「うふふ、今日は待ちに待ったデートの日、楽しみましょうね」
待ち合わせ場所で会ったときから、江利子は上機嫌だった。祐麒とデートすることでそこまで上機嫌になっているのなら、それはそれで祐麒も男冥利に尽きるかもしれないが、実際にはそれだけではないはず。
「ほら、ここよ、ここ。話していたお店」
江利子が楽しそうに指さす先には、お洒落な外装のカフェがある。
それは良いのだが。
「え、江利ちゃん……本当に、ここに来たかったの?」
「当たり前じゃない、楽しみにしていたんだから、入りましょう」
祐麒の腕を取り、引っ張るようにしてカフェの扉を開く江利子。
そのカフェの看板には、こう書かれていた。
『Ladies cafe ~Leaf Port~ 』
店内に足を踏み入れると、お昼時ということもあり、8割方は席が埋まっている感じに見えた。そして、どこを見渡してみても、客は女性しかいない。それはそうだ、何しろ『女性限定』のカフェなのだから。
男の祐麒がそんな店にいるということは、当然、『女装』をしているわけである。アルバイト先でやむにやまれず『ウェイトレス』として働くとき以外に女装しなければならないとは、祐麒は内心で泣きそうだった。
一方の江利子は、相変わらずにこにこと笑顔、こんな上機嫌な江利子、久しく見ていないくらいだ。
「やっぱりユキちゃん、可愛いわ。もう、全く問題ないから、大丈夫!」
「う、嬉しくないです……」
顔を俯けたままの祐麒。
「いらっしゃいませ、お二人様ですね。少々、お待ちください」
店員も、祐麒を見ても全く疑問に思わなかったらしく、笑顔で応対してくれている。
江利子のコーディネートにより、モスグリーンのホルターキャミの上からイエローのパフ袖Tシャツ、ボトムスにはレースをあしらったブラックのサテンスカート。チョーカーは、アクセントであると同時に、喉元を隠す大切なアクセサリー。ウィッグを装着してロングの髪型にした今、祐麒の姿は女の子にしか見えなかった。
祐麒自身、江利子を始めアルバイト先の女性陣に様々な化粧テクニック、髪型、コーディネートなどを教わり、慣れてきているというのもある。恐ろしいことである。
「ここのランチパスタが絶品らしいの。さらに、デザートがまた美味しいみたい」
江利子もやはり女の子、美味しい食事やスイーツには目がないのか、嬉しそうに瞳をキラキラと輝かせながら語ってくる。そんな江利子の姿を見ていると、少しくらい無理しても良いかな、などと思わなくもないが、だからといって女装は勘弁してほしい。
どうにか断ろうとしたのだが、「私のお願い聞いてくれるって約束したのは、嘘だったの?」と、瞳に涙を湛え(多分、嘘泣きだと思ったのだが)、上目づかいで懇願してくる江利子に、祐麒は逆らえるはずもなかったのだ。
「そ、そ、それにしても、わざわざこの服を選ばなくても、良かったんじゃないですか?」
ランチを終え、街を歩きながら隣を歩く江利子に文句を言う。
「え、どうして? 可愛いじゃない」
江利子は不思議そうに首を傾げる。
「だって、女装するだけなら、ここまでする必要ないじゃないですかっ」
そう言って、祐麒はもじもじと恥しそうにスカートの裾を抑える。何が恥しいかって、ミニスカートで生足、生太ももむき出しであること。スカートで股がすーすーするのは、バイトの制服も同じだったが、バイト先はロングスカートだった。
しかし今穿いているのは、ミニスカートだ。油断していると、スカートの中が見えてしまうのではないかと、気が気でない。
「せっかくするなら、可愛い方がいいじゃない。ほら、せっかくなんだから、女の子同士らしいデートしましょうよ。なんか懐かしいわね、何年か前にも、こうして女の子としてデートしたわね」
祐麒の苦言など聞き流し、手をつないで祐麒を引っ張っていく。祐麒は、ひらひらするスカートを抑えながら、必死についていく。
「少しくらい見えたっていいじゃない、今日はトランクスじゃないんだから」
「良くないですって」
真っ赤になる。まあ、ボクサーパンツは女性用でもあるが、女性にはないものもついているから見られたら困るのに。
完全に、もてあそばれてしまっている。
「ほらほら、早く」
恥しさをこらえて、江利子についていく。
女の子同士らしいデートといっても、普段とそう大きく変わるわけではなかった。ショッピングで、いつもより女の子が好みそうな可愛らしい店に行ったり、小物を見に行ったり、あとはいつもより江利子との接触が多いくらいか。
可愛らしい服を試着させられたり、ランジェリーまで試着させられそうになったり、男にナンパされそうになったり、祐麒としては気疲ればかりするデートとなった。夕方になる頃には、ぐったりしていた。
「夜ごはんはどうする? どこかで食べる?」
「今日は、帰って食べます……」
疲労しているので、家でゆっくりとしたかった。
「それじゃあ、お買い物して帰りましょう」
ふわりと微笑む江利子。
そんな風にまったりと帰宅しようとする。
「――あれ、江利子先輩?」
その空気が破られたのは、そんな声によってだった。
「え?」
声は、正面から聞こえてきていた。
前を向くと、そこに立っていたのは。
「あ……つ、蔦子、ちゃん」
今、祐麒たちがいるのは人出も多いターミナル駅の近くで、大学生なんかも確かに多くいるわけだが、こんな所でこんな時に出会わなくてもいいではないか。
祐麒は咄嗟に俯き、顔を隠す。
蔦子を始めとする大学の知り合いには、女装によるバイトのことなど当然だが話していないし。知られたいようなことでもない。
「偶然ね、こんな場所で会うなんて」
「そうですね、今日はお買い物か何か……」
蔦子の言葉が止まる。
江利子に向けられていた視線が自分に向けられるのを、祐麒は感じた。咄嗟に江利子が立ち位置を変え、祐麒を隠すような感じにしてくれたけれど遅く、見られてしまった。気になって少し顔を上げた瞬間、目があってしまった。
祐麒は祈る。祐麒の女装は本人も驚くくらいで、ウィッグもしているし化粧もしている今、元々が祐麒だと感づく人は知り合いだとしてもそうはいないだろうと思っている。
だけど。
「え…………祐麒、くん……? なんで、その格好……」
カメラで多くの被写体を収めてきた蔦子の目を誤魔化すことは、できなかった。
蔦子に祐麒の女装姿を見られた翌日、それは七月を目前に控えた六月末のことであり、外では生温い雨が朝から降り続いていた。
江利子は通っている大学から少し離れた喫茶店で、紅茶を飲んでいた。
大学から離れており、また、ファミレスのように安く、それでいて長く居られるような場所でもないので、学生もほとんどやってこない店だ。
落ち着いたBGMと雨の音が重なり合い、静謐な雰囲気を作り出している。
なるべく他の学生の目を避けたいということで、この店を選んだ。祐麒とは二、三回ほど、ともに訪れたことはあるが、さすがに男一人でこの喫茶店に来るとも思えなかった。
そう、今日は祐麒と約束があるわけではない。
本日の江利子の待ち人は。
「いらっしゃいませ」
店の入り口が開き、店員の声が出迎える。
江利子はちらりと見やり、待ち人の姿だと認めると軽く手をあげて存在を示した。相手もすぐに江利子に気がつき、向かってくる。
綺麗に整えられたセミロングの髪の毛、縁なし眼鏡の奥に理性的な瞳。
「すみません、こちらがお呼びしたのに、待たせてしまいましたか」
「気にしないで、蔦子ちゃん。私が勝手に早くきただけだから」
蔦子は頭を下げると、江利子の向かいの席に腰を下ろし、ウェイトレスにアイスコーヒーを注文した。
こうして正面から改めて見つめてみて、江利子の目からも蔦子は随分と綺麗になったと思えた。
高等部時代はさほど触れ合う機会があるわけではなかったから、そこまで鮮明に覚えてはいなかったが、それでもなかなかに綺麗だったという記憶はある。
志摩子や由乃みたいに、見た瞬間に人目をひくようなタイプではないし、どちらかというと写真を撮っている姿ばかりが印象に強いから、蔦子自身の容姿はさほど目立っていなかったかもしれないが。
それが大学に入り、適度な化粧とセンスのいい私服で、一気に磨きがかかった。眼鏡もまた、知的さを漂わせてプラスに働いている。
注文したアイスコーヒーが運ばれてきて、ミルクとガムシロップをいれてかきまぜる。ストローで吸い込む口元が、微妙に艶めいている。意識してのことではないだろう、これは蔦子が持つ天性のものだ。男を惑わす、魔性の力。
「今日、お呼びしたのは江利子先輩にお話しておきたいことがあったからです」
真正面から、真っ直ぐな瞳で見据えてくる。
そしてもちろん、気がついている。大学に入り、祐麒とのことを間にはさんでからは『江利子さま』ではなく、『江利子先輩』になっていることを。
話したいことの内容は、祐麒のことについてであろう。
蔦子はいつもと変わらぬ表情で、それでも心なしか少し緊張した面持ちで正面から江利子のことを見据えてきている。
髪の毛を軽く手でかきあげ、蔦子は言う。
「昨日の祐麒くんの格好……あれは、なんですか?」
「見て分かっているでしょう、女装よ」
「あれは、江利子先輩が女装させた……んですよね」
「そうよ」
バックグラウンドでジャズの流れる店内、落ち着いた雰囲気の中で、今にも爆発しそうな緊張感が高まりつつあるように感じる。
「なんなんですか、一体。付き合っている相手が嫌がるようなことを無理にやらせるのが、江利子先輩の付き合い方なんですか?」
「そこまで強要したわけじゃないわ」
「祐麒くんは、女装は好きじゃないって言っていました。今日、大学で聞きました」
「…………」
こうなると、江利子には分が悪い。
実際、祐麒は嫌がっていたのを、江利子が泣き落としのような形でやらせたのだし。
「江利子先輩は楽しいかもしれませんけれど、女装させられる方はどうなんでしょうか」
「それは」
「自分の部屋でさせるくらいならまだしも、外出までさせるなんて、明らかに変じゃないですか。もしもバレたら祐麒くんがどう感じるか、考えたことないんですか」
容赦ない追及。正論だけに、江利子としても抗えない。
テーブルの下で拳を握りしめる。
「そりゃあ、祐麒くんは優しいから、江利子先輩からお願いされたら断れなかったのかもしれません。でも、それに甘えて……酷いと思います。祐麒くんが女装が好きで、自分から好んで着て、外に出たいというのであれば、私だって……嫌ですけれど、ここまで言いません。でも、祐麒くんはしたくてやったことではないと言っていました」
「…………それで、私をどうにかするの?」
視線だけは、そらさない。
逃げることを、江利子の矜持が許さない。なぜなら、全ては自分自身が蒔いてきたことだから。
「別に、どうもしませんし、そんな権利が私にあるわけでもないですから」
髪の毛を軽く手でかきあげ、蔦子は言う。
「私、今度、祐麒くんをデートに誘おうと思います」
「そう」
「……それだけですか?」
「だって、ずっと前から約束していたのでしょう、仕方ないじゃない。祐麒くんは約束を破るような人じゃないし。それとも何、この泥棒猫! とでも言ってほしかった?」
肩をすくめながら、これは宣戦布告だろうかと、江利子は考える。
正直なところをいえば、祐麒が江利子以外の女の子とデートするなんて聞いて、良い気分であるはずが無い。だが、先ほど述べたこともまた事実で、約束してしまったのならば仕方ない。しかもその約束は、大学で江利子が祐麒と再会する前に交わされたというのだから。
約束を簡単に破棄できるような祐麒ではない。随分と前のことだし、今は江利子という存在がいるわけで、そんな状態で他の女の子とデートするわけにはいかないと突っぱねてくれたら嬉しいが、難しいだろう。
「余裕、ですか?」
「まさか。蔦子ちゃんみたいに綺麗でスタイルのいい子に色っぽく迫られたら、祐麒くんだって男の子だもの、ふらふらといっちゃうんじゃないかって、不安よ」
「そうですね、そうなるかもしれませんよ?」
思わぬ強気で大胆な発言に、さすがに少し驚く。
こんな女の子だっただろうか。
「私はデートで、女装なんかさせたりしません」
「それは、そうでしょうね」
「祐麒くんはごく普通の、素敵な男の子だと思います」
「そうね」
静かな喫茶店内で、静かだけれどもどこか重たい空気が、二人の間をゆっくりと流れてゆく。
「デートで泊まりになっても、驚かないでくださいね」
「それはないわね」
「どうして言い切れるんですか」
「分かるわよ。祐麒くんのことだもの」
まあ、流されてしまいそうなところはあるし、現に昔、麻友と直前のところまでいったことがあるのだが、あえて口にする必要はない。
ただ、少なくとも今の祐麒が江利子を裏切って他の女の子を抱くとは思えない。これは江利子の女としての揺るぎない『勘』によるものである。
「……祐麒くんは、素敵な男の子だと思います」
「そうね」
同じことを蔦子が再び言い、江利子もまた同じ答えを返す。
静かな喫茶店内で、静かだけれどもどこか重たい空気が、二人の間をゆっくりと流れてゆく。
「……どうして、わざわざ私に伝えてくれたのかしら。私に黙ってデートした方が、都合がよいのではなくて?」
「祐麒くんが、困らないようにです」
祐麒の性格だから、蔦子と約束していて遊びに行くことを、江利子にはなかなか言えないかもしれない。どこへ、誰と、何しに行くのか聞かれたときに動揺してしまうかもしれない。だからあえて自ら江利子に伝え、祐麒の精神的負担を減らそうということか。
更に言うならば、このように教えてもらっては妨害もしづらい。知らなかったのならば、同じ日に誘いをかけることも出来たが、今となってあえて同日に誘おうとは思えなかった。前から約束していたことだから、祐麒は約束を反故にはできないであろう。誘うだけ祐麒を困らせ、あまり良くない結果になるのが目に見えている。
すましているが、蔦子も考えたものだ。祐麒と江利子、二人の性格を考慮しての正面からの特攻というわけか。
「じゃあ、今回のデートが終わったらもう誘わないでね。人の恋人を」
「それはこちらの自由ですし、誘って受けるか受けないかは、祐麒くん次第ですよね……本当に好きな人が、恋人がいるなら、いくら以前に約束をしていたからって別の女の子と二人で遊びに行くなんてこと、しないと思いますし」
しれっと、そんなことを言い放つ。
揺さぶりをかけてきている。良い度胸だ。
二人の間に沈黙が横たわる。
しばらくして、蔦子の方が立ち上がった。
「そろそろ失礼します。これ、私の分です」
財布からお金を出して、テーブルの上に置く。きっちりと、自分が注文した分の金額である。
「失礼します」
丁寧に頭を下げて、蔦子は店を後にした。
店の扉を開いて蔦子が外に出て、姿が完全に見えなくなってからさらに一分ほどしたところで、江利子は大きく息を吐き出した。
短いが、緊張感の漲る時間だった。まさか蔦子が、ここまで正面切って挑んでくるとは江利子も想像していなかった。
自分が行ってきたことは分かっているが、改めて第三者から突っ込まれると堪える。蔦子の言うことはいちいちもっともで、江利子にしてみたら自業自得なので言い返せない。
そして蔦子に口に出されて、改めて考えてしまう。
祐麒はやはり、嫌がることを強要してくる江利子のことを嫌いになっているのだろうか。祐麒の優しさに甘えているだけの自分は、見放されるのだろうか。そうだとしても、江利子は文句も言えない。全て、事実だから。
「…………」
蔦子が正面からぶつかってくるのは構わない。
だけど、そうではない部分で祐麒との間を裂いてしまうのは苦しい。しかもそれは、自ら引き起こしたことなのだ。
もちろん、負けるつもりなど毛頭ない。
だけど、不安な気持ちが首を擡げてくる。
蔦子の言葉に動揺している自分がいる。
どれだけ揺さぶられようと、攻めてこようと、心を強く持って相対すれば大丈夫だと言い聞かせようとして、ようやく気が付く。
ああ、そうか。
これは、いくら江利子自身がしっかりしていようが、祐麒の気持ち次第でどうなるか分からないからだ。
何もできないわけではないが、頑張れば必ず報われるというものではない。最終的には祐麒に委ねられてしまうのだ。
今まで、散々に振り回してきた。祐麒の優しさに甘えているだけの自分は、もしかしたら嫌がられているのかもしれない。見放されるのかもしれない。例えそうなったとしても、江利子は結果を変えられない。
「……ああもう、なんでこんな弱気になっているのかしら」
あえて口に出して気持ちを奮い立たせようとしたが、うまくいかない。
窓の外にふと目を向けてみれば。
重く、冷たい雨が降り続き、世界を覆い隠していた。