江利子と修羅場じみた一幕があってから数日後。
結局、有耶無耶のうちに江利子とは別れてしまい、それ以降会っていない。麻友も体調を崩しているらしく、このところ店に出てきていない。そんなわけで、祐麒は非常に居心地の悪い思いをしていたのだが、ある意味自分のせいでもあるので、誰かに恨み言をぶつけるわけにもいかなかった。
職場の仲間達は、祐麒とは普通に接してくれるが、時折冷たい態度を取られることもある。恭子と理於奈に帰り際呼び止められ、居酒屋で延々と説教をされたり、江利子と麻友のことについて洗いざらい話しなさいと脅されたりもした。
祐麒自身、このような経験は初めてのことで、どうすればよいのか分からないのが正直なところである。江利子の誤解であるし、その誤解をとかなくてはいけない、そのためには江利子にコンタクトをとらないといけない、それくらいは分かる。分かるのだが。
冷静に考えてみれば、祐麒と江利子は見せかけの恋人なわけで、そこまでしなければいけないのだろうかという思いも、少しはある。麻友とは趣味も性格もあうし、江利子が言ったように、これを機に正式に江利子と距離を置くというのもありかもしれない。
だけど、それはそれで無責任だし、それに、江利子と一緒にいると、ドキドキする。麻友に対しては、学校の友人たちと接するのに似たものがあるのに対し、江利子には、今までの人生で初めてといえる感情や、気持ちというものがある。
そして何より。
あの日、夜の街で見た江利子の表情。見たことがないような冷たい、無機質な顔。そして、どこか哀しそうな瞳。自分が江利子にあのような表情をさせてしまったのだと考えると、途端に、鋭利な刃物で刺されるような痛みに襲われる。あんな顔をする江利子を放っておけない。江利子には、もっとよく似合う表情があるはずなのだ。
生まれて初めて女の子と付き合うということが、なぜか偽の恋人という役割で。だからどうすれば良いのか、何が正しいのかも分からない。江利子だって、本当の恋人同士なんかではないと分かっているはずだし、自身もそう口にしていた。それなのに、なんで、あんな瞳を見せるのか。
いずれにせよ、ここは祐麒がはっきりするしかないのだろう、ということだけは、さすがの祐麒にも理解できた。だから、一度おもいきって電話もしてみたのだが、江利子は電話に出てくれなかった。
時間が経てばたつほど、距離が開けば開くほど、傷は深くなるのは分かるけれど、具体的な手段が思い浮かばない。
ただここに至り、ようやく一つだけ、祐麒の中で明確になったことだけはあった。
それは、こんな形で江利子を失いたくない、ということ。
江利子の気まぐれから付き合うことになったとはいえ、それでも周囲からは恋人同士だと思われている。それを誤解のせいで、何もすることなく消滅させたくない。時に江利子が見せる、無邪気とも、小悪魔的ともいえる笑顔を見たい。
祐麒は、切にそう思った。
江利子と会えぬまま、話もできぬまま、日曜日となった。江利子と何があろうとも、仕事がなくなるわけではない。朝一から仕事に入ることになっていた祐麒は、開店の準備をするために早めに店に到着する。
「おはようございまーす」
挨拶をしながら中に入ると。
なぜか、江利子の姿があった。
「え、あ、江利ちゃん?」
困惑するが、それはどうやら江利子も同じのようで。
「あれ、なんで祐麒くんが。今日、お昼からじゃなかったの?」
「いえ、朝からですけれど」
江利子はバイトをしているわけではないから、何かしら用事があって来たのだろうけれど、祐麒がいるとは思っていなかったようだ。
「計られたわ……まさか麻友さんがこんな策を弄してくるとは思っていなかったわ」
どうやら、江利子は麻友に呼ばれて来たようだ。祐麒がシフトに入っているときに呼ぶとは、やはり何かしら意味があるのだろう。恭子や理於奈といった他の仲間も、これから何が起きるのだろうか、といった感じで江利子や祐麒のことを見ている。江利子を呼びつけたと思われる麻友の姿は、まだ見えない。
江利子は、冷たい瞳で祐麒のことを見ながら、ゆっくりと近寄ってくる。そしてすぐ隣までやってくると、祐麒にしか聞こえないよう耳に顔を寄せ、小声で言った。
「そう……皆の前ではっきりさせようっていうのね。私を笑いものにするのかしら」
「そっ、そんなことは!」
どうやら江利子は、皆の前ではっきりと、祐麒と麻友が付き合っていると、江利子とは別れたのだと宣言するつもりだと思っているようだった。もちろん、そんなことがあるはずもない。祐麒だって、江利子が来るなんて知らされていないのだから。
だけど江利子は思い込んでしまったのか、祐麒の言葉になんかまったく耳を貸そうともしない。正直、ここまで意固地になっている江利子の姿を見るとは思いもしなかった。いつも飄々としていて、祐麒のことをからかって、余裕のある笑みを見せて、そんな姿が江利子だった。ところが今の江利子は、臍を曲げてしまった女の子だ。
「……私、帰る」
まるで子供のようなことを言って、踵をかえす。
と。
「おっはよー、って、わあっ」
江利子が手をかける前に扉の方から開き、麻友が元気よく姿を見せた。行き場をなくした江利子の手が、宙をさまよい、心の動揺をみせているようだった。
「あ、ひょっとしてあたしが最後? ごめん、ごめん」
場の緊張を感じ取っているのかいないのか、麻友はいつもと変わらぬ様子で中に入ってくる。他の皆はどう動いて良いものかわからないみたいで、戸惑いを表情にのせて祐麒と江利子、そして麻友へと順に視線をめぐらせている。
ここはやはり、祐麒から動くべきだろうと口を開きかけたところ。
「江利ちゃん、ごめんなさいっ!!」
いきなり麻友が床に膝をつき、額をこすりつけるようにして土下座した。生まれて初めて見る生土下座に、祐麒も呆気にとられる。他の皆も何も言えずに立ち尽くしている。
「あの……、な、何がですか、麻友さん?」
さすがの江利子も展開についていけないようで、大きな目を丸くして、きょとんと麻友のことを見ていた。思わず、そんな無防備な江利子の表情が可愛いな、なんて感じてしまう祐麒。
「ユキちゃんのことよ。あたしが軽率だったわ、ごめんなさいっ」
「は、はあ?」
顔を上げ、下から見上げてくる麻友の勢いにのまれそうな江利子。
「あたしが無神経だったのよ、ユキちゃんと趣味あうからさー、ついつい遊びに誘っちゃって。江利ちゃんとラブラブだっての知っててさー」
「あの、麻友さん?」
「でもね、ユキちゃんの気持ちも分かって。今日だってほら、可愛い格好でしょう? 江利ちゃんに少しでも可愛い姿を見せたいと思う乙女心! あたしと一緒に遊んでいたのも、こうして服を買ったり、江利ちゃんの好きそうなものをリサーチしたり、そういうことだったのよ!」
ちょうど今日は、麻友と買い物した時に入手したカットソーとスカートをあわせた恰好で出勤してきていたのだが。
「それに、それだけじゃないのよ、ほら」
と言いながら、祐麒が持ってきた鞄をすばやく奪う。あっ、と思う間もなく、中から財布、定期入れを取り出す。
「あ、麻友さん、だめ」
抗議も空しく、麻友はさっさと江利子に見せてしまう。
「あ……」
目にして、江利子が声を漏らす。
財布と定期の中には、この前の江利子とのデートで写したプリクラの写真が納まっていた。二人で笑い合っている写真、ふざけている江利子の様子、困った顔をしている祐麒。だが、江利子が驚いたのはそのせいではなかった。そんなプリクラ以外にも、写真が入っていた。
それは、江利子がこの店で撮った記念写真であったり、店の仲間と写っているプリクラであったり、祐麒が持っているはずのないものであった。どれも、祐麒が店の仲間たちからもらったり、交換したりして手に入れたものである。
「あと、これは見せちゃってもいいのかな~?」
麻友が次に手にしたのは、携帯電話だった。それは本当にまずいと思ったけれど、恭子と巴に腕をおさえられ、動きを封じられる。
携帯を開き、待ち受け画面を皆にも見えるように差し出すと。
「あ……」
江利子が口をおさえ、頬を赤くする。
待ち受け画面になっているのは、例のプリクラのときに携帯にいれた、江利子のパンチラショット……ではなく、斜め右方向から江利子の顔を写したもので、何がおかしいのか無邪気に口を開けて笑っている姿。ちょっとだけ服が着崩れて、鎖骨の線が浮かんで見えるのが妙に艶っぽい。
携帯カメラでたまたま、撮ることの出来た一瞬の絵。一番気に入って、携帯の待ち受け画像にしていたのだ。さすがに本人に見られると、祐麒も恥ずかしくなる。
「うわ、江利ちゃんすごい綺麗!」
「うん、かわいいっ! なんか愛情が伝わってくるよねー」
皆がわいわいと騒ぎ出す。
麻友が、江利子にウィンクする。
「ね、ユキちゃんにとっては、江利ちゃんしか眼中にないのよ」
「でも」
「あのね、ラブホのことも誤解だから、安心して。確かにユキちゃんとラブホ入ったけれど、ユキちゃん勃たなかったから、できなかったの。やっぱあたしじゃダメだって、江利ちゃん相手じゃなきゃ元気が出ないって」
「――え」
その言葉を聞いて、それまで赤くなっていた江利子の顔つきが、さっと変わった。室内の声も、止む。
「それって……Hしようとしたけれどできなかったってこと?」
「じゃあ、するつもりはあったってこと?」
「えー、それって、どうなの?」
ひそひそと交わされる会話。
「あ、あれ? ひょっとしてあたし、失言?」
頭をかき、困惑した顔の麻友。
「ふふ、そう……そういうことなのね」
黒いオーラをまき散らす江利子の姿は、心底、怖かった。さすがの麻友も慄いたのか、一歩、後退したが、慌てて江利子に近寄り耳元で何やら囁いた。
途端に、江利子の顔がまた真っ赤になり、ボンッ、と蒸気が吹き上げる音すら聞こえたような気がした。
「……てゆうかさあ、元はと言えばユキちゃんが江利ちゃんと麻友さん、二人に対して曖昧というか、いい加減な態度をとるからいけないんじゃないの?」
ツインテールにした髪をいじりながら、騒ぎを見ていた理於奈が冷静に指摘する。
「そうよね、麻友さんがいくら謝ったところで、江利ちゃんグッズをいくら持っていたって、女の子としてはきちんと態度で、言葉で示してもらいたいわよね」
恭子が祐麒の背後から肩をつかみ、ぐいっと江利子の前に押し出す。江利子は先ほど麻友に何を言われたのか、まだほんのりと頬を赤らめたまま、祐麒のことを見ている。
「そ、そんなこといわれても、こんな、みんなの前でなんて」
「みんなの前だからこそ、きちんと言ってはっきりすべきなんでしょうが」
仲間たちに取り囲まれ、祐麒が言わないことには解放してくれそうもない。でも、どうするべきなのか。適当なことを言ってお茶を濁す、という雰囲気ではない。
「仕方ないわねえ、じゃあ、あたしが手助けしてあげる」
騒ぎの中心人物のはずなのに、やれやれ、とでも言った風にして、麻友が近付いてきた。
そして、祐麒に向けて、マイクでも持っているかのように握った手をさし向ける。
「はい、それではお答え願います。あなた、福沢祐麒ことユキちゃんがこの世で一番愛している女性は誰ですか?」
それを言うなら、ユキちゃんこと福沢祐麒ではなかろうか、などという突っ込みを内心でいれながら、祐麒は追い込まれる。
流れ的に、言わざるをえない状況なのだが、こんな状況で言ったところで江利子がどう思うのか。
だが逆に、こんな状況だからこそ、口にした名前は真剣味を帯びる。冗談ではすまされない雰囲気にある。
目の前にいる江利子を見る。
祐麒と目を合わせないようにうつむき、行儀よくスカートの前で組んだ手を小刻みにもじもじと動かしている。
ちらりと上目で見ると、ちょうど祐麒と目が合い、またすぐにうつむく。
今までに見たことがないような江利子の仕種、表情が、心を撃ち抜く。
「え、江利ちゃん……」
思わず、そう、口にしていた。
「え……」
みるみるうちに、江利子の顔が朱にそまっていく。
「江利ちゃん、可愛い……」
自然と、そんなこと言ってしまうくらいに、今の江利子は可愛らしい。真っ赤になって、視線をどこに向けたらよいのか分からずに落ち着かない様子で瞳を動かし、硬直した体で立ち尽くす姿。年上のはずの江利子が、年下の女の子のように映り、抱きしめたい衝動に駆られる。
「――はい、みんな聞きましたね!? 今の言葉を」
途端に、麻友が宣言する。
「え、あ、い、今のはっ」
慌てて、周囲を見渡したその時。
「ほらあなた達、何を騒いでいるの。準備しないと開店に間に合わないわよ」
タイミングがよいのか悪いのか、店長が入ってきた。
いっせいに、皆が開店に向けてあわただしく動き出した。着替えが終わっている人はフロアに向かい、関係ない江利子は部屋から出て、まだ着替え終えていない者だけが更衣室内にいる。
結局、祐麒と江利子の仲は、あいかわらずのままなのか。麻友とのことは決着がついたのか。その辺は曖昧なまま。
ただ分かるのは、少なくとも祐麒は、麻友ではなく江利子を選んだこと。先ほどの宣言とは別に、心の中で、江利子を泣かせたくないと、このまま失いたくないと思ったのは確かなことで、それは祐麒にとっては大きな気づきであった。
麻友とは気が合う。趣味とか、行動とか、それらのものが。江利子とは逆に、そこまで合うという部分は少ないと思う。それでも、江利子の方に重きを置く自分がいた。
「……ところで麻友さん。さっき、江利ちゃんに何を言ったんですか?」
麻友が何かをささやき、江利子の怒気が一気に消え去ったときのこと。気になった祐麒は、麻友に尋ねてみたけれど。
「知りたかったら、江利ちゃんに直接、聞いてみなさい」
と笑って誤魔化されてしまった。
こうして、少なくとも表面的には、『ユキちゃんは江利ちゃんをラブ』という結論で、祐麒の二股騒動は終わったのであった。
一日の仕事が終わっての帰り道、祐麒は江利子と並んで帰るところであった。朝から仕事に入って、今日は夕方であがりである。江利子は厨房の方を手伝っていた。仕事仲間の生ぬるい目を背に受けて、店を後にしてきたが、まだ微妙に空気が重たいように感じられるのは江利子の表情のせいか。
「言っておくけれど、麻友さんの滅茶苦茶な言い訳に納得したわけじゃないからね」
「あ、はい」
祐麒とて、麻友の適当な台詞や、あの状況での祐麒の言葉で江利子が全て納得するなんて思っていない。果たして、江利子に対してどう接するべきなのか思い悩んでいると、なぜか江利子は不意に笑った。
「まあ、祐麒くんが私に夢中だっていうのが分かったし、許してあげるわ」
「え、なんですか、それ」
「だって、肌身離さず、持っていてくれたんでしょう? 私の写真」
二コリ、と笑いかけられて、思わず赤面する。
そう、なんだかんだいって、いつでも見ることができるようにしていたのは祐麒本人なのである。
美少女で、年上で、スタイルがよくて、色っぽいけれど可愛くて、祐麒の好みを全て満たしているのだから。まあ、性格は置いておくとして。
「あと、私に可愛い姿を見せたい、っていう乙女心だったっけ?」
「あ、あれは、麻友さんが勝手に言っただけですから」
「そう? 本当は好きなんじゃないの、女装。すっかりやみつきになっちゃってたりして」
意地悪な瞳で祐麒の姿を見つめてくる。店を出る際には女の格好で出ないと、どこで誰が見ているか分からないと、やっぱり麻友にきつく言われて仕方なく着ているのだ。早いところ、着替えポイントに辿り着きたい。
「駄目よ、今日は私とディナーするんだから。美味しいお店があるのよ、ちょうど今日がレディースデーでね」
断りたかったが、江利子の微笑みが圧力をかけてくる。
「ふふ、浮気した罰よ。今度また浮気なんかしたら、こんなものじゃ許さないわよ?」
「だから、浮気とかそういうんじゃ」
言おうとしても、先を封じられる。
今回のことは確かに祐麒に非があると思っているから、あまり強く反論することもできない。祐麒が状況に流されず、きちんとした態度をとることができていれば、回避できていたはずなのだ。
「浮気は男の甲斐性、なんて言うけれど、私は許さないわよ? 他の人と付き合いたいなら、きちんとそう言ってちょうだい。無理に、縛り付けるつもりはないから」
呟くような江利子の声に、ふと横を見れば、沈みかけた太陽の光をあびてオレンジ色に艶めく江利子の姿。その横顔が、表情が、ものすごく寂しそうで、孤独そうで、そんな江利子を見せられると祐麒はやっぱり突き放せなくなる。
恋なのか、愛なのか分からないけれど、ほうっておくことができない。何を考えているのか分からないけれど、江利子は心の奥底のどこかに、誰にも見せない孤独を抱えているように感じるのだ。
垣間見える江利子の中の深淵が、祐麒を絡め取っている。
「……別に、そういうつもりはないです。今のところ」
恋人だけれど、恋人じゃない。
中途半端な今の関係を、それほど嫌がっていない自分がいるのも事実。そして、江利子は間違いなく魅力的な少女だった。
「……そうよね、なんたって祐麒くんは、私にぞっこんだものね」
「だから、それは~~~あうぅ」
ブツを見られてしまっているので、言い訳することもままならない。まあいいや、そういうことにしておこうと、内心で苦笑する。
「でも、俺もちょっと意外というか、嬉しかったかも」
「ん、何が?」
「江利子さんが、やきもちをやいたこと。江利子さんって、意外とやきもちやきだったんですね」
言うと、江利子の頬にさっと赤みがはしる。
「べ、別に私、やきもちなんてやいてないもん!」
「じゃあなんで、あんなに怒っていたんですか」
「それはほら、祐麒くんとはつきあっていることになっているんだから、やきもちやいているふりをしていただけだもん」
音にすれば「ぷんぷん」とでもいうような江利子の怒り具合がなんとも可愛らしい。果たして祐麒のことをどう思っているのか、本心は分からないけれど、独占欲は結構強いということが分かった。まあ、祐麒の自惚れかも知れないけれど。
「やきもちやいている江利子さん、可愛かったですけどね」
「だから、そんなんじゃないもん。もう、知らないっ」
顔を赤くして拗ねる江利子が新鮮だったが、これ以上口にするのはやめた。江利子に対して優位に立てるなんて滅多にないが、調子に乗ると、どんな仕返しをさせるかわかったものではないから。
「それより、ちょっと気になっていたんですけれど、朝、麻友さんに何を言われたんですか?」
そこで、話を変える。
怒りのオーラを放ちかけた江利子を、瞬時に鎮めさせた魔法の言葉か。それが祐麒はずっと気になっていた。
すると江利子は、ほんのりと顔を赤くした。
「いいのよ、祐麒くんはそんなこと知らなくて」
「えー、気になるじゃないですか」
「うるさいわね、あまりしつこいと、スカートめくるわよ」
「うわ、セクハラだ」
麻友のことだから、ろくでもないことを口にしたのではないかと思うのだが、江利子はどうしても教えてくれそうもなかった。
仕方なく祐麒は、肩をすくめて諦める。
どうやら諦めてくれたらしい祐麒を見て、江利子は内心でほっと息をつく。とてもじゃないけれど、麻友に言われたことを、自らの口で言麒に告げるなんてこと、できるわけがない。
麻友は江利子にこう囁いたのだ。
『……あたしと祐麒くんはホントに何もしていないから、安心してちゃーんと江利ちゃんが筆下ろしをしてあげて、ね。あと、江利ちゃんのおっぱいで挟んでもらいたいって、言っていたよ?』
ろくでもない。
だけど思わず赤面し、言い返せなくなってしまった。色々と祐麒に対してえらそうなことを言っているけれど、江利子だって性に関しては何も経験したことないし、さほど知識を持っているわけでもないのだ。
と、そこで鞄の中から電子音が響いた。
「あれ、江利子さん、携帯電話買ったんですか?」
「ええ、家と連絡をするために持たされたというか。しょっちゅう、兄や父からメールがきてちょっと鬱陶しいけれど。あ、あとでアドレス交換しましょう」
言いながら携帯を取り出すと、メールを着信していた。麻友からのもので、何だろう、と開いてみると。
"色々とごめん! お詫びの品を鞄に入れておいたので、よかったら使ってください"
「? 何かしら」
首を傾げながらバッグの中を探ると、見たことのない箱が入っていて、取り出してみる。そして。
「なっ……!!」
一気に顔が熱くなる。
覗き込んできた祐麒から隠そうと思ったけれど、タイミング悪く見られてしまった。
綺麗な配色のされた可愛らしいその箱は、避妊具だった。祐麒も理解したのだろう、赤くなっている。
「あ、あの人たちったら!」
慌ててバッグの中に戻す。そんなものを街中で手にして歩いていたら、何て思われるかわかったものじゃない。本当に、ロクでもない人たちだと憤慨する。
しかし、攻勢はそれでおさまらない。
連続するメール攻撃。
"なめらかゼリーでオススメ! 仲直りした今夜はいつもより燃えるはず、頑張って!"
"普通のより潤滑油4倍ですべりがよいから、よいと思うよ"
"江利ちゃんなら胸だけでもイケると思うよ"
"ユキちゃん女の子の恰好のままとかどう? なんかチョー萌えると思う!"
どうやら祐麒の方にもメールが送られてきているようで、目を白黒させてメールを見ている。何を書かれているのか気になるような、聞きたくないような、もどかしい気持ちになる。大体、皆、まだ仕事中だというのに何をやっているのだろうか。
「ああもう、あの人達ったら!」
耐えかねて電源を切る。
これでは、応援なのだか嫌がらせなのだか、分からないではないか。
「もうメールは無視しなさい、祐麒くん行きましょう……って」
祐麒の方を見てみると、何やら見知らぬ女の子と話をしていた。どうかしたのか、と歩み寄っていくと、二人の会話が耳に届いてきた。
いきなり目の前に現れた女の子に祐麒は目を丸くしていた。確か、寧々とかいいう女の子だった。
「ユキちゃん、考えてくれました?」
「いや、あの、ちょっと」
「私の気持ちは本気です、ユキちゃんのこと、本当に心から慕っています」
瞳をキラキラと輝かせ迫ってくる寧々に、祐麒はどう対すればよいのか分からない。どうしてこう、次から次へと厄介なことが押し寄せてくるのか。
「それともやっぱり、そっちのヒトのことが好きなんですか!?」
「え、あ、その」
寧々が指さした方には当然、江利子がいるのだろうけれど。祐麒は嫌な予感を抱きながらも、わずかに首を捻って見てみた。
「あらユキちゃん、先ほどから舌の根も乾かないうちに、もうそんな可愛い女の子をひっかけちゃって……へぇ、そう」
やっぱり、というべきか。
にこにこ笑顔の江利子。もちろん、怒っているのだろう。
「あのね、こ、この娘は」
「言っておくけれど、負けないからねこの凸ちん!」
「何、この子。喧嘩うっているのかしら?」
「うわーーーーっ、江利ちゃん、こっち!」
「きゃあっ、ちょっと!」
江利子の手をとり、さっさとこの場を逃げ出す。寧々が何か叫んでいるけれど、無視して走る。
夕方から夜にかけての街は、あふれる人で混雑している。人々の間を縫うようにして走ってゆく。
「祐麒くんって本当に酷いわねっ! 一体、何人の女の子に粉かけているのかしら」
「だからー、誤解ですってばー!」
走りながらの押し問答。
街の人々が見ているような気がして、だから止まることもできずに走り続ける。後ろを見れば、まだ諦めずに寧々も追いかけてきているようだ。スカートだし、靴もローファーで走りにくいのも、振り切れない原因かもしれない。
「なんでこうなるかなーもー!」
なんか不条理な現実に納得できず、つい、大きな声で叫んでしまうと。
いつの間にか横に並んで走っていた江利子が、髪の毛をたなびかせ、形の良い額に風を受けて、追い越してゆく。そして逆に、祐麒の手を引っ張る。
追いかけるようにして江利子を見ると、その横顔は楽しそうで。
「あははっ、祐麒くんといると、退屈しないですみそうねっ」
「え、なんですか?」
走りながらのせいか、街の雑音に紛れてのためか、聞き取りにくい。
祐麒の問い返した声が聞こえたのか、江利子が顔を向ける。
「なんでもない、ほら、置いてっちゃうぞ?」
笑い声が見えそうなほど大きく口を開けて、片目を瞑る。
その、また新たに発見した江利子の姿を、表情を、胸の中にしまいこんで。
祐麒は江利子と二人、手をつないだまま、夕暮れに光る街の中を駆け抜けてゆくのであった。
おしまい