マンションの自室に戻ると、乃梨子はベッドに倒れ込んだ。
うつ伏せの状態で、枕に顔を埋め、ぐったりとする。
「ああ、もう……」
声が枕に吸収される。
しばらくそのまま無為に過ごしていたが、やがて董子に呼ばれてリビングに出て夕食を取る。
菫子との食事は決して賑やかなわけではないが、無言というわけでもない。
たいていは、菫子の方が話しかけてきてそれに乃梨子が応じる形となる。
この日の食事も同様であった。
「乃梨子、今日は帰りが遅かったね」
「ああ、うん、買い物に行っていたから」
一度帰宅してから出かけたこともあり、菫子が会社から帰ってくる方が早かったのだ。
「ふぅん。何かあったのかい?」
今日の夕食は惣菜のから揚げ、ほうれん草のお浸し、サラダとインスタントの味噌汁。
味噌汁をずずっと啜りながら、乃梨子に目を向けてくる董子。
「なんで、そんなことを聞くの?」
乃梨子は先ほど董子に尋ねられたことで買い物の時のことを思い出していた。
こうして今思い出しても腹立たしいものである。
董子も、余計なことを思い出させてくれる。
「いや、なんか顔に出ているよ」
菫子がそう言うくらいだから、よほど不快な思いが表情に出てしまっているのだろう。
「やけにニヤけた顔しちゃって、良いことがあったんだね」
「は? そんなわけないし! ニヤけてなんかないし!」
何を言っているのだ菫子は。
「隠しているつもりかもしれないけれど、意外と分かりやすいんだよ乃梨子は。可愛いもんだねぇ」
「かっ、可愛いとか!」
箸をテーブルに置いて立ち上がる乃梨子。
「……どうしたんだい?」
「い、いや、別に」
熱くなった頬を手の平で撫でながら、再び着座する。
董子の言葉で思い出したのは買い物の時に祐麒に言われたこと。
「乃梨子、また思い出し笑い?」
「ニヤけてなんかないってば!」
憤然として乃梨子は唐揚げを頬張った。
そして翌日。
とんでもないことに、瞳子と可南子に姿を見られていたということで乃梨子は衝撃を受けていた。
「乃梨子さんたち……その、ちょっといかがわしい建物のある区画に迷いなく進んでいったから。行くなとは言わないけれど、周囲には気を配らないと」
それも、またあらぬ方向に誤解されている。
「だーかーら、違う、誤解だってば!!」
「はいはい、分かりました」
どれだけ言っても分かってくれようとしない。
「大丈夫、誰にも言いませんから」
「そうそう、乃梨子さんが大人の階段を既に登ってしまっただなんて、ねぇ」
「だーかーら、私達はまだそういう関係じゃないって言っているでしょ!」
「ほう」
「なるほど」
「納得してくれた?」
「分かりました」
随分と素直だなと思うと。
「聞きました、可南子さん」
「ええ、聞きましたよ瞳子さん」
何やら井戸端会議の主婦のような言葉をかわす瞳子と可南子。
「……何よ、なにか言いたげね」
「いえ、『まだそういう関係じゃない』ということは、これからそういう関係になるということですわよね」
「『そういう』には至っていないけれど、その前の段階であることは否定しなかったということで」
「なっ……」
また、とんでもない勘違いをされていることに気が付く。
「だから、そういうことじゃなくて」
「わかってます、『そういう』関係はこれからなのでしょう?」
「でも、じゃあ昨日あの場所に向かったのに……」
「もしかして祐麒さま、ええと……」
赤面しながら瞳子がもにょもにょと言葉を濁す。
「ああ、『まだそういう関係じゃない』のは、出来なかったからとか? 祐麒さま、緊張のあまり?」
「こらこら失礼なことを言わないでよっ!」
「違うの?」
「違うわよっ!」
「なるほど、祐麒さまは問題なかったと。となると直前で乃梨子さんが怖気づいたということですね」
「なんでそうなるのよ!?」
「それも違うんですか? あ、じゃあ祐麒さまが早まって……」
「ん、早まってなんですの可南子さん?」
「え、それは、ほら」
「だあああぁ、もおぉ!!」
乃梨子の苦難は終わらないのであった。
おしまい