「……ふぅ、今日も一日、お疲れ様でした」
最後の客を送りだした後、麻友が皆に告げた。閉店後の片づけを手早くこなし、更衣室で着替えてあとは帰るだけ、というところなのだが。
「で、なんで今日は江利ちゃんが休みで、代わりにユキちゃんがシフトに入ったの?」
そうは問屋がおろさなかった。
本日シフトに入っていた麻友、理於奈、香奈枝、佐奈枝の四人が包囲網を作って祐麒の帰宅を阻んでいた。
「昨日は江利ちゃんの誕生日を二人で祝ったはずよね。そこで何かあったの?」
ツインテールを揺らして理於奈が尋ねてくる。
「いえ、別に。ですから説明しているように、単に体調を崩しただけで」
「もしかして、一晩中ハッスルしすぎて腰を痛めたとかぁ?」
「……っ」
麻友の冗談半分のこの言葉に、不覚にも祐麒は赤面して言葉に詰まってしまった。ポーカーフェイスでやり過ごせないのが、祐麒の弱点でもある。
当然のように、目つき、顔つきの変わる他の四人。
「え……何、ほ、本当なの?」
「うわーっ、ど、どんな百合プレイしたの?」
「腰傷めるって、相当激しくしたってこと? きゃーーーっ!!」
赤面して引きつつも興味を隠せない理於奈、一方で祐麒のことを女の子と思っている二子は違う想像をして喜んでいる。
「ふーん、ま、それならあたしや理於奈が協力した甲斐があったってもんかしら?」
腰に手をあててにんまりと笑い、一人頷く麻友。
麻友や理於奈には、江利子を喜ばせるために何をすればよいか相談し、アドバイスをもらったのだ。
昨日の誕生日の演出は、二人からのアドバイスをもとに実施したものだ。メイクや髪型、服装も江利子が好みそうなものをセレクトしてもらった。江利子に喜んでもらった今、二人に結果を報告しないわけにはいかない。赤裸々な報告は江利子にも申し訳ないから、曖昧にぼかそうと思っていたのだが、麻友からの質問とそれに対する祐麒の態度で分かってしまったかもしれないが。
「これは、更なる詳細を聞くまでは私達も帰れないね、香奈枝」
「それはもちろん、本を作れるくらいは話して貰わないとね、佐奈枝」
「そーねっ、今日はこれから臨時女子会に突入して、ユキちゃんからぶちまけてもらいましょう」
「え、ちょ、理於奈さん!?」
慌てる祐麒の背後で、麻友が素早く端末を操作していた。
「……よし、送信完了。他のメンバーにも声かけたから」
「えええっ、ちょ、麻友さんっ!?」
「諦めなさい、幸せは皆に分け与えるものよ?」
肩を叩かれると祐麒はがっくりと項垂れ、逃げられないと悟り江利子にメールを送る。せめてこれがまた、余計な争いの火種にならないようにするしかない。
そして。
ごく当たり前のように女子会に参加することになるのを、祐麒は内心で涙するのであった。
一方、その日の江利子は。
祐麒にバイトを代わってもらい、祐麒の部屋のベッドでゴロゴロしていた。
「ううぅ……裂けるかと思った……初めてでも痛くない人もいるって聞いたけど……」
額を枕に押し付け、今でもまだ痛む股間に表情を歪める。
祐麒のが特別太いとか長いとかは分からないが、それこそ悶絶するような痛みだった。どうにか耐えられたが、相手が祐麒でなかったら途中で無理だと逃げ出していたかもしれない。
水が飲みたくなり、体を起こす。着ているのは祐麒のワイシャツ、いわゆる『裸ワイシャツ』というやつだ。だが、今の姿をとてもではないが祐麒には見せられない。なぜって、痛みのせいで歩くとがに股になってしまうから。加えてへっぴり腰だ。
どうにか冷蔵庫まで辿り着いてミネラルウォーターを取り出し、喉を潤して一息つく、今日は、祐麒がバイトで出かけるまでトイレも我慢してベッドから動かなかったくらいだ。午後になればマシになるかと思ったが、なかなかそうもいかない。今もまだ、股間に何か異物が挟まっているような感覚を覚えている。
再びベッドに戻って横たわる。祐麒の枕に鼻を寄せ、匂いを嗅ぎ、うっとりする。
経験したことのない程の痛みだったが、それでも我慢できたのは幸せだったから。
昨日、この部屋に訪れるまではあんなにもどんよりしていた気持ちが、今はこんなに浮かれているなんて、自分自身のことながら簡単なものである。
ああ、どうしよう。
誰彼となく話したい気持ちが湧き上がってくる。
結局この日、江利子は夕方ころに祐麒の部屋を辞した。
それは、いまだ治らぬ情けない姿を見せたくなかったこと、更には、もし今夜求められてもとてもじゃないか応じることが出来なさそうからであった。
もっとも、祐麒はバイト先の『女子会』に強制的に拉致られ、午前様で戻ってきた時はべろんべろんになっていたので、いらぬ心配ではあったのだが。
ちなみに余談ではあるが、江利子は数日後に聖を呼び出して詰問していた。
「……あ、あの~~、江利子さん?」
目の前に座っている聖が、落ち着かない様子で体を小刻みに動かしている。
江利子は正面の席から頬杖をついて見据えている。
「人の彼氏を部屋にあげて一晩二人きりで過ごしたとかねぇ。まさか親友に彼氏を寝取られることになろうとは」
「あ、いや、一晩てわけじゃないよ? 遅かったけれどちゃんと祐麒は帰したし……」
「ほほう? でも、二人きりとか、寝取りは否定しないんだ?」
「ちょ、江利子!?」
「分かっているわよ、男が、祐麒くんが悪いってことだって。でも、聖だって」
ため息をついてみせる。
「だ、だから悪かったって反省しているって」
「しかも、ちょっと前には私、祐麒くんのことで相談したばかりだったわよねぇ~?」
「うぐぐ」
旗色悪く、呻く聖。
もちろん江利子だって分かっている。サプライズのために江利子に言うわけにはいかなかったのだろうが、それにしたって親友の部屋に一人で訪れるとか、親友の彼氏を平気で部屋にあげて二人きりでいるなんて、お互いにあまりに無神経すぎるではないか。
祐麒と晴れて結ばれて、二人でイチャコラして、ついつい忘れがちになっていた件のことを思い出し、こうして聖を呼び出したわけだ。
「もー、勘弁して。今度この借りは返すからさ」
「……ま、いいわ。相当高いけれどね」
あんまり苛めるのも可哀想なので、この辺で勘弁してあげる。聖に世話になったことも確かだし、聖だって悪気があったわけでなく祐麒と江利子の仲を取り持とうとしてくれたわけだし、更には貸しを作ることも出来たし、まあ良いだろうと。
聖は、思いのほか江利子がしつこくなかったことに胸を撫で下ろした。『すっぽんの江利子』ならば、もっとしつこく言ってくると思っていたのだが。
まあ、即ちそれは、江利子がそれくらい精神的にも肉体的にも満たされているからなのであった。
☆
九月半ばになり、大学が再開した。
江利子と本当の意味で恋人同士になったとはいえ、周囲に対しては四月から恋人同士だと思われていたわけで、特に何が変わるわけではない、なんて考えていた。
ところが、どうもそうもいかないようで。
「おいユキチ、お前鳥居先輩と何かあったのか?」
「え? 別に……なんで」
「いや、なんつーか」
真っ黒に日焼けした笹山が、腕組みをして首を捻っている。夏休みの間には一年生仲間とも何度か遊んだりしたが、江利子が一緒のことはなかった。ちなみに蔦子とも、とりあえず普通に接することが出来ている……と思う。蔦子の方も、他の友人達のことを考えてか、あまり変わった様子を見せない。それが祐麒には逆に辛いが、振った祐麒にはどうしようもなかった。
「福沢くん」
「え? ああ、ども、紺野先輩」
相変わらず地味な眼鏡に地味な髪型の文学少女といった雰囲気の美玲。読書の秋がよく似合いそうだ。
「江利ちゃんとは、どうやらうまくいっているようね」
「は、はあ、まあ。何か聞いたんですか?」
美鈴とは、夏休みの間も連絡を取っていたようだし、何度か遊びに行っていることも知っている。
「ふふ、江利ちゃんたら恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに話してくるんだもの。話したくて仕方ないのね」
「は、はぁ……」
思わず赤くなる。 まさか江利子がそんな風に自分とのことを話しているとは思わなかったし、そんなことを美玲が祐麒に話してくるなんても思っていなかった。
「ベッドの上でも優しいみたいね、福沢くんは」
「ちょ、や、やめてくださいよ紺野先輩っ」
「あらそう? せっかく江利ちゃんの性癖、教えてあげようと思ったのに」
「…………そ、そういうのは、自分で知るからいいです」
なんだろうか。しばらく前までは地味で目立たない先輩だとしか思わなかったのに、急に変な存在感を醸し出してきている気がするのは。単に友人である江利子のことを思って言ってきてくれているのなら良いのだが。
「で、でも、紺野先輩にも色々とご心配をおかけしました。あと、紺野先輩が江利ちゃんのこと気付かせてくれたのも助かりました。本当、ありがとうございました」
「いいのよ、別に。福沢くんのためじゃない、江利ちゃんに幸せになってもらうためだもの……でもそうね、お礼くらい貰っても罰はあたらないかもしれないわね」
「お、お礼ですか? そりゃもちろん、ええと、何がいいですかね」
「お金も物もいらないわ、別に。そうね……いずれそういう時がきたら、カラダで支払ってもらうから」
「――――え」
「そういえば江利ちゃんは、明後日からだっけ?」
「あ、ああ、はい、そうです」
何かを言い返そうとする前に、話を別の方向に持って行かれた。
実は江利子は今、家族と一緒に遅まきながら旅行に出かけていた。なぜこんな時期にというと、夏休みの間、祐麒とばかり一緒に過ごしていたからだ。そんなこんなで放置プレイ状態になった江利子の父親と三人の兄が泣きつき、仕方ないと肩をすくめため息をつきつつ、江利子は家族サービスを行っているというわけである。
「明日、帰ってくるの?」
「はい、なんか凄い久しぶりに会う気がします」
「お熱いことね。今後も江利ちゃんのこと、大切にしなさいよ」
「あ、はい、もちろん」
それだけ言うと、美玲は祐麒の脇を通り過ぎて行ってしまった。すれ違う瞬間、わずかに口の端をあげたように見えたのは気のせいだっただろうか。
「――お帰りなさいませ!」
カフェのアルバイトの方も、変わらずシフトに入っている。
いい加減にどうかとも思うのだが、どうも離してくれそうもない。
「だってユキちゃんが復帰してから、売上は右肩上がりだし、雑誌にも載ったし、離れようったって離れられないでしょ」
「う……ま、まぁ……」
目をそらすが、麻友が口にしていることは事実だ。
ブログのカウント数も順調に増えているし、コメントも増えている。そして、ユキ目当てに店に来てくれるお客さんも増えている。変なお客さんだと迷惑だが、幸いにも皆礼儀正しく、純粋にファンとして来てくれているようだ。接客中に軽く話すことはあるが、無理に呼びつけたり、変な注文をしてきたり、そういったことはない。
「ユキちゃんは、その可愛さを見守りたくなるのよ」
とは、バイト仲間の亜子の談である。
「とにかく、ユキちゃんは離せないから。むしろこのまま就職しない?」
お店のことを殆ど任せられるようになった麻友は、祐麒をがっちりとキープしようと躍起になっている。
「ところでさ……ユキちゃんが"男の娘"だとバラしたら、それはそれで新しいファンが増えるような気がするのよね」
「それはやめてください!」
女装よりも、女装していることがバレることの方が嫌だった。
お客に対してもそうだし、店の仲間に対しても。前から知っているメンバーは祐麒が男だと知っているが、新たなメンバーは完全に祐麒のことを女だと思っていて、それで江利子と付き合っているのだから反応も人それぞれだ。
「うちは、社内恋愛OKだから。但しその際は、秘密にしないでオープンにすること。そうじゃないと、変にぎくしゃくしちゃうしね。OKだけど、恋愛の色々なことは仕事に絶対に持ち込まないことがルールだからね」
これが、麻友の課した社内恋愛規定だが。
「社内恋愛OKって、メンバー全員、女の子なんですけど……」
最年少でマスコット的存在のあかりはまだ毒されていないので、若干引き気味だ。
「そうよ、私達までそちらの世界に巻き込まないでくれます?」
腕組みして鋭い目つきで睨みつけてきているのは、ツンデレ系の理於奈。
「えー、どうしてかしらね、香奈枝」
「うーん、分からないわ、佐奈枝」
つるぺた双子百合美少女が、いちゃいちゃべたべたと抱き合いながら首を傾げる。他のバイトメンバーを百合属性にしようと虎視眈々と狙っているのだ。
「でもでもぉ、ユキちゃんのこのところの張り切り具合と色気の増加は、確かに魅力的よねぇ。お客さんのファンもまた増えたし」
あやめが色っぽい目つきで祐麒のことを見つめて笑っている。
「そ、そうですか?」
「江利ちゃんと、なんかいいことあったんでしょう? 畜生、色ボケが!」
「も、もしかして新たなプレイに目覚めたとか!? わ、私達にも教えてくれませんか」
「あぁ、美少女の百合は妄想を膨らませるわ……」
なんというか、色々とこの店、駄目な気がする。
このようにして、江利子との関係が進んだ後は、公私ともに順調な(?)日々を送っていた。
☆
「待ってよ、祐麒くん」
「早くしないと遅れちゃうよ」
家族との旅行から帰ってきた江利子を迎えに行き、そのまま当然のように江利子は祐麒の部屋へとやってきて泊まっていったその翌朝。
久しぶりに二人で大学へ向かうというのに、慌ただしくて忙しなく、どたばたとしている江利子。
色々あって朝寝坊し、それでもシャワー浴びたり髪の毛を綺麗にしたりする必要があるので、時間がかかっているのだ。
「そんなこと言われてもー、っと、これでOKかな」
髪の毛をヘアゴムで束ね、鏡の前で最終チェックをしてから、江利子は急ぎ足で玄関へと向かう。
「ほら、江利ちゃん」
差し出された祐麒の手をごく自然と握る。
欲しかったもの、それは今、手の中にある。
江利子はそれを手放す気は無かった。この先、たとえどんな相手が前にやってこようとも負けるつもりはない。
「どうしたの江利ちゃん。俺の顔に何かついてる?」
「ううん、さ、行きましょ」
並んで歩き出す。
まだ残暑は続いているが、それでも秋の空気は確実に近づいてきている。
秋から冬に向けて、どのようなことが起きるだろうか。
江利子は就職活動があるし、ゼミだってあるし忙しくなるだろう。もしかしたら一緒にいる時間が減るかもしれないが、そんなこと感じさせないくらいにきっと江利子は祐麒を振り回してくれることだろう。
「おはよー」
「おっす、しかし暑いなー」
学生たちのざわめきの中に入り込む。
入学して半年経った今でも、江利子の隣に立っている祐麒に向けられる視線はなかなか減らない。
憎悪と嫉妬、そして羨望の入りまじった視線。
彼氏が出来たにも関わらず、まだファンクラブが存続しているというのも、江利子の人気の凄い所であろう。
「くそっ、鳥居さん、このところますます美しさに磨きがかかっているな……」
「悔しいが、やはり福沢のせいなのか」
それを言うならば、『福沢のお蔭』として欲しいところだが、怖いので口にはしない。
「……なーんか、殺伐とした空気を感じない?」
きょとん、としている江利子は可愛いが、本当に気が付いていないのだろうか。
そんな江利子と祐麒の前に、ファンクラブの男たち数人が壁を作って、ゆく手を塞いできた。
「ちょっと何? 通れないじゃない」
「鳥居さん! 夏休みを終えてそろそろ福沢への熱も冷めたんじゃないですか?」
「そうですよ、貴女のような女性には、俺たちのようなものの方がよほどふさわしい」
「そろそろ目を覚ましてくださいっ」
どうやら、いまだ江利子のことを諦めきれない男連中が恥も外聞も弁えずに訴えに来たらしい。夏休みを経て、何もなかったことにしようとしているのか。夏休みを経たからこそ、二人の仲がより一層深まったとは想像しないのだろうか。
なんとかしようと思うが、この連中は祐麒の言葉など聞こうとしてくれないから困ったものである。
「あの~、貴方達の気持ちはありがた……くもないけど。ただ私……祐麒くんにもう、コレもらっちゃったから」
と、江利子はゆっくりと見せつけるようにして手を目の前に持ってきた。
江利子の指に輝くのは、祐麒が贈ったリング。そう、細くて綺麗な江利子の左手の薬指にはまっている。
「――って、え?」
「祐麒くんが自ら、私のこの指にはめてくれたのよ? 私、あの時からずっと指輪、外していないからね」
愛しげに左手の指を撫でる江利子。
「旅行中も、何度も親や兄達に訊かれたけれど……やっぱり、祐麒くんの口から直接、言ってほしいから」
にっこりと微笑み、見上げてくる江利子。
「……え、左手の薬指って、そーゆーこと?」
「プロポーズしたってこと? やるわねー福沢くん」
「おいおい嘘だろ、た、ただのファッションでしているだけだよな、なぁ!?」
「でも、福沢のやつが指にはめたって……」
ざわめき始める周囲の学生たち。
色を失くす江利子ファンクラブの野郎共。
「え、えと、江利ちゃん?」
「私の誕生日にこんな素敵なものプレゼントしてくれるなんて、凄い、嬉しかった」
嬉しそうにはにかみ恥じらう江利子を見ると、全く無意識のうちに左手薬指にはめていたなんて、とても口には出せない。あの時は酔ってもいたし、祐麒としても舞い上がっていっぱいいっぱいの状態だったから、指輪といえば、という思い込みがあったのかもしれない。
好奇の目に耐えきれず、祐麒は動き出す。
「い、行こう、江利ちゃん」
「うん」
江利子の手を握ると、指輪の硬質な感触が伝わってくる。意識し出すと気になるもので、まさか本当に江利子はプロポーズとして受けたのだろうか。もちろん江利子のことは好きだが、今時点で結婚までは考えられない。
「ふふっ」
隣で微笑む江利子。なんとなくその視線を追いかけると、その先には人垣の中で大友、宝来と一緒にこちらを見つめている蔦子。既に蔦子とのことはケジメをつけたわけで、気にする必要はないはずだが。
「あ、ねえ祐麒くん」
立ち止まった江利子が首を傾げる。
「ん?」
「ちょっと、ここのコレ、キスマークかしら?」
「えっ?」
江利子が胸元のあたりを指差す。
洋服とのちょうど境目のあたりだが、良く分からない。見えるような場所に残さないよう注意はしたはずだが、夢中になっていたらそんなこと頭の中から吹っ飛んでいてもおかしくない。
「他の人に見られたら恥ずかしいわよね……ね、どう?」
小さな声で尋ねてくる。本当は早い所この場を去りたいのだが、逆らうことも出来ずちらりと目を向ける。
「見えないけど、どれ?」
「良く見てよ、ほら、ココだってば」
「え?」
ぱっと見でわからないので、江利子の肩をつかみ、顔をさらに寄せてみようとした。
と、その瞬間。
江利子の顔が動き、唇を塞がれた。
「――――っ!!!???」
驚いたのは祐麒だけではない、周囲にいて祐麒たちのことを見ていた連中も同様であり、何よりすぐ目の前には蔦子がいたわけで。
「…………んんっ!!?」
江利子の舌が口内に差し込まれてきた。
キスにおいても、江利子の舌技はいかんなく威力を発揮する。甘美な快感に酔い、ダメだと思いつつも逆らうことが出来ず、誘われるように祐麒も舌を出して絡ませあう。
「え、あれ……舌、いれてるよな?」
「なっ、こ、今度はディープキス!? うわっ……」
倍増するざわめき。人も、当初の倍くらい集まっているかもしれない。
目の前には、目を閉じ、長い睫毛を震わせている江利子。
ざわめきが大きくなる中、ようやくのことで口を離す。
唇が離れる際、お互いの間に唾液が糸を引き、ちょうど太陽の光を浴びて輝くものだから更に印象を強烈にさせる。
垂れた唾液を指で拭い、江利子は顔を朱に染めて上目づかいで祐麒を見て。
「……も、もう、祐麒くんったら。こ、こんな皆が見ている前でいきなり……う、嬉しいけれど恥ずかしいから……」
「え、ちょっ」
してきたのは江利子の方では、と言いかけて止まる。
傍から見れば、祐麒の方が顔を近づけていったようにしか見えないわけで、江利子の肩に手を置いていることもあり、どう考えても誰も納得しないだろう。
恥ずかしそうにしながらはにかんでいる江利子を見て、ああ、江利子にはめられたのかと遅まきながら気が付く。
こうして、いつもペースを掴まれるのだ。
さっさと逃げ出したいところだったが、ふと考える。
いつまでもこのままでいいのだろうか、と。
「どうしたの、祐麒くん?」
見上げてくる江利子を見つめる。
「…………」
「ん?」
胸の前で手を組む江利子、その指に光る銀色のリング。
風がそよぎ、江利子の柔らかな髪の毛を揺らす。
その髪を飾っているのは、祐麒がプレゼントしたヘアゴム。
甘くて、芳しくて、幸せな空気が、包み込んでくる。
それは、初秋のある晴れた日。
「い、いや、なんでも」
「ふふっ、変な祐麒くん」
風鈴が鳴るような、響く愛らしい声。
薄紅色の舌を、悪戯っぽく出して。
「でも祐麒くんったら、結構、強引なのね」
なんてことを、白い肌を桃色に染めて、江利子は恥じらいながら言う。
ああ、やはりどうしても江利子には敵わないのだなと悟らされる。
だって、祐麒は完全に江利子に参ってしまっているのだから。
おそらく、今も、これから先もずっと。
江利子は笑う。
フード付きのカットソーは鮮やかなマスタードカラー。フードは紺色のジャケットの上から出して。
大き目のボタンのついたチェックのスカートに、レギンス。
プレゼントしたばかりの髪留めで、少し茶色がかった髪をまとめ、鮮やかな笑顔。
それはきっと、決して解けることのない、芳醇で、美しい、魔法――
おしまい