九月に入ると、当たり前だけど二学期が始まる。でも、大学の後期は九月の中旬にならないと始まらない。
だから必然的に、祐麒くんのシフトとあわなくなった。また、花寺の学園祭に向けて忙しくなってきたということで、土日も予定があわなくて、めっきり会う機会が少なくなっていた。
全く会わないというわけではないけれど、シフト交代のときに挨拶するくらいでは、会っているとはいえないだろう。
そんなこんなで、祐麒くんとはもう一週間ほどまともに話をしていない。
「……会えない時間が長くなると、やっぱり寂しい?」
「うん…………って、氷野さん?!」
振り向くと、いつの間にやら忍び寄ったのか、氷野さんが笑いながらこちらを見ていた。
着替え途中だった私は、慌てて制服で体を隠す。
どうも、氷野さんに何かを含んだ視線を向けられているような気がしてならない。
「ふふふ、ぽろりと本音が出たわね、水野さん」
「え、な、何が」
「会えないと寂しいって、ぽろっと言ったじゃない。この身体が祐麒くんに触れてもらえずに疼くって」
そう言いながら、氷野さんは私の身体をまさぐってくるので、身をよじるようにして離れた。
「やや、やめて、そういうことは、七尾さんにしてあげたら」
「……は?七尾っち?なんで七尾っちが出てくるの、ここで」
「だって、その、二人は、つ、付き合っているのでしょう」
「え…………ああ!ひょっとして海のときのこと?!やだなー、あれ、水野さんと祐麒くんを一緒の部屋にしてあげるためだよ」
「へっ」
私の思考は一瞬、停止した。
「じゃ、じゃああの日の夜は……」
「遊び疲れたから、すぐ寝たわよ。七尾っちなんか、バタンキューよ」
「そ、そんな」
あんなにも気持ちが揺れ動いて、あんなにも戸惑ったというのに、それが全て仕組まれていたことだったなんて。
「でもお陰で、祐麒くんと良い仲になれたんでしょう?結果オーライということで許してよ、ねっ」
両手をあわせて、片目をつむる氷野さん。そういう仕種を見ていると、どこか親友達の姿と重なり、怒ることができなくなってしまう。
ため息をついたそんな私を見て、さらに謝罪の言葉を投げかけつつ、氷野さんはさり気なくまたとんでもないことを口にした。
「だからごめんって。確かに私はバイだけど、七尾っちはノーマルだから、そーいうことはないのよー」
「なっ……」
私は絶句した。
そして思った。どうしてこう、私の周囲には一癖も二癖もある人ばかりいるのだろうと。
結局、祐麒くんとまともに会えないまま九月の中旬を迎え、私の始めてのアルバイトは終わろうとしていた。
元々、夏休みの短期アルバイトとして応募したものであるし、終わることも分かっていたけれど、お店の人やアルバイト仲間の皆はこのまま続けないかと勧めてくれた。
私自身、このお店での仕事は楽しいし、続けたいという気持ちがないわけではないけれど、普段は授業もあれば課題もある。仕事に入れる時間なんて自由に取れそうもなかったし、仮に続けたとして迷惑をかけることになるのは明白だったので、申し訳ないけれど当初の予定通りで終わることにした。
先日はささやかながら送別会もしてくれたけれど、その日は残念ながら祐麒くんは仕事の日で、欠席だった。
そして今日、いよいよアルバイト最終日を迎えた。
最後といっても、今までと変わることなくきちんと仕事を勤めるだけだ。朝から入って、午後までの業務をいつもどおりこなしていくだけだ。
そう思いながらも、お店の前の掃除にもつい、いつもより熱が入ってしまう。
そんな時、懐かしい声が私の耳に響いてきた。
「――あれ、蓉子さま?」
「えっ」
顔をあげて左右に視線を走らせると、その少女はすぐに見つかった。トレードマークともいえる頭の両側で束ねた髪の毛を解いて、ストレートに後ろに流しているけれど、間違えようも無い。愛すべき孫の祐巳ちゃんだ。
祐巳ちゃんは、とてとてっと子犬のように寄ってきた。本当に尻尾を振っているように見えるのが、いつ見ても可愛らしい。
「祐巳ちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです、蓉子さま。何をされているんですか、こんなところで」
「何って……」
ちょっと待って。これって、少しばかりまずくないだろうか。
「うわあ、可愛らしい服ですね!あ、ひょっとしてこのお店で働かれているんですか?…………あれ、このお店って確か」
店の看板や外装を見て、首をひねる祐巳ちゃん。でも、考え込むまでもなく、思い出したようだ。
「あ、祐麒のバイトしているお店だっ。あれ、ということは蓉子さま、祐麒と一緒に働かれている?」
「え、ええ、偶然にも」
いけない、少し動揺しているのが自分でも分かる。何も、やましいことなどないのだから、堂々としていればいいのに。
でも、私は祐巳ちゃんの弟である祐麒くんに……
「……あ、そうか!だから、祐麒ってば」
「え、何が?」
「夏休みに入ってから、祐麒がなぜか山百合会のこととか、去年の薔薇さまのこととかよく尋ねてきたんですよ。今思い返すと、その中でも蓉子さまのことをよく聞いてきていたなーって思って」
「そそ、そうなの?」
いやだ、祐麒くんたら、祐巳ちゃんに何を聞いていたのかしら。
思わず、既に掃いて綺麗にしたところに、箒をまた無意味に動かしてしまった。
でも、祐巳ちゃんはそんな私の動揺に気が付いた様子も無く、無邪気な笑顔を浮かべて話を続ける。
「分かった! 実は蓉子さまと祐麒、お付き合いされているとか!」
顔を輝かせる祐巳ちゃん。
反対に、私は飛び上がりそうになった。
「なななな、なん」
「……なんて、そんなことあるわけないですよね」
「そそ、そんなこと、ないわよ、まだ」
「へ? だから、冗談ですってば、蓉子さま。祐麒なんかに、蓉子さまみたいな方は勿体無さすぎですし」
「そ、そんなことは、無いけれど……」
「? どうしたんですか、蓉子さま。何か今日の蓉子さま、いつもと違うような。制服のせいですかね、凄い、可愛い感じがします」
「そんなことないわよ。あ、ごめんなさい、仕事中だからもう戻らないと」
「あ、いえこちらこそお仕事中にすみませんでした」
頭を下げる祐巳ちゃんに適当に挨拶をすると、私は急ぎ足で戻ろうとした。
「蓉子さま、ちりとり忘れていますよ」
「あ、ご、ごめんなさい」
ちりとりを受け取り、今度こそ店内の方へと足を向ける。正面の入り口ではなく、店の裏手に回る脇道の方へと。後方では、祐巳ちゃんがいまいち納得できなさそうな顔をしているのが分かった。
私は祐巳ちゃんのことを、まともに見ることが出来なかった。
だって、祐麒くんのお姉さんなのだから。
変な思考に落ちていきそうになるのを抑えながら、裏口がある方に角を曲がった。
「……俺、蓉子さんのことが好きです!」
するといきなり、そんな台詞が正面から私を襲ってきた。
「…………え……?」
そこに立っていたのは、祐麒くん。
え、どういうこと、今、何て言ったの。私の聞き間違いでなければ、私のことを好きだ、と言ったように聞こえた。
手にしていた箒とちりとりが、それぞれの手からするりと滑り落ちて、乾いたコンクリートの上に転がる。
でも、私が驚いている以上に、祐麒くんの方がびっくりしているというか、呆然としていた。
「よ、よ、蓉子、さんっ?!え、あ、今の、聞いちゃいました?!」
「え、あ、はい……」
聞いたというか、嫌でも聞こえてしまったというか。いやいや、嫌というのは言葉のアヤだけれども。
「う、嘘だろーっ、よりによって、こんな形で聞かれるなんて!」
祐麒くんは頭を抱えて、悶えている。
どうやら、告白台詞の練習をしているところに、その相手である私が現れてしまったようだ。久しぶりに会うのが、まさかこんな状況だとは。
しかし、それが分かると、ちょっとばかり可笑しくなってきた。だって、既に私は二回も、祐麒くんから告白をされているのだから。
「あの、蓉子さん。い、今の無しにしてくれませんか?」
「え」
無しにするって、どういうことだろう。と、思っていると。
「や、やり直しさせてください」
「はあ」
やり直しって……告白の、やり直しってこと?それしかないだろう。
祐麒くんは一旦、後ろを向いて小声で何やらぶつぶつ呟いている。精神を集中させようとしているのか、軽く頬を叩いたりして。そしてやがて、ようやく納得がいったのか、それとも心が定まったのか、体を反転させて再び私と正面から向かい合う。
その瞳があまりに真摯で、真っ直ぐで、これから言われることが分かっているにも関わらず、緊張してくる。
「ええと……よ、蓉子さんがここに始めてバイトに来たその日、俺、凄くビックリしたんです。こんな綺麗な人が一緒に働くなんて、って」
黙って、私は耳を傾ける。
「祐巳に、感謝しました。その日いきなり、蓉子さんと二人でお喋りできて……だから、蓉子さんのことが知りたくなって、さり気なく祐巳に蓉子さんのことを聞いたりしました」
本当に、さり気なくだったのだろうか。あの祐巳ちゃんにだって分かるくらいだったのだから。
「祐巳に聞いた蓉子さんは、"綺麗で優しくて賢くて、面倒見がよくて、色々なことに気が回って、誰からも頼りにされて尊敬されている完璧な女性"でした」
祐巳ちゃんてば、随分と私のことを過大に評価してくれているものだ。まあ、私も一年生のときは、三年生の薔薇様方を同じような目で見ていたけれど。
「……でも、一緒に働いていていた蓉子さんはちょっと印象が違って。確かに、祐巳の言っていることは間違っていないんだけれど、俺の知っている蓉子さんは、失敗もするし、慌てたりドジな一面もあったり、祐巳の言葉から受ける"完璧で隙の無い女性"というよりも、凄く可愛いヒトでした」
祐麒くんは知っているのだろうか。私が、そんな失敗したり慌てたりする姿を見せるのは、祐麒くんの前でばかりだということを。
真実かどうかは別にしても、リリアン在学中の私は確かに、祐巳ちゃんが言っていたような人間だと周囲からは思われていたのだ。
「そんな、綺麗で、優しくて、可愛らしい蓉子さんに、俺はすぐに惹かれました」
言葉が、胸に直接響いてくる。
「でも、俺が決定的に蓉子さんに惹かれたのは、その笑顔でした」
「え……」
「蓉子さんが笑うと、凄く心が温かくなって。俺に向けられたものなら、それだけで幸せになれて。そんな気持ちになったの、蓉子さんが初めてで」
思わず、息をすることすらも忘れてしまう。
「年下だし、蓉子さんみたいな女性に釣り合わないかもしれないけれど、自分の気持ちに嘘はつけないから……」
そこで祐麒くんは大きく息を吸い込んで、一つ間を置いた。
街の雑多な音が、遥か遠くに消えてゆく。
「―――蓉子さん、好きです」
ただ、その言葉だけが私を貫いてゆく。
不思議と、最初に感じていた緊張はどこかに無くなってしまっていた。公園や、海のホテルで不意をつかれたときのほうが、よっぽど心が張り詰めていたと思う。
でも、ドキドキが無くなってしまったわけではなくて。むしろ、身体の奥底から、とても温かいドキドキが湧き上がってきて、私の全身を包み込んでゆく。
「…………本当にずるいわ、祐麒くん」
「えっ?」
「だって、これで三回……ううん、さっきのも含めればこれで四回も、私に告白をしているのよ」
「え、ええっ?!」
もちろん、最初の二回は貴方の記憶には残っていないのだろうけれど。だから私は、わざとちょっとだけ意地悪をしてあげる。
「会ったときから、こんなにも私の気持ちを掻き乱して……酷いわ」
「え?あ、その、す、すみません」
拗ねるようにして横を向いて言うと、よく意味も分からないだろうに、真面目な顔をして頭を下げる祐麒くん。
でも、本当のことだから。二ヶ月ほど前から、私は私自身の気持ちの動きに戸惑い、悩んできた。そして、それは今、目の前にいる男の子のせいなのだ。
私は、祐麒くんとお店で初めて会った時から今までのことを思い返す。初めてのアルバイト、慣れない環境の中、祐麒くんはずっと私を支えてくれていた。それは、明らかに目に見えるようなことではなく、余所見をしていると見逃してしまいそうなことばかりだったけれど、間違いは無かった。
そして私は、いつの間にかそれを心地よいと感じるようになり、やがては、ただ側にいるだけで心が和むようになっていった。そう、ある意味リリアンでの姉妹の関係のように、お互いに近くにいるだけで力が湧いてくるようで、温かい気持ちになれるようで。
そこに理屈などはない。
祐麒くんと同じで、私も、祐麒くんの笑顔を見るだけで、ただそれだけで幸せになれたのだ。
「祐麒くん」
「は、はいっ」
「私も、祐麒くんのことが好きです」
「………………え…………」
見開かれた祐麒くんの瞳に、私自身が映っている。
今、彼の目に私はどのように映って見えるのだろうか。
私は、言葉を重ねる。
「……私、水野蓉子は、福沢祐麒くんのことが、好きです」
彼の耳に、心に届くように、私は気持ちを乗せて言葉を紡ぎだす。その言葉が風に乗って飛んでゆかないように、彼に届く前にばらばらにならないように、必要最小限の、でもそれだけあれば十分なはずの言葉の中に、私の想いを込めて。
「ほ、ほんとうに?」
信じられない、といった感じの表情で、祐麒くんは私のことを見ている。
だから私は、彼が信じられるようになるまで、何度でも言ってあげる。
「好きよ、祐麒くん」
と。
「……あ、ありがとう、ございますっ」
きっと、どう反応していいか分からず戸惑っているのだろう。祐麒くんはころころと表情を変えながら、ようやくそれだけを言った。
そしてそれから、一歩、私の方へ近づいてくる。
――あ、ちょっと待って。この雰囲気、ひょっとして、あ、どうしよう。いきなりそこまでは、心の準備が……で、でも嫌っていうわけじゃないし、むしろ……
と、そんな状況になろうかとしたとき。
後方で、からん、と何か缶のようなものが転がる音がした。びっくりして、振り返って声を上げる。
「え、だ、誰かいるの?!」
「うひゃあっ?!」
可愛らしい悲鳴が角の向こうから聞こえてきた。
「えっ……今の声は」
「祐巳っ?!」
血相を変えた祐麒くんがダッシュして来て、角の向こうを見る。
「待て、逃げるな祐巳っ!」
「う、うわーん、ごめんなさいごめんなさい」
逃げようとする祐巳ちゃんの襟首を掴んで、祐麒くんが引きずってくる。
「ゆ、祐巳ちゃん、どうしてっ」
「あ、あの、蓉子さま名札を落とされたので、渡そうと思って追いかけたら……」
言われて見てみると、確かに胸元につけていたはずの名札がなくなっていた。
しかし、ということはだ。すぐに私の後を追いかけて来ていたのだとすると。
「も、もしかして祐巳ちゃん。あの、今の、その、ひょっとして全部」
「……聞いちゃいました」
ああああああ、なんてこと。
祐巳ちゃんが思い出したかのように、ほんのりと顔を赤くしているけれど、私のほうはその比ではないだろう。
あんな、あんなことを、祐巳ちゃんに。祐麒くんのお姉さんである、祐巳ちゃんに聞かれてしまうなんて。
「……祐巳、さっきのは聞かなかったことにしろ」
祐麒くんも、顔を真っ赤にしている。
「えええ、べ、別にいいじゃない。そりゃ、隠れて聞いちゃったのは悪かったけれど、二人が好きあっているなら、素敵じゃない」
開き直ったのか、祐巳ちゃんは笑顔を向けてそんなことを言ってくる。
「ゆ、祐巳ちゃん」
「蓉子さまも、凄く可愛らしいし。あ、でもそうすると私が蓉子さまのお姉ちゃんになるんですか?複雑だけど、嬉しいかも……なんて」
「ゆゆゆゆゆゆ祐巳ちゃんっ?!」
「こら、祐巳ーーーっ!」
「あわわわわわ、さよならーーーーーーっ!」
祐麒くんの手をかいくぐるようにして、祐巳ちゃんは逃げていってしまった。後には、告白の時以上に、お互い真っ赤になった二人。
まったく、とんでもないことを言ってくれたものだ、祐巳ちゃんは。
「……じゃ、じゃあ俺、そろそろ行きますね」
この雰囲気に耐えられなくなったのか、そう言って祐麒くんが歩き出そうとした。
「あ、待って」
それを私が引き止める。
まだ一つ、大事なことがあった。
振り返る祐麒くんの側に小走りで近づき、そっと耳に口を寄せて、小声で囁くようにしてその一言を告げる。
「……大好き」
その瞬間、祐麒くんの体温が上昇したような気がした。
勿論、私もだけれど。
でも、これで私からも四回。
おあいこでしょう?