『第三幕』
思いがけず演劇部の舞台に参加することとなり、練習を重ね、そして典と劇の練習の約束を交わした。待ち遠しいような、少し怖いような、そんな日々を過ごしているうちに、とうとう土曜日がやってきた。緊張しながら家を出て、待ち合わせの駅に到着すると、ほぼ同じタイミングで典も姿を見せた。もしかしたら、同じ電車に乗っていたのかもしれない。緊張を隠しつつ、挨拶をかわす。
私服姿の典は新鮮だった。
劇の練習ということで、動きやすそうなシャツとパンツの組み合わせではあるが、姿勢が良いせいか、とても格好良く見える。祐麒もつい、姿勢を正してしまう。
典に連れられてまた電車を乗り継ぎ、降りた駅からしばし歩いて到着したのは、どこかの河川敷。劇の練習をしようにも、良い練習場所など思いつかない祐麒は、結局のところ典に頼ることになってしまったのだ。
「ここは、上を電車が通るし、大きな声を出しても問題ないから。楽器の練習をする人もよく来るし、私も時々、使っていたの」
二人がいるのは橋の下で、確かに電車が走る音が上から響いてくる。
しかし、祐麒はつい気になって、左右に目を向けてしまう。土曜日の河川敷、春という季節もあってか、人の姿がないわけではない。親子連れが散歩をしていたり、カップルが座ってほのぼのしていたり、声を出せば確実に聞こえてしまうだろう。
「これくらいの人、気にしているようじゃあ、本番ではお芝居出来ないわよ?」
「いや、人数の問題とかじゃなくてですね」
「人のいない場所なんて、そうそうないわよ。学校が使えれば、一番よいのでしょうけれど、そうもいかないし」
私的な練習で、勝手に学校を使用することはできなかった。花寺なら大丈夫かもしれないが、そこにリリアンの女子を呼ぶとなると話は別。
「真冬の寒い時期だと、人も全然いなかったりするんだけどね。さすがに今の時期では、そうはいかないでしょう」
持ってきた荷物を置いて、典は軽く髪の毛を手で払う。
「それじゃあ、発声練習から始めましょうか」
さっぱりとした表情で言われて。
祐麒もうだうだと考えるのはやめて、男らしく練習に集中することにした。ここまできて恥しがっても仕方ないというのもあるし、堂々としている典の前で情けない姿を見せられないという、プライドみたいなものもあった。
「よしっ、やろうかっ!」
「お、元気いいわね、その調子」
気合いを入れた祐麒を見て、典が笑う。
こうして、典との練習は始まった。
とはいうものの、やはり最初の方は周囲をどうしても気にしてしまい、声もあまり出なかった。
しかし、手本を見せた典が、あまりに堂々と、非常によく通る声を出すので、祐麒も次第に腹から声を出せるようになった。やはりこういのは、誰かが一緒にいると安心して出来る。
発声練習から台詞の練習、動作の練習。基本的なことを繰り返す。典は、ジュリエットの役として相手をしてくれたし、他の人物の台詞も応じてくれて、さらに祐麒の演技指導までするというマルチぶりを発揮した。
途中、コンビニで購入してきたおにぎりと飲み物で昼食をとり、午後からまた練習。厳しくはあったが、祐麒一人を相手に指導してくれるので、練習効率は非常に高いと感じる。そして何より、楽しくもあった。
演じることが楽しいのか、それとも典と一緒に練習していることが楽しいのか。おそらく、その両方なのだろう。
「――今日は、この辺にしましょうか」
三時を過ぎたところで、典がそう口にした。
「あれ、もう?」
ミネラルウォーターを口にして、祐麒は問い返した。
「午前中からやっているし、やりすぎてもね。効率も悪くなるから」
体力はそれなりにあるつもりだが、確かにかなり疲労はしている。典の言う通り、集中力も少し散漫になってきているから、確かに潮時なのかもしれない。
タオルで首筋の汗を拭きながら、祐麒は頷いた。
「了解、今日はここまでにしよう」
「そうそう、素直が一番」
典が楽しそうに言う。
練習をしていてもう一つの収穫は、典とかなり親しく話すことが出来るようになったことだ。初めはお互いに気を遣っていたけれど、次第にごく普通に話すことができるようになっていた。
台本やペットボトルをバッグにしまい、帰る支度を整え、河川敷を歩き出す。
「今日は本当にありがとう、凄く身になったよ」
「いえいえ、どういたしまして」
「それで、良かったらでいいんだけれど、また今度、練習に付き合ってくれないかな」
「来週?」
「うん……と、出来れば発表会までの間、とかは無理かな」
思い切って、頼んでみた。
今日の練習が、考えていた以上に楽しくて、もっと典との時間が欲しいと欲が出てしまったから。
典は指を下唇にあてて考えている。
そして、やがて。
「分かった、いいわよ」
「えっ!?」
「え? な、なんでびっくりしているの」
「いや、結構無理なお願いかなと思っていたんで。ああ、でもありがとう」
正直、ダメ元だったのだ。
嬉しくて、疲れもどこかに吹き飛びそうだった。勢いでもう一つ、お願いしてみる。
「高城さん、良かったらこの後、ファミレスでも寄っていかないかな? お腹も少し空いてきたし、今日のお礼に、ご馳走するけど」
ちょっとしたお誘い。
ちらりと、横を歩く典を見ると。
「ラッキー、それじゃあお言葉に甘えて、ご馳走になっちゃおうかな」
今度は笑って即答する典。
その日、生まれて初めて、祐麒は女の子と一緒にファミレスでお茶をした。
祐麒と典の週末の練習は、約束通りに実行された。待ち合わせて、バスに乗って、練習して、お昼を食べて、帰りに軽くケーキを食べたり、本屋に寄って参考書を一緒に見たり、CDショップで新譜を購入したり。
決してそれ以上でも以下でもなく、毎回、決まり切ったようにほぼ同じ時間に駅でお別れだったけれど、それでも楽しかった。
練習すれば上達するのが分かったし、典と一緒の時間を過ごせるのが楽しかったし、典も楽しそうに見えたし。
だけど、当たり前だけれどそんな時間がいつまでも続くわけではない。練習をするごとに、発表会の日は近づいてきて、いよいよ典と一緒に練習できる最後の週末を迎えた。
「これでもう、やるべきことはやったっていう感じね」
一通りの練習を終えた祐麒を見て、典が満足そうに頷く。
「俺はまだまだ、物足りない気がするけれど」
不安を拭いきれない祐麒は、正直に心境を吐露する。
「そりゃあ、期間的に制限もあったし、ほぼ初めて芝居に取り組もうというのだから、足りないと感じるのも仕方ないと思うけれど」
座って川を眺めながら、落ち着いた表情で言う典。祐麒の練習につきあって、肌にはうっすらと汗が浮き上がって見える。
「高城さんには、本当に感謝だよ。ずっと付き合って、指導までしてもらって」
「うん、まあ、けっきょく私も、好きだから」
その言葉に、思わずぎょっとなって典の横顔に目を向けた。典は特に変わったところなどなく、クールな瞳で川の流れを見つめていた。
単に、芝居が好きだと言ったのだとすぐに理解したが、それでも変に誤解してしまい、頬が熱くなる。
「そろそろ、戻ろうか」
立ちあがり、デニムのお尻についた砂や小石を手で叩いて落とす典。
このままいつも通り、ファミレスかファーストフードにでも寄って、軽く何かつまんで、そして帰ることになるだろう。最後だからといって、特別な場所に行って特別なことをしようなんてことはない。典はきっと、そういうことを求めていないだろうから。
ただ、いつもより少し豪華なメニューにしよう。手を出していない1ランク上のパフェとか、値段の少し張る特製パンケーキとか。
そして、もう一つ。
「……なに?」
典が、不思議そうに問い返してくる。
「最後だから、ありがとうの気持ちを込めて」
「ふふ、なんだか青春ドラマみたいね」
典の手が、持ちあがり、差し出していた祐麒の手を掴んだ。
春の陽光にきらめく川面をバックに、握手をする。確かに、青春ドラマのような一幕かもしれない。祐麒が大根役者だとしても、典が相手なら、少しは良い画になっているだろうか。
「最高の演技を楽しみにしているわね」
「う……不肖の弟子として、頑張ります」
握った典の手は小さくて、だけど、とてもしなやかだった。
教室内が静まり返っている。
皆の注目を集める中、緊張しつつも集中して演技に挑む。
体を使って感情を表現し、もちろん台詞にも気持ちを込める。そしていざ、問題のシーンへと突入。
目の前に横たわるのは、麗しきジュリエット。瞳は閉じられ、命の灯は消え去っているとロミオは思いこんでいる。
悲嘆と絶望にくれながら、最期の口づけを愛する人に。
ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる瞳子の可憐な唇。わずかに濡れそぼり、電灯の光で輝きを放つ、小さな蕾に口を寄せる。
別れのキスをすませ、毒を飲んで息絶える。そんな愛する人の姿を見て、ジュリエットもまた自害する。
恋愛劇でもっとも有名なシーンであった。
「――はい、OK!」
監督役でもある部長の声が響くと同時に、部員たちの黄色い声が飛び交う。
「凄い、素敵でしたわ、祐麒さまも瞳子さんも!」
「ええ、本当に、私感動してしまいました」
「最後のキスシーンは、私自身、胸が張り裂けそうでした」
反応を見ていると、どうやら出来は悪くなかったらしい。
いよいよ最後の通し稽古だったのだが、間に合ったようだ。祐麒自身も安心して、ほっと力が抜ける。
「祐麒さま、良かったですわ」
起き上がった瞳子が微笑みかけてくる。
「いや、瞳子ちゃんと一緒に演技していると、俺の演技なんか恥しい限りなんだけどね」
「そんなことありません、もっと自信を持って演じてくださらないと、困ります」
諭されて、苦笑する。
そうだ、演技中は常に自信を持っていろと言われていた。自信がなさそうに演技すると、例え合っていたとしても不安が他の役者や客に伝わってしまい、良い演技に見えなくなる。自信を持って堂々と演じていれば、どこかで間違っても、間違いを感じさせないこともある。そういうことだって大切なのだと、教えてくれた。
「根拠のない自信ではありません、今までの努力を下地としているのです」
「ははっ、ありがとう」
典は果たして、自分の演技をどう感じてくれたか気になったが、他の部員達に囲まれて典の姿を探すことが出来ない。
「でも本当に、瞳子さまと祐麒さまが恋人同士に見えてきました」
「あ、それは私も感じました。それにキスシーン、あれ、凄く近くなかったですか?」
「私、お二人はお似合いだと思いますっ」
そんなことを言われて、困惑する祐麒。確かに瞳子は可愛いし、間近まで迫ることで非常にドキドキもするけれど、演技の方でいっぱいいっぱいなのだから。
リリアンとはいえやはり高校生の女の子、その手の色恋沙汰の話は大好きなようだ。
「祐麒さま、本当にキスしちゃったりしないんですか」
「な、何を言っているんですか。大体、そんなことしたら瞳子ちゃんに張り倒されちゃいますよ」
「あら、お芝居の上での口づけなら、怒りませんわよ。その方がリアリティも出るでしょうから」
予想に反して、瞳子がそんなことを口にするものだから、他の女子生徒達はまた黄色い肥をあげて騒ぎだす。
「そんなこと言っていると、本番で本当にキスしちゃうぞ」
「うふふ、本番と言わず、今ここでしてみたらいかがです?」
祐麒の精一杯の強がりも簡単にかわされる。それどころか、瞳子は顔を少し上に向け、目を閉じて唇をつきだすようにしてきた。
「う……わ、ちょっ」
まさか本気のわけがないだろうと思いながら、瞳子の唇に目が吸い寄せられる。周囲の女子生徒達も、思わぬ展開に声も出せないでいるが、興味は津々という感じで、赤面しながらも二人のことをじっと見つめてきている。
どうすれば良いのか、身動きもとれずにテンパっていると、不意に瞳子がぱっちりと目を開いた。
「ふふ、皆さん、祐麒さんが困っているから、冗談はこれくらいにしましょう」
くるりと背を向け、皆に肩をすくめてみせると、周囲が急に賑やかになった。自分が火種を大きくしたにもかかわらず、なんて偉そうなことを言うのだと思ったが、憎むことはできない。からかわれ、僅かに熱くなった頬を手の平でおさえ、苦笑しながら周囲を見ていると、教室の端にいた典と目があった。
そう思った次の瞬間、ふい、と目をそらされたかと思うと、典はまるで祐麒の視線から逃げるようにして、教室を出ていってしまった。
どうしようかと思っていると。
「それじゃあ、ここで少し休憩にしましょう」
部長の声が響いた。
「祐麒さん、飲み物でも持ってきましょうか」
「あ、ごめん瞳子ちゃん、俺ちょっとトイレに」
「あ、祐麒さん?」
瞳子の声を振り切るようにして、祐麒は教室を飛び出た。リリアンの校内を、男である祐麒が独りでうろうろしてはいけないとは分かっていたが、頭の中から追い払った。すぐに典に追い付けばよいのだ。
廊下の左右に素早く目をはしらせると、左手側、ずっと先の方で角を曲がる典の姿が見えた。
他に生徒や教師の姿が見えないことを確認すると、祐麒は走りだした。廊下の角を曲がると、典の姿はまださほど遠くにない場所に見えた。
「高城さん」
声をかけると、典はわずかに体を震わせたようだが、立ち止まることなく歩き続ける。
「高城さんっ」
少し大きめの声で呼びかけると、ようやく典は立ち止まった。
駆け足で追いつくと、典は息を吐き出しつつ振り返る。
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえているわ。それで、わざわざ何の用かしら」
どこか、冷たい口調だった。今までの典からは感じられなかったような。
「えと……高城さん、さっき俺と目があいましたよね? そうしたらなんか、いきなり教室から出て行っちゃったから、気になって。俺が、何か気に障る事でもしたのかなって」
「そんなこと、別にないわよ。ちょっと、喉がかわいただけ」
典の表情も口調も、いつもと同じに近くなった。それでも、どこか違う気がする。
「福沢さん、いい演技でした。これなら本番も問題ないと思います」
「あ、ど、どうもありがとう」
褒められているのに、なぜか良い感じがしない。典の微笑みが、どこか作り物のように感じられる。
「瞳子ちゃんとも仲良いですし、なんでしたらキスシーン、本当にキスしちゃってもいいんじゃないですか? きっと瞳子ちゃんも、嫌がらないと思いますよ」
「は……? 何を言って……」
典の言葉が理解できなかった。なぜ、そんなことを今、祐麒に言うのか。微笑みながら、祐麒の胸を抉るように。
「瞳子ちゃんきっと、福沢さんに惹かれていますから」
言葉は続く。
「福沢さんは……二人とも、瞳子ちゃんを私から取っていってしまうんですね」
「……え?」
小さな声だったけれど、確かに聞こえた。
だけど、その意味が分からない。
俯いている典の表情はよく見えない。
「……ごめんなさい、なんでもないの」
「いや、でも、今のは」
「すみません、ちょっと、今日は体調が優れなくて、不安定なんで。本当、忘れてください」
ぺこりと頭を下げると、典は祐麒に背を向けて歩き出した。
その背中に声をかけようとして、手を伸ばそうとして、それでも全てを拒絶するかのような典の後ろ姿に、祐麒は何をすることもできなかった。
そして。
廊下の角から、そんな二人の様子をそっと見ていたもう一つの影。
「…………ふぅ」
腕を組み、小さく息を漏らす。
舞台の本番日は、もう間近に迫っていた。