秋も深まってきた今日この頃。
慣れたくなかったけれどバイトにもすっかり慣れ、ウィッグをつけたり化粧をしたり、なんていうことも徐々に自然とできるようになってきた。
「お疲れ様でしたー」
一日の仕事を終えると、心地よい疲労が体を覆ってくる。どんな仕事であれ、一生懸命に体を動かして流した汗は、決して嘘でも偽りでもない。
「ふぅ、よく働いた……わっ、と」
目の前に垂れてきた長い耳がいきなり視界を塞いできた。
今日は一日、『うさ耳Day』とかで、ウェイトレスは全員、うさぎの長い耳と、丸い尻尾を装着しており、それは祐麒とて例外ではなかった。
本当に自分はこれでいいのだろうか、と思うことは思うのだが、何せバイト代が良いというのと、辞めるに辞められぬ事情もある。加えて言うと、このバイト先の女の子はみんなレベルが高く、それも魅力の一つではあった。
だけど、そんな魅力以上に、男として、人間として大事な何かを失っているような気がするのも事実だった。
ため息をつきそうになるが、頭を振って気分を入れ替える。そうそう辞められないのであれば、いかにして今を大事にするかだ。そのためには、仕事は全力を尽くし、そしてこのバイトをしていることを知人に気づかれないようにすること。バイトをやめられるようになる日まで、祐麒としてはそうするしかないのだ。
気を取り直し、着替えるために制服を脱ぎ始める。
と、脱ぎかけた直後。
「あー、今日も一日疲れたー」
「ねえ、この後さ、ミスドよってかない?」
「あたし最近、太ってきちゃってヤバイんだけどー」
華やかな女の子達がどやどやと入ってきて、更衣室内が一気にむせ返るような女の子の匂いに包まれる。
しまった、と思ったのももう遅い。いつもであれば、他のバイトの女の子達が着替え終わってから一人で着替えるのだが、疲労でうっかりしていたのか、他の子が着替える前に一番乗りで更衣室に入ってしまったのだ。
慌てて部屋から出ようにも、中途半端に制服を脱ぎかけなので、身動きがとれず、そうこうしているうちに皆が制服を脱ぎ始める。
「ちょ、ちょっと、皆さん待って! まだ俺がいますからっ」
祐麒が大きな声をあげると、皆の動きと声がぴたりと止まり、視線が祐麒に集まる。ほう、と一息ついたのも束の間、すぐに皆は何も無かったかのように着替えとお喋りを再開した。
予想しない展開に、祐麒はおろおろと左右に視線をめぐらすが、色とりどりのブラジャーやらショーツやら、うなじやら鎖骨やら胸の谷間やら太腿やらが目にとびこんできて、結局、赤面して正面のロッカーを見つめることしかできない。
「ん、どうしたの、ユキちゃん?」
すぐ隣にいた麻友が、そんな祐麒を見て首をかしげて聞いてきた。ちらりと横を見てみれば、麻友もやはり下着姿で、ビスチェにストッキング、ガーターベルトでなぜかうさ耳を残しているので、まるでバニーガールのようである。ここまでくると、もう狙っているとしか思えない。だって、うさ耳をつけたまま服を脱ぐなんて、邪魔で面倒くさいだけなのだから。
「ああああの、お、俺がまだいるんですけれど……」
先ほどと同じことを、先ほどより遥かに低いトーンで呟くように言う。何せ、周囲の状況は先ほどよりも凄いことになっているのだから。
「ユキちゃんがいるのが、どうかしたの?」
「だ、だって……」
と、左右の人差し指をツンツンしながら、囁くように言う。
「ん? なに、もうちょっと大きな声で言ってよ」
耳に手をあてて、顔を近づけてくる麻友。おかげで胸の谷間が迫ってきて、やっぱり俯いてしまう。見たいという欲望はもちろんあるものの、正面切って見てしまうほど度胸もないし、女性に慣れているわけでもない。
「だから、その、俺」
「……え、ああ」
ようやく思い出した、というような表情をする麻友。
しかし、全く恥らうような様子は見せない。
「まあでも、別にいいんじゃない? ねえ、みんな?」
と、着替えているほかの女の子に問いかける。
「えー、何が?」
「ほら、ユキちゃんが一緒に着替えているんだけれど」
「それがどうかしたのー?」
「だってユキちゃん、一応、男の子だし」
「あれ、そうだったっけ、あたしすっかり忘れてた」
「あたしも、ってか、今さらな気がするけれど」
「そうそう、そもそも着替えの時間ずらすの面倒くさいし、急いでいるときとか気にしてられないし」
「もーさあ、一緒でいいんじゃん? ぶっちゃけ、みんなユキちゃんのこと女の子だと思っているしー」
全く男などと意識されていない、酷い有様であった。
しかし、彼女達が良いのだとしても、祐麒としたらたまったものではない。男としてみれば嬉しい状況なのかもしれないが、女装している最中の姿や、あるいは女装から戻る姿を見られるなど、罰ゲームというか、いじめとしか思えないではないか。いや、女装姿を見られるのだって、恥しいが。
どうにか理解してもらおうと訴えるものの。
「あー、何、ひょっとしてユキちゃん、私達の着替えを見て興奮しちゃったとか?」
麻友が何か、楽しいおもちゃでも見つけた子供のような目をして、祐麒のことを見つめている。
他のバイトの女の子達も、なぜか祐麒のことを見ている。
「ユキちゃん、着替え、手伝ってあげようか?」
指をワキワキと動かしながら近寄ってくるのは、ふわふわのロングヘアーとロリータフェイスで人気の亜子。しかし、ロリータフェイスに似合わず、体の方はなかなかに大人びたスタイルをしている。
「着せ替えかあ、楽しそうじゃん」
小悪魔ちっくな薄い笑みを浮かべているのは、お嬢様キャラが持ち味の理於奈。こうして他の皆と見比べると、どうやら胸は一番薄いように見えるが、スレンダーな体つきはそそられるものがある。
「なんかこう、怯える姿を見せられるとお姉さん、興奮してきちゃうかも♪」
ピンク色の舌で唇を舐め、頬を朱に染めて見下ろしてきているのは、お姉さまキャラで人気の恭子。OLを経験してから店に勤めている恭子は、実際に一番の年上でもあり、他の女の子よりアダルトな色気を感じさせる。
「…………」
無言で近づいてきているのは、不思議ちゃんでもある巴。普段も何を考えているのか分からないところがあるが、こうして間近で見ると、それなりに着やせするタイプなのだということが分かった。
五人の女の子ににじり寄られ、祐麒は腕で体を隠すようにして逃げようとするが、背後にはロッカーがあるため逃げようが無い。
しかし、五人の体をまじまじと見るのはこれが初めてだが、誰も皆、なかなかに立派なスタイルをしている。さすが、見た目重視で採用したと店長が自慢そうに言っていただけのことはある。
などと悠長なことを考えていられる余裕はなかった。巴の手が伸びてきたかと思うと、いきなり祐麒のスカートの裾を掴んで捲りあげてきたのだ。慌ててスカートを抑えて、完全にまくられるのを防ぐ。
「なっ、なっ、何をするんですかいきなりっ!?」
無表情のまま、それでもスカートから手を放さず、尚且つ力を更にこめて上にあげようとする巴を怒鳴りつけると。
「……下がどんな状況になっているか確認しようかと」
「そ、そんなこと確認しないでくださいっ!!」
確認されたら、とんでもないことになってしまう。祐麒だって年頃の健全な男の子、多少は慣れてきたとはいえ、生理現象を気合や根性でおさえられるほど、枯れているわけもない。
だけどもちろん、そんな祐麒の言うことなど誰も聞いてくれない。
「やだーっ、あたしも見たいかもーっ!」
「きゃーっ、ユキちゃん、私達のうち誰を見て興奮したの??」
「ひょっとして堪っているの? あたしがイイコトしてあげようか……やば、高校生の男の子か……なんか興奮してきちゃったかも」
「ひゃぁっ!?」
恭子の細い指が敏感な個所に触れ、悲鳴をあげると同時にえもいわれぬ痺れが下半身を襲って来て困惑する。
「か~わいい、女の子みたいな声出しちゃって。大丈夫、お姉さんに任せて……」
「ちょっと恭子さん、それやりすぎっ」
「とりあえず、スカート脱がせてみる?」
それぞれが勝手なことを言いながら、迫ってくる。
「だ、だめーっ、やめてくださいーーっ!!」
しゃがみこんで防御を試みるが、構うことなく押し寄せてくる女体の群れ。祐麒自身は気がついていないが、適度に肌を露出した格好で、必死な表情で服を抑えている姿はかなり可愛らしい。中身が実は男だというのも、女性陣を興奮させているのかもしれないが、とにかく五人の女子は更に興奮度を上げて迫っていた。
「やだ、ユキちゃん可愛いーっっ!」
「お肌すべすべよね、太腿が色っぽーい」
「観念して見せて。興味ある」
「ややややめてくださいお願いします他の事なら言うことききますからーっ!!」
「あははは、それそれ、剥いじゃえーっ!」
祐麒の悲痛なる叫びを飲み込むようにして、容赦なく皆の手が制服にかかる。これって、職場内いじめじゃないだろうか、などと泣きそうになりながら心の中で思っていると。
「――ちょっと、何をやっているんですかっ!!」
入り口から、大きな声が響き渡った。
全員の動きが止まり、いっせいに扉の横に立っている人影に視線が向かう。
怒りのオーラを立ち昇らせて佇んでいたのは。
「あはは……え、江利ちゃん」
気まずそうな、麻友の声。
そそくさと祐麒から離れていく、他の女子四人。
こうして、祐麒の貞操の危機は、まさに間一髪のところで救われたのであった。
江利子と二人で並んでの帰り道。江利子は高校生であり女の子であり、そして家族から、ある意味異常なほどに愛されているので、実は門限が厳しい。それでも、色々と都合をつけたり、学友に口裏をあわせてもらったりして、今日みたく夜に店まで迎えに来てくれる。江利子のそういった姿、行動を他の皆も知っており、だから江利子が健気だ、甲斐甲斐しいと、応援してくれている。応援してくれている割には、祐麒のことをしょっちゅうからかってくるのだが。
その江利子はといえば、先ほどから無言で怒りを祐麒にぶつけてきている。祐麒はどうして江利子がそんなに怒っているか理解出来ないのだが、怒っていることだけは理解できるので、とにかく頭を下げて謝った。
すると、不意に江利子が立ち止まり、振り返って祐麒を睨みつけてきた。その迫力に、思わずたじろぎそうになる。
「もう、祐麒くんのエッチ! せっかく迎えに来てあげたのに、みんなに下着姿で囲まれてデレデレしちゃって、まるでハーレムね」
口を尖らせて拗ねている江利子。
祐麒は慌てて訂正する。
「ちょっと、江利子さんも見ていたでしょう? あれのどこがハーレムなんですか、俺に対するセクハラですよ、むしろこっちは被害者なんですから」
「……でも、みんなの下着姿、見たんでしょう?」
白い目で見つめてくる。
「それは、そうですけれど」
「ほうら、そうじゃない。私という彼女がいるのにっ」
今度は頬をぷくっと膨らませている。思いがけない子供っぽい仕種に、思わず頬が緩みそうになったが、横目で見られて口元を抑える。
それにしても、と祐麒は思う。
確かに、バイト仲間には江利子と祐麒は付き合っているということで伝えてあるが、現実には異なっているわけで。そこまで江利子が怒る理由というものが、祐麒にはいまひとつわからないのであった。
いくら祐麒が鈍感だとしても、本気で江利子が祐麒に対して愛情を抱いていて、それ故に嫉妬しているのだなんてことは思っていない。
素直にそのことを口にして訊ねてみると、またも白い目で見られた。
「私と付き合っていることになっているんだから、ちゃんとしてくれないと。やっぱり、他の女の子相手にデレデレしていたら、いい気分じゃないし」
腕を組み、不機嫌そうな顔を隠そうともしない。そして、そんな表情をしていても、街灯に照らし出された江利子はやっぱり綺麗で、見とれてしまいそうになる。しばしば感じることだが、江利子には夜がよく似合う。
しかし、偽りの彼氏彼女の関係だとしても、祐麒が他の女の子と一緒に仲良くしたりするのはやはり嫌なのだろうかと思い、逆に江利子が他の男と仲良くしている姿を想像してみる。
「…………」
想像してみて、思わず眉間にしわを寄せる。
確かに、あまり良い気分ではないが、そもそも祐麒自身が江利子みたいな美少女とはつりあわないと思っているから、これまた微妙なところである。
一人、考えに耽っていると、江利子がまた口を開いた。
「大体、祐麒くんをいじめていいのは、私だけなんだから」
帰りの夜道、正面から向かってきた車のライトに照らし出された江利子の横顔は、先ほどまでの表情とは一転して不敵なものになっていた。
「祐麒くん、さんざん、私の恥しい姿、見たわよねぇ?」
細くしなやかな指で唇をなぞりながら、江利子は独特の潤んだ瞳を向けてくる。江利子の言葉に応じて蘇ってくる、祐麒の眼前にさらされた江利子の痴態。すぐに顔に熱が集まってくるのが自覚できる。
「私、もう、お嫁に行けないかも……」
祐麒の変化を見てとったのか、悲しそうに顔を曇らせる江利子。慌てて、とりなすように江利子に向かう。
「そ、そんなことないですって、江利子さんなら。そんなに綺麗だし魅力的だし」
「説得力無いわ、さっきあんなに、麻友さん達にデレデレしていて」
「だだ、だから、あれは違うんですってば」
「本当にぃー?」
疑いの目を向けてくる江利子。
「本当ですって」
「じゃあ、証拠を見せてみて」
「え、いきなり、そんなこといわれても、どうすれば」
「本当に魅力的だと思うなら、どうしてこんなシチュエーションで何もしようとしないの?」
「こんなシチュエーションって……え、あれっ?」
言われて、初めて気がついた。
店から駅へ向かっていたと思っていたのだが、いつの間にか明るい通りを外れて、人気の少ない住宅街に出ていた。不機嫌になった江利子を追いかけ、なだめなるようにして歩いていた祐麒は、いつもと違う道を歩いていることに気が付いていなかったのだ。
左右の道に目を向けてみても、歩いている人の姿、走っている車の影、それらのものは全く見当たらない。ただ目の前に、江利子がいるだけ。
「本当に魅力的だと思ってくれているなら、どうして、手を出そうとしないの?」
上目づかいに見つめられ、心臓が飛び跳ねる。
どうせ江利子がからかい半分に言ってきているだけだ、簡単にのせられるなと自分の中の誰かが警報を発するが、体はまるで江利子の魔法にかかってしまったかのよう。手がゆっくりと上がり、江利子の華奢な肩をつかんで抱きしめようとする。
その手が触れる寸前。
ひらりと、燕のように身を翻し、祐麒の手からすり抜ける。さらさらの髪の毛が動きについていくようにふわりと広がり、街灯の薄明かりに煌めく。
「ふふ、あぶない。あやうく、襲われちゃうところだった」
広がったスカートの裾をおさえながら、笑う。
やっぱりからかわれただけと知って、思わず顔が熱くなる。
「なっ……え、江利子さんが、変なこと言ったくせにっ」
「言ったけれど、無理矢理なんて嫌よ。だって今の祐麒くんの目、怖かった」
「えっ」
苦笑するような江利子だが、その微妙な表情、動きから、意外と本気のように感じとれた。確かに、つい欲望のままに動きそうになってしまったが、江利子が恐れるほど酷い顔をしていたのだろうか。本当にそうだったとすると、自分が恥ずかしい。女の子を怖がらせるなんて、最低だ。しかも、自分自身のあさましい行動によって怯えさせたなら、尚更である。こう見えて祐麒は、フェミニストなのであった。
「す、すみません。俺、そんなつもりじゃ」
江利子の方から思わせぶりなことを言い、祐麒の感情を昂ぶらせたにも関わらず、祐麒の方から謝ってしまう。
「反省した?」
「は、はい」
完全に江利子のペースである。
「反省したなら、誠意を見せてほしいな」
「え、そ、誠意? ええと、それは」
何をすれば誠意を見せることになるのか、必死に頭を巡らすが、妙案らしきものは全く出てこない。しばらく、そんな祐麒を見ていた江利子だが。
「あーあ、今度の休日、このままだと兄にどこへ連れていかれるのかしら」
独り言にしては大きな声で、いきなり呟きだした。
「兄たちにも困りものよね、私が暇だと、何かと誘ってきて。付き合う方の身にもなってほしいわ」
わざとらしく、溜息。
「……何か他に約束があれば、断わりやすいんだけど」
頬に手をあて、憂いを帯びた表情で目を閉じる。
そこまできてようやく、祐麒は何となく悟った。
「あの……江利子さん」
「ん、なぁに?」
「えっと……もし、良かったら、今度の休みの日、どこか行きません……か?」
おそるおそる、尋ねてみる。
「それは、私と二人で?」
「は、はい、ええと、そうですね」
「それって、デートの申し込みってことかしら?」
「え? あ、そ、そうです」
「そんなに、どーしても、私とデートしたいの?」
「ええと……あああ、はい、そうです、どうしてもしたいですっ」
「そう、そこまで熱烈に申し込まれたら、断われないわね。いいわよ、デートのお誘い、お受けするわ」
なぜか、祐麒の方が是非にと誘ったような形になってしまったが、他に選択肢がなかった。今の祐麒では、とても江利子に敵わないのだから。
こうして江利子と二度目のデートの約束をしたわけだが、初めてのデートが"アレ"だっただけに、今回のデートも波乱無く終わるとは思えなかったが、それはまた祐麒の想像の遥か斜め上方をいくことになるというか、デートにとどまらない逆境が襲いかかってくるなんて、この時点の祐麒は知る由も無かった。
それは、祐麒が高校一年生、江利子が高校三年生の、秋も深まりつつある頃の出来事であった。
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