携帯の履歴、そしてデジタルカメラの画像データが消えたことに甚大なダメージを受け、恐怖を植え付けられた私だが、だからといっていつまでも家で閉じこもっているわけにもいかなかった。
希望があるのか分からないが、それでも祐麒くんを求めて動き出す。むしろ、動いていないと押しつぶされてしまいそうで、活動しないわけにもいかないのだ。
家を出て歩きだすが、考えはまとまっていない。祐麒くんの痕跡を追い求め、調べた結果については記憶の中に残されているから、私がやれることは、かなりやっているはずなのだ。花寺学院、アルバイト先、昔通ったという学習塾、どこにも祐麒くんが在籍していたという形跡はなかったのだ。
しかし、前に調べて確認したことでも、変化が起きているかもしれない。携帯電話、デジタルカメラの例をとっても分かるように、前に確認したことでも変わっているかもしれないのだ。だから、もう一度確認する。再確認することによって、もしかしたら、さらに落ち込み、恐怖に打ちのめされるかもしれないけれど、やらないわけにはいかない。何か法則があるかもしれないし、法則が分かれば対策がうてるかもしれない。都合のいい話だが、良い方向に変化する可能性だってあるかもしれない。
だから私は一つ一つ潰していったが、結果は特に変わらなかった。残念だけれど、少しほっとして、さて次はどうしようかと思ったところで、ふと、まだ確認していないことを思い出した。
祐麒くんと直接話したときに聞いたのか、あるいは祐巳ちゃんあたりに聞いたのか忘れてしまったが、中学の頃は野球をやっていたと聞いた記憶がある。リトルリーグに所属していたとも言っていた気がして、まだそこは確認していない。私自身、あまり野球に詳しくないというのもあるし、野球について大きく話題が盛り上がった記憶もないから、忘れていたのだろう。
リトルリーグといっても数はあるし、どうしたらよいのか分からない。地域で募集しているのか、あるいはネットか何かで探してみればわかるのか、どれくらい数があるのだろうか、そんなことを考えながら歩いていると、いつしか福沢家に近づいてきていることに私は気がついた。
正直、福沢家にはあまり近づきたくないというのが本音であった。家族というのはもっとも祐麒くんに近い存在、その家族に否定されるということは、何よりも強烈に私を打ちのめすから。
恐怖と不安による不快感をどうにかおさえ、早いところこの場を離れようと重い足を動かしかけたとき、その声が耳に聞こえてきた。
「あれえっ、蓉子さまっ!?」
「え――」
振り返るとそこには、可愛い後輩である祐巳ちゃんの姿があった。学校の制服ではなく私服姿で、買い物帰りか何かであろうか、ビニール袋を手に提げている。
「うわあ、どうしたんですかこんなところで」
「いえ、別に……」
「でも、偶然でも蓉子さまにお会いできて嬉しいですっ……って、蓉子さま、顔色がすぐれませんけれど、お体の具合でも?」
「そんなこと、ないわよ」
無理に笑ってみせる。
しかし、祐巳ちゃんは余計に不審そうな表情をした。
「いえ、なんか今にも倒れてしまいそうですよっ。あの、私の家、すぐ近くなんです。よかったら寄って、少し休んでいかれませんか?」
何でもない、大丈夫だと首を振るが、よほどひどい顔をしていたのだろうか、祐巳ちゃんは必至の表情で私を説得しようとする。手を握り、私が首を縦にふるまでは離すまいとするかのように、瞳で訴えかけてくる。
しばらくの押し問答の後、私は祐巳ちゃんの勧めに従うことにした。
実際に疲れていて、祐巳ちゃんの手を振りほどく気力がわかなかったということもあるが、それ以上に、もしかしたら何かしら祐麒くんの痕跡を見つけられるかもしれないという、淡い希望があったからだ。
祐巳ちゃんから兄弟はいないと聞いた過去の記憶があるから、望みはないだろうと思ってもいる。それでも私は、縋るしかないのだ。
案内された祐巳ちゃんの家は、当り前だけれど、かつて私が訪れた時と何も外観は変わっていない。外観だけではない、玄関も、靴箱の上に置かれた造花も、壁にかけられている絵画も、私の記憶と違いはない。
リビングに通されると、やっぱり変わらない景色が広がっている。もちろん、多少は物の位置がずれているとかあるけれど、そんなのは普通に日常生活を送っていても起こることで、変わったことではない。
「すみません、たいしたものもなくて」
「とんでもない、ありがとう」
出された紅茶を飲むと、心から温まるようだった。祐巳ちゃんの優しい気持ちが伝わってくるようで、嬉しい反面、悲しさがこみ上げてくるが、祐巳ちゃんの前でいきなり泣き出すわけにはいかない。目を閉じ、大きく息を吸い込んで自分を落ち着かせる。
「――素敵なお家ね」
「ありがとうございます、えへへ」
可愛らしく笑う祐巳ちゃんだけど、このやり取りは即ち、目の前の祐巳ちゃんにとっては、私が福沢家を訪れるのは初めてだということを示している。当たり前だ、祐麒くんがいなければ、訪れる機会などなかっただろうから。
「祐巳ちゃんのお部屋は、どんな感じなのかしら」
口にしたのは、本当に何気なく。祐巳ちゃんの部屋はまだ見たことがなかったから、純粋な興味があった。だけど多分、水面下では他の思惑もあっただろう。即ち、祐巳ちゃんの部屋に案内してもらえば、祐麒くんの部屋がどうなっているか分かるという。
祐巳ちゃんは照れながらも、素直に了承してくれて、立ち上がる。祐巳ちゃんの後を追ってリビングを出て、二階への階段を上ってゆく。一段上るごとに、心臓の鼓動が比例するように速くなっていく。
無心に足を動かし、やがて二階に辿り着き、様子が視界に入る。廊下に、部屋の扉、前に来た時と変わらない。
だが。
「どうぞ、こっちが私の部屋です」
「――――えっ?」
祐巳ちゃんが指し示した部屋の扉は、私が思っていたのとは全く違う場所のものだった。私は必死に思いだす。確かに、祐巳ちゃんの部屋に入ったことはないが、祐麒くんの部屋の隣だということは間違いなかった。そして、祐麒くんの部屋の位置は覚えている、間違いようがない。それにも関わらず、祐巳ちゃんは全く違う位置の扉を開けていた。
よく見る。
そして、気づく。
祐麒くんの部屋の位置に、扉がない。いや、あることはあるが、位置がおかしい。明らかに横にずれている。そんな間取りではなかったはずなのに。
「蓉子さま、こちらです。あれ、どうかしましたか?」
「祐巳ちゃん……あの、ちなみに他の部屋は、何かしら」
私の問いに、「ああ」と軽い調子で頷き、祐巳ちゃんは口を開く。
「そっちの部屋は納戸です。あと、あっちはお客様が来た時に使ったりしますね。以前は、エレクトーンが置いてあって、練習室みたいになっていんですけれど、私がやめちゃってからはそれもなくて。あ、だから一応、防音になっているんですよ」
ガラガラと音を立てて崩壊していく。
分かっていたことのはずなのに、痛みは容赦なく私の心を貫く。祐麒くんという存在がないことを、またしても証明されただけなのだ。
その後、祐巳ちゃんの部屋に通され、色々と話をしたはずなのに、私は話の内容など全く頭に入らず、福沢家を辞去した後も、何を話したかも覚えていなかった。
こうして私は、絶望を積み重ねてゆく。
たとえ無駄に終わるかもしれないと予測していても、私は確認するしか術がない。福沢家の所在地を中心に、祐麒くんが所属しそうなリトルリーグを調べ、すべてに対して過去に在籍していた子を調べてみたけれど、祐麒くんの名はどこにもなかった。
行き詰まり、焦燥感が私を包む。おそらく、何度も何度も繰り返してきたことなのだろうけれど、慣れることもない。
街を歩き回り、祐麒くんと一緒に訪れた場所を巡って見る。あるいは、祐麒くんから聞いたことのある場所まで足を延ばしてみる。どこへ行こうとも、ただ祐麒くんがいないことだけを思い知らされ、そのたびに私は泣きそうになる。私の心の中には、こんなにもくっきりと鮮やかに、祐麒くんとともに歩いた記憶が染み込んでいるというのに、名残も、欠片も、見ることができないのだから。
同じ風景、同じ空気のはずなのに、祐麒くんがその場にいたことはないのだ。
歩き、疲れ、失望し、気を失うようにして眠る。ただ、そんなことを繰り返すだけの一週間。希望や喜びは、どこに見つけることも出来ないまま、時間だけが過ぎてゆく。
そして、いつしか一週間が流れ去り。
疲れ果て、酷い有様になっていた私は、祐麒くんの幻影を追い求めて公園に向かう。なぜかは分からないけど、行かなくてはならないのだと、本能が告げている。目の下の隈もくっきりと、やつれた様相の私は他の人からどのような目で見られているのか、そんなことも気にならない。
花見の客で賑わう公園内をさまよい、当て所もなく機械的に足を動かす。祐麒くんと訪れた時のことが、まるで遥か遠い昔のことのように感じられる。
ここで私のループが始まり、そして今なお終わることなく続いている。今回もまた起こるという確証はないが、今となっては起きると信じるしかない。
「ああ……祐麒、くん……」
呟きは、喧噪のなかに埋もれて消えてゆく。
桜の花びらが風に舞い。
そして私は、ループする。
桜の花びらが、目に眩い。
少し呆然としながら、私は目の前に広がる光景を眺めていた。
何度、同じ思いを繰り返してきたのだろうか。一週間前に戻った私は混乱し、それでもなぜか残されている不愉快な記憶によって、現状を理解した。
祐麒くんがいないこと、いないことを証明する私の中の記憶、その記憶すら途中で少しずつ変化があること。すぐには信じられないことだけれど、実際に日付を確認し、携帯電話を確認してと、おそらく前にもとったであろう行動をして、ごく自然と絶望のうちに納得する。
さらに、かつてはあったはずの、携帯電話のメール送信履歴が消えたこと、デジカメの画像データが消えたこと。私はそれらの記憶を保有しており、今回もまた同じことを確認して、同じ結果に失望する。
それだけなら、まだ良い。
まだ、良かった。
新たな現実に、私の眼は恐怖に見開かれる。
「……いや……いや、いやっ、いやあああああぁぁっっっ!!!!!」
もはや声をおさえる余裕もなく、春の空に向けて私は絶叫する。周りで花見をしている人たちが、何事かと私の方を見ているようだが、そんなことはどうでもよかった。今の私の意識に、周囲の人間が何を働きかけようと意味がない。
手帳に挟んであった、財布の中に入れておいた、祐麒くんと一緒に撮ったプリクラ。祐麒くんが映っていたはずの場所には何も映っておらず、私一人だけが写っていた。私の中に残っている記憶では、確かにその状態だった。
だけど、今、私が取り出したプリクラは。
白い。
真っ白い。
フレームも、背景も、何もない。私自身ですら、写っていない。まるでプリクラなど撮っていないかのように、そんなこと自体がなかったかのように、ただ真っ白なシールだけが残されていた。
消えてゆく。
ひとつ、またひとつと、祐麒くんが居たという痕跡が、祐麒くんの存在の証が、私の手のひらからこぼれおちてゆく。
こんなの、酷過ぎる。
初めに祐麒くんがいないと気付かされた時の方が、まだマシだと思えてしまう。残されていたはずのものが消えてゆくのは、希望が消えてゆくのと同じことだ。
実際、幾度、繰り返してきているのか。こんなことを延々と、際限なく繰り返していたら狂ってしまう。私がいま、狂わないでいられるのは、ループした時の行動の記憶が残っていないからだ。
もしも、全ての記憶を残したままループを繰り返していたら、数えきれないほどの絶望を積み重ねてゆく過程を覚えていたら、私の精神は崩壊してしまっていたかもしれない。だから覚えていない方が幸福なのか? 判断がつかなくなる。
胸が締め付けられ、嘔吐感がこみ上げる。
爽やかな空気のはずなのに、呼吸が苦しくなる。
「あ……ああ……」
荒い息を吐き出しながら、何も写されていないプリクラを見つめているその視界が歪んでゆく。
泣いてはいけないと思っても、堰きとめられるものではなかった。あふれ出した滴が、やがて耐えきれなくなり、頬を伝って流れ落ちる。
そんな私をあざ笑うかのように、いたずらな春の風が背後から襲いかかり、まっ白なシールを手のひらから、さらってゆく。私の目の前で手のひらから消え、空にひらひらと舞い、届かない場所へと飛ばされてゆく。
「ああ、あ、あっ……」
まともな言葉を発することもできず、ただ手を伸ばすものの、空しく宙をかきむしるだけ。手には何も残らず、新たな闇が口を開けて私の飲み込もうとする。
「ううっ……ぐっ、……あぁぁっ」
地面に伏し、額を地面にこすりつけ、大地に爪を立て、断ち切らんばかりに指を噛み、悲鳴を押し込める。
負けるもんか。
負けるもんか。
負けるもんか。
心の中で自分に言い聞かせるように何度も、何度も繰り返す。そうだ、こんなことで負けてたまるもんか。
神のいたずらか、悪魔の所業か、天変地異か、SFなのか、そのどれなのか、あるいは違うのか、分からないけれど、たとえ誰の仕業だとしても、屈してたまるものか。
だって、私は祐麒くんのことを覚えている。忘れてなんかいない。
脳裏には、溢れださんばかりの思い出が、祐麒くんの姿が詰まっている。出会ってから一年足らずという期間などは関係ない。付き合いの深さの分だけ、私の中に大切な記憶として、記録として、想いとして、残っているのだ。
初めてのアルバイトで出会い、私達は共に惹かれあった。楽しいアルバイト、夏の海、秋の散策、クリスマスプレゼント、バレンタイン、一つ一つの思い出を積み重ねてきた。
例え他の誰もが祐麒くんの存在を知らないとしても、私は知っている。私は祐麒くんが存在していることを知っている。
優しい頬笑みで、私を見つめてくれたことを。
恥ずかしがりながら、私の名前を呼んでくれたことを。
私の他愛のない冗談に、困った情けない顔をしたことを。
何より、祐麒くんがどれだけ私のことを大切にしてくれたか、どれだけ私のことを好きでいるかを知っている。そして、今もなお、たとえ今のこの世界にいないとしても、変わらずに私のことを好きでいてくれることを、私は知っている。
だから。
絶対に、負けない。
「はあっ……はぁっ……」
口の端から垂れた涎を手の甲で拭う。
立ち上がらなくてはいけない。いつまでも、こんなところで嘆いている場合じゃない。だって、祐麒くんだってきっと私のことを探している。たった一人、私をこんな世界に残して平気でいられる人じゃない。祐麒くんなら絶対に、必死になって、一生懸命になって、私のことを見つけようとしているはず。だから、私は声を上げなくてはならない。主張しなければならない。私はここにいると、貴方のことを想い、求め、確かにここに存在していると見せるのだ。
血が出るほどに唇を噛みしめ、私は顔を上げる。
遠巻きに、私のことを見つめる人たちの姿が見えるけれど、私は気にせずに立ち上がる。服や肌についた土、埃などを落とし、空を見上げる。
俯いていたら、何も見えない。
見上げれば無限の大空、可能性の広がる世界。
私は挫けない。挫けそうになったら、祐麒くんの声を思い出す。
私は負けない。負けそうになったら、祐麒くんの温もりを胸に抱く。
私は泣かない。泣きそうになったら、祐麒くんの笑顔を心に描く。
「…………さあ、行くわよ、蓉子」
頬をぴしゃりと軽く叩き、自分自身に呼びかける。
大丈夫、私は歩いてゆける。