<その4>
テニス部の練習のときも、理沙子さまは優しくしてくれた。と言っても、あからさまに何かをしたというわけではない。他の部員たちと同様に接してくれているのだけれど。
「桂ちゃん、また手首をこねているわよ」
「は、はいっ」
悪い癖を指摘して、すぐに他の後輩の指導にうつる。だけれども、去り際のほんの一瞬、私のことを見た。その瞳に思わず見とれてしまいそうになり、慌てて目をそらす。
すると今度は、目をそらした先にお姉さまの姿を見つけてやっぱり顔を背けてしまったりして。我ながら、何をやっているのだろうかと思う。
自分からロザリオを返したくせに、いまだにうじうじとしていて。
理沙子さまから姉妹の申し込みをされたらされたで、一人であたふたして。
お姉さまは今、私のことをどう思っているのだろう。
理沙子さまはなんで、こんな何の変哲も無い女子高校生を、妹にしたいなんて思ったのだろう。
揺れる。
私の心は揺れている。
翌日のお昼休み、私はチャイムが鳴ると素早く教室を出た。残っているのが、なぜだか怖かった。理沙子さまが迎えに来るのが、怖かった。だから私は逃げ出した。いつかはちゃんと答えを出さないといけないと、心の中では分かっているつもりなのに、足は急くようにして教室から離れてゆく。
二年生の教室とは異なる方向に体を向け、私は目的地もないままに歩き続けた。ミルクホールは避け、中庭にも近寄らないようにして、意味も無く時間ばかりが流れてゆく。一体、どこに行けばいいのだろう。私は、どこに向かえばいいのだろう―――
「桂さん」
柔らかな声が、耳に届いた。
振り向くとそこには、女神様がいた。
「……どうしたの、桂さん」
ぽかんと立ち尽くす私を見て、女神様は春の温かな陽射しのような微笑を浮かべた。
「志摩子さん」
そこに居たのは女神様でもなんでもない、藤堂志摩子さんだった。クラスメイトでありながら、本当に自分と同じ人間かと思いたくなるくらい美しい志摩子さんだったから、女神様にだって見えてしまうというもの。
「良かったら、一緒にお弁当、どうかしら」
私が手にしている袋を見て、志摩子さんはふわりと笑った。またまた見とれてしまいそうになる自分自身をどうにかして、きょろきょろと周囲を見回す。いつの間にか講堂の裏手まで来ていたみたいだが、なんと、この場には二人以外誰もいなかった。
「志摩子さん、ここによく来るの?」
「そうね、春や秋はよく来るわね」
「祐巳さんは一緒じゃないの?」
「ええ、祐巳さん今日は、薔薇の館に行くと言っていたわ」
他愛もない話をしながら、段差になった場所に並んで腰を下ろす。
心臓がバクバクいっている。だって、美しい志摩子さんと二人きりで、しかもこんな、腕が触れ合ってしまうくらい近くで一緒にお弁当を食べるというシチュエーション。加えて志摩子さんは白薔薇のつぼみ。同じクラスとはいえ緊張のせいかすぐ横にある顔を見ることができなくて、お弁当の方に目を向けていると。
「わ、すごい。純和風のお弁当だ」
「えっ」
「あ、ご、ごめんなさいっ」
手で口を抑える。思ったことをすぐに口にしてしまいがちなのは、私の悪い癖だ。
「いいのよ。でもやっぱり、桂さんも意外だと思ったのかしら?」
「私も、って……他にも?」
「この前、祐巳さんにも言われたから」
「あー、なるほど。うん、そうだね、志摩子さんはもっとこう、イタリアンとかフランシーなイメージが強かったから」
「やだ、何、フランシーって」
ころころと笑う志摩子さん。
前に、祐巳さんとそんな話をしたこともあった。志摩子さんの家はきっと洒落た洋風建築の家で、ピアノがあって天蓋付きのベッドがあって、ふわふわのお洋服を着ていて……なんていう、とりとめもないどうでもいいようなことを。
だけど実際の志摩子さんは全然そんなことなくて、むしろ家は純和風の建物で、食事とかも和食がほとんどで、家では着物を着ていることも多いっていうから驚いた。そういえば、広げているお弁当箱も和風でどこだかのなんとか焼きみたいな柄だ。改めて中身を確認してみれば、煮物やら黒豆やら、やっぱり和風チックなおかずで埋め尽くされている。人は見かけで判断していけないということを、本当に学んだ気がした。
いただきます、ときちんと手を合わせてから食べ始める。最初はちょっと緊張していたけれど、徐々に普通に話ができるようになってきた。どんなに綺麗だといっても、同い年の同級生なのだから、当たり前といえば当たり前だけれど。
お弁当も三分の二は食べ終えた頃、不意に志摩子さんがこちらを向いた。
「最近の桂さん、元気がないわね。どうかしたのかしら」
少し、驚いた。
志摩子さんに気遣われたことが、ではない。志摩子さんが自分の様子の変化に気が付いていたということに驚いたのだ。まさか志摩子さんが、自分なんかのことを何かしら気にしていたのだろうか。
「そ、そんなことないよー。ほら、元気、元気」
わざとらしく大きな声を出して、お弁当を頬張ってみせる。
でも。
「そう?」
と静かに問われると。
志摩子さんの言葉に、なぜか嘘をつくことができなくて。
「やっぱり元気、ないのかな……」
頭を振る。
そして、なぜだろう。今まで友達の誰にも話していなかった、黄薔薇革命から今日に至るまでに私に起きたこと、私が思ったこと、考えていることを喋っていた。
お姉さまのこと、理沙子さまのこと、そして自分のこと。
お姉さまは中等部からテニスをやっていたからとても上手で、三年生が引退されてからは二年生の中でも中心的に動き、部長たちをサポートして、上級生からは信頼されているし下級生からは慕われていてとても格好いいこと。
理沙子さまは部の中でも抜群に技術があって、一年生の頃から団体戦のレギュラーで、二年生の今は紛れも無くエースであるということ。どこか一匹狼みたいなところがあるけれど冷たいわけではなく、ファンがとても多いこと。
そんな二人に比べると、私はテニスだって特に上手というわけではないし、綺麗なわけでもないし、皆を引っ張っていくような性格もカリスマもないし、大勢の中にいれば埋もれてしまうような地味な生徒。それなのに、お姉さまの妹になれたことは奇跡に近いんじゃないかと思うし、今また理沙子さまに声をかけられているのも夢なのではないかと思っていること。二人はどうして、私なんかを妹にして、また妹にしたいと考えたのだろう。
最後の方はほとんど愚痴というか、ぐだぐだと変なことばかり喋ってしまった。聞いている志摩子さんは、きっと退屈というか、むしろ気分を害したのではないかと思い、さらに自己嫌悪の沼に入り込みそうになる。
「ご、ごめんね、変な話ばかりして」
はっとした私は慌てて笑顔を浮かべて。
「うわ、もうこんな時間っ。急いで食べなくちゃ」
誤魔化すかのようの、まだ残っていたお弁当の中身を慌ててかっ込んだ。
そんな私の姿を見て志摩子さんは、なぜか、笑った。
「な、なんかおかしかった?」
「ううん、そうじゃないの、ごめんなさい」
ふわふわの髪の毛を揺らしながら、志摩子さんはやっぱり口元をほころばせている。
「やっぱり、自分のことは自分じゃ分からないものかもしれないわね」
「なんの、こと?」
「ねえ、桂さん。桂さんはお姉さま……椿さまには自分じゃふさわしくないと考えたのよね。理沙子さまのような方に自分は似合わないと、思っているのよね」
「……うん」
だって、その通りだから。
他の人に言葉に出して言われると、さすがにがくんと落ち込みそうになるけれど、やっぱりそれが事実なのだ。
「でも、私は椿さまや理沙子さまの方にこそ共感できるわ」
「え」
どういうことだろう。
志摩子さんは、何を言っているのだろうか。
「ねえ、桂さん。ふさわしいかどうかなんて、どうでもいいことではないかしら?」
「…………」
「私がお姉さま……聖さまの妹となるとき、白薔薇さまの妹として私がふさわしいかどうか、なんて考えなかったわ。ただ、私は……」
秋風が吹き抜ける。
食べ終えたお弁当箱を手提げにしまいながら、志摩子さんは風に揺れるスカートの裾をそっとおさえた。 目の前を、銀杏の葉がカサカサと音を立てて転がっていく。
「……志摩子さんは、どうして、私なんかに構ってくれたの?今はその、令さまと由乃さんの方が大変なことになっているのじゃあ」
逃げるように、話題を背けると。
「もちろん、令さまと由乃さんのことは心配よ。でも」
「……でも?」
「桂さんも、大切なお友達だから。友達のことを心配するのは、当然でしょう?」
柔らかく微笑む。
志摩子さんの言葉を耳にして、私は倒れそうになった。まさか、志摩子さんが私のことを友達だなんて思ってくれていたなんて。そりゃあ、人見知りしない性格だから、他のクラスの子達よりかは志摩子さんに話しかけることも多かったかもしれないけれど。
「桂さんが困っているなら、迷惑かもしれないけれど助けたいの。今まで色々と助けられてきたのに、私は何もできなかったから」
「た、助けてって、わ、私そんな大それたこと何もしていないよっ!」
即座に否定する。
だって本当に、記憶に無い。
「そんなことないわ」
でも志摩子さんは力強く口にする。
「高等部に入って最初、桂さんと隣の席になったじゃない」
「あ、うん」
あの時は衝撃だった。こんな美しい人の隣に座れるなんてと思ったから、忘れようにも忘れられないが、まさかそんな些細なことを志摩子さんも覚えていたとは。
「桂さん、色々と話しかけてきてくれたでしょう。私は内向的な性格だから、いつもなかなかクラスに溶け込めないのだけれど、桂さんはいつも明るく、私に話しかけてきてくれたでしょう」
「あ、あはは、な、なんか私ばかり喋っていたよね、ごめんね、興味ないこととかも多かったでしょう」
アイドルの話とかドラマの話とか漫画の話とか、とてもじゃないけれど志摩子さんの嗜好にそぐうような話だったとは思えなかった。
だけど志摩子さんはゆっくりと首を横に振って。
「ううん、そんなことないわ。桂さんとのお喋りは、とても楽しかったの……本当よ? それだけじゃないわ、この前の体育祭のときだって運動神経のよくない私とペアを組んでくれて」
「や、あれは」
ちょっとばかり下心がありましたとは、とてもじゃないけれど言えない。
「とにかく、桂さんは……桂さん自身の気持ちももちろん大切だけれど、その前に椿さまと理沙子さまのお気持ちをきちんと確認した方がよいと思うの」
お姉さまと、理沙子さまの気持ち。
それは私に期待と恐怖を起こさせる。
知りたいけれど、知りたくない。
「きっと、大丈夫だと思うわ」
私の心の中を見透かしたかのように、隣で微笑む志摩子さん。
「だって、こんなに桂さんは素敵なんだもの」
そう言いながら、不意に志摩子さんは私の肩をつかむと、すっと身を乗り出してきた。何がなんだか理解できないうちに、頬と唇の間あたりに温かくて柔らかいものが押し付けられた。
……え?
ええええええええええっ?!
硬直する私を横目に、優雅に立ち上がる志摩子さん。三歩ほど進んだところで振り返り、初めて見る悪戯っぽい表情で口に指をあてて。
「……ご飯粒が、ついていたから」
スカートのプリーツをわずかに乱しながら、早足で去っていった。
残された私はといえば。
理解したとんでもない事実に脳が追いついていかず、茹だったタコのように顔を真っ赤にしながら固まっていたのであった。
どこか遠くで、予鈴が鳴っているような気がした。