「福沢くん、この問題は先週の授業をきちんと理解していたなら出来るはずよ」
授業中、冴香に指名されて答えられなかった祐麒はお叱りを受けていた。
いつも通り、いやいつも以上に厳しい表情と視線で射すくめられ、教室内でさらし者にされる。
確かにちゃんと解答できない祐麒に非はあるのかもしれないが、祐麒が指名された問題だけ他と比べて難易度が高くないかとも思ってしまう。しかも、この週に入って2回目である。
祐麒だけ追加で課題を出されただけでげんなりしているのに、剣道部の部活でもまた目の敵にされたような指導を受けた。
「福沢くん、その足運びは何!? 姿勢と振りも滅茶苦茶よ。基本をおろそかにしない!」
容赦ない叱責がとび、何回も追加での練習を課される。
「うわ、ユキチ、ついてないな」
「いつにもまして不機嫌だね、山村先生」
「男にでもフラれたか……いや、合コンで失敗したとか」
「失礼だよ小林」
「そこの二人、何をこそこそ話しているの!?」
「うわっと、こっちにもとばっちりが」
などと、男子剣道部の練習では常にピリピリとした空気が周囲を覆っていた。
「ああもう、今週は滅茶苦茶疲れた……」
土曜日、宮野木家での稽古にも律儀にやってきた祐麒は、そこで理玖に対して愚痴を吐き出した。
「ふふ、姉さんたら、可愛いもんじゃない」
「え、何がですか」
「だってそれって、好きな子をいじめちゃうってやつじゃない?」
「そんなわけないですよ、ゲームでクエスト失敗したの、俺が八つ当たりしやすいから当たっているんですよ」
「ふぅん……まあ、祐麒くんがそう考えるなら、それでいいけどね」
そう言いながら理玖が汗を拭う。
この日、冴香は休日出勤ということで、稽古には遅れて合流することになっている。仕事なら稽古を休めば良いのにと祐麒は思うのだが、理玖はそんな祐麒の言葉を聞いてくすくすと笑う。
「稽古を休んだら、もったいないじゃない」
「熱心ですね、そこまで剣道に打ち込めるのも凄いですよね」
「うーん、そういうことじゃないんだけどなー」
「?」
「ま、いいや。今は姉さんいないし、あたしのことだけを見てよね」
座って休憩している祐麒に、にじり寄ってくる理玖。
「祐麒くんは姿勢よね。変な癖がつかないようにしないと駄目よ」
理玖が後ろから抱き着いてくるようにして、祐麒の姿勢を正そうとする。
「あ、あの、理玖さん」
「ん、なぁに~?」
今日は気温も結構高く、二人ともTシャツ姿である。その理玖が背中に胸を密着させてきているのだ。
汗をすったシャツの薄い布地を通して、理玖の柔らかで熱い肌を感じる。
「ちょ、あの」
「何かしらぁ?」
耳元に息を吹きかけながら、理玖の指が祐麒の胸を這い、撫でまわしてくる。
「ふ、ふざけるのはいい加減にしてくださいよっ」
理玖を離そうと体を振ると、理玖がバランスを崩した。咄嗟に手を掴んで引き寄せる。
「きゃっ」
「わっ!?」
理玖の顔が、目の前にあった。
額に張り付いた髪の毛、頬を伝う汗、まだ少し上気ししてピンク色の肌、眼鏡の下の目はちょっと驚いた感じ。
「……結構、強引なんだ祐麒くん。でも、嫌いじゃないよ、そういうの」
理玖の目が薄く閉じられ、指が祐麒の頬をとらえる。
吐息が吹きかけられる。
「――――何しているの、理玖」
「あら姉さん、いつの間に」
「しらじらしいわね」
呆れたように大きく息を吐き出した冴香が歩いてくる。
休日だというのに、いつものようにスーツ姿なのが冴香らしい。
「あーもう、休日なのに、仕事とか。体も固まっちゃったし、たっぷりと動かしたい気分だわ。理玖も福沢くんも、つきあってよね」
「ひええぇ……」
ジャケットを脱ぎながら言う冴香の迫力に、理玖も祐麒も稽古前から悲鳴を上げた。
冴香との稽古は思っていた以上にハードなものとなり、終わった頃には祐麒も理玖もバテバテになっていた。
「ちょっとこれ、飲まないとやってられないんですけど?」
と、拗ねる理玖に冴香は苦笑いで応え、三人で居酒屋に向かった。店では、理玖も一緒にいるということもあり、変な雰囲気になることもなかった。
三人で食べて飲んで(祐麒は勿論ノンアルコール)、夜の九時近くになったところで理玖の携帯に着信があり、その電話を終えて理玖が立ち上がる。
「なんか、友達が彼氏と別れたみたいで、ちょっとこれから愚痴聞いてくる」
とのこと。
「もう良い時間だし、私達も出ましょうか」
「もっとゆっくりしていけばいいじゃん、あたしはいいからさ」
「そういうわけにはいかないわ。ほら、理玖は早く行ってあげなさい」
「うん、ごめんね」
やや足早に店を出ていく理玖を見送り、冴香と祐麒も席を立つ。
伝票を手に会計に向かうのは冴香。いつも申し訳ないと思うが、生徒に払わせるわけにはいかないという。
祐麒はトイレに行って用を済ませてから店を出ると、店の入口から少し離れた場所に冴香が立って待っているのが見えた。
「すみません、お待たせしました」
「別に待っては…………っ」
言いかけた冴香が目を見開いたかと思うと、くるりと背を向けてしまった。
「どうかしましたか、先生?」
「しっ! ちょ、いま、教育指導の広江先生がいた気がする」
「え、まさか」
「……本当よ、こ、こっち向かってくる……そうだ、今日、飲みに行くとかなんとか言っていたような……この辺、先生たちで飲みに行く定番の場所なのよね」
「なんでそんな場所にわざわざ来たんですか?」
「安くて美味しいお店を知っているんだから仕方ないじゃない。それに土曜日だし、飲み会なんてないと思っていたし」
「いや、昼間に聞いていたんでしょう?」
「そ、そんなことより、こんなところ見られたらお終いよ」
慌て出す冴香。
「でも、見つからなければ」
「と、とにかく逃げましょう」
祐麒の腕を掴んで歩き出す冴香だったが。
「……え、うそ、やだ」
「行き止まり、ですか?」
小道だと思って入り込んだ場所は行き止まりになっていた。
急いで引き返そうと思ったが、ちらりと見れば広江先生がなぜか向かってきている。
「なんで、こっちに向かってきているの?」
「あー……もしかして、あれじゃないですか。催してきたけれど、お店のトイレが行列で我慢できなくて。ここ、薄暗くて人気も少なくて死角にもなって、丁度良い感じで」
「ゲームでもあるまいし、今の時代、東京でそんなことあるの!?」
「生理現象には勝てないんじゃないですか?」
などと言っているうちにも広江先生は近づいてくる。
「……ん、誰かいるんですか?」
少し酔ったような広江先生の声がした。
「も、もう、終わりだわ」
冴香が頭を抱える。
「……えーと先生、一つ案があるんですけど」
「案? な、なに?」
「ゲームであったんですけど……その、キス、するフリをしませんか?」
「へぁっ? 何を言っているの、こんなときに」
「フリですよ、あくまで。ほら、キスするときってお互いの顔が近づいて顔が隠れるじゃないですか。それに、広江先生だって常識人ですから、キスしているカップルの顔をまじまじと見ようとはしないでしょう。邪魔しちゃ悪いって、退散してくれるとも思いますし」
「で、でも……」
冴香は躊躇いを見せる。
「――んー、こんなところで何をしてるんですか。ちょっと失礼して良いですかねぇ」
広江先生の声が大きくなる。
「…………わ、分かったわ」
冴香も他にないと思ったのか、ようやく頷く。
「あくまでフリ、ですから」
「そ、そうよね」
「それじゃあ」
「…………」
祐麒は左手で冴香の腰を掴んで体を引き寄せ、右手を背中にまわす。離れた場所に立つ街灯の薄暗いあかりが冴香の顔を照らす。
冴香の瞳が正面から祐麒を射抜く。
この一週間、鋭い目つきで祐麒を叱ってきたが、今はどこか少し潤んでいるようにも見える。
地味なグレーのスカートスーツに白いブラウス、きっちりとした教師スタイルの冴香と抱き合ってキスの体勢をとっているだけで興奮しそうになる。
息がかかるくらいの距離に近づく。
胸がぎゅっと押し付けてきている。
「福沢くん……」
冴香の両手が祐麒の首の後ろに回される。
ここまですれば、キスしているように見えるだろう。
祐麒がそう思った、その後。
「…………え?」
冴香が軽くつま先を上げて背を伸ばし、首の後ろに回した手に力を入れ、そして。
「んっ…………」
ゆっくりと、唇を重ねてきた。
しっとりとした、ちょっと熱を持った唇。
リップの味と、お店で飲んだレモンサワーの味が感じられる。
思いがけない事態に、祐麒は拒否することも出来ず、キスされるがままになっていた。
「……って、あ、これは、また……」
広江先生が、そんな声をあげた。
「…………」
冴香は唇を離さない。
「…………今の若いモンは……、なあ、おい」
ぶつぶつと何か呟きながら、広江先生が踵を返して去っていく気配が感じられたので、祐麒は冴香の肩に置いた手に力を少しこめて唇を離させる。
「い、行ったようで……んむっ!?」
言い終えないうちに、また唇を塞がれた。
しかも今度は唇を食まれ、さらにぺろりと舐められた。
そのまま何秒、そうしていただろうか。
ようやく、そろそろと冴香が唇を離した。
「……行った、みたいね」
「はい、あの、フリのはずじゃあ」
「そうよ、フリだったはずじゃないの、福沢くん?」
「え、お、俺ですか」
「私は教師よ、私から生徒にキスするわけないでしょう」
「え、で、でも」
「福沢くんの方から私の腰に手を回して抱き寄せてきたでしょう」
「そ、それは、まあ、はい」
「そのまま、キスをしてきたでしょう」
「え、ええ?」
「嫌がったり振りほどいたりしたら広江先生にばれるかもしれないと思ったから、私もそのままでいるしかなかったのよ」
「そ、そうでした?」
「そうよ」
そこまで自信満々に断言されると、祐麒としても否定できる材料がない。冴香の唇に魅入られたようになったのは確かなのだから。
「で、でも、一度やめたのに、もう一回」
「それも、福沢くんが求めてきたんじゃない」
「ええぇ!? さ、さすがにそれは」
「違うの?」
「いや、でも」
「何よ。別に福沢くん、キスくらい慣れているんでしょう?」
「え?」
「理玖や梓美としているんでしょう?」
「え、なんで、そんな風に思うんですか」
「思うも何も……今日だって昼の稽古の時、理玖としていたじゃない……キス」
「いや、あれはバランス崩した理玖さんを咄嗟に支えただけで、キスなんてしていないですよ?」
「梓美は福沢くんのこと寝かさないって……そ、そういう関係なんじゃないの?」
「LINEのやり取りですよ、あの、梓美さんとは本の趣味が合って、それで新作の発売日に感想を言い合いたいからって梓美さんが」
「ふぅん……?」
「本当ですよ、ってか、俺、ファーストキスだったんですけど、今の……」
「……本当に?」
「本当ですよ」
今さらながら意識して顔が熱くなってきて、頬を手でさする。
「本当に、今まで誰ともしたことないの? キス」
「ありませんよ……わ、悪いですか、どうせモテませんよ」
「そうなんだ……今までしたことないんだ……」
「ちょっと、先生、笑うこと無いじゃないですか」
「別に笑ってなんていないわよ。そう、キスしたこと無いんだ。私がが初めてなんだ……ふふ……」
今までの厳しい表情から、冴香の表情が緩んで口元が笑みを浮かべて見えた。
「やっぱり、笑っているじゃないですか。うぅ」
「ごめんなさい……私が初めての相手で、嫌だったかしら?」
「嫌じゃないです、けど」
「……けど?」
上目遣いで見上げて聞き返してくる冴香。
「……お酒くさかったから」
「ああ、ごめんなさい。さ、そろそろ行きましょう」
「バラバラで帰った方が良いんじゃないですか?」
「そうね……でも、大丈夫でしょう」
なぜかやけに楽観的でポジティブなことを言う冴香。
「いつも通りなら、この時間にお開きになることはないから。さ、福沢くん」
足取りもどこか軽やかな冴香に連れられて祐麒は帰途についた。
「……マジで先生とキス、しちゃったんだよな」
一人となった帰り路。
祐麒は改めて冴香の唇の感触を思い出し、頬が熱くなるのを感じるのであった。
おしまい