小笠原家に仕える者達の朝は早い。まだ日が昇る前から動き出す者達も少なくなく、使用人の中で最も下っ端であり若い祐麒は、誰よりも先に働き出さねばならないが、それを苦だと思ったことはない。
力仕事、掃除、料理の下準備、手伝えるものならなんでも片っ端からやる。何をやっても身になるし、選んでなどいられない。
朝の仕事を終えて朝食をとったら、日にもよるがそこから大学へと通う。
大学の講義、特に午後一は相当に睡魔が襲ってくるが、様々なアイテムを駆使して必死に眠らないようにして講義を受ける。大学の他の仲間たちは、そこまで真剣に受けなくても良いじゃないか、もっと適当にやれ、試験さえ通ればいいだろう、そう言う輩が多いけれど、そんなわけにはいかない。
大学を卒業したからといって企業に就職する予定ではなく、そのまま小笠原家に仕えるつもりだから、余計、真面目に大学に通う必要なんてないと思われるかもしれないが、それは違う。
ただ一介の使用人であるならともかく、祐麒に求められていることはレベルが違う。様々な知識を身に付け、見聞を広げ、人間としての成長をするためにも大学をきちんと卒業しろと、高校を卒業したらすぐ小笠原家に入ろうとした祐麒は諭された。
「福沢、週末に合コンあるんだけど来ないか? 今回は藍女が相手で、向こうのレベルも相当高いみたいだぞ」
「あー、悪い、週末は予定があって。それに、合コンはパスだって言ったろ」
「なんだよ、お前まだ童貞だろ?」
「そうだけど、それは関係ないし」
別に飲み会そのものに全く参加しないわけではない。友人づきあいも大切だし、学生時代の知り合いや伝手が今後、どこでどのように役立っていくか分からない。むしろ、様々な交友関係を築いておけというのもまた、祐麒が言われていたことだ。
だがそれだとしても、合コンは気が進まない。人数合わせだとも言われるが、それで万が一にも相手の女子に気に入られでもしたら困る。合コンで彼女を作るつもりなどないのだから。
「福沢くーん、夏休みに海に遊びに行こうって話なんだけど、どう?」
「ちょっ、有沢さん、近い近いっ」
ぐいぐいと身を寄せてきた女友達から慌てて離れる。
「お、照れた? これはまだあたしにも脈ありかな」
なぜか祐麒のことを気に入っていて、積極的にモーションをかけてくる彼女にはしばしば困らされている。
「有沢さん美人なんだから、他に彼氏作りなよ」
「えー、福沢くんよりいい人がいたらねー」
派手な金髪の彼女はハーフ、顔立ちも派手な美人で胸もお尻も大きくて肌の露出も多く、見た目はビッチなのだが、一途に祐麒のことを思ってくれているらしい。実際、ずっと彼氏は作っていないとのこと。
だがそれでも、彼女の思いに応えるわけにはいかないのだ。
「他の皆と一緒の遊びなら、日が合えば付き合うから。あ、俺そろそろ帰らないと仕事に遅れちゃうから、またね」
「あ、もう、福沢くんったらー」
友人達の誘惑を振り切って帰宅したら、そこから夜はまた小笠原家での仕事である。
ハードなことには違いないが、バイトで夜遅くまで働いている奴だっているわけで、それと変わることはないと思っている。
「いえいえ、変わっているでしょう。よくもまあ、好き好んで働いていると思いますよ?」
同僚でもあり先輩でもある亜芙羅が呆れたような顔をして、懸命に浴室を掃除している祐麒のことを見ていた。
「使用人見習い、いえ、実際にはアルバイトと変わらぬ身なのですから、もう少し気を緩めても構わないのに」
「そういうわけにはいきませんよ、手抜きなんかしたら、それこそ小笠原家に仕えることなんて出来なくなってしまいますから」
「手を抜けと言っているのではありません、もう少し要領よくやってもいいと言っているのです。まったく、そんなところまで……」
亜芙羅の言っていることは間違いではないのかもしれないが、若いうちから要領よくやることを覚えてもろくなことにはならない。若いうちの苦労は買ってでも背負えという、昔ながらの言葉に従って祐麒は働く。
それに何より。
「――こら祐麒、まだ仕事終わってないのか!? 予定より五分も遅れているぞ!」
勢いよく浴室に姿を見せたのはアンリだった。
「はい、申し訳ありません、アンリさん!」
「謝るくらいなら、遅れないようにやれ!」
先輩であり、祐麒の教育係でもあるアンリが柳眉を逆立てている。小笠原家の人たちの前では大人しく従順な使用人だし、他の先輩使用人に対してもそれは同様なのだが、ただ一人の後輩である祐麒に対してだけは厳しく接してくる。
「……ちっ、仕方ねえな。ほら、あたしも手伝うからさっさと終わらすぞ」
モップを手に、浴室に入ってくる。
「いえアンリさん、俺の仕事です。アンリさんに手伝ってもらっては」
「うるっせーな、さっさと終わらせないお前が悪い! いいか、大事なのは旦那様、奥様、お嬢様にご迷惑をおかけしないことだ、お前の事情は知ったことじゃない。手伝われるのが嫌なら予定通りに終わらせろ」
「――――はい」
悔しいがアンリの言うことが正しい。自分で自分の尻拭いくらいしたいが、それによって雇用主たちに迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
「……そんなこと言って、別にここの掃除が少しくらい遅れたくらいで、今日はもう誰も使いませんよ? なんだかんだ言って、祐麒さんを助けているのでしょう」
「ちっ……な、何言ってんだよ亜芙羅っ!? この後にも予定は詰まっているんだ、それを遅らせるわけにはいかないだけだ」
尚、亜芙羅の方がアンリよりも先輩だが、他に人がいない時はこんな感じになる。
「そこんとこ、分かっているよな祐麒?」
「もちろんです、申し訳ありません!」
汗を垂らしながら少しでも早く掃除を終えるべくスピードを上げる。
「馬鹿、早くやりゃあいいってもんじゃないっつてんだろ、ちゃんと掃除できてなかったら意味がないんだよ!」
祐麒の磨き残し部分をアンリがフォローする。いちいち謝っていたらいくら時間があっても足りないので、無心で洗う。結局、予定よりも十分遅れで浴室の清掃は終了した。
「……うし、次行くぞ、次」
「はいっ!」
汗一つかいていないアンリの後に続いていく祐麒を、亜芙羅は肩をすくめて見送った。
浴室清掃の後は、厨房の掃除と後片付け。専属の料理人達に混じって仕事をこなすと、軽い夜食を差し入れしてくれる。
「――ありがとうございます。ですが、まだ残務がありますので、終了してからありがたくいただきます」
丁寧に頭を下げて礼を告げ、アンリは差し入れの容器を受け取る。
残務といっても、あとは翌朝に出すゴミをまとめるだけなのだが。
「どうする祐麒? 今日はこれで終わるか?」
ゴミ袋をまとめて置き、一通りの仕事が終わったところでアンリが問いかけてくる。
「いえ。今日も、お願いいたします」
「……いい根性だ。着替えてきな」
アンリに言われた通り、仕事の服から着替えて小笠原邸内にある室内運動場へと移動し、軽くウォーミングアップをしているとやがて同じように着替えたアンリがやってくる。
引き締まった肉体は全身がバネのよう、無駄な肉などどこにもついておらず、細身だけれどもしなやかな強さを持った体だということが見てわかる。
「――お願いします」
「よし、来い!」
祐麒の方から飛び込んで拳を振るうが、いとも簡単に受け流される。
「だから、目がどこを攻撃するか言いすぎてるって言っているだろ!」
フェイントも、足技も、全く決まらないがそれも当然、十代の前半から様々な場所で色んな相手に対して戦ってきたアンリ、たかだかここ数年鍛えはじめただけの祐麒の攻撃が通じるはずもない。これはあくまで、祐麒が強くなるために稽古をつけてもらっているだけなのだ。
「――ぐぁっ!?」
もちろん、アンリだって攻撃をしてくる。ガードをしたと思ったのに、そこから軌道を変えて蹴りを打ち込まれて吹き飛ばされ、床に転がる。
「どうした、終わりか?」
「いえ、まだまだ!」
祐麒はいずれ、祥子のボディガードという立場も期待されており、そのためには強くならなくてはならない。そのために、こうしてアンリにお願いして仕事の後、あるいは仕事が始まる前に稽古をつけてもらっているのだ。
人を教えたことなどないから、手加減できるかどうかわからないと渋ったアンリを説き伏せ、こうして日々研鑽を続けている。
「甘いっての、スポーツじゃないんだ、相手にはルールなんてないんだぞ!!」
海外で揉まれてきたアンリの強さは本物である。もちろん、女性として体の強さに限りはあるのだろうが、だからこそ力だけに限らない戦い方を身に付けてきたのだろう。相手の急所、弱い部分を的確に攻撃してくる。更に、腕と足が長いので遠心力を生かし、掌底や踵など、体の強い部分を有効活用して打撃を叩きこんでくる。
時間としては長くないが濃密な稽古を終えたところで、差し入れの夜食を口にする。基本は体力だ、食べておかないと明日にも響く。
こうして早朝からのメニューが一通り終わったところで帰途に就く。これから家まで帰るのは非常に辛かった――しばらく前までは。
しかし、今は。
「ふぅ……さすがにきついな……」
クールダウンを終え、疲れた体を引きずるようにして玄関の扉を開くと。
「うあぁ、祐麒ごめんな、体大丈夫か? 打ち身、痣だらけだよな、ううぅっ」
「ちょ……あ、アンリさん、大丈夫ですから」
出迎えてくれたアンリが、心配そうに祐麒の体に手を触れてくる。
「だけど痛そうだよな……ごめんな、仕事の時は手を抜けないからさ」
「当然ですよ、むしろ厳しくしてくれて有り難いです」
そう、実はしばらく前から祐麒とアンリは正式に付き合うことになったのだ。そして、それまでは早朝から自転車で小笠原家にやってきて、夜遅くに帰っていたのだが、さすがにそれはきついからとアンリの住む離れで同居(同棲?)するようになったのだ。
「ちょっと待ってな、手当てしてやるからな」
その場にしゃがみ込むアンリ。
既に風呂も済ませたのか、しっとりと水気を含んだ癖のある髪の毛は艶を帯びて光り、シャンプーの良い匂いが香る。スポーツブラにTシャツ、ショートパンツというラフな格好になったアンリからは、仕事中の厳しさは消えている。
初めてアンリに告白をしてから三年以上が経ってようやく、受け入れてもらえた。それまで何度か告白しては、跳ね返されてきた。
「は…………はぁ!? な、何、人のことからかってんだよ!?」
「からかってなんかないですよ、俺は本気でアンリさんのことが」
「ありえないだろ、あ、あたしのこと好きなんて! だ、大体祐麒お前、まだ高校生だろうが、早すぎるだろ」
「何が早すぎるっていうんですか。別にそんな」
「だ、だって、付き合うっつったら当然、け、け、結婚を前提にってことだろ? お前、もっと冷静にそういうことは考えて」
「……え?」
「高校生でそこまで決める必要ないだろ。それも、あたしみたいな学もない、家もない、ガサツな女を相手にすること無いだろ…………って、なんだよ違うのか? あ、やっぱりあたしのことからかって冗談で」
「冗談なんかじゃないです、本気で……そう、俺はアンリさんと結婚を前提にお付き合いしたいです!」
どうやらアンリは本気で言っているらしいということを悟り、一瞬ためらいはしたものの、アンリに対する想いは決して嘘ではないと改めて思った祐麒は本気で告白した。
「……駄目だ!」
だが、アンリは頑なだった。
清子に惹かれ、清子と接するためにアンリに協力してもらい、接しているうちに、アンリと仲良くなった。そして、いつしかアンリの魅力に取り込まれていた。
不器用だけど真面目で、喧嘩っ早いけれど可愛いものが好きで、怒りっぽいけれどお化けが苦手。そんな彼女がたまらなく愛おしくなってしまったのだ。
しかし、そこからは苦難だった。
アンリも祐麒に対して悪い気持ちは持っていないと思うのだが、どうしても首を縦に振ってくれない。
どうやら、アンリの貞操観念は相当にかたく、それは告白した時の反応、返事からして分かることだったが、交際すら受けてくれないとは思わなかった。
高校を卒業すると同時に小笠原家でも働き始め、クリスマスやアンリの誕生日に告白しては玉砕を繰り返すこと三年、祐麒の本気をようやく受け取ってくれたのが大学三年生になった春のことだったのだ。
「ちょっと待ってな、救急箱を出すからな」
と、祐麒に背を向けて四つん這いになって救急箱を取り出そうとするアンリ。アンリは意外と無防備というか天然で、こうして隙を良く見せる。お尻を突き出し、ショートパンツから伸びたしなやかな太もも、左右に揺れるお尻、そしてショートパンツの隙間から見える下着、疲れ切っているとはいえ若い祐麒はたちまちに反応してしまう。
「アンリさん」
「うわっ、何するんだよ、すぐに軟膏取り出すからちょっとくらい待てって」
背後から抱きしめると、わたわたと慌てだすアンリ。良く鍛えられた腹筋が感じられるが、意外とアンリの体は柔らかいのだ。
「……って、こら祐麒、な、なんか変なものがお尻に当たってる!!」
気付かれた。
「お前……わ、分かっているだろうな。け、結婚するまでは、その、そういう、え、えっちなことはダメなんだからな」
顔を赤く染めながら言うアンリ。
「はい、分かってます。でも、こうして抱きしめるのは良いんでしょう?」
「いいけど、でも、お尻に当たっているのが駄目!」
肘打ちをされ、体を離される。
そう、自分自身のことに関してはやたらと貞操観念の強いアンリは、婚前交渉はダメどころか、キスすら許してくれないのである。一緒の部屋で暮らし始めているというのにそれでは堪ったものではないが、我慢するしかない。
ならば結婚をとも思うが、学生の内から軽々しく言うな、ちゃんと働いて稼ぎを作ってからにしろともっともなことを言われてしまった。
本人自身、結婚を前提にと言っていたのだから、祐麒の告白を受けた時点で結婚は考えているのかもしれないが、すぐにというわけではないらしい。そんなわけで、祐麒はアンリと付き合い始めたというのに、ずっとおあずけを食らっている状態なのである。
「結婚したら、祐麒が望むことはなんでも、好きなだけしてやるから、それまでは我慢しろ。できなかったら、別れるからな」
「なんでも? 好きなだけ?」
「おう」
赤面しながらも、真顔で頷くアンリ。
そして祐麒は。
「ちょ……おまえ、鼻血なんか出して、何を考えたんだよ!?」
「いやだって、なんでも好きなだけとか言うから……」
「だから、それで鼻血出すくらいのこと想像したのかってんだよ。この変態が!」
そんなこと言いながらも、優しく祐麒の鼻血をぬぐってティッシュを詰めてくれるアンリ。普段は野生の豹のような雰囲気を漂わせているが、こうしているときは可愛らしい猫のようである。
「あ、アンリさんっ!」
「だぁぁっ! だから盛るなっての!!」
跳ね返されるが、これもアンリとのコミュニケーション、スキンシップであり楽しみの一つでもあるのだった。
おしまい