爽快な気分で祐麒は目覚めた。
同時に、果てしない違和感を覚えてもいた。自宅のベッドの上とは思えない、ふかふかの感触と肌触り。目を開けると飛び込んでくる、豪奢な照明器具や室内の調度品。個人の部屋とは思えないほどの広さ、空間。寝ている間にどこか別の世界に転移してしまったのか、はたまた実はまだ夢の中にいるのではないかと錯覚する。
ゆっくりと起き上がり、手で軽く頬を叩き夢ではないことを確認する。
そして。
「・・・・って、小笠原家かーーーーーーーーーっ?!」
頭を抱えて叫んだのであった。
<その3>
ベッドから飛び降りて、頭を軽く叩く。
一気に、今に至るまでのことを思い出した。パーティでアルコールを摂取し、気分が悪くなったこと。祥子にこの部屋に連れてこられ、休んでいたこと。そして、そのまま眠ってしまったこと。
窓に近づいてカーテンを開けてみてみると、外は暗かった。どうやら、朝まで寝てしまったわけではないと理解したが、では一体、今は何時ごろなのかと頭を振ると高級そうな時計が目に入った。
22時をまわっていた。
「うわ、マジかよ?」
3時間くらいは眠っていたことになる。しかし、そんなことを暢気に考えている余裕もなく、髪の毛はぼさぼさ、服もしわくちゃなまま祐麒は部屋を飛び出した。
小笠原家には年はじめに一回だけ訪れたことがあり、そのときの記憶を頼りに廊下を歩いていく。いくら大きな屋敷だからといって巨大な城というわけではないし、迷路のような構造になっているわけでもない。
少しばかり不安な顔をしながら歩を進めていくと。
「あら、祐麒さん。お目覚め?」
清子が姿を見せた。すでにドレスから動きやすい格好に着替えているから、パーティは終わったのだろうと推測する。
「具合の方はいかがかしら」
「はい、もうすっかり。すみませんでした、ご迷惑をおかけしちゃって」
「迷惑だなんて、とんでもない。祥子さんも喜んでいたわよ」
「そんな、招いていただいたのに具合悪くなって休んでいたなんて、情けないというか、恥しいですよ」
本心であった。
まがりなりにも優から祥子のことを頼まれてやってきたというのに、何もすることが出来ないばかりか、祥子の手を煩わせる始末。本当に、迷惑をかけるためだけに来たのかと言われても仕方ないと祐麒は思っていた。
「とりあえず、今日のところはお暇します」
「あら、もう遅いし泊まっていけばいいじゃない」
「そこまでご迷惑おかけするわけにはいきません。それに、遅いといっても帰れない時間でもないですし、家族も心配しますから」
「ご両親には、私の方から連絡するわよ」
「いや、本当に帰りますから」
いきなり、息子が小笠原家に泊まるなんてことを聞いたらあの両親のこと、どんな取り乱し方をするかも分からない。
引きとめようとする清子をなんとかなだめすかして、祐麒は帰ることにした。
「・・・・と、その前に、出来れば祥子さんに一言ご挨拶をしたいんですけれど」
「それが、パーティで疲れたせいか、今日はもう休んでいるのよ」
「あ、そうなんですか・・・・」
それでは仕方がない、少しばかり失礼だが、また次の機会にきちんと謝罪とお礼を述べようと祐麒が思っていると。
「やっぱり、泊まっていったらどうかしら? 明日の朝なら、確実に祥子さんに会えるわよ」
なぜか清子は、執拗に祐麒を留めようとしているように見えた。しかし、そうそう甘えるわけにもいかない。厚意はありがたかったが、失礼にならないよう丁重に断りをいれて帰宅することにした。
「そう・・・・どうしても帰るの。それではせめて、自宅まで遅らせてちょうだい。男の子とはいってももう夜遅いし、バスも走っていないわよ」
「あ、そうか」
帰ると言いながら送ってもらうのでは結局迷惑をかけることになる気もしたが、ここで態度を翻すわけにもいかない。
最終的に祐麒は、小笠原家御用達の車に乗せられて福沢家まで帰ったのであった。
翌朝。
天気は昨日に引き続き良好。むしろ良すぎて暑いくらい、残暑という言葉がよく似合うような朝であった。
だがもちろん、小笠原家の邸内は空調がきいており快適な温度が保たれている。祥子をはじめとして、家族はみな暑いのが苦手なのだ。だからといって一日中エアコンを効かせているわけではないが、朝の寝覚めのときくらいは気分よく起きたい。
昨日のパーティの疲労もあり、早い時間に床についた祥子は、睡眠も十分にとって、珍しく爽快な目覚めとなった。
身だしなみを整えて、食堂へと向かう。
「おはよう、祥子さん」
「おはようございます」
食堂では、清子が一人で朝食をとっていた。祥子もまた、使用人にトーストとサラダを頼んで清子の向かいの席に着いたが、ふと何かが気になって左右に首を振る。原因に思い当たり、軽く首を傾げる。
「そういえば、祐麒さんは?」
「祐麒さんなら、具合が悪化して休んでいるわ」
「え、ええっ?! 大変、ちょっとお母様、のんびりと朝食をとっている場合ではないじゃありませんか!」
椅子から立ち上がる祥子。
「ちょっと落ち着きなさい、祥子さん。どこへ行くの?」
「決まっているでしょう、祐麒さんの様子を見に行ってきます」
清子が何かを言う間もなく、祥子はずかずかと歩いていってしまった。
そして数分後。
今度は、顔を真っ赤にして食堂に入ってくる祥子。
「――お母様、なんで嘘など仰るのです! 昨夜のうちに目覚めて帰られたというじゃないですか。私、和子さんを問い詰めてしまったじゃないですか!」
「ごめんなさい、ちょっとした冗談だったのだけど、そんなに祥子さんが血相を変えるとは思わなくて」
「冗談にしても、悪質すぎます」
怒ったように横を向いて、祥子は椅子に座りなおす。その様子を見て、清子はくすくすと笑う。
「ごめんなさい、確かにちょっと悪い冗談だったわね。でも、祥子さんがあんなに慌てるなんて思わなかったから」
「だって、お客様としてお呼びして、具合が悪くなって、しかもそれがさらに悪化したなんてことになったらお詫びのしようもないじゃない」
「ふふ、そうね」
「・・・・なにが可笑しいのかしら?」
まだ笑っている清子に対して、祥子は照れ隠しをするかのように口を尖らしている。そしてその怒りは、やがてこの場にいない者にたいしても向けられる。
「祐麒さんも祐麒さんだわ。体調が良くなったのなら、一言くらい挨拶してくださってもよいのに」
そう言って頬を膨らませる祥子。
笑いを堪えるようにしながら祥子を見ている清子は、少しもったいぶったようにして口を開く。
「祥子さん昨夜、パーティで疲れたから早めに休んだでしょう」
「それでも、お客様をお見送りしないなんて失礼じゃないですか。起こしてくれて、構わなかったのに」
「ええ、祐麒さんもそう思って祥子さんの部屋を訪れたのだけれど、祥子さんがあまりによく寝ていたので、起こすのもかわいそうだと思って、声をかけなかったそうよ」
「っ?! っ、な、なっ」
口につけたモーニングティーを思わず吹き出しそうになり、こらえて飲み込んだ後、白いハンカチで口元を拭いながら祥子は目をむき、口をぱくぱくとさせる。
祥子の様子を見てみぬふりをして、清子は続ける。
「だから、祥子さんの頬に軽くおやすみの口づけをして、挨拶がわりとされたようよ」
「っ!!」
慌てて、頬を手でおさえる祥子。
顔はすでに、真っ赤になっている。
「じゃ、じゃあ、ゆ、祐麒さんは私の寝姿を見て・・・・く、加えて、私の頬に・・・・?」
あわあわといった感じで周囲に目を向け、左手で右腕を撫で、分かりやすく狼狽する祥子であったが。
少ししてから動きを止め、清子に鋭い視線を向ける。
だが、その瞳は心なしか潤んでいるようにもみえる。
「・・・・そんなこと、あるわけないでしょう。祐麒さんは紳士です、そんなことをするはずがありません。お母様、悪い冗談にもほどがあります」
「あら、ばれちゃったの」
祥子に睨まれても、清子は堪える様子はない。さすがに祥子の母というべきなのか、それとも赤くなって怒っても迫力がないのか。
「でも、そんなことをいって、本当は少し残念とか思っていないかしら、祥子さん?」
挑発するように軽く笑みを浮かべ、首を傾げる清子。
年齢に比して可愛らしい動作ではあるが、今の祥子にとっては神経を逆なでる行為にしかならなかった。
「思っていません!」
大きな声でそう言うと、祥子は紅茶のカップを、音を立ててソーサーに置いた。勢いで、紅茶の滴が跳ねてテーブルに落ちる。
さらに、髪の毛を振り乱すようにして立ち上がる。
清子は落ち着いた様子で、そんな祥子を見上げる。
「あら、どうしたの?」
「もう、部屋に戻ります」
「朝食はまだすんでいないでしょう?」
「・・・・きょ、今日は食欲ありませんから、結構です」
「あらあら、祐麒さんが帰られてしまったから?」
「失礼します!」
体から怒気を発しながら、祥子は食堂を出て行く。途中、使用人が祥子に声をかけようとして、その鬼気迫る表情に萎縮してしまったくらいだ。
「・・・・ちょっと、からかいすぎたかしら」
清子は反省する様子もなく、お茶を一口すするのであった。
自室に戻った祥子は、苛立ちをどこにぶつけることも出来ずに部屋の中を行ったり来たりしていた。まさか、いつもはのほほんとしている清子があのような悪戯をすると思ってもいなかったし、その悪戯に簡単に引っかかってしまった自分自身にも腹が立つ。
清子は軽い冗談、というくらいの気持ちで言ったのだろうが、思いのほか本気にしてしまったこともまた、祥子に追い討ちをかける。
加えて。
ぐるるるぅ~っ
結局、朝食を抜いてしまったせいか、空腹を訴えるかのようにお腹が鳴って。
「――っ!!」
思わず、お腹を手でおさえて周囲を見回してしまう。もちろん、自室内には祥子自身しかいないのだが、羞恥で頭に血が昇る。これでは、薔薇の館で盛大にお腹の虫を鳴かせた祐巳のことを叱れない。
「このっ・・・・」
またもや鳴りそうになるお腹を拳で叩く。
「―――くっ」
強く叩きすぎて、苦しくなった。
自分の部屋、誰も見ていないから良かったものの、醜態の連続であった。祥子は一度、落ち着くべく、大きく息を吸う。
しばらくしてようやく、冷静さを取り戻す。
「まったく、私としたことが・・・・」
呟きながら、それでもまだ室内を歩き回る。
―――と、姿見に写る自身の姿が目に入った。いつもと変わりのない姿が写し出されているが、祥子はすっと近寄った。
鏡に顔を寄せ、じっと顔の右半面を見る。同じようにして、左半面も見て、一歩、鏡から離れる。
(―――まさか、よね)
指先で頬をつつく。
起床した後にきちんと洗顔もしたし、もちろんそこには何もないのだけれど、清子の言った悪い冗談が妙に頭に残ってしまって。
「いやだわ」
頬が熱くなっている。
これは、清子に怒って頭に血が上っているからだと自分に言い聞かせる。
身を翻し、鏡に背を向ける祥子。
磨かれたように光を放す鏡は、ただ祥子の長く美しい黒髪が揺れる様を映していた。