える。何にせよ、皆が祝いの声をかけてくれているのだから。
おめでとう。
おめでとう。
あらら、ご愁傷様。
もう、逃げられないわね。
おー、頑張れよ少年。
祝福の声に混ざって、何かよからぬ声が聞こえてきた。同情ともとれるし、憐れみともとれるし、あるいは揶揄、冷やかしといったもの。
なぜだろうか。そもそも、此処は何処なのか。
『なに、きょろきょろしているのよ』
不意に横から発せられた声に驚きながらも、顔をそちらに向け、思わず息をのんだ。
彼女の、あまりの美しさに。
其処に立っていたのは、純白のウェディングドレスに身を包んでいる彼女。清楚な雰囲気の袖なしAラインドレスは、深めのハートネックで豊かな彼女の胸元を嫌でも強調し、細いウエストには二本の飾りのバンドでアクセントをつけている。ぐっと開いた背中からは肩甲骨が覗いて不思議な色気を漂わせ、スカートは地面ギリギリのフルレングスで緩やかに揺れている。
我に返って自分の姿を見てみれば。
―――!?
なぜか、自身も真っ白なウェディングドレスを身に纏っていた。
どういうことなのかと、落ち着き無く視線をさまよわせていると。
『もう、私だけを見てくれないと駄目でしょう?』
白いグローブに包まれたしなやかな細い腕が伸び、ゆらりと動く指に顎をつままれ、彼女の方を向かせられる。
いつも通りのさらさらの髪には白と黄色の花飾り、薄く化粧の施された彼女の表情は輝いていて、見つめる瞳が自分を射抜いてくる。長い睫毛、大きな瞳、整った可愛らしい鼻、小さな唇はほんのり桜色。
間違いなく綺麗だし、それ以外に言葉などないはずなのに。
『……どうしたの? あ、ひょっとして私に見惚れちゃった?』
蠱惑的に微笑む彼女に、本能的に戦慄を覚える。
まさに蛇に睨まれた蛙の如く、硬直してしまった体を動かしたのは、高らかに鳴り響く鐘の音。
それは、背後にそびえるチャペルから届く、祝福の音。
『ほら、私を連れて行って』
甘えるような声が体に染み入り、脊髄を痺れさせる。
逆らおうとするのに体は言うことを聞いてくれず、気がつくと彼女の脇の下と膝の裏に腕を差し入れ、抱きかかえていた。
いわゆる、 "お姫様抱っこ" である。
彼女の白い腕が首に絡まる。優しく抱きしめられているはずなのに、なぜか捕獲されたような気にさせられる。
『……ふふっ』
彼女は微笑み。
いつの間にか手にしていたブーケを、宙高くに放り投げた――――
「―――っ」
不意に祐麒は、目を覚ました。
上体を起こし、周囲を見回してみても変わることのない自分の部屋の中。
目を擦り、頭を振る。何か、凄い夢を見ていたような気がするのだが、目が覚めた今は朧にしか覚えていなかった。
覚えているのは、自分と、その隣に誰かが立っていたということ。
嬉しいような、恐ろしいような、そんな両極端な気持ちが心の中でせめぎあっていたような気がする。
「…………」
寝癖だらけの髪の毛をかきむしったところで、時間が経つほどに薄くなっていく夢の内容を思い出せるわけも無く。
何か変な予感を抱きつつも、二度寝の誘惑に勝つことも出来ず、再び寝床に倒れこむ。
―――福沢祐麒、大学一年生の春であった。
人生とは、偶然の連続なのかもしれない。
もちろん、自らの意志で選択した道を歩み、運命などという言葉に身を委ねることなく進んでいるつもりではあるけれど、そんな中でも数え切れないほどの偶然は間違いなく在るわけで。
例えば、人と人が出会うのなんて、偶然としかいえないのではないか。ある場所に行くのを決めたのは自分自身だとして、その場所で出会う人というのは、自らが選び出したわけではない。
出会った人と後々まで付き合っていくかどうか、という点については自分の意志で決められるけれど、そこで出会う人というのは本当に偶然ではないだろうか。
他にも様々なことがあるだろうけれど、もっとも分かりやすいのが、人と人との邂逅ではないかと思う。
で、その偶然を良いものにするか、悪いものにするかは、当事者に依存するわけだ。
四月、桜の花びらは既にほぼ舞い落ち、黄緑色に映える葉桜がざわめく姿が眩しくなってきたこの頃。
どうにかこうにか現役で大学に合格すること叶い、新たな土地で新たな生活を始めてから三週間ほどが過ぎ去った。完全に慣れたとまではいえないかもしれないけれど、適応能力はそれなりにあると自覚しているので、さほど困惑することも無い。
講義が三十分も早く終わり、閑散とし始めた教室内でノートを閉じ、さてこれからどうしようかと首を捻る。
「どうした、福沢」
前の席から、体の向きを変えて話しかけてきたのは、大学に入って初めて得た友人である笹山林造。短い髪の毛をツンツンと逆立てた、細目の男。
新しい場所で出来る親しい友人というのは、大体、今まで自分が付き合ってきた友達と同じような系統になるらしいが、笹山なんかはまさに、小林に通じる部分があるように感じている。
最初のオリエンテーションで隣の席になり、そのままずるずると仲良くなったという、どこにでもあるような出会いで親しくなった。だけどまだ、お互いを苗字で呼び合うような、そんな仲。
「ん。なんか、ちょっと疲れ気味かも。肩が凝った」
「あー、確かに講義九十分だもんなぁ、長ぇーよな。高校の授業の倍だもん、慣れるまでは辛いな」
苦笑のようなものを浮かべ、手で肩を揉み解す仕種を見せる笹山。
大学の講義もまだ始まったばかり。講義内容についていくのが大変というよりも、長い講義時間で集中を保つほうが大変である。今はまだ目新しく、緊張感もあるから、長い時間で疲れがちであることを除けば問題はないが、今後、慣れてきた頃には睡魔や退屈と激しいバトルを繰り広げることになるかもしれない。
「それはそうと、サークル入るか決めた?」
「いや、まだだけど……」
ちらりと視線を向け、目で、『お前はどうなんだ』と聞き返してみる。
「俺? 俺はね、ミステリー研究会」
「……意外だな。もっとこう、運動系の方に入るのかと思ったけれど、ミステリーが好きなのか?」
「いや、特に興味はない。しかし、それ以上に興味があるサークルだ」
「なんだよ、それ」
「知らないのか? ミス研にはなんたってミス・キャンパスがいるんだぜ」
ミス・キャンパス。
その言葉に、思考が泥のように脳内で澱む。
「この前見かけたんだけど、やっぱり綺麗だよな。もろに俺好みでさ、少しでもお近づきになりたいなー、なんて」
笹山の言葉に、顔を背けながら立ち上がる。
そろそろ学食に向かわないと、講義終了時間の後だと非常に混雑する。ノート類を鞄にしまいこみ、学食へと歩き出す。
並んで歩きながら、笹山は喋り続けている。
ミス・キャンパスの彼女がいかに美人で、スタイルがよくて、魅力的であるかを一人、悟ったかのように語る。
ため息をつく。
知らないということは、幸せなことだとつくづく思う。
「彼女、名前、ええとなんだっけ」
容姿ばかりに目がいって、肝心の名前を覚えていないのだろう。
「……鳥居江利子」
「そうそう、江利子さん! って、しっかりチェックしているんじゃないかお前」
「別に、チェックしているわけじゃないよ」
素っ気無く返す。
ただ、知ってはいる。確かに彼女は美人で、スタイルがよくて、コケティッシュで魅力的で、人を惹きつけてやまないものを持ち合わせている。ミス・キャンパスに選ばれることだって不思議ではない。
だけれども、祐麒は知っている。それ以上に、彼女、鳥居江利子という人物は気まぐれで、人を振り回し、心を掻き乱していくことを。
正直、大学に入学して、ミス・キャンパスの名前を見るその時まで完全に失念していた。受験した大学のうち、受かったのは二つ。それぞれの学校について、立地、環境、学習内容などを比較検討した結果、選んで入ったのが今の大学。
父の事務所を継ぐかどうかはまだ決めていないけれど、嫌だとは思わないし興味もあるということで選んだのは、造形学部建築学科。決めた学科自体には全く問題ないのだが、彼女が美大に入っていたということが、頭の中からすっぽ抜けていた。しかしそれにしても、同じ大学なんて偶然をここで持ってこなくても良いだろうに。
彼女の真の姿を知らなければ、淡い憧れを持つのも、一目ぼれしてしまうのだってアリだとは思う。知らないということは、幸せなことなのだ。
隣で幸せな顔をして喋っている新たな友人にはあえて何も言わず、ただ頷いて調子をあわせる。わざわざ、余計なことを言う必要もないし、言ったところで信じないだろう。それどころか、なぜそんなことを知っているのか、祐麒との関係を問いただしてくるかもしれない。
彼女とのことは、出来る限り秘密にする。同じ大学とはいえ、キャンパスは広いし学科だって異なる。普段生活をしていて、お互いが意識してでもいない限り、そうそう出会うこともない……はずである。
学食で昼食をとり、午後の講義を受けて、盛大なサークル勧誘の包囲網を抜けて帰宅したのは、どこにでもありがちな1Kの賃貸アパート。実家からだと一時間半以上かかるということもあり、ドアツードアで三十分ほどの土地で、一人暮らしを春から始めた。引っ越してきてからそれなりの時が経っているというのに、部屋の中はいまだ完全に片付けられている状態ではなかった。
ベッドと冷蔵庫と洗濯機にテレビは設置してあるけれど、まだダンボール箱に入ったままのものも幾らか残っている。とりあえず生活出来る状況にはなっている、という感じで、大学に入ってから色々あったせいで、三週間も過ぎ去っているというのに、片づけがなかなかはかどらないのだ。
室内を見回して、ため息をつく。物はさほど持ってきていないはずなのに、どうしてこう、散らかったままなのだろう。とにかく、明日の土曜日は午前中で講義が終わるから、土曜の午後と日曜日で、きちんとした人間らしい生活が送れるような環境に整えようと決意をする。
だけどその前に、まずは晩飯。
一人暮らしを初めて、困ったのはやはり食事。毎回、外食ではお金がかかってしかたがないが、料理が出来るというわけでもなく。コンビニ弁当も、今はまだいいけれど、食べ続けると飽きてきそうだ。
考えていても仕方なく、とりあえず祐麒は当座の食欲を満たすため、まだ慣れぬ近所に徘徊しに行くのであった。
日曜日の朝は、聞きなれない音を耳にして目が覚めた。初めは靄のかかった状態であったが、しばらくじっとしていると意識が鮮明になってくる。
体を起こすと、節々が痛んだ。昨晩、借りてきたDVDを観ながら睡魔が襲ってきて、そのままフローリングの硬い床の上で眠ってしまったようだ。近くに転がっていた携帯電話のディスプレイを見れば、時間は既に昼を大きく過ぎていた。いまだ鳴り響いている音は、インターフォンだった。越してきてからまだ間もなく、訪れてきた人間も少ないため、実家と比較して音に違和感があるのだ。
そういえば今日あたり、インターネットの回線業者がやってくるかもしれないと言っていた。肩や腰をさすりながら立ち上がり、玄関に向かう。シャツに短パンという格好であったが、人前に出られないほどひどい姿でもなかったので、そのまま玄関の扉を押し開けた。
「あ、やっぱりいるじゃないか。遅ぇーよ、福沢。なんだ、まだ寝てたのか?」
そこには、ラフな格好の笹山が立っていた。
いや、笹山だけではなかった。他に、同じ学科で知り合った友人の姿もある。笹山を含め、男が二人、女の子が、三人。
「約束通り、遊びにきてやったぞー」
「福沢君、寝起き? 髪の毛、寝癖ついてるよ」
「やく……そく?」
「近いうちに、遊びに行くって言ってあったろ。いや安心しろ、飲み物、食い物類はちゃんと調達してきてある」
自慢げに、ぱんぱんに膨れ上がったビニール袋を持ち上げてみせる。
寝起きで非生産的な頭脳CPUをなんとか回転させて、考える。約束なんてしたかどうか、それはどうでもいい。既に家の前まで来てしまっている連中は、祐麒の新たなる城に上がりこむ気満々である。
男はどうでもいい。本当はどうでもよくはないが、どうでもよいことにする。問題は、女の子だ。
三人のうち二人は、見たことがある、あるいは少し話した事があるという程度の子だ。ロングヘアーの子は、北海道から上京してきたと言っていた素朴そうな子。キャラメルブラウンに染めているのは、やたら声が大きい元気な子だ。
そして、残る一人。
「はぁい、祐麒くん」
愛用のカメラを手に、縁なしフレームのメガネをかけている美少女は、蔦子さん。同じ大学の映像学科に入学した、祐巳の友人。
「いつまでも外に立たせておくなよ。上がらせてもらうよ、っと」
「ちょ、ちょっと待った!!」
大事なことを思い出し、入ろうとする笹山を見て慌てて扉を閉じた。
……と思ったが、完全に閉まる直前、ドアの隙間に笹山に靴を差し入れられ、封鎖するのを防がれた。
「何するんだよ、痛っ、おい、入れろって」
「いやいやいや、今、ちょっと客を入れられる状態じゃないから、ほら」
「気にするなって、俺らなら気にしないし、宝来さんは掃除の達人だから。きっと福沢秘蔵のエロ本やDVDだって気にせず片付けてくれるさ」
「え、やだ、ちょっとそういうのは……」
何を想像したのか、頬を赤くする宝来さん。
「勝手に変な想像しないで……って、やめろ、ちょっ」
どうにかこうにかして侵入を防ごうとしたが、いかんせん人数が異なる。もう一人いた男も加わり、無理矢理に扉を開けられてしまう。
抗議しようとする祐麒を無視して、狭い玄関に押し寄せてくる悪友たち。止める間もなく、狭いキッチンを通過して室内に入られた。
「お邪魔しまーす。ふっふっふ、女の子に見られて困るようなモノはどこかな……ってなんだ、それなりに綺麗に片付いているじゃ……」
「ちょっと笹山くん、何急に立ち止まって……え?」
遅かった。
キッチンと部屋の境界線で立ち尽くす、五人の男女。部屋は1Kとしては広めの8畳あるとはいえ、一目で全体が見渡せる。室内にはさほど目立つものはない。あえていうならば、一番大きいのはベッドであるが、果たしてそのベッドの上でシーツにくるまっている物体が。
もぞもぞと動いたかと思うと、ソレは気だるい雰囲気を漂わせながら、むっくりと身を起こした。
「ん~、何よ、騒がしいわね……もう朝ぁ?」
乱れた髪を指で梳きながら、立ち尽くしている一同に目を向ける。
「あれ、何、お友達?」
首を傾げる、彼女。
祐麒は、手で顔を覆った。
「えああ、え、あっ、と、鳥居、江利子……さん?」
驚きに震える指で指しながらも、笹山は問いかける。
「ん、私のこと知っているの?」
「知っているも何も……ちょっとおい福沢っ! どどどどーゆーことなんだよ、分かるように説明しろっ! お、お前、鳥居さんとっ?!」
「言っておくが誤解だ! お前が思っているようなコトは何もないからなっ!」
「何もないって、そんなわけないだろ、この状況で!」
そうだ、シチュエーションが最悪的に最低だった。
何しろ、祐麒の部屋のベッドで寝ていた江利子さん。しかも、起き上がって皆に晒しているのは、素肌の上から祐麒の男物のシャツを羽織っているだけという扇情的な格好。シャツの裾からはみ出た、かぶりつきたくなるような太腿、はだけた胸元に浮かび上がる鎖骨、そして胸の谷間。乱れた髪の毛が無造作に額に、頬にかかっているが、それが却って色気を増幅させているように見える。
祐麒は五人を押し分けるようにして部屋に入り、シーツでなんとか江利子さんの体を隠そうとするが、いまだ寝ぼけ眼の江利子さんがむずかるようにして払いのけてしまう。
拍子で床に落ちる、江利子さんの服。紛れて、ブラジャーも見える。
さほど暑くもないのに出てくる汗を拭おうと、手にした布切れを広げてみれば、それはどうやら江利子さんのショーツで。
って、ショーツ?!
ではまさか、今、そのシャツの下には……と、思わず吸い寄せられるように目を向けると。
「ん、やだ、ちゃんとこの前、替えの下着置いておいたから、穿いているわよ、相変わらずえっちなんだから……それよりごめんなさい、パジャマ代わりにシャツ、借りちゃっているから」
シャツなんかどうでもよい。いや、下着の上にYシャツだけという格好は、ある意味、野郎共の欲望を叶えていて眼福なのだろうけれども、今はそれどころじゃない。手にしたショーツをポケットの中に突っ込み、続いてシーツで江利子さんの下半身を隠す。
「と、とにかく服を着て……って、痛たたっ」
床で妙な格好で寝てしまったせいで痛む腰を拳で叩くと。
「やだ、祐麒くん。昨夜、遅くまであんな無茶な体勢で頑張るから……私もまだ眠いけれど」
小さな口を手で隠しながら、可愛らしく欠伸なんかしている江利子さん。
先に言っておくが、間違いなく、間違いなど起きていない。
昨夜、日付が変わる頃、ゼミの居残りで終電がなくなったと飛び込んできた江利子さんと、明け方までDVDを観賞していただけに過ぎない。ベッドを占拠されて、祐麒は床の上で変な体勢で見る破目に陥ったというだけのことなのだが、状況といい発言内容といい、誰がどう見たって、アレだと思うだろう。
――江利子さんには、入学するなり見つかった。あの嗅覚はいったいどこからくるものなのか、本当に不思議である。数多くの新入生の中、背が高いわけでも、体が大きいわけでもない、際立った美形でもないし、特待生でもない。そんな、ごく一般の生徒の一人でしかない祐麒のことを、探していたわけでもないのに見つけ出すとはどういうことか。
抵抗することなど出来るはずもなく、すぐにアパートの場所を知られ、これは大学に近くて便利だなどと言い出す始末で、既に何度か、訪れてきている。
もちろん、勝手に部屋を使うわけではなく、事前に連絡はいれてくるし、祐麒の都合が悪かったり断ったりすれば、無理に押し入ったりはしない。来た際には料理なども作ってくれるのだが、それではまるで。
「……半同棲?」
「違う! 断じて違うから!」
「でも、その、お二人はお付き合いされているのでしょう?」
「してない、してない!」
「でも、男の人の部屋に二人きりで泊まるなんて、ただの知り合いはしないわよね」
普通の女性ならそんな危険なことしないだろうけれど、この人は違うのだ、普通の人とは。ついでにいえば、祐麒は弱みを握られてもいる。
「ひどい祐麒くん、私の身も心も貴方に捧げているのに、そんな冷たいこと」
状況を把握したのか、江利子さんがしなをつくりながら芝居がかった言葉を放つ。
「え、江利ちゃんは黙ってて」
「江利ちゃん?!」
大きな笹山の声を耳にして、また失言を悟る。
「やっぱり福沢おまえ、そういう仲なんじゃ」
「そうよ、ねー、ユウくん?」
「ゆ、ユウくんってなんですかっ。う、わ、わ、ちょっと江利ちゃん、ひっつかないで!」
後ろから首に腕を回して抱き着いてきた江利子さん。背中に押し当てられる柔らかな感触は、どんな鋼の意志も溶けおちてしまうくらいに気持ちがよくて、ともすれば何も考えられなくなりそうになる。というかむしろ、身体の別の部分が鋼のようになりそうになる。
男としては非常に嬉しい感触であるはずなのだが、現在の状況を考えるとやめて欲しい。間違いなく江利子さんは調子に乗っているというか、寝起きでテンションが変なことになっている。
快感という誘惑を振り払い、祐麒はどうにか対処しようとする。
「ちょっと、体離して……わっ」
強引に引き剥がそうとしたが、完全に体重を預けてきている江利子さんとともにバランスを崩し、もつれるようにベッドに倒れこむ。
「やん、祐麒くんたら朝から大胆なんだから、もぉ。そんなにがっついちゃって」
下になった江利子さんが、悩ましげな表情と仕種で手を首に絡めてくる。とても色っぽいが、今の状態は祐麒が江利子さんを押し倒したような格好となっており、非常にまずい。離れたいが、江利子さんの腕が首に絡まっていて離れられない。
胸の隆起に眼が吸い寄せられ、むせ返るような色気を至近から感じ、くらくらとするが。
「祐麒くん……」
怨念のこもったような低い声に顔を上げてみれば、眼鏡の奥から物凄い目をして睨みつけてきている蔦子さんの姿。
「江利子さまとこんな関係だというのに、私に誘いの声をかけてきたのかしら?」
腕を組み、まるで祐麒には呪詛のように聞こえる言葉を投げかけてくる。
怒りというか、腹立ちというかはまあ分からなくもないが、よりにもよってこの場で口にすることはないではないか。
「何、福沢お前、武嶋さんを口説いていたのか? いや待て、鳥居さんという人がいながら!?」
「え、福沢君、二股? うわー、誠実そうだと思っていたのに」
「あら、そこにいるのカメラちゃんじゃない。久しぶりねー」
まったく、なんでこのような事態になったのだろうか。
大学に入学する前、最後に江利子さんと会ったのはいつだったろうか。おそらく、その時から半年くらいは経過しているはずだ。半年間の空白期間で、江利子さんのことを忘れたわけではないけれど、記憶の奥に行ってしまっていたのは否定できなくて。
だけど今、こんな事態となって、二年半程前から始まった一連の出来事がするりするりと、さして長くも無い人生のアルバムから浮かび上がってくるのを、祐麒は感じていた。
あれはそう、天国のような地獄というか、それとも奈落のような楽園というべきか、とにかく『濃い』ということだけは間違いの無かった時間。
瓢箪から飛び出したような、忘れたいけれど忘れたくない、楽しかったけれど辛かった、そんな毎日が。
今また、この大学をステージに再開されたかのような既視感を受ける。
そう、高校一年の、江利子さんと出会った、あの時のような―――