イタリアでの生活には、完全に馴染んでいた。二年以上も生活しているのだから、慣れない方が嘘というものだろう。
7月に入り、季節的にはもっとも暑い時期に突入していたが、日本のように湿気の多い夏ではないので、日陰にいればそれなりに涼しいことは分かっている。エアコンは喉に良い影響を及ぼさないので、日本にいた時は色々と苦労したが、イタリアにいる間はその辺については多少、楽になっている。
しかし、気分的にはあまり楽な気持ちになれない。というのも、しばらく前からスランプが続いているのだ。
トレーニングをしても、指導を受けても、上達しているという感じを受けず、むしろ悪くなっているような気さえする。もちろん、レベルが低い頃は上達するのも速く、レベルが上がるほど、上達する速度は遅くなるくらいは理解できる。
壁にぶつかったのか。
壁を乗り越えない限りは、静に声楽の世界での未来は見えない。ほどほどのレベル、適当なレベルで良いのなら、今のままでもよいかもしれないが、静の目標はもっとずっと先にある。
「は~あ、こんなことになるとはなぁ」
ベッドの上で大の字になって寝転がり、天井を見上げる。自惚れているつもりはなかったけれど、自分が行き詰るということを想像したことがなかった。それ自体が自惚れだと言われれば、言い返す言葉もないが。今までが、順調に進みすぎていたのかもしれない。少しは、休息も必要なのか、それともがむしゃらに突き進むべきなのか。今の静には、どうすればよいのかも判断つかない。
ただがむしゃらに練習したところで、喉を痛めるか、余計に調子を崩しそうで怖い。気分転換にテレビでも見ようかと、部屋から出てリビングへと向かっていく。イタリアで世話になっている家には、リビングにしかテレビがない。もともと、さほどテレビを見るわけではないし、そもそも外国の番組だとよくわからない部分も多い。それでも、二年も暮らしていれば、色々と分かってくる。
階段を下りていくと、リビングでは世話になっている夫婦がそろってくつろいでいた。還暦を迎えた二人には息子がいるが、仕事で世界を飛び回っていてなかなか会えないという。そのせいもあるのか、静のことを本当の娘のように可愛がってくれている。いや、近所には初めから、『娘』として紹介されていた。
二人の愛情は暑苦しいくらいで、当初の静は戸惑っていたが、今では素直に愛情を受け取ることができる。
「静、ちょうどいい。一緒におやつを食べよう」
「ありがたくいただくわ、小父さま」
にっこりと笑い、ソファに腰をおろす。
どうやらテレビではなく、話をすることになりそうだ。イタリアでは、日本のようにテレビをずっと観るような習慣はないらしい。
今日のおやつは、プロセッコと焼きプリン。プロセッコはスパークリングワインで、すっきりとした辛口が、なかなかに心地よい。
「こっちの夏にはもう慣れたかね?」
「ええ、そりゃあもう、三回目だもの。湿気が少ない分、日本よりずっと過ごしやすいですわ」
「そうか、私は暑くてたまらんがね」
体格の良いアレッシオ(小父さん)は暑がりで、いつも暑い暑いと言っては、フラビア(小母さん)に怒られている。それでも仲の良い二人を見ていると、つい、口元が緩んでしまう。
アレッシオもフラビアも、家の中で静の歌についての話題は、あまり口にしない。いや、静がしたくないと思っているときは、しないようにしているようだ。その辺のことを感じ取る鋭さが、二人には備わっている。いや、ひょっとしたら静が単に分かりやすいだけなのかもしれないが。
だから最近は、歌とは全く関係ないこと、他愛もない話ばかりをする。自然な気遣いが、静には嬉しい。
「そうそう、今日の食事当番は静よ」
「あー、はい、分かってます」
たまに、静が二人のために料理をすることになっている。イタリアの料理に挑戦することもあるし、日本の料理を出すこともある。料理はさほど得意ではないのだが、それでも二人は嬉しそうに食べてくれる。
近所に住むレンツォは、『娘が作ってくれる料理なんだ、なんだって美味だし、なんだって嬉しいのさ』と、豪快に笑いながら言っていた。
今日は何にしようか考える。
静はなんだかんだいって日本人なので、米が食べたくなることが多い。リゾットに、肉料理か野菜料理をあわせるか。肉だったら鶏肉がいいし、でもたまには魚の料理、カルパッチョなんかも良いかもしれない。
考えていると、段々と楽しくなってくる。音楽とは異なることで手いっぱいになっていれば、音楽のことを考える時間もなくなる。
和やかな時間を過ごしているうちに、夕方に近づいてきて、そろそろ食事の仕込みでもしておこうかと思い始める。材料は、家にあるものを使うつもりだ。大きな冷蔵庫と、貯蔵庫には、まだ沢山の食材が入っていることは確認済みだから。
一日中、家から出ないことになるが、休日でもあるしスランプ気味でもあるし、そういう日があっても良いだろう。
立ちあがり、キッチンに向かおうとしたところで、来客を告げる音が鳴った。
「静、出てくれる?」
「了解」
フラビアに言われるまでもなく、玄関に向かう。この辺も慣れたものだし、どうせ訪れてくるのなんて、ほとんどが近所づきあいのある人。知らない人だとして、陽気なイタリアーノであれば問題ない。
「はい、どちら様」
玄関を開ける。
「あ、お久しぶりです、静さん」
「…………」
「えーと、あの、静さん?」
外に立っていたのは、祐麒だった。
暑いのか、顔を少し赤らめ、額にうっすらと汗を浮かべている。穏やかな表情の中、何も反応を示さない静を見て、軽く微笑んでみせる。
静は祐麒の顔を見て、続いて視線を下に向け、自分の格好を確認する。
キャミソール。
ショートパンツ。
おしまい。
肩も腕も太腿もむき出し。胸元も結構、緩い。
「きゃあああああっ!?」
「え、え、なんですかっ!?」
いきなり悲鳴をあげた静に、驚きの声をあげる祐麒。
静は赤面しつつ両手で体を抱くようにすると、祐麒に背を向けて駆けだし、二階へと逃げ込んだ。
「えええええっ? なにっ、どういうことっ!?」
部屋に入り、扉を閉め、その扉が開かないように背中で抑えつける。
なぜ祐麒がいるのか、全く理解できない。あれは幻ではなかったのか。いや、幻にしてはリアルすぎるし、息も、声も、匂いもある幻なんて聞いたことがない。
「静、お客様を放って何しているの、早く降りてきなさい」
階下からフラビアの呼ぶ声が聞こえてきて、嘘でも幻でもないのだなと理解する。
しかし、祐麒がなぜここにと、再度問いかける。おまけに、よりにもよってなんでこんな格好の時に現れるのか。一日家にいて、完全に油断した室内着のみっともない姿を見せてしまうなんて。
今さらかもしれないが、慌ててクローゼットをあけて、着替えを探し出す。
「え、ええと、ワンピース? アンサンブル? カーディガン? ちち違う、別にデートじゃないし、家の中だしっ」
経験したことのない混乱が、静を襲っていた。
結局、あたりさわりのないカットソーとデニムのパンツに着替えて、いまだ困惑しながら階段を降り、おそるおそる階下の様子を窺う。
なぜか、アレッシオとフラビアと楽しそうに談笑する祐麒の声が聞こえてくる。拙いイタリア語で、それでもなんとか二人と一生懸命に会話している様子が見て取れる。
イタリア語を話せるなんて聞いたことないし、本当にいったいどうなっているのかと、静の混乱はますます深くなるのであった。
「はっはっは、静を驚かせようとしたのは、見事に成功したな」
アレッシオが愉快そうに笑っているのを、少しばかり怒ったような、恥しがるような表情で静は睨む。
「もう、ひどいわ、祐麒さん」
「す、すみません」
隣に座る祐麒にも、文句を言う。
なんと、アレッシオ達と共謀して、いきなりの訪問で静を驚かせようという企みだったらしい。一人、静だけが何も知らずにいたのだ。おかげで、酷い恥しい目に遭ってしまい、まだ恨みがましく、三人のことを見つめてしまう。
「大体、学校はどうしたんですか」
「少し早目の夏休みをとることにしたんです。ちゃんと大学は通っているから、大丈夫ですよ」
聞くと、祐麒とアレッシオはいつの間にかメール友達になっていたらしい。静とはいまだに手紙でやり取りをしているというのに、どういうことだろうか。メールで仲良くなった二人は、いつしか祐麒のイタリア訪問計画を立案していたのだ。
「それに、イタリア語を話せるようになったなんて、全く聞いていませんでしたけど?」
訪問については、静を驚かせるためというので分かるが、イタリア語のことくらい教えてくれても良いのにと、少し拗ねる静。
問い詰めると、静と知り合ってから、知り合いのつてでイタリア語を勉強し始め、大学でも第二外国語にイタリア語を選択したとのこと。ある程度話せるようになるまでは、恥しいから言えなかった、とのことだが。
「静、そんなに怒ることじゃないでしょう。ユーキは、あなたとイタリアで一緒に暮らせるように、頑張っているんですから」
「そうだ、むしろ喜ぶべきことじゃないかな」
「なっ、な、何を」
いきなりの発言に怯む静。
隣の祐麒も、赤くなっている。
「料理の方は口にあうかね、ユーキ?」
「あ、はい、とっても美味しいです」
「今日の食事は静が全て作ってくれたのよ。どう、すぐにでも結婚して、奥さんになることも問題ないでしょう?」
「なな、何をいっているの小母さん!?」
アレッシオとフラビアは、静たちのことなど一向にお構いなく、好き勝手なことを言っている。本気でそう思っているのか、それとも単に二人のことをからかっているのか、いずれにしろ祐麒も静も、どう反応すればよいのか困る。イタリア語に慣れてきたとはいえ、まだ語彙や表現には、色々と悩むところもあり、すぐに何かを言うことが出来ない。
「静が他の男どもの求愛に全くこたえなかったのも、ユーキがいたことを考えれば頷けるものだな」
「へ、変なことばかり言わないで」
「あら、でも静、前にユーキのことを"未来の旦那様"だって言っていたじゃない」
「な……なっ……」
とんでもないことを口にするフラビア。確かに言ったかもしれないが、それはあくまで軽い冗談のつもりであり、本気だったわけではない。
「まさか、あれは嘘だったの?」
「う……嘘、というわけじゃ、その」
「なら良いじゃない。日本人は本当に奥ゆかしいのね」
微笑むフラビアだが、静の方は真っ赤になって、とてもじゃないけれど祐麒の方に顔を向けることができないでいる。
これではまるで、祐麒のことを認めてしまったみたいではないか。確かに、祐麒のことは嫌いではないし、むしろ好ましいと思っているけれど、だからといっていきなり恋人だとか結婚だとか、そんな急進するようなものではないわけで。
「よし、明日は皆にユーキのことを紹介してまわるか」
「パーティを開いて、皆にお披露目すればよいのではないかしら」
「や、やめてくださいっっ」
泣きそうになりながら声を出す。
結局、食事が終わっても、ずっとからかわれどおしの静なのであった。
試練はそれだけではなかった。
アレッシオ家には他に余っている部屋がないということで、祐麒は静の部屋に寝泊まりするようにと言われてしまった。
完全に面白がっているとしか思えないが、本当に静と祐麒のことを認めて、後押ししているとも感じ取れる。
だが、押し付けられる方としては、たまったものではない。
「な、なんかすみません。まさか、こんなことになるとは思ってなくて」
申し訳なさそうに頭を下げる祐麒。
部屋の中に二人きりで、静の心はずっと落ち着きを失っていた。二人とも既にシャワーは浴びていて、あとは寝るだけという状況。
どうしよう、どうすればよい、何が正解なのか。静の頭の中は、もはや混乱の極致にあった。
「えっと、大丈夫ですよ、静さん。俺は、床で寝ますから」
二人きりだからだろう、日本語で祐麒は静に告げた。
「え?」
「さすがに、一緒に寝るわけにはいかないですから。今の時期なら風邪を引くこともないでしょうし、安心して」
「駄目よそんなのっ。私と一緒に寝て!」
思わず静は、祐麒の腕をつかんでそんなことを言っていた。言われた祐麒は目を丸くしていたが、それ以上に、静の方が自分の発言に驚き、目を見開き、一気に赤くなる。下手したら物凄く大胆な、まるで誘っているかのような、そうとられても仕方のないようなことを言ってしまったことに気がついて。
「違うの、変な意味じゃなくて、床なんか硬いし、体痛めちゃうし、そもそも祐麒さんはお客様だし、そんなことさせられないもの。だから、ほら、ベッドは結構大きいから、二人並んでくらいなら余裕だし」
祐麒の腕をつかみ、真っ赤になったまま、言い訳するかのように早口で言う静。
だが祐麒は、ゆっくりと首を左右に振る。
「だめですよ、静さん、そんなこと言っちゃ」
「え、ど、どうしてです」
「俺だって、男なんですから。その、静さんみたいな魅力的な女性と一緒にベッドで寝て、どうにかならない自信が持てないから」
祐麒の言葉に、体が震える。
男の祐麒に本気を出されたら、とてもじゃないが抵抗できるとは思えない。祐麒のことは嫌いではない。だけど、そんなことを許せるのか。そもそも、恋人でもなんでもない相手なのに。
「でも、やっぱり床なんて駄目よ。私は……私の知っている祐麒さんはとても紳士で、強い人です。だから、私は祐麒さんの鉄の精神力を信じることにします」
頭の中で葛藤はある。だけど、床に寝かせるという選択肢だけはない。だから、結論は一つしかないのだ。
「でも、俺が静さんの信頼を裏切ったら」
「その時は……それでも構いません」
「……えっ?」
静の返答に、驚きの表情を浮かべる祐麒。
祐麒を追い込むような状況にする決断をしたのは静だ。だから、祐麒がもし「その気」になったのだとしたら、それは受け入れるしかない。
「静さん」
祐麒が静の肩をつかみ、わずかに体を寄せてきて、静の体が硬直する。思わず、強く目を閉じる。
そんな静に、優しい声が降りかかる。
「駄目ですよ、静さん、無理しちゃあ。ほら、こんなに俺のこと、怖がっているじゃないですか。男が、怖いのでしょう」
祐麒の言葉に、目を見開く。
続けられた文通の中で、いつしか静は、男ではなく女性に恋するようになった自分のことを告げていた。対面しない手紙という性質のせいだろうか、それとも静の性格か、ごく自然と伝えることが出来た。そして祐麒も、だからといって何かしら変わることもなく、静との交際を続けていた。
確かに、静は昔から同性のことを好きになってきた。でも、だからといって男のことを嫌いだと、怖いと思っているわけではない。祐麒にだって、そんなこと言っていない。
それでも祐麒に抱きしめられるような格好となり、体が震え、心臓が凄く速く脈打ち、硬直したように身を動かすことが出来ない。
前に日本に帰国した際に会った時は、こんなことにはならなかった。もっともその時は、一緒に並んで歩いたくらいで、緊張するほどのこともなかったのだが。
「だから、やっぱりダメです。それに静さんのこともあるけれど、やっぱり俺、危険だと思うし。あと、静さんとそういうことになるなら、そりゃ俺は静さんのこと好きですから嬉しいですけれど、でもちゃんと静さんに俺の気持ちを受け入れてもらってからじゃないと、俺だって嫌ですから」
「は、はぁ……って、ええっ!?」
「??」
いきなり素っ頓狂な声をあげた静に、不思議そうな目を向けてくる祐麒。
「ええと、あの、祐麒さん。今のは、どういう意味だったのでしょうか? わ、わ、私のことを、好きだと、言われました?」
「え? ええと……ああっ!?」
静に言われて気がついたようで、祐麒も声をあげ、そして静の顔を見て、みるみるうちに顔を赤く染めていく。
「あ、あの……まあ、ええと、その、そう、です」
「でも、どうしてそんな。私達、実際に会ったのなんてこの前が初めてで……」
「そうですけど、ずっと前から手紙や電話のやり取りはしていて、会えない分だけ余計に静さんのことを考えるようになって、実際に会ってみて、本当に素敵な女性だって分かって、だからっ……て、うわぁ、なんて酷い告白だ……」
頭を抱える祐麒であったが、祐麒が口にしたことは、静も同じように思うことがあった。
遠く離れた地で、会うことも出来ず、ただ手紙と電話でやりとりをするだけの仲。だからこそ、相手が男でも静は気にならなかったし、色々なことを想像する楽しさを知った。そして実際に顔を合わせる時、静は実は少し失望するのではないかと不安に思っていたのだが、そんなことは全くなかった。むしろ、相手が同年代の男性にも関わらず、楽しく、心が躍るような時間を過ごすことが出来た。
そこまで考えて。
「と、とにかく、静さんのためにも、一緒に寝るなんて駄目ですから」
離れようとする祐麒の腕を、静は強く掴んで引きとめた。
「ま、待ってください祐麒さん。わ、私、別に祐麒さんのことが怖くて震えているのではないかもしれません」
「え、どういう、ことです」
「緊張、しているのだと思います。祐麒さんを前にして」
「だから、それが俺のことを怖がって」
「違うんです。その……祐麒さんに言われた言葉が、嬉しく感じたんです。それで、私も祐麒さんのことは嫌いではなくて、だからつまり」
「え、それって、もしかして俺のこと」
「わ、分からないんです。ただ分かるのは、一緒に寝ること自体は嫌ではないということで」
自分で口にしていて、物凄く恥しくなってくる。
「……と、とにかく今日はもう遅いですし、寝ましょう」
「は、はい、そそ、そうですねっ」
どうしたら良いのか分からなくなり、思考停止して逃げるように言うと、祐麒もおそらく同じなのだろう、素直に頷いた。
祐麒の腕を握ったままベッドに向かい、ベッドにあがり、腰をおろし、横になろうと上半身を倒して枕に頭を置いたところ、全く同じタイミングでベッドに横になった祐麒の顔が真正面に、間近に見えた。
あと数十センチもすれば触れてしまいそうな距離、お互いに目を閉じることもできず、頬を朱に染めて見つめ合う。
「で、で、で、電気、消し忘れました」
「あ、じゃあ、俺が、消しますっ」
祐麒が立ちあがり、部屋の電気が消される。闇の中、再び祐麒がベッドに体を横たえる気配がすぐ隣から伝わる。
これからどうすればよいのか。
祐麒が手を出してきたら、どう反応すればよいのか。体が熱くなる。
「静さん」
「は、はいっ」
「俺、鉄の精神力で、頑張りますから」
「は、はいっ。でも、あまり無理なさらないで」
「え? でもそれじゃ」
「ちょ、ちょっと触るくらいなら、大丈夫かもです」
「無理です、触ったら、俺が我慢できなくなりますからっ」
同じベッドの上で横になり、なんとも間抜けな会話を交わす。
「祐麒さん、もう寝られました?」
「いえ、まだです」
「は、早く寝ちゃってください」
「そ、そんなこと言われても、無理ですよ」
二人して、意識しまくる。
結局、明け方近くになるまで、眠りにつくことなどできなかったのであった。
翌朝。
静と祐麒、二人で赤い目をして、疲れた様子でリビングに姿を現すと。
「あら、二人とも随分と……まぁ、若いのだから仕方ないけれど」
フラビアが二人を見て、そんなことを言ってきた。
「何を言っているの、私達、まだそんなコトする関係じゃないからっ!」
慌てて否定する静。
それを聞いても、にこにこしているフラビア。
「ふふ、どちらにしても、随分と表情がよくなったわよ、静。このところ落ち込んでいたみたいだったけど」
フラビアに言われて、はっとする。
昨日、祐麒が姿を見せてからというもの、すっかり音楽のことなど頭の中から飛んでいってしまっていた。
静がスランプに陥っていたことなど、当然、フラビアもアレッシオも分かっていただろうから、ひょっとしてサプライズで祐麒を呼んだのも静のためなのだろうかと思い始める。
「やっぱり、愛しい人が側にいてくれることが、最良の特効薬なのかしらね」
「だからそうじゃないのーっ」
頬が火照るのを感じながら文句を言うと、フラビアは笑いながらキッチンへと逃げていってしまった。
フラビアが消えたところで、彼女の言ったことなど気にするなと、祐麒の方にちらりと目をむける。
「ごめん、静さん。俺、そんなずっとはこっちにいられないんです」
「だ、だから、それは違っ」
「でも、バイトして金貯めて、冬休みも、春休みも必ず静さんに会いにきますから。えと、出来るなら夏休み中にももう一回とか」
何を言っているんだこの子は、そう思いながら、祐麒を見る。
「……迷惑、ですかね」
困ったように笑う祐麒。
「馬鹿……」
静は祐麒のシャツの裾をつまみ、額をコツンと祐麒の胸にあてる。
「……言ったことには、責任もってくださいね」
「は、はい」
なんで、いつの間にこんなことになったんだろうと思いながら。
決して、不快ではない、不思議な気持ち。
それは、ある晴れた、イタリアの夏の日のこと――
おしまい