朝から沈鬱な気分だった。
「どうしたんだよユキチ、とっておきのドクターペッパーを勝手に飲まれたような顔をしてさ」
「どんな顔だ、って、まさかアレを飲んだのはお前か、お前なんだな!?」
「いやー、だってさ、ユキチの好物だなんて今まで知らなかったし。皆嫌いで、残してあるのかなって」
「くっ……俺のドクペを……まあ、それはともかくとして」
掴んでいた小林の制服を離し、小さくため息をつく。
「本当にどうしたんだ? 楽しくなってきたじゃないか、景ちゃんと一緒なんて」
「"景ちゃん"……だと……?」
「みんな、裏じゃそう呼んでるぜ、やっぱり愛称がないとな」
呑気な顔をしている小林を見て、祐麒は歯噛みする。その、加東景のことで色々と気分が重くなっているというのに。
昨日の生徒会活動のことを思い出してみる。
小林の狙い通り、現在の生徒会正規メンバーは実務に忙しく、景の相手をするのは祐麒や小林ということになった。仮に正規メンバーが相手しようとしても、先輩としての特権を生かして小林が奪取したことではあろうが。
景は実習の準備もあり、長時間在室していたわけではないが、真面目な実習生として祐麒や小林の話を聞いていた。
しかし、時折祐麒に向けてくる視線は、まるで鋭利な刃物のような危険さをもって、祐麒を貫いた。
決定的だったのは、小林がトイレのために出ていき、二人になった時。
「……普段から、ああいう風に女の子に声をかけているの?」
小さな声で、だけどしっかりとした口調で、尋ねてきた。
祐麒は咄嗟に首を横に振る。
景はそんな祐麒をちらりと見て、呆れたように音を出して息を吐いて、言った。
「やめろ、とは言わないけれど、少なくとも私は好きではないわ。あと、あまり無理して背伸びをしない方がいいと思うわよ」
と。
その時の景の目を、口調を、表情を、祐麒は忘れない。
まるで、憐れむような、同情するような、蔑むような、景から発せられるオーラを。
実際に景がどう思っていたのかは分からない。後ろめたさがあった分、祐麒が勝手に卑下して受け取っただけかもしれない。
それでも、祐麒がそう感じたということが全てだった。
「てゆうか小林、気づいてないのか?」
「何が?」
「だから、教育実習生。あれ、日曜に俺が最初に声かけた人だ」
「お……おおっ、道理でなんか見た顔だと思った! そっか、だから景ちゃん見ても祐麒のノリ悪かったのか。おかしいと思ったんだよ」
「ん? おかしいって、何が」
すると小林は、怪しげな笑みを浮かべて祐麒を見る。
「だってさ、景ちゃんって完全にユキチのストライクゾーンど真ん中というか、属性を全て満たしているし」
「な、なんだよ、その属性って」
「だからさ」
得意げに小林は続ける。
『年上のおねいさん』
『女教師』
『眼鏡美人(知的)』
『ちょっと強気』
『黒髪ストレート』
『スレンダー』
『貧乳』
『タイトミニ+黒ストッキング』
順々に言い上げた後、すぅと息を吸い込み。
「――どうだ、完全にお前の萌え属性を満たしているではないか!!」
「アホか、なんだそれは!?」
「まだ不足か? それならば、『普段は真面目だけど実は夜は大胆』というのも付け加えてやろう」
「だから、なんでそんなこと――っ!?」
反論しかけて気がついた。
小林が口にしたのは、修学旅行の夜に実施されたお互いの萌え属性告白大会で、祐麒が口にしたことであった。
『タイトミニ+黒ストッキング』というのは、たまたま昨日がそういう格好だっただけなのだろうが、他の項目は確かに、その通りか。
「……いや待て、『貧乳』てのは分からんだろ」
「いやいや、昨日のブラウス姿見ただろ。あれは『貧乳』に属すると俺のスカウターは告げている。数値にして……」
思い浮かべる。
昨日の景は、ブラック系のスカートスーツで、スカートはタイト(ミニというほどではなかった)、そして白いブラウスと、教育実習生らしいきっちりとしたスタイルだった。
確かに、大人っぽく、黒髪ストレートに知的眼鏡、細身の体を見せつけるようなぴっちりしたスカートスーツで色香を漂わせた姿は、祐麒の好みといってもいい。だからこそ、ナンパの時に目がいったということもあるだろうし。
しかし、そのナンパがあったからこそ、素直に景のことを見つめられない。気まずさと後ろめたさがない交ぜになった感情が、どうしても心の中にあるから。それさえなければ、素直に景に対して憧憬の気持ちや、好意といったものを抱けていたかもしれないのに。
現実は、羞恥が先だってまともに見られないし、景からも侮蔑のような視線を向けられてしまっている。
気分だって、沈むというものである。
「そんな気にすんなよ、先生だって知らずに声かけたわけだし、それにそもそも正式な先生じゃないし。一ヶ月後にはただの女子大生、何の問題もないんだ、ナンパしようがキスしようが恋人になろうが」
「そうだな……って、なんでそこまで先に進む」
「いや、別に」
あさっての方を向き、わざとらしくへたくそな口笛なんかを吹いてみせる小林。どうしてこう、人のことをけしかけるのが好きなのか。自分のことになると、途端に秘密主義になるくせに。
「で、八十嶋ちゃんとはその後、どうよ」
「唐突に話変えるな。別に、どうもないよ」
というのは嘘である。
実は昨夜にメールが来て、今日の放課後に会うことになったのだ。向こうから誘いが来て、断ることもできずなし崩し的に約束してしまった。不安と期待が半分といったところだが、小林にはとても告げられるようなことではなかった。
八十嶋とのデートもどきは、ボウリングに行きたいという彼女につきあってボウリングをして、その後お茶をして別れるという、可も不可もないようなものだったが、週末にまた会うことを約束した。
八十嶋に気に入られたのか分からないが、それは決して気分の悪いことではなく、今まで女子と付き合ったことなどない祐麒からしてみれば、むしろ少々浮かれてしまうような出来事。それでもやっぱり、まだ小林など友人達には内緒にしていた。
「お待たせ、福沢くんっ」
現れた八十嶋は、ナンパのときも、先日のボウリング時も制服だったが、今日は私服だった。ラベンダー色のシフォンセーターに、ブラックのスカートと、シンプルながらもどこか上品な感じのコーディネート。
派手ではないが、髪を染めて今時の女子高校生っぽいと思っていただけに、少し意外な感じは受けた。
「ねえねえどうかな、今日の服、可愛くない? ってか、私、結構頑張ってきたんだけど」
それでも、こうして積極的に自分のことをアピールしてくるところを見ると、今時っぽいなと思うわけだが。まあ、男子校に通っている祐麒からすると、何が今時の女子校高校生かなど、よく分かりもしないのだが、イメージだ。
八十嶋君佳は、少しつり上がり気味の大きな目をぱちくりさせて、上目づかいに期待を込めた表情で見つめて来ている。物凄く美人だとか、物凄く可愛いとか、そういうわけではないが、全体的な雰囲気が可愛らしく、男を惹きつけるものを持っていると感じる。
「う、うん、とても似合っていると思う」
圧倒されつつ、どうにかそう口にする。
「ですよね、ですよねー? 私、福沢さんとデートだから、気合いいれてきたんですよー」
「あ、ありがとう」
「いえいえー、じゃあ早速、行きましょうよっ」
活動的な八十嶋に引っ張られるようにして、祐麒も歩き出す。
デートは終始、八十嶋が望むところに祐麒がつきあうという形で進んでいった。デート経験など皆無で、エスコートといわれても困る身としては、助かった。
カラオケに行って、お茶して、色々とショッピングに付き合わされて、食事。疲れはしたが、八十嶋とはそれなりに気が合ったし、八十嶋の方がお喋りなので、困るということはあまりなかった。
少しだけ背伸びをした夜の食事を終えると、やはり八十嶋に引っ張られて、次の店に入った。
「八十嶋さん、ちょっとここって、明らかにバーだよね」
カウンターに腰かけたあとで、祐麒は小声で言った。
店に入る前も思ったし、入ってからは確実に悟ったのだが、それでも座ってしまったのは祐麒が優柔不断だったからか。
「そうですよ。あ、でも大丈夫、この店、私の知り合いが働いている店なんで、小さい頃からちょくちょく遊びに来ているから。それに、ノンアルコールもあるし、値段も良心的だし」
確かに、八十嶋は先ほど店員と親しげに挨拶をかわしていたから、その店員が知り合いだったのかもしれない。だとしても、高校一年生でバーに通い慣れているというのはどうかとも思う。化粧もして、高校一年生の割には大人びて見えるとしても。
「福沢さんは、お酒は大丈夫?」
「少しくらいなら」
祐麒も、家で父親からビールを勧められたり、友人の家に泊まりで遊びに行った時に口にしたり、この年頃の男子高校生らしく、経験がないわけではない。あまり強くはないが。
「それじゃあ、カンパーイ」
グラスをあわせ、口につけると、口当たりの良い甘みが喉をするりと通り抜けていく。非常に飲みやすく、アルコールもあまり強くない。さすがに高校生ということを考慮してくれているのだろう。
初めてのバーということで初めは緊張もしていたが、話しているうちに気分も解れ、アルコールも手伝ってか、力も抜ける。
そうしてどれくらい時間が経っただろうか。
会話が途切れたちょっとした間。
「ねえ、福沢さん」
小さな声で、八十嶋は言ってきた。「ん?」と、目で問い返す。
「あのね、私、今日、友達の家に泊まってくることになっているんだ……」
恥じらうように顔を伏せ、でも上目づかいで祐麒のことを見つめてくる八十嶋。その台詞の内容、意味を理解して、祐麒の心臓の動きが一気に加速する。
既に夜遅い時間。バーに入り、どこかしら良い雰囲気になりつつある。アルコールも入り、気分は高揚している。
だけどいいのか、そもそも八十嶋とのデートは二回目で、まだ正式に付き合っているわけでもなんでもないのに。それとも、今時の女子高校生はみんなこんなに大胆なのか。
八十嶋を見る。
恥しさのせいか、酔いのせいか、ほんのりと頬や目の周りが朱をおびている。
「ちょ、ちょっと、トイレ行ってくる」
どうしたらよいか分からなくなり、とりあえず時間を稼ぐために、祐麒は逃げるようにしてトイレに入っていった。
☆
トイレに祐麒の姿が消えるのを見て、君佳は軽く息を吐きだした。タイミング良く、携帯電話が震えだし、君佳は携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。
「何、望実? 今から? あー無理無理、私デート中だから。そう、この前のナンパの、うん、落とす寸前。でもラッキーだったよね、花寺のお金持ちに声かけられるなんてさ、そうそう、先輩だけどウブで超ラクショーって感じ。これからラブホ行くとこ、一発ヤらせとけば、夢中になんじゃね、明らかに童貞っぽいし、まあでもなんか可愛らしいし、相性良ければマジつきあってもいいカモって思ってる……うん、そゆわけなんで、また今度誘ってよ、あ、戻ってきたから切るね、んじゃ」
トイレから祐麒が出てきたのを見て、君佳は携帯電話を切った。少し遅れて、祐麒が席に戻ってくる。
君佳は再び、恥しそうな表情を作った。
☆
「電話?」
「あ、うん、友達にお願いしといた。今日、泊まったことにしておいてって」
「そ、そう」
赤くなって俯く君佳。
訊ねた方の祐麒も、赤くなる。
「えと……エッチな子だって、失望した?」
少し不安そうに、君佳が訊いてきた。
「でもね、私だって誰にでもってわけじゃないんだよ。福沢さんは、最初から好みのタイプで、話してみたらすっごい私と合うし、本当に前から付き合っていたんじゃないかって思えるくらいで、だから自然とそう思ったの」
喉が渇き、グラスを手に取る。いつの間にか、新しいカクテルが置かれていて、半分ほど一気に流し込む。
アルコールが徐々にまわってきているのか、気分が大きくなっている。このまま、初体験をするのもアリではないか。女の子の方が積極的に誘ってきているわけだし、いつかは祐麒だって経験することなのだろうし、今後、いつこんな機会がくるかもわからないし。
「八十嶋さんは……その、そういう経験とか、結構あるの?」
口にしてから、何を余計なことを訊いているんだと、自己嫌悪に陥る。実際、八十嶋は驚いたように大きな目をさらに丸くしていた。
しかし。
「ええと、まあ、エッチしたら分かっちゃうもんね、うん、でも少しだけだよ。えっと、処女じゃなくて失望した? 処女じゃない私じゃ、駄目かな」
「そ、そういうわけじゃないよ! ごめん、変なこときいて。俺も告白するけど、実はそういう経験なくて、あの、ごめん」
なぜか謝ってしまう。
八十嶋の方から誘ってきたというのにこれでは、呆れられたかもしれない。
「ううん、誰だって初めての時があるんだし、おかしくないよ。でも、だったら逆に嬉しいかも。福沢さんの初めての相手が、私になるんだったら……」
しかし八十嶋は呆れるどころか、恥しそうにしながらも、そんなことを言ってきた。そこまで言われては、祐麒とて引き返すわけにはいかない。お金が足りるだろうか、家の連絡もしなければいけないし、そもそもあの手の施設の使い方とか良く分からないが大丈夫だろうか。まあ、その辺はさっき、経験がないと暴露したので許容してくれるだろうか。
色々なことを考えつつ、やはりまだ緊張でテンパっているので、残りのカクテルを飲みほして自分に気合を入れる。
「じゃあ……」
「ちょっと、あなた達」
席を立とうかとした時、後ろから声を掛けられてビクリとする。
「あなた達、こんなお店でこんな時間まで、何をしているのかしら」
「えっと、なんですかあなた、いきなり? 関係ないでしょ」
八十嶋はあきらかに気分を害したようだが、祐麒は違う。声には聞き覚えがあった。振り返ってみると、予想通りの人が立っていた。
「か、加東先生」
「え、先生っ!?」
立っていたのは、景だった。先生という単語を耳にして、さすがに八十嶋も顔色を変える。
「福沢君、お酒飲んでいるわよね。あなたもまだ高校生よね。どこの学校かしら?」
「あ、えっと、ごめん、失礼しまーすっ」
「あっ、こらっ……」
呼びとめる間もなく、八十嶋は素早く景の手をくぐり抜けるようにして、店から出て行ってしまった。
あまりの逃げ足の速さに、祐麒はあっけにとられるだけだったというより、思考が鈍って考えが追い付かない。
視界が徐々に霞んでゆき、意識を保っているのが辛くなってくる。
「さあ、福沢くんも……って、ちょっと、福沢くんっ?」
景の声が遠くなっていく。
気分は高揚している気がするのに、意識が薄れていくのはどうしてだろうか、そんなことを最後に考えて、祐麒の意識は完全に途絶えた。
目覚めの気分は、最悪としかいいようがなかった。頭の中で激しくシンバルが打ち鳴らされているみたいで、吐きそうなほど気分が悪く、胸がむかむかする。
昨夜のことを思い出そうとして、頭が痛んで、考えることをやめる。
右手で頭を抑える。携帯電話を探そうと左手を動かすと、柔らかな感触をつかんだ。無機質なものとは明らかに異なる、生を感じさせる温かさを持っているそれは、人の持つものだった。
終電を逃して、小林の家にでも転がり込んだんだっけかと、動かない頭で考えながら、どうにか首を動かして横を見る。
間違いなく、小林などではなかった。
長い睫毛、首にからむ艶やかな黒髪、ほのかに膨らんでいる胸元。Tシャツに短パンという格好で隣に寝ているのは、どこかで見たことのある顔。
寝ぼけた頭で、どうにも状況を把握するのに苦労したが、すぐ隣でひっつくようにして寝ている相手の肌の柔らかさ、温かさを感じ、ようやくのことで夢ではないと理解した
「うわあああああぁぁぁっ!!!?」
一拍おいて、悲鳴をあげた。
「な、なんだこれは、うわっ、て、イテっ」
自分の置かれた状況に驚き、叫び、自分の出した大声で頭痛がひどくなる。
「んっ……な、なに……?」
祐麒の声で、隣で寝ていた女が目を覚ましたようで、身動きする。ようやく分かったが、寝ているのは景だった。
「うわっ、あの、これは違うんですっ! 俺は、その」
「え、ちょっと……落ち着いて福沢くん」
身を起こした景に、狼狽する。良く分からないが、この状況はまずい。記憶はないが、ヤバイ状況であることは間違いないだろうと思った。
「俺っ、昨日――!?」
「し、静かにして、大きな声出さないでっ!」
景が覆いかぶさってきて、手の平で祐麒の口を塞ぐ。至近距離に景の顔が迫ってきて、眼鏡をしていない景の素顔を初めてまじまじと見る。眼鏡がないせいか、目つきが鋭くなっている。
「百合子さんに聞こえたら、マズイでしょうがっ!?」
髪の毛が垂れて来て、頬にかかる。
「こんなところを見られたら……」
「――ちょっと景さん、朝から何を大きな声を出しているの。扉の鍵もかけないで――」
いきなり部屋のドアが開いて、上品そうな老婦人が姿を見せた。そして老婦人は、部屋の様子を目にして、口を開いたまま動きを止めた。
「け、景さんあなた、男の人を連れ込んで……?」
「ち、違うんです、これには事情があって。この子は教育実習先の生徒で」
「きょ、教育実習先の生徒とそんな淫らな……!」
景が何を言おうとも、もはや無駄であった。
傍から見れば、景が祐麒の上に馬乗りになって跨って、祐麒の肩と口を手で抑えて顔を近づけている格好。人によっては、景が祐麒を押し倒し、これから不埒な行為をしようとしているように見えなくもない。何せ、景はTシャツ短パン、祐麒もシャツにトランクスという姿だったから。
「弓子さん、話を聞い」
「まさか景さんが」
加えて、祐麒の股間が生理現象で膨らんでおり、それが景の股間に向かって狙いを定めるように屹立していては全く説得力もないわけで。
「とにかく、契約を破ったわけですから、今日中にでも出て行ってもらいます、いいですねっ」
「え、ゆ、ゆゆゆゆゆ――っ」
止める間もなく、扉は閉ざされ、のばされた景の手は空しく宙を泳ぐのであった。
こうして教育実習一週間目にして、景は住処を失ったのであった。