春のうららかな陽射しの中、私は呆然として街の中を歩いていた。
公園から出て、街中にきて、街頭テレビを観たり、色々なお店の中を覗いてみたり、新聞を購入してみたりして、本当に本当のことなのだと頭では分かったものの、そう簡単に納得できるわけもなく、当て所なく動いていた。
だって、信じられるわけ無いではないか。
一週間前の世界に、戻ってきたなんて。
どうすればよいのか、まるでわからないが、まずは何より冷静さを取り戻すことだ。混乱したまま迷走しているだけでは、明るい展望など開けない。
私は人の少ない小さな広場に場所を移し、静かに考えた。
普通に考えれば確かにありえないことだが、目の前の現実を受け入れない限り、前には進めない。
ならば、受け入れよう。
受け入れた上で、これからどうするかを考えるのだ。
「…………祐麒、くん」
そこでようやく、大切なことを思い出した。
一週間前の今ならば、あの日の祐麒くんの行動を止められるのではないか。いや、それでは根本的な解決には至っていない。なぜ、見知らぬ女性と二人でいたのかを、きちんと確かめるのだ。
きっと祐麒くんであれば、何かしらの必要性があってのことに違いない。昨日、もとい、今から一週間後の私は、冷静さを失っていた。だけど今は違う。祐麒くんが女性と何か約束をすることを知っているし、不意打ちをくらうこともない。
冷静な心をもって相対すれば、きっと誤解はとけるはず。
過去の世界で、かつてと異なる行動を起こすと未来が変わる、歴史が変わる、というようなことを何かで聞いたような記憶もあったが、あんな歴史であるならば変わってしまっても構わない。むしろ、変えてしまいたい。
奇妙な現象を嘆くのではなく、今の状況を最大限に生かそう。
本当に過去に来てしまったのだとしたら、あの、嫌な未来を変えてしまおう。
確かに、未だに不安は拭えていないし、今の状況が本当に現実のことなのかという疑いが消えたわけではない。
それでも私は、前向きな気持ちを持つことで、なんとか自分を奮い立たせようとしていたのだ。
どうにか当面の目標を定めた私は、ある程度力を取り戻した足取りで、自宅へと戻った。
家に帰ってからまず実行したのは、再度、今日という日の確認であった。新聞を取り出して確認し、リビングに置いてあった雑誌に目を通す。
テレビをつけて、新聞のテレビ蘭と照合し、ニュースで語られる話題、内容をしっかりと見届ける。
それだけではない。
夕食の献立、父の帰宅時間、会話の中身、行動について、出来うる限り思い出して照らし合わせてみた。
結果、どう考えてみたところで一週間前の日と同じだということが分かった。
少なくとも、母も父も、私が覚えている限り同じ行動、言動をしていたと思う。すべてを覚えていたわけではないが、いざ見ていると、そういえば確かにこんなことを言っていた、こんな行動をしていたというのが脳裏に蘇ってくるのだ。
どうにか表情には出さずに済んだとは思うが、やはり、まるで録画したテレビでも見ているかのように、同じことが目の前で繰り広げられているのは、正直、気持ちの良いものではなかった。
早めにお風呂を終え、部屋に戻って大きく息を吐き出して、ベッドの上に腰を下ろす。
日中から信じられないことが起こり、色々と考え、気を張っていたためか思っていた以上に疲労感が身体を支配していた。
祐麒くんに電話をしなければいけない。
でも、この夜の時間から連絡をつけて、仮に何かあったところで動くのは厳しい。どうして早いうちに連絡を取らなかったのかと思うが、おそらく、無意識のうちに恐れていたのだろう。私としてみたら、あのようなことが起きた直後のことだったから。
時計を見る。
明日になったら、連絡を取ろう。
今はただ、疲れた脳と体を休めたかった。お風呂に入って体が温まり、自分の部屋という落ち着く空間に入ったせいもあるのか、たちまちのうちに睡魔が押し寄せてきた。
「おやすみなさい……」
誰に言うとでもなく呟くと、私は部屋の電気を消した。
暗闇が私を包み込み、そしてやがて、意識すらも吸い込んでいった。
夢を見ることもなく、気がつくと朝になっていた。
目を覚ました私が真っ先にしたことといえば、日付を確認することだった。携帯電話のディスプレイに表示された日付は、私の身に起きていることが夢でも幻でもなかったことを私に再認識させた。
念のため、新聞も見たしテレビも観たけれど、結果は変わりなかった。
半分は落ち込み、半分はどこか納得しながら朝食を終えると、私は再び自室に戻って携帯電話をじっと見つめた。
何度か深呼吸をして、やがて、決意を固める。
連絡をしたら、何を言おうか。
いきなり、五日後のことを尋ねるのはどうしたところで不自然だろう。だけれども、他に良い手が思い浮かばない。
とにかく、五日後に祐麒くんが私の知らない女性と二人きりで出かけたことは事実なのだから、その日の予定を抑えてしまえばよいのだ。ひょっとすると最初は都合が悪いとか言われるかもしれないが、強引にでも約束をとりつけてしまおう。
必要以上に力を入れて、携帯電話のボタンを押す。
「――――え?」
思わず、声が漏れてしまった。
それというのも、携帯電話のアドレス帳。
開いてみたというのに、なぜか祐麒くんの名前が無かった。何度、探してみても見つからない。『は』行のところにも、『や』行のところにもない。
一度、電源を切ってみたりもしたけれど、やっぱり同じこと。
昨日、あまりに奇妙なことが起きて、混乱しているうちにどこかで誤って消してしまったのだろうかとも考えたが、どうしたところでそんな記憶はない。
この時点で私は、何かとてつもなく嫌な予感が体の中を貫いてゆくのを感じていた。
「――――」
唾を、飲み込む。
祐麒くんの電話番号は、ちゃんと覚えている。
脳裏に浮かんだ番号をためらいなく押してゆき、通話ボタンを押す。
「…………」
無言の中、コール音が響く。
四回……五回……
そして、やがて繋がったと思い、祐麒くんの名を呼ぼうと口を開きかけたら。
"……この番号は、存在しません"
機械の様なアナウンス音が耳に入ってきて、言葉を失う。「ひゅうっ」という変な音を出して、息を飲み込む。
「え……嘘」
通話を切り、もう一度かけなおしてみるけれど結果は同じ。
「嘘でしょ。0、8、0……」
声に出して、画面に表示されてゆく一つ一つの数字を確認しながらかけてみたけれど、いくら繰り返したところで返ってくる声は同じことを告げるだけ。
「ど、どういうことなの……?」
呆然として、私は目を見開く。視界に室内の景色は入り込んできていても、何もとらえてはいない。吐きそうになるのを堪えながら、脳内にもう一度、番号を列挙する。
間違いなく、この番号で祐麒くんと連絡を取り合っていた。
デートの約束から、夜にちょっとしたお喋りをしたり、忙しくてなかなか会えないときは近況を伝えたりと、シルバーピンクの携帯電話が最も多くの回数、多くの時間を接続してきた番号に相違ないのだ。
暑くもないのに、冷たい汗が背中を伝う。
「ちょっと、嘘でしょう!?」
私に知らせることなく、携帯電話を買い換えたなんてことがあるだろうか。あるいは、落としてしまったのか、電波の届かない場所に居るのか。いや、アナウンスは『番号が存在しない』と告げていた。つまり、電話を取れない状況にあるというわけではなく、番号そのものがないということだ。
折りたたみ式の携帯電話を閉じる。ぶら下がっているストラップが小刻みに震えている。目で追ってみると、震えているのはストラップではなく、私自身の腕だった。
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、震える右腕を左手で掴む。
どれくらい、その姿勢のままじっとしていただろうか。気がつけば、時計の針は二本ともが真上を指していた。
私は握り締めていた携帯電話をバッグにしまい、立ち上がった。考え込んでいたところで、何も変わりはしない。動かないと駄目だ。自分の目で、耳で、足で、情報を集めて何が起きているのかを判断しないと、どうすることも出来ない。動け、動くのだ。
首をもたげる黒いイメージを必死に払拭しながら、私は部屋を飛び出して、階段を駆け下りる。
一階に下りると、丁度リビングから出てきた母が「蓉子、お昼ご飯は?」と聞いてきたけれど、それどころではない。私はただ首を横に振り、家から弾けるように外に出た。
バスの時間を確かめたくて左手首を見るが、腕時計を嵌め忘れてきた。仕方なくバッグから携帯電話を取り出そうとして、右腕が赤くなっているのに気がつく。
先ほどまで、左手で握り締めていた箇所だった。
☆
空は、嫌なくらいに晴れ渡っている。空と同じくらいに、私の心もすっきりクリアになってくれればよいのだが、生憎と思うようにはいかない。バスを待っている間も、バスに揺られている時間も、波立つ心のバランスを取るのに必死だった。
そうして長いような、短いような、恐ろしく狂おしい時間を耐え、辿り着いたのは祐麒くんの家。
バスから降りて、一歩一歩、近づいてゆく毎に真綿で首を絞められるような気持ちだったが、いざ変わりなく建物が存在しているのを目にして、一気に安堵する。それでも緊張したままゆっくり歩き、表札に『福沢』と書かれているのを見て、大きく息を吐き出した。
こんなことなら、わざわざ出向かずに家の電話にかければ良かったと思うが、それは今だから言えること。もし、実家の電話もつながらなかったらと思うと、怖くてボタンを押すことができなかった。だからわざわざバスを乗り継いでやってきたのだ。少なくとも、到着するまでの間は、結論を引き延ばしに出来るから。
だけど今、こうして自らの目で確認して、一息つく。
そうだ、変な状況に身をおいていたから、不安が増大していたのだ。
と、壁にもたれかかるようにして、色々と考えていたその時。
「――あれえっ、蓉子さまっ!?」
聞きなれた可愛らしい声が、耳に飛び込んできた。声のした方を見てみれば、いつもと同じように髪を二つに結っている祐巳ちゃんの姿。近所に買い物にでも出かけていたのか、ビニール袋を手に提げている。
「うわ、うわ、本当に蓉子さまだっ」
ぴょんぴょんと、飛び跳ねるようにして向かってくる姿を見て、私は軽く笑った。本当に、安心した。変わることのない祐巳ちゃんの姿を見たから。
ああ、この娘は変わらないと、安堵感を与えてくれるから。
「びっくりしちゃいましたよー、遠くから見て、見たことあるなーと思って」
「ふふ」
祐巳ちゃんは、無邪気な表情で、子猫のように私に擦り寄ってくる。思わず、私の気も緩む。
「でも、どうしたんですか、いきなり」
「ああ、えっと」
何て言い訳しようか、と考えていると。
「よく私の家の場所、分かりましたね。あ、名簿に住所書いてありましたっけ」
「――え」
思わず、言葉を失う。
祐巳ちゃんを、凝視する。
「どうされました? ああ、ひょっとして単に偶然だったとか、ですか?」
なんだ。
何を言っているのだ、祐巳ちゃんは。
以前に、来たことがあるではないか。クリスマスの日にお呼ばれして、一緒に食事をしたではないか。お互いにプレゼントを交換したではないか。それなのになぜ、まるで私が始めて訪れたかのような反応をするのか。もう、忘れてしまったというのか。
「祐巳……ちゃん?」
「はい?」
首を僅かに傾け、髪の毛を揺らす祐巳ちゃん。
私は唾をのみこみ、口を開く。
「素敵なお家よね、とても。ご家族は元気かしら?」
「はい、我が家は元気だけがとりえのようなものですから。父も母も、元気です」
大きく頷く、祐巳ちゃん。
父も母も元気――では、祐麒くんは?
なぜ、祐麒くんの名前が出てこないのか。
「……祐巳ちゃんの、ご兄弟は?」
聞いてみた。聞くしかなかった。
聞くのは辛かったけれど、聞かないままでいる方がずっと、辛かったから。
「あ、私、一人っ子なんで」
「――――――っ」
息をのむ音が、まるで他人事のように聞こえた。
祐巳ちゃんが、こんなことで悪い冗談を言うとも思えないし、平気で笑っていられる子でないことも分かっている。
ならば、事実だというのか。
「蓉子さま? 顔色があまりよくないですけれど……大丈夫ですか?」
心配そうな顔をして、祐巳ちゃんが覗き込んでくる。
大丈夫だと答えたかったが、声が震えそうで、口を開くことが出来なかった。
「あの、よろしければ少し休んで行きませんか? 蓉子さまなら、母も喜ぶと思うし――」
「だ、大丈夫だからっ」
祐巳ちゃんの言葉を遮るように、少し大きな声を出していた。
耐えられなかった。
かつて、祐麒くんに招待されて訪れた家、だけれども今は祐麒くんの存在しない家。中に入るのが怖かった。
祐麒くんの存在を否定するような祐麒くんの家には、行きたくない。
「ど、どうされたんですか、蓉子さま。顔が真っ青――」
「なんでもないから……さようならっ」
「あ、蓉子さま――」
祐巳ちゃんの声を払いのけるようにして、私は背を向けて駆け出した。
走りながら、こみ上げてくる吐き気をこらえ。流れ落ちる涙は拭うこともできず。ただ、何かから逃げるかのように走るしかできなかった。
張り裂けそうな心が、悲鳴を上げる。
理解してしまった。
祐麒くんが、世界から消えてしまったということを――
☆
祐麒くんがいないと理解したときから、私は生きていないも同然だった。この先、祐麒くんのいない人生を歩んでいかねばならないのかと思うと、何をする気力も起きなかった。
失恋したわけでもない、破局したわけでもない、引っ越したわけでもない、失踪したわけでもない。
ただ、祐麒くんの存在が消えた。
一体、どのようにして日々を過ごしていたのかも覚えていない。
抜け殻となった私は、ただ無為に日を重ね、そして気がついたら最後に祐麒くんとの時を過ごした公園に足を運んでいた。
見渡せば、一面の桜。
花見に来ている人たちの、賑やかで楽しそうな声。
私は、存在しない祐麒くんの影を追い求めて、公園内をあてどなくさまようが、歩くほどに胸が苦しくなるばかり。
祐麒くんと共に歩いた道、共に見た空、共に感じた空気、共に笑った時間。それら全てが泡沫の夢のごとく、浮かんでは消えてゆく。
自分も消えてなくなることが出来たら、どんなに楽だろうかと思う。
絶望に嘆き、底なしのため息を吐き出した、その時。
強い風が桜の花びらを舞い上げ、私の視界を、私の体を包み込む。思わず腕をあげ、顔をかばう。
(――――!?)
私は知っている、この感覚を。
かつて感じたことのある、不思議な感覚。
まるで、世界がぐるぐると回っているかのような、自分の足元が覚束なくなる奇妙な感じ。大地は消え去り、無重力空間に一人放り出されたような、頼りなさ。
私は知っているはずだった。
目をあける。
変わらない、公園の光景が目の前に広がっている。
――――――――え?
同じ公園の同じ場所に立っているはずなのに、違和感がある。何がおかしいのかといえば、桜の量だ。明らかに、減っている。
それに、自分自身の服装も、変わっている。間違いなく、祐麒くんと一緒に公園に来たときと、同じ服だった。
どういうことか。確か、ファミリーレストランで一人落ち込んだ後、足の赴くままに歩くうち、いつしか公園にいたはず。
それがなぜか、その瞬間から一週間前に時間が戻っている。
だけど、祐麒くんが隣にいない。
ふらつく足で近くにあった桜の幹に寄りかかり、私は耳鳴りのする頭をおさえた。
この感覚は、かつて味わったことがある気がする。だからだろうか、一週間前に戻ったのだということが不思議と瞬時に理解できた。
しかし、そこまでだ。
私はかつて、同じ経験をしたことがある。それは即ち、今日という過去に戻るということ。でも、かつて経験したときに自分が何を思い、どんな行動を取ったのかは全く覚えていない。これが、何回目の経験なのかも分からない。
ではなぜ、過去に戻る、などという奇妙奇天烈な事象を経験したなどと確信できたのかというと。
――――ある一つのことを、覚えていたから。
『祐麒くんに関することだけは、覚えていたから』
自分の携帯電話のメモリー上に祐麒くんの番号がなかったこと。
祐麒くんの携帯電話番号が存在しないこと。
福沢家に祐麒くんは存在しないこと。
その、『事実』だけを覚えていた。
祐麒くんの存在を追い求め、どのような行動を取ったか、及びその行動がもたらした結末にすいてだけは覚えている。それ以外の行動については全く覚えていないというのに、祐麒くんが存在しないということを思い知らされる事実だけが、積み重ねられて残っているのだ。
寒くもないのに震えが止まらない体を、抱きしめる。
それは、底知れぬ恐怖だった。
おそらく私は、過去に戻ることをかつて経験した。なのに、その時の経験は蓄積されず、代わりに祐麒くんがいないことを示す事実だけが、私の心の中に事実として蓄積されているのだ。
声にならない悲鳴を飲み込み、木に縋りつきながら、大地に膝をつく。
うららかな春の日差しの中。
私の周囲だけが漆黒に塗りつぶされていた。