花寺生徒会、及びリリアン女学園山百合会合同による、花寺の学園祭に向けた打ち合わせはつつがなく進行している。ついでに、花寺の次に開催されるリリアンの学園祭に向けても、ざっくりとした話し合いも行われるようだが。
しかし祐麒としたら、打ち合わせどころではなかった。自己紹介により、彼女が黄薔薇さまである"鳥居江利子さん"ということは判明したが、別にそれが何かの慰めになるというわけではない。特に何かを言ってくるわけでもなく、祐麒のことを意識しているようにも見えない。それでも、確実に鳥居さんは気がついていると、なぜか分かった。
生殺しのような時間が、ゆっくりと過ぎてゆき、小一時間ほどたったところで休憩に入る。そこでようやく動きがあらわれた。皆が立ち上がって伸びをしたり、お茶に口をつけたりしている中、祐麒は空になった紙コップを片付けていた。
その時。
「福沢さん」
「うわっ?!」
いきなり、耳元で囁かれて心臓が跳ね上がる。
振り返ると、そこには鳥居さんが立っていた。ちょっと気を抜いた隙に、いつの間にか傍に寄られていたようだが、全く気が付かなかった。気配を消す術でも持ち合わせているのだろうか。
「な、な、何か?」
平静を装おうとしたが、どもってしまった。それを聞いて、鳥居さんは口元を抑えて、くすり、と上品に笑う。
「申し訳ないんですけれど、お手洗いまで案内してくださるかしら?」
「え、あ、はい」
「じゃあ、お願いします」
思わず勢いで頷いてしまった祐麒を、有無をいわせず連れてゆこうとする。室内に目を向けるが、特に注目をしている者はいない。祐麒は、なぜだか分からないが、宇宙人に連行される人の気持ちはこんなものだろうかと思った。
部屋を出て、唯一の女性用がある、職員室近くのトイレを目指す。だから、ただトイレに行くだけなのに、階段を降りて廊下を歩いてと、やたら時間がかかる。祐麒が先導し、わずかに遅れて鳥居さんがついてくる格好となっているが、無言だというのが非常に息苦しい。
「ありがとうございます」
結局、一言も話さないうちに到着し、鳥居さんは女子トイレの中に姿を消した。
「疲れた……むしろ、一思いにやってくれ……」
何を考えているのか分からない。
祐麒に声をかけたのは、明らかに二人きりになるためだろうに、なぜ言ってこないのか。男子トイレに入り、手を洗い、気持ちを落ち着ける。
「ひょっとして、本当に気がついていないとか」
思わず、そんな風にも考えてしまう。
であるならば、余計なことを言わずに、やり過ごすだけである。祐麒に声をかけたのも、ただの偶然だったのかもしれない。
淡い期待を抱きながら外に出ると、既に鳥居さんは先に出て待っていた。思っていた以上に、トイレの中で葛藤していたようだ。
「あなたもお手洗い?」
「あ、はい。すみません、お待たせして」
「いいのよ。でもどうせ入るなら、私と一緒に入れば良かったのに。昨日は一緒に着替えをした仲じゃない?」
「ぶっ!?」
期待は、あっさりと打ち砕かれた。
見れば、鳥居さんは目を細くして、祐麒のことを見つめている。祐麒は、おそるおそる口を開く。
「あの、鳥居さん……」
「何かしら、"ユキ"ちゃん?」
「…………」
がっくりと、祐麒は膝をつき、肩を落とした。
やっぱり、最初から気がついていたのだ。
「あらあら、どうしたの、いきなり」
「いえ……」
力ない言葉で応え、祐麒はのろのろと立ち上がる。
「あの、昨日のお店の……ですよね」
「ええ、もちろん。いえ、まさかユキちゃんが男子校に通っていたとは、私も思わなかったわ。男装の麗人、ってやつなのかしら?」
「分かっていて、言っていますよね」
「さあ? ところでユキちゃん、今度のバイトにも、ちゃんと来るわよね?」
「え、いや、でも」
鳥居さんは笑顔を見せているはずなのに、なぜかやけに圧力を感じて思わず踏鞴を踏む。目の前の女性が、何を考えているのか全く見えてこない。
「ああ、まさか花寺の生徒会役員が、女装して喫茶店で働いているなんて世間に知られたらどうなるのかしら。学校もそうだし、ご家族だってどう思うか」
「き、脅迫ですか?」
「そういうつもりはないけれど……でも、お店のことを考えると、ユキちゃんがいてくれたほうがよいし」
そこで祐麒は、ピンと閃いた。
「そういえば、リリアンってアルバイト禁止じゃなかったでしたっけ?」
前に祐巳が言っていたのを聞いた記憶がある。ということは、鳥居さんだって校則に違反してアルバイトをしているのではないだろうか。これは、弱みではないか。もし、そのことが学校に知られたら、まずいことになるのではないか。
「そうだけど、それが何か?」
「何か……って、鳥居さんだって、学校に知られたらまずいんじゃないですか?」
「交換条件にしようっていうわけかしら」
「まあ、そうですね」
お互いに、お互いのことは黙っている。そうなってくれれば、祐麒にとっても御の字であるのだが。
「でも、あのお店は私の父が共同経営者になっているのよ。私が昨日お店にいたのは、本当にたまたまお手伝いで入っただけなの。確かに、学校に言われたら困るかもしれないけれど、正式にアルバイトとして働いているわけではないし。家のお手伝いなのよ」
「う……」
果たして、本当のことなのか分からない。しかし、やけに堂々と言い切る姿からは、嘘の匂いは感じられない。
冷静に考えてみて、どう考えてみても祐麒の方がリスクは高い。なんといっても、女装してメイドカフェでバイトだ。変態の烙印を押され、人生がどのように捻じ曲がっていくか分からないし、両親や祐巳にまで迷惑が及ぶかもしれない。
「そんな顔しないで頂戴。別に、あなたをいじめたいわけじゃないのよ。ただ純粋に、お店の関係者として、あなたにはいてもらったほうがいいと思ったのよ。昨日のアンケート読んだのだけれど、ユキちゃんのことを誉めている声がとても多かったのよ」
「はあ……」
「とても可愛い、また見にきたい、ファンになった等々」
聞いていて、げんなりしてきた。
男として、決して嬉しい誉め言葉ではなかったから。
「看板娘も夢じゃないって、店長さんも言っていたわよ」
「なりたくないです……ってゆうか、無理ですって! 俺、男ですよ? 着替えとか、一緒に出来ないですし、バレますって。バレたら本当に、人生終わっちゃいますよ!」
泣きをいれた。
体裁を考えている場合ではない。とにかく、最悪の事態を避けなければならない。
「大丈夫、そこは私がフォローしてあげる。昨日、言ってくれた理由が使えるわよ」
「え、昨日?」
「体に傷が、ってやつ。女の子だったら、誰だってそんな傷、他の人には見られたくないもの」
「し、しかし」
「ロッカーも、一番奥の端のところにしてあげるし。扉開けていれば、丁度良いついたて代わりになるわよ」
「いや、でも」
「お願い、実はお店、結構厳しいのよ。今、抜けられると正直、土日は回らないの。他の人が倒れちゃう。せめて、次の子がみつかるまででいいから」
両手をあわせ、拝んでくる。
何か、風向きが変になってきた。これでは、断ると祐麒の方が悪いみたいに思えてくる。それに、鳥居さんの言っていることもあながち嘘とも思えない。働いた祐麒も、初めてだったとはいえ、やけに多忙で休む暇もなかった。
「うーっ、でもなぁ」
「どうしても、駄目かしら?」
「女装はちょっと」
「……女装だから面白いんじゃないの」
「え、今、なんと?」
「いいえ、何も」
ぼそりと、本心らしきものが聞こえたような気がしたが、鳥居さんは笑顔で取り繕う。
「やっぱり、無理です」
きっぱりと、言い切った。
ここで負けてはいけないと、男として思ったのだ。プライドを売り渡すようなことをしてはいけないと。例え、人助けになることだとしても、出来ることと出来ないことがあるのだ。
すると、鳥居さんは少し切ない顔をする。
情に負けてはいけないと、腹に力を入れて身構える。
「……ねえ」
「何度言われても」
「あなた、私の裸、見たわよね?」
「ぶっ!!」
また異なる方向からの切り込みに、うろたえる。
同時に、昨日目にした鳥居さんの肢体が脳の中で鮮明に蘇ってくる。目の前に立っている姿と重ね合わせてしまいそうになり、慌ててかき消そうとするものの、魅力的な体はしっかりと網膜に焼き付いていたし、実物を前にして振り払うのは不可能だった。
「私、女の子だと思っていたから、全く無防備だったし。全部、見られちゃったわよね」
「ちちち違います、見たのは下着までですから! ……あ」
「やっぱり、見たんだ」
「いやややや」
「見たんでしょう?」
「いや、もう綺麗さっぱり忘れましたからっ」
必要な嘘もあるのだと、はっきりと言い切る。
すると、鳥居さんはちょっと拗ねてみせる。
「昨日の今日で忘れるくらい、私って魅力なかったかしら」
「えっ、や、そんな、とても綺麗でスタイルよくて、思わず見とれ……はわわわわっ!!」
動転して、もはや何を言っているのかよくわからなかった。何かを口にすればするほど、深みにはまっていくようで。ただ、鳥居さんの手の平の上でいいように踊らされているような気がして。
最終的に、祐麒としたら。
「あ、あの」
「何かしら?」
「お店……手伝わせていただきます」
と、言うしかなかった。
「ありがとう! 助かるわ」
祐麒の言葉を聞き、大きな身振りつきで喜びを表現してくれる鳥居さんではあったが、その姿を目にしても、祐麒としては素直に嬉しいとは感じることが出来ない。
なぜなら。
「じゃ、戻りましょうか」
そう言いながら片目を瞑る鳥居さんが、悪戯を成功させた子供のような表情を見せていたからだった。
部屋に戻り、全ての打ち合わせを終えると、すっかり夕暮れになっていた。あの後、鳥居さんはトイレに行く前と全く変わりなく、祐麒のことなど花寺学院生徒会の一メンバーでしかない、という態度を見せていた。
今後、またあの店で働くことを考えると気が重くなるが、とりあえず今日一日はこれで終わりか、と思ったのは、祐麒がまだまだ彼女のことをよく知らなかったから。
後になればよくわかる、鳥居さんはそんなアッサリと離してくれるような人ではないのだ。
リリアンのメンバーが帰りの支度を整え、立ち上がり、挨拶をして部屋を出ようかというとき、鳥居さんがふと立ち止まった。
正直、嫌な予感がした。
「―――江利子?」
「どうしたの?」
紅薔薇さま、白薔薇さまが声をかける。
「ええ、ちょっと」
音もなく、身を滑らせるようにして移動する鳥居さん。祐麒の隣にやってきて、何事かと注目する皆に振り返る。祐麒自身、先が見えず、また、なぜか金縛りにあったかのようで体を動かすことができなかった。
そんな皆の思惑など無視したかのように、鳥居さんは実にあっさりと言ってのけた。
「皆さんに言っておくことがあります。実は、私とこちら、福沢さんは本日よりお付き合いすることとなりました」
一瞬の空白。
そして。
「ええええーーーーーっ?!!」
驚愕の叫びが室内に響き渡った。
もちろん、当事者である祐麒だって、目をむいている。すました顔をしているのは、鳥居さんただ一人。
「ええと、江利子、それなんの冗談?」
「こんなところで冗談を言う訳ないでしょう」
紅薔薇さま、白薔薇さまに問われている鳥居さん。
そして祐麒は。
「お、おい、ユキチ、お前どういうことだよ?」
「い、いや、どういうことって言われてもっ」
自分自身、何がどうなってこうなっているのか、訳が分かっていないのであり。隣に立つ鳥居さんに、救いを求めて目を向けると。
「ちょっと皆さん、落ち着いてくださる?」
涼やかな声が響く。
決して大きい声ではないのに、ぴたりと静かになる。いつのまにか、鳥居さんは完全にこの場の主役となっている。そして祐麒は、主演女優に従う付き人とでもいった体である。
「江利子、本当なの? 説明してちょうだい」
「説明も何も、先ほど言ったとおりよ。生徒会メンバー同士の恋愛禁止、なんて決まりはないでしょう?」
「ないけれど……こんな、いきなり言われても」
「別に誰が困るわけでもないでしょう?」
「でも、なんで、急に」
そこで、鳥居さんはちらりと祐麒に目を向けてから、ほんのりと頬を朱に染めてほっそりとした手でおさえる。
「さっき、福沢さんから物凄く情熱的な告白をされて……それで心動かされて」
「え、え、ちょっと?」
「ゆ、ユキチ、お前いつのまに?!」
「意外と手が早いんだな……隅に置けないな」
「や、先輩、ちが……」
「福沢さん?」
小さな声で、でもどこか迫力のある声で、耳元で囁いてきた。
ゾクリ、と、背筋に寒気がはしる。
「あ、あの」
言いかけると、皆の注目が一斉に祐麒に集まる。
「……そ、その通りです。俺が鳥居さんに、ええと、その、ひ、一目惚れして」
内心ではうなだれながら、表面では引きつった笑みを作って答えた。
幸か不幸か、その態度は恥しさによるものだと受け止められたらしい。
鳥居さんは満足そうに頷いた。
「ということで、私達はお付き合いすることになりましたので、皆様、暖かい目で見守ってくださいね」
にっこりと笑顔を浮かべて可愛らしく小首を傾げ、ささっと素早く祐麒の腕を取る。
握り締められた部分に、"ぎゅっ"と力が込められる。
「あの、鳥居さ……」
「さ、行きましょうか」
「え、行くってどこへ……」
「いやだわ、今日は家まで送ってくれるって言っていたじゃないですか。それでは皆様、お先に失礼致しますね。ごきげんよう」
腕を掴まれ、ずるずると引っ張られる。
部屋に残されたメンバーは、あまりの出来事に声をかけることも出来ず、ただ無言で祐麒達が立ち去る後ろ姿を見送るのみであった。
学院を出て、しばらく歩いたところでようやく体を離し、祐麒はここぞとばかりに口を開いた。
「ちょっと鳥居さん、一体、どういうことですか?! な、なんでいきなり、あんなことを口に出したんですかっ!? 本気じゃあないですよねっ?」
鳥居さんはといえば、笑いを噛み殺すようにしながら、肩を震わせていた。
「見た? 蓉子と聖のあの顔。あー、おかしい」
「笑い事じゃないですよ、これからどうするつもりなんですか、あんなこと言っちゃって」
「どうって、これからのことを考えたからこそじゃない」
まるで何でもないことのように、さらりと言ってのける。
「お店のこととか考えると、私と一緒にいる方が得策じゃない。自然に一緒にいるには、お付き合いしている、っていうことにするのがよいと思わないかしら?」
体の前ですらりとした指を立てて、軽く振ってみせる。
確かに、その通りかもしれないが、即ちそれは、しばらく祐麒のことを逃すつもりはない、ということにも捉えられるわけであり。
傍から見れば、年上で、美人で、リリアン女学園の黄薔薇さまとお付き合いが出来るなんて、なんて羨ましいとばかりに思えるのかもしれないが、祐麒としてはそんな浮かれた気分になど、到底なることはできなかった。
「ふふ、明日から楽しみね」
生き生きとした表情で、鳥居さんは足取りも軽く歩んでゆく。
そして、祐麒より三歩ほど前に進んだところで、くるりと振り返り。
「ユキちゃんなら、可愛い服とか似合いそうだものね。どんな服がいいかしら♪」
と、あまり聞きたくなかった台詞を、実に楽しそうに呟いたのであった。