六号室の住人は、まるでマリア様のようである。
「ごきげんよう、祐麒さん。今日もお掃除、精が出ますね」
にこやかな笑みと、穏やかな口調で、藤堂志摩子が話しかけてきた。祐麒も和やかに挨拶を返す。
アパートの庭ともいえないような場所を掃除しているときに、志摩子が出てきて祐麒を見つけたのだ。
天気もよく、こうして志摩子とのんびり話をしていると、縁側で日向ぼっこをしている老猫のような気分になるのはなぜだろう。
大学一年生の志摩子は、美少女で、成績もよく、皆からの憧れの的にもなっている。
更に言うと、そのバストでもって女性から羨ましがられ、男性からの注目の的にもなっている。
「ただいまーっと、あらお二人さん、こんなとこで井戸端会議? そうそう祐麒、はいお土産」
どこからかアパートに帰ってきた聖が、祐麒に手渡してきたのはグレープフルーツだった。
「ありがとうございます、みんなでデザートで食べましょうか。でも、どうしたんですか、これ」
「江利子からのおすそ分けだって」
「うわー、凄い大きくて立派なグレープフルーツですね」
志摩子も目を輝かせて、グレープフルーツを見つめる。
「本当ですよね、いやー、志摩子さんの胸くらい立派なグレープフルーツですね」
「いやいや祐麒、志摩子の胸の方が巨乳だよ。何せ見てみなよ、この立派な果実をさー」
「本当ですねー、いやさすが志摩子さん、本当に見事な……」
祐麒と聖の視線が、志摩子の胸に注がれる。服を通してでも分かるその立派さ。胸のことを言われて、志摩子の顔が桜色に染まる。
だが、それも一瞬のこと。すぐに、志摩子の顔に悪魔の影が降りる。黒いオーラが志摩子の背後から立ち上るのがわかる。
「ふ……フフ……祐麒さん、聖さま、そのセクハラ発言は、万死に値すると思いませんか?」
志摩子のふわふわの髪の毛が、蛇のようにざわめく。胸のことはタブーだと分かっているのに、志摩子を前にすると口にしてしまうのはなぜなのか。
どこからか取り出した二つの十字架を持った両手を前方でクロスさせ、志摩子は二人に死の宣告をする。
「お手洗いはすませました?マリア様に御祈りは?部屋の隅でガクブルして命乞いする準備はOKですか?……ジーザス・クライシス!!!」
「あの、ゆ、ゆ、祐麒さん、ちょっとお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「え? ああ、真美さん。どうしたの、取材?」
「ははは、はいっ、そうですっ」
山口真美が、いつものようにメモ帳とペンを手に立っていた。学園の新聞部在籍の真美は、定期連載としてアパートの管理人である祐麒に取材をしてくる。
祐麒のことを記事にして、何が楽しいのだろうかとも思うのだが、真美からお願いされて断るのも悪いので、いつも受け入れている。
「そ、そんなことないですよ。祐麒さんの記事を楽しみにしている読者は沢山いますし、私もお話ができて嬉しあわわなんでもないです」
一人で喋り、一人で慌てる真美。よくわからんが、とりあえず取材には応じる。
「えと、では、読者さんからの質問ですが、『福沢さんは一緒に暮らしている住人の中で、誰が一番好みで……す……か』って、何この質問!?」
一人で質問して、一人で赤面する真美。なんだかもう、良く分からない。
真美は、他の人と話しているときは、落ち着いていて冷静で頭が切れるイメージがあるのだが、どうも祐麒と話すといつもこんな感じだ。
ひょっとして、怖がられているのだろうかと、ちょっと落ち込みそうになる。
「も、もう、誰かしら、こんな質問を紛れ込ませたのは……ええとですね、本当の質問は」
わたわたと、ポケットやらメモ帳やらを慌てて探り出す真美。そんな真美の背後に、忍び寄る一つの影。
「まーーーみーーーさーーーーんっ」
元気な掛け声とともに、後ろから忍びよった影が真美のスカートの裾をつかんで、思い切りよくめくった。
祐麒の前に思い切りさらされる、真美の純白のショーツ。そしてショーツからのびる太もも。
「なんだ、白か、つまらないなー。この前買った、あの紐の奴じゃないのー?」
「------------っ!!??」
声もなく真っ赤になって泣きながら、いきなりスカートめくりをした蔦子のことを、ぽかぽかと殴る真美。
「あうあうあう~、ゆ、祐麒さん、見ましたっ!?」
首を横に振る祐麒だったが、やっぱり顔を真っ赤にしているので、全く説得力がない。
「○月×日、真美さんの下着は白……と、最新号の真美さんぱんつ日記は、これでOKじゃないかしら?」
「うわーーーん、蔦子さんのばかーーーーっ!!!」
「おぶっ!?」
逃げ去る真美に、なぜか祐麒が平手打ちされるのであった。
武嶋蔦子は、変態カメラ小娘である。それが、祐麒の認識だ。
常にカメラを持ち歩き、被写体は必ず女子。満足した写真を眺めているときの蔦子の表情は、少しヤバイ。
「ちょいと旦那、そんなこと言っていいんですか? 今日はとびっきりのブツがありますけれど?」
眼鏡のレンズを「キラーン」と怪しく光らせながら、蔦子は薄笑いを浮かべる。管理人室の中、今は二人しかいない。
蔦子は無言で、ちゃぶ台の上に封筒を置いた。祐麒は注意深く、封筒の口を開いて、中から写真を取り出す。
「……こ、これはっ!?」
中に入っていた写真。体操服にスパッツ姿の由乃が、暑さのためかシャツとスパッツを指で広げて風を送りこんでいる無防備なシーン。
ギリギリのところで下着などは写っていないのが、また憎い。
更にもう一枚、今度は蓉子だが、スカートスーツで廊下に落としたモノを拾おうと屈みこんでいるところの写真。
見えそうで見えないスカートの奥、そして屈みこんだことで僅かに見える胸元が、たまらないセクシーさを出している逸品。
無防備な少女の一瞬と、大人の色気を切り取った、甲乙つけがたい品であった。
「さあ、どうかしら? ちなみに落札候補者は他に聖さまと令さまと祥子さまがいます」
「く……しかし俺は、管理人としてこのようなものを外に出すわけにはいかん!」
「で、いくらお支払いをすると?」
「そ、それは……ん?」
そこで、封筒にまだ写真が入っていることに気が付き、取り出してみた。するとそこには。
「な、なんじゃこれーーーっ!?」
なぜか、祐麒が脱衣所で着替えているシーンだった。上半身裸になっている。
「あー、ソッチ系の需要もあるんで。それも、お買い上げになりますかー?」
眼鏡をかけた悪魔が、楽しそうに祐麒の前で笑っていた。
昨日は、屋根の修理やら風呂の修理やら水回りの掃除やら、とにかく溜まっている色々な仕事をこなした。
管理人とはいえ学生であるから、平日の昼間はなかなか仕事が出来ない。わかっていたこととはいえ、なかなかに厳しいものがある。
そんなわけで、張り切ってたまっていた仕事をしたのは良いが、さすがに疲労困憊になって、部屋に戻るなり寝てしまった。
翌日は学校があるというのに、果たして体は大丈夫だろうか。朝、起きられるだろうか。生活態度が悪いと、アパートの皆にも迷惑がかかるのだ。
「……起きなさい、ほら、祐麒、朝よ、起きなさいってば!」誰かが大きな声で呼びながら、体を揺すっている。
「う……ん……あと五分……」
「ほら予備校、遅刻しちゃうから駄目だってば、ほら、起きなさいよ、ひっぱたくわよ!」直後、パシーンという乾いた良い音が響いた。
「って痛いっ! 叩いてから言うなよっ!?」
弾かれるように起きると、ベッドの横で島津由乃がお下げを揺らしながら、仁王立ちで祐麒のことを見ていた。
「なんだ、由乃か……起こしに来てくれたんだ、サンキュ」
「かっ、勘違いしないでよね、別にアンタを起こしに来たわけじゃなくて、これを返しに来たついでなんだからねっ」
おおぅ、なんというツンデレテンプレート、と思いながら、由乃が突き出してきた漫画を受け取る。昨日、貸した漫画だ。
「祐麒が素行不良だと、このアパートも取り壊されちゃうんでしょ? それじゃ困るからよ。祐麒のためなんかじゃないんだからねっ」
一つ下の幼馴染のこの娘は、実家から通っていたのに、なぜか祐麒がこのアパート管理人になると同時に越してきた。
祐麒一人じゃ何もできないから、などと言って。高校三年、大学受験という大事な時期に何を考えているのか
「ほら、朝ごはんも用意しておいてあげたから、ありがたく思いなさいよ」
「……えっと、朝ごはんでもしかして、この真っ黒コゲのトーストらしきものと、消し炭のような目玉焼きらしき物体でしょうか?」
「うっ……るさいわね、嫌なら別にいいのよ、食べなくたって!」赤くなって、頬を膨らせている由乃を見ていると、つい笑いたくなる。
「いや、いただくよ、せっかく由乃が、俺のために、作ってくれたんだしね」
「ばばば、馬鹿っ! 誰がそんなこと言ったのよ!? だから祐麒のためなんかじゃないって、言ってるじゃない!」
「了解、リョーカイ。でも、この朝ごはんは由乃らしくて、これはこれで美味しいよ。サンキュな」
不器用な幼馴染にそう言うと。
由乃は耳まで赤くしながら、口を尖らせてそっぽを向くのであった。
十号室の住人は、住人の中でも最も変わっているといって過言ではないと思う。
「管理人さん、案内された部屋は、物置ですわよね? 私の荷物も入りきませんでしたけど……それで、私の部屋はどこでしょうか?」
十号室の住人、小笠原祥子は、入居してきた時に真顔でそんなことを尋ねてきたものである。
何をトチ狂ったのか、小笠原財閥の一人娘が、ぼろアパートにやってきた。よくわからんが、金持ちの社会体験とでも考えればよいのか。
大学に入学すると同時に、庶民の暮らしを知ることも大事、などと親に言われてやってきたのだろう。しかし、受け入れる方は大変だ。
「管理人さん、夕食は誰が用意してくださるのかしら?」
「あの、帰宅してもベッドメイクがされていないんですけれど?」
「わ、私が一緒に庭の草むしりをしないとならないんですか!?」
そんなことを何度も言われ、何度も説明したり、対応したり、色々と苦労をさせられた。
「そんな、昔のことを掘り返さなくても良いではないですか。祐麒さん、意地悪ですわ」
わずかに頬を赤く染め、拗ねたように見つめてくる祥子。
一つ年上で、絶世の美少女で、お嬢様で、そんな彼女が拗ねたように子供っぽい仕種を見せるのは、反則的だ。
「いやー、でも来年には祥子さんも卒業して出て行っちゃうと考えると、そういうのも本当、良い思い出って感じになりますよね」
何気なく言った一言だったが、ぴくりと、祥子が反応する。
「わ、私は出て行きません」
「え、でも祥子さんはもともと二年の予定のはずじゃあ。こんなぼろアパートに、無理にいつまでもいる必要ないんじゃないでしょうか」
「わ、私はまだ一人では何もできません。ここに来て、それを痛感しました。ですから、一人前と思えるまではいるつもりです」
「は、はぁ……でも、汚いし、ゴキブリも出るし、祥子さんも色々と不満を言っているじゃないですか」
「そ、それはそうですけれど、でも、祐麒さんがいてくだされば、問題ないでしょう? それとも、私が残るのがそんなにお嫌ですか!?」
「そんなことはないですよ、落ち着いてください祥子さん」美人だけに怒ると迫力がある祥子。なぜ怒ったのかがよくわからないが。
「だ、大体、祐麒さんがいけないんです。祐麒さんがいないと、何もできない私にしてしまった……」
ブツブツとつぶやくお嬢様を、祐麒は首を傾げて見つめるのであった。
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