「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
朝のすがすがしい空気に、生徒達のさわやかな挨拶がこだまする。学園祭を近くに控え、リリアン女学園内も日に日に盛り上がってきているように感じられる。
かつての私は、このような雰囲気の中でも楽しむということはできなかった。でも、友人ができて、仲間ができて、今の私は、自然とお祭り前の空気というものを、どこかわくわくした気持ちで受け止めていた。
マリア像の前で、いつものとおりに手を合わせてお祈りをする。
ふと、不意になぜか昨日のことを思い出す。
あれではまるで、いつか、誰かから聞いた漫画の世界の出来事のようである。走っていて、曲がり角で偶然にぶつかって。思い出すだけでも恥しい失態を晒してしまったわけだけれど、どこか可笑しくもある。自分がまさか、そのような体験をしてしまうなど、思ったこともなかったから。
確か聞いた話では、そのような事態に陥った男女は、最初は反発しあいながらもお互いのことが気になり、最終的には恋に落ちるのが定番だと――
「…………」
そこまで考えて、頭を振る。
一体、何を馬鹿なこと考えているのだろうか。それこそ御伽噺のようなことが現実にあるはずがない。
大体、『恋』というものが私には想像がつかない。
時々、私は忘れてしまいそうになる。いかに自分が、幸せな環境に置かれているか。お寺の娘ということもあり、いつ、リリアンを離れてもいいように過ごしてきた。しがらみをなくし、出来うる限り身軽でいて、飛び立てるように。
だけれども現実の私は、翼なんて持ってなくて、一人で飛ぶことなんて出来なくて。そんな私なのに、素敵な先輩が、友達が、お姉さまが、妹が出来て、得られないと思っていたものがこんなにも身近に溢れていて、ともすれば幸福に押し潰されそうになるのに、その幸福すらも日常の中で忘れてゆきそうになって。
それらに加えて『恋』など、私にすることが許されるのだろうか。私は『恋』に対する希望よりも先に、奈落のごとき絶望を思い浮かべてしまう。
いや、加えて言うならば自分以上に、おそらくは相手にこそ残酷であるはずだ。
だって。
初めから別れの分かっている恋なんて、なんて残酷なものだろう―――
リリアン女学園の学園祭は、盛況のうちに終了した。
花寺の学園祭、体育祭、修学旅行と続いていたイベントも、これでひと段落ということになる。
しかし私には、まだ終わっていないことがあった。
もちろん、剣道の交流試合ではない。あれは、あくまで令さまと由乃さんのイベントであって、私達は応援という立場で外から関わるのみだから。
つぼみの妹問題も、既に乃梨子という妹がいる私に直接的な影響があるわけでなく、由乃さんと祐巳さんの方が色々と大変そうであった。
では、何が問題なのかというと。
学園祭が終了に向かうさなか、キャンプファイアーのダンスまでのわずかな時間、私は彼の人に呼び止められ、人気の少ない校舎裏へと連れられていった。とはいえ、人の気配はあちこちからするし、声や校内放送も耳に入ってくる。喧騒の中の空白地点とも言うべき場所で、私は彼と向かい合う。
「無事に、終わりましたね」
「はい。花寺学院の皆様のご助力のお陰です」
「藤堂さんたち、リリアン女学園の皆さんの力ですよ。俺たちはまあ、ちょっとでも笑いをプラスできたなら、良かったかな」
わずかに照れを見せながら、頭をかく祐麒さん。
成功に終わった学園祭、おそらく私も祐麒さんも、充実感を覚えている。山百合会主催の劇も、例年と違って非常に親しみやすいものだったのではないだろうか。あれほど笑いの発生した山百合会の劇は初めて観たと、先生方も仰っていた。
リリアン、花寺、両方の学校の協力なくしては出来なかったことに違いない。
私は改めて、感謝の意を込めて頭を下げた。
「そんな、やめてくださいよ……ってそうだ、ゆっくり話していたいのはやまやまだけど、今は別の用事があって」
キャンプファイアーの準備を知らせる放送を耳にして、祐麒さんは慌てたように話を変える。もう、リリアンの生徒、教師以外の来場者は退場している。お手伝いをしてもらった花寺学院の皆さんにも、帰ってもらわねばならない。
だから私も、わき道にそれるのはやめて、用件を尋ねてみた。すると。
「あの、しばらく前の約束、覚えています?」
「約束―――」
勿論、覚えている。むしろ、祐麒さんの方が忘れてしまっているのではないかと心配するくらいだった。それくらい、祐麒さんからは今まで何のアクションもなかったのだ。いくら、学園祭が終わってからだと言っていたとしても。
「ほら、お礼っていうか、別に俺はそんなこと気にしないんだけれど」
「駄目です、そんなの」
「うん、だから一つお願いしようかと思って」
「あ、はい」
ほっとする。
どうしても、負い目を感じてしまうから。相手である祐麒さんが気にしないと言っているのだから、ひょっとするとただの自己満足かもしれないけれど、それでも何もしないでは済ませられないのだ。
祐麒さんは、制服の内ポケットに手を差し入れて何やら探している。焦っているせいなのか、なかなか目的の物が取り出せないようだ。
いくら、時間が押し迫っているとはいえ、そこまで慌てることはないのにと、首を傾げてしまう。
しばらくして、ようやく祐麒さんは目当てのものを探り当てたらしい。
「えーと、さ、物凄く図々しいとは思うんだけれど……良かったら此処、一緒に行ってくれませんか?」
差し出された紙を、条件反射で受け取る。
紙に書かれている文字を読むと、それは。
「―――入場券?」
どこの、何の入場券だろうと思ってさらによく見る。するとそれは、国内でも有名なテーマパークの入場券だった。
ということは、祐麒さんはこのテーマパークに、私に一緒に来て欲しいということか。
「はい……ええと、あの、私以外の人は」
「……え?」
「いえ、ですから祐巳さんとか由乃さんには、私から声をかければよろしいですか?」
「いやいやいや、チケットは二枚しかないですから」
「と、いうことは」
「えーと、俺と、藤堂さん」
指で順に、祐麒さん自身と私を指す。
私はもう一度チケットに目を落とし、五秒ほど考えて、ようやく合点がいった。
合点はいった、のだけど。
「二人で、ですか?」
「あー、やっぱりそんなのやめたほうがいいですよね。すみません、こ、この話は聞かなかったことに」
慌てたように、体の前で手を左右に振る。
私はちょっと、指を顎にあてて考える。
―――どうして、こんなにうろたえているのだろう。
「ほ、他のこと考えたほうがいいですよね」
「いえ、別に構いませんけれど……」
「そうですよね、やっぱり……て、え?」
「あ、いえ、私でよければ構いませんけれど」
チケットをちらりと見せる。
というよりむしろ、お礼といいながら、チケットをもらって出かけるなんて悪いのではないだろうか。どちらかといえば、私がチケット代を支払うべきではないだろうかと。
「あ、この入場券は別に新聞屋からもらっただけですから。それに、入場券だけですし」
「と、いいますと?」
「入場券は入場するだけ。入場した後、アトラクションを楽しむには、また別にチケットが必要なんですよ」
「ああ、なるほど」
道理で、チケットに書かれている値段が随分低額だと思った。有名なテーマパークの割に良心的だなと一瞬、考えたけれど、それならば納得がいく。それにしても、この手のことにつくづく疎い自分が、少しばかり恥しい。
「それでは、そのアトラクション用のチケットは、私がお支払いすればよいですね」
「そんな必要ないですよ」
「でも、私のお礼なのに」
「いえ、つきあっていただくだけで十分ですから。藤堂さんが納得いかないのであれば、せめて割り勘で」
無論、異論のあるはずがない。というより、それでいいのかと思ってしまう。これでは、あまり祐麒さんにプラスとなるものがない。中に入ったら、せめて食事代くらいは私が出したほうが良いのだろうか。
「……ちなみに、このことは祐巳を含む、他の方にもくれぐれも内密で」
「どうして、ですか?」
「いや、どうしてと言われても……」
困った顔をする祐麒さん。
ひょっとして、他の誰かを誘ったけれど、都合が悪かったとか。理由はわからなかったけれど、これ以上困らせても悪いし、特に問題のあることだとも思えないので、素直に頷くことにした。
そうこうしているうちに、そろそろダンスも始まろうかという時間が迫ってきた。祐麒さんには悪いけれど、本当にお引取り願わないといけない。
祐麒さんは鞄も持ってきていたので、そのまま校門まで付き添っていくことにした。一般の来場者は皆帰ったし、リリアンの生徒達は後夜祭のために校庭に集まっているから、校門までの道のりに人の姿は見当たらなかった。
後夜祭に向けての華やかさと、終息に向かっているお祭りの侘しさを同時に併せ持ったような空気の中を、ゆっくりと歩く。
夏が終わり秋も順調に過ぎ行き、次第に風も肌寒いものとなりつつある。出かける際には、少し暖かい格好をして行った方がいいかもしれない。
そんなとりとめもないことを考えているうちに、正門に辿り着く。
「どうもありがとうございます。ここで、十分です。それじゃああの、細かいことはまた今度……ああ、学園祭も終わっちゃったから、会う機会もないのか。どうしようかな」
「祐巳さんに伝言をお願いするのは……」
「だだだ、駄目ですよ、だめっ! それは」
力いっぱい否定する祐麒さん。
「それでは……実家の方に電話をいれていただけます? 番号はですね、ええと」
実は私はいまだに携帯電話を保有していない。親からは、そろそろ保有したらどうだと言われたこともあるけれど、喫緊で必要だとは思えなかった。そもそも学園には持ち込み禁止となっているし、今まで使用せずとも特に問題は無かったし、焦って入手する必要はないと思ったのだ。
桂さんなんかに言うと、「えーっ、そうなんだ、志摩子さんらしいね!」なんて笑われてしまったけれど。
そんなことをなんとはなしに考えつつ、何かメモ帳と書くものを探そうとして、今は手ぶらであることを思い出す。私の様子を見た祐麒さんが、鞄を開けて中を探り、目当てのものを取り出そうとして―――落としてしまった。
何に引っかかったのか、バラバラとこぼれ落ちるペン、消しゴム、定規等々。急いでしゃがみこみ、拾い集めようとする。私もその場にしゃがみ、転がっていこうとする消しゴムを拾った。
「す、すみません」
「いえ……あ、これ」
筆記用具類と一緒に地面に落ちていたのは、どこかで見覚えのある筆入れ。あの日、祐麒さんが忘れ、私が届けたものだった。
思わず、笑いがこぼれる。
「藤堂、さん?」
「ごめんなさい。ただ、よほどこの筆入れと、縁があるのかなって」
シンプルな、飾りの無い黒い筆入れを手に取り、拾った消しゴムを中におさめる。
「うーん、ひょっとしてこの筆入れ、藤堂さんのことが気に入ったのかな」
「あら」
そんな風に考えることは出来なかった。しげしげと、手にした筆入れを見つめる。言われたように考えると、なぜか愛着がわくような気がするから、人の気持ちというのは不思議なものだ。
私は、さらに定規を拾って中にいれ、祐麒さんに渡す。
「全部、あります?」
「えーと……ボールペンがないな」
既に日は暮れ、灯りがあるとはいえ仄暗い道なので、一度見失うと見つけ難い。二人してきょろきょろと、周囲を見渡して探す。
すると、ふと、指先に触れる、地面以外の何かを感じた。
「あ、ごめん」
離れてゆく、感触。
どうやら祐麒さんの指先だったようで、探しているうちに体が随分と近くまで寄っていたみたいだった。
バツが悪そうに、背を向ける祐麒さん。
学園祭の準備などで、手が触れる機会など何回もあったのだ、謝られるほどのことではないけれど、なんとなくつられるようにして、私も謝ってしまった。
「えと……ああ、あったあった」
立ち上がる祐麒さんは、そそくさと筆入れを鞄にしまう。
「あの、せっかく出したのに」
「あ、ご、ごめんっ」
また、慌てて出す。
その様子が可笑しくて、私は笑いで震えそうになるのをこらえながら、メモ用紙に実家の電話番号を記して渡した。
「じゃあ、俺の家の電話番号も」
「知っています」
「ええっ? 教えましたっけ?」
「だって、祐巳さんと同じですよね」
「そ、そっか。そりゃそうですよね」
ころころと変わる表情は、やっぱり祐巳さんと同じよう。
「すみません、長々と」
気が付けば、校庭の方からダンスの音楽が鳴り響いているのが聞こえてくる。どうやら、始まってしまったようだ。
「いえ。それでは電話、お待ちしています」
「はい。それじゃあ、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。今日はありがとうございました」
改めて御礼を述べる。祐麒さんは軽く手を振り、歩き出す。
ふと思い立って、私は口を開いた。
「――楽しみにしていますね。実は私、行くの、初めてなんですよ」
この前は、姿が見えなくなってからだったが、今回は違う。
だけど、祐麒さんは。
「え、何か言いました?」
既に数メートル歩いていたこと、加えて後夜祭会場である校庭から流れてくる喧騒が、私のさして大きくも無い声を消してしまったようで。
だから、私は。
「……おやすみなさい」
と、やんわりと告げるだけだった。
電話は、翌日の夜にかかってきた。
父も母も手が離せない状態だったので、ちょうど私が電話をとることになったのだが、初め祐麒さんは緊張していたのか、声が強張っていて、口調もかしこまったものだった。まあ、後から考えれば、誰が出るかも分からないのだから丁寧な言葉遣いになるのも当然なのだけれど、そのときの私は、なぜかそんな祐麒さんの様子が無性におかしかくて、声を聞きながらつい笑ってしまった。
電話をとったのが私だということに気がついたのか、それとも笑われたことによって逆に力が抜けたのか、すぐにいつも通りの祐麒さんに戻る。
それから話は、この前終わった学園祭のこと、それぞれの生徒会のこと、生徒会メンバーのこと、祐巳さんのこと。
ほんのちょっとしか話をしていない気がしたのに、気がつくと電話をし始めてから三十分近く経っていた。今まで、友達と長電話というものを経験したことのない私は、純粋に驚いてしまった。
『……あ、もうそんな時間なんだ。すみません、遅くなっちゃいましたね』
「いえ、私も楽しかったですから」
『あまり長電話しても迷惑ですよね。それじゃ、おやすみなさい』
「はい、おやすみなさい」
互いに挨拶を交わし、受話器を置く。
時計を見て時間を確かめ、ゆっくりと足を動かして自分の部屋の前まで来たとき、私は首を傾げた。
結局、祐麒さんは何のために電話をかけてきたのだろうか、と。
その時、またも電話の呼び出し音が鳴った。
踵を返し、電話機の方に向かったが、今度は母の方が早かった。何やら頷いて丁寧な挨拶をしたかと思うと、送話口を手で塞ぎながら、私の方に振り返る。
ちょっとした予感を得ながらも受話器を耳にあてると。
『ご、ごめん、藤堂さん。約束の話するの、忘れていた……っ』
慌てた様子が電話の向こう側で浮かび上がって見えるようで、私は。
思わず、声をあげて笑ってしまったのであった。
今度は十分ほどで通話を終えた。
わずかな余韻を感じながら、静かに受話器を置くと。
「お友達?」
「あ、はい。花寺の生徒会長さんで、文化祭でご協力していただいて」
「そう。でも、安心したわ」
「え?」
母が、にっこりと包み込むような笑顔で私を見ていた。
「志摩子も、あんな風に声を、表情を弾ませることが出来るのね」
ただその一言が、私を立ちすくませる。
そうだ、今思い返してみれば、自分自身、驚くくらい自然に声をあげて笑っていたし、楽しくお喋りをしていた。もっとも、話をしていたのは専ら祐麒さんのほうで、私は頷いたり、相槌をうったりするのが主だったけれど。
祐巳さんや由乃さん、それに乃梨子とだって普通に話をしていると思っていた。でも、彼女達と話しているときとは違う何かが、心の中から発生しているような、そんな気持ち。
「長電話なんて女の子の特権みたいなものなんだから、そんなに遠慮しなくていいのよ」
動きの止まってしまった私を見て、母は変な気遣いを見せながら居間へと消えていった。
そういえば。
祐巳さんとも、由乃さんとも。
妹の乃梨子とですら、あんなにも電話で長いこと話をしたことがなかったと、今さらながらになって思い。
テレビの音も、車の騒音も、何も聞こえてくることの無い静かな家の中、私は無言で、何の変哲も無い電話機をただじっと、見つめるのであった。