2月と比べると随分と暖かくなってきた、3月のある日のことである。
「昨日さ、高桑の姉ちゃん見たけど、すっげー美人なの! マジこいつの姉ちゃんかって思うくらい。ビビるっつの」
休み時間、すぐ隣の席から、クラスメイトが話すそんな声が聞こえてきた。花寺はお坊ちゃん学校だが、それでも男子校だけに、女子に関する話題は絶えない。祐麒は自分の席でぼーっとしながら、なんとなく隣で交わされる会話を耳に入れていた。
「女子大生? 目がぱっちりで、唇はちょっぴり厚めだけど、そこもまた色っぽくて。なあ、今度マジで紹介してくれよ」
「あ? やめとけって、うちの姉貴なんて、どこがいいんだかな、みんな騙されてるとしか思えねー。家じゃだらしねえし、平気で下着姿でうろうろするし」
「下着姿っ……やべ、興奮しちまった。お前、いいなぁ。毎日のようにそんなの拝めるのか? なぁ、ムラムラしたりしないのか?」
「ありえねぇ! やめてくれよ気持ちわりぃ。確かに綺麗かもしんないけどさ、実の姉貴に対してそれは絶対にありえない。なぁ、福沢もそうだろ?」
「えっ?」
突然に話をふられて、思わず答えに詰まる。
すると。
「駄目駄目、ユキチは祐巳ちゃん大好きのシスコンだから」
いつの間にか横に立っていた小林が、訳知り顔で頷いて、なぜか優しく肩を叩いてきた。そう、「全て分かっている、皆まで言うな」みたいな感じで。
小林の手を叩き、眉をひそめる。
「何、勝手なこと言ってんだよ」
「あー、祐巳ちゃん、可愛いよなー。俺、一緒に暮らしたらやばいかも」
祐麒を無視してのその一言を聞いて、祐麒は目を吊り上げた。
「分かるぜ、ユキチの気持ち。祐巳ちゃんの風呂上がりとか、寝起きとか、そりゃあもうたまらんだろうなぁ」
「おい蝉丸、お前、冗談でもそれ以上言ったらぶっ飛ばす」
手を伸ばし、発言したクラスメイトの胸倉を掴んで締めあげる。半ば以上、いやほとんど本気で睨みつけていた。条件反射とでもいうか、無意識というか。時々、友人達を実家に招いたことを悔やむことがある。いや、祐巳が在宅の時に呼んだのが悪かったのか。
「く、苦しいっ」
「あ、わ、悪い」
冷静になって離れる。
「ま、姉ちゃんが大事なのは分かるけどさ、現実的に、自分の姉で欲情とかマジありえないから。あんなのAVとかエロ本の中だけの話だって。なぁ、福沢」
「あ、ああ、そりゃそうだ。当たり前だ」
そう口にしながら祐麒は。
内心では微妙な気持ちを引きずっていた。
祐麒は、この数日のところ悶々としていてどうしようもなかった。元凶はといえば、姉の祐巳である。
祐巳が何をしたかといえば、アレである。例の、『胸があたっている』事件である。三年生を送る会のためだかなんだかで、安来節を教えているわけだが、隠し芸用の道具が見つかった時に祐麒の体に押し付けられた祐巳の体。いや、胸。
決して大きいとはいえないが、間違いなく柔らかくて、服を通してとはいえ生々しくて、迷惑がるふりをしてすぐにふりほどいたが、祐麒の下半身は瞬間的に熱くなっていた。
あの日以来、腕にあたった感触が忘れられず、もやもやとした日を送っているというわけだった。
仕方ないではないか、確かに相手は姉だが、こちらは男子校育ちで同世代の女の子との接触機会など絶無に等しく、かといって性的欲求は高まる一方の年頃。祐麒は、同級生と比べてみれば大人しめだとは思うが、それでも一般的な男子高校生であり、普通に性欲は持っている。
女性の体にだって興味はあるし、その手の本やDVDだって、友達との貸し借りなどで見たりもしている。
今まで、家族であり姉である祐巳のことは意識しないようにつとめてきたし、うまく制御できていたが、あの一件で一気に何かが体の奥からせり上がってきてしまった。そして、一度意識し始めると、今度は押さえつけていた分、余計に気になって仕方なくなる。
元々、仲の良い姉弟で、小さいころから一番身近で、素直で可愛くて、そんなだから祐麒としても理想の女の子像にしてしまうくらいの相手で。
家にいても、学校にいても、ふとした瞬間に祐巳のことを思い出してしまい、何とも言えない想いを一人、胸に抱えて過ごしているのであった。
そんな折に、学校でのあの話題である。動揺して当然というか、改めて世間一般の意見を受け止めたというか。
何度か同じようなことを、他の誰かとも話した記憶はあるが、決まって結論は一緒だった。
即ち、『現実の姉妹に萌えることはない』と。
漫画やゲームのように、可愛くて懐いてくるような妹などいないし、美人でエロくて誘惑してくるような姉もいない。そもそも、実の姉妹を一人の女性としてとらえることがない、というか、そんなこと考えもつかないのが当たり前。
世の中には、シスコンもいるが、それだって姉妹を性の対象として見ているわけではなく、姉として、妹として好きだということ。
祐麒だって、あくまでその領域から出てはいないと思っていた。しかし今、祐巳の感触を思い出し、つられるようにして風呂上がりの無防備な格好とか、寝起きの着衣乱れた姿とかを思い浮かべ、感触と重ね合わせて、妄想のコラボレーションで生々しい祐巳が頭の中で出来上がって、そのたびに自分自身の興奮を収めるのに苦労することになる。
「祐麒、ちょっといい?」
そんな祐麒の心の内など当然知ったことなく、祐巳はいつもどおりに接してくる。今日も、ノックはしたものの祐麒が返事をする前に既にドアを開け、室内に入り込んでくる。
「なんだよ」
素っ気なく応答する。いつも通りを心がけようとするが、いつもはどういう風に接していたのだろうかと、ふと疑問に思ったり。
「悪いけど、マッサージお願いしていい? 祐麒、上手だったよね」
「まあ、野球部時代にちょっと学んだけど、でも、っておい」
言い終わる前に、祐巳はふらふらと力なく歩いてきたかと思うと、祐麒のベッドの上に勝手にうつ伏せになる。
このところ、安来節の練習と、送る会の準備で多忙を極め、見た目にも疲労しているのは分かる。
「しょ……しょうがねぇなあ。で、どこ?」
「んーと、足と、腰」
ベッドの上にあがり、膝立ちになって祐巳を見下ろす。
風呂から出てまださほど時間が経っていないのか、ストレートにおろされた髪の毛は、ほんのりと潤いがあり部屋の電気で輝いて見える。肌も色つや良く、艶めいている。今が3月で良かったと思う。これが夏の時期で、半そでショートパンツという格好、おまけに薄手の生地だったら、もっと心は動揺していただろう。
幸いというか残念というか、今の祐巳は長袖のシャツに、膝丈パンツスタイルだった。
とりあえず、そんな祐巳の太ももの上に跨り、腰に手を伸ばす。
思った以上に細く、少しびっくりする。
「んっ……」
息を吐き出しつつ、消えそうな声をあげる祐巳。
腰を揉んでいるだけだし、変な場所を触っているわけでもないし、とにかくマッサージに集中して、邪心を追い払う祐麒。
「もうちょっと下、お願い」
「し、下って」
これより下だと、必然的に手がお尻に触れる位置になってしまうが、良いのだろうか。だが、お願いされたからには仕方がない、ゆっくりと手を下に持っていき、腰骨から尾てい骨の方に進んでいく。
「あ~そうそう、いい感じ」
気持ちよさそうな声を出す祐巳だが、指や手のひらに伝わってくるお尻の感触に、祐麒はだんだんと気を取られていく。
姉の尻、しかも服の上からで何を動揺しているのだと言い聞かせるが、自分自身でもどうにもならない。マッサージに専念しようとするも、骨よりも肉の方ばかりを感じてしまい、余計に気が乱れて仕方がない。
「あ、足の方、いくぞ」
なんだかヤバイ気がして、祐麒は目先を変えることにした。腰と違って足なら、変な場所に手が触れることもないはずだから。
体の位置をずらして、祐巳の足を揉み始める。疲れは、脹脛や足の裏にきているようで、まずは足の裏から攻める。足裏マッサージがあるくらいだし、足の裏には重要なツボが多くあるということも知っている。細かいことまでは分からないが、どの辺を押せば気持ち良いか、体の疲れに効くか、少しは知っている。
確か、足底の中心より前にある部分のツボが、疲れにきくはずだったと思いだし、3秒押して3秒離す、といったマッサージを繰り返す。
祐麒がマッサージをしている足と反対側の方からは、唸っているのか、祐巳の妙な声が聞こえてくるが、無視することにする。
しかし、揉みながら見てみると、本当に小さくて柔らかな足の裏だなと思う。ぷにぷにとして、まるで赤ちゃんの足の裏みたいなんじゃないか、なんてことも思ってしまう。風呂にも入って血色もよく、どこか美味しそうで、足の指の間でも舐めてみたらイケるのではないか。などと危険なことを考え、無意識のうちに足の裏に顔を近づけてしまい、びっくりして顔を背ける。
馬鹿なことを考えないようにと、脹脛のマッサージへとうつる。
「あ~う~」
「なんだよ、それは」
祐巳の声を無視して、脹脛全体をまんべんなく揉んでゆく。特別な運動をしていない祐巳の脹脛は柔らかく、もう少しくらい鍛えた方が良いのではないか、などと余計なことを考える。
そういえば、女性の二の腕というのは胸の柔らかさと同じだと、どこかで聞いた気がするが、だとすると脹脛はどうなのだろうか。祐巳の胸の感触も、ちょうどこれくらいだったかもしれないと、揉んでいる脹脛を凝視する。途端に、祐巳の胸を揉んでいるような錯覚に陥り、頭に血が上ってくる。
違うと分かっているのに、これが祐巳の、なんて考えてしまう自分自身がとてつもない変態に思えてくる。
駄目だ、祐巳は祐麒のことを信頼して、というか、そんなことなど何も考えず、気にすることもなく、こうして無防備に体をゆだねてきているのだ。マッサージに集中して、余計な雑念を追い払う。
無駄口をたたくこともなく、黙々とマッサージに励む。
そうして、いつしか気づくと。
「……おい、祐巳、おいったら」
祐巳は完全に熟睡してしまっていた。
「どうすんだよ、これ」
ベッドの横に立ちつくす祐麒。
祐巳が寝ているのは祐麒のベッドである。疲労した体にマッサージを受けて眠ってしまった祐巳が、そう簡単に自然と目を覚ますとは考えられない。
かといって、疲れていることを知っているだけに、強引に起こすということもしたくはない。
お姫様抱っこで祐巳の部屋まで運んでいく案もあるが、それも上手くやらないと、祐巳が目覚めてしまう危険性が高い。
一番良いのは、このまま目が覚めるまで寝させてやることだと思うが、すると祐麒はどこで眠ればよいのか。
唾を飲み込む。
祐巳の部屋で寝る? いやいや、さすがにそれはないだろう。
では、床で寝るか。しかし毛布は一組みしかない。この時期、布団もない状況で寝ていたら風邪をひいてしまう。
となると、やはりきちんとベッドで寝るしかない。幸い、ベッドは二人で寝るくらいのスペースはあるし、そもそも自分のベッドだし、祐巳が勝手に寝てしまったわけだし、姉弟だから一緒に寝たって問題があるわけじゃないし。
「そうそう、さっさと寝ちゃえばいいんだって。変に考えすぎなんだよな、俺が。悩ませるなよな、まったく」
わざと声に出し、髪の毛をかき回し、何も気にしていないよという感じで無造作にベッドの空いているスペースに潜り込む。
「ほらみろ、全く問題ない」
あとは、足元の毛布を体にかければ完了である。手を伸ばし、布団を掴んだところで気がつく。
「しまった、電気……」
部屋の明りはついたままで、消していなかった。消すためにはリモコンが必要だが、机の上に置きっ放しであり、せっかくベッドに入りこんだのにまた抜け出さなくてはならなかった。
まあ、一度出来たもの、再びできないわけもない。そうして祐麒が立ちあがろうとした時、ベッドの揺れに影響を受けたのか、祐巳が寝がえりをうって仰向けになる。上から祐巳を見下ろす格好の祐麒は、思わず絶句した。
目が一点に吸い寄せられる。
それは、シャツがまくれて見えている、祐巳のヘソ。
ただヘソがちらりと見えているだけだというのに、妙に色気があるように見える。チラリズムが、祐麒の心を殴り続け、やがて祐麒は敗北した。
「や、やっぱ、祐巳の部屋まで運ぼう……」
色々と危険な気がして、結局はそういう結論に落ち着くことにしたのだ。
シャツを直してやり、祐巳が起きないようにそっと、静かに、体の下に手を差し入れる。膝の下と、背中から脇の下に入れた腕と腰に力を込めて、ゆっくりと祐巳の体を持ち上げる。頭がカクンと後ろに倒れるが、これは仕方ないだろう。
祐巳が目を覚まさず寝たままであることを確認して、そろりと歩き始める。自分の部屋を出て、廊下を歩き、祐巳の部屋の前に辿り着く。
「く……しまった、扉を開けてからにすれば良かった」
祐巳の部屋のドアは閉まっていた。鍵はかかっていないだろうが、ノブを回さなければならず、祐巳を抱えたまま苦労してどうにか開けることに成功する。
早いところベッドに寝かせないと、肉体的にきつい。お姫様抱っこという体勢のせいもあるが、密着していることで感じる祐巳の体温だとか、ほのかな匂いだとか、太ももの感触だとか、色々なものが祐麒を襲っているのだ。
煩悩を追い払い、少しずり落ちかけた祐巳の体を、抱え直す。だがそれがいけなかったのか、体をゆする格好となってしまい、祐巳がぴくりと身動きしたかと思うと、ゆっくりと目を開いた。
「ん……?」
「え、あ、祐巳……」
「んあ……私、寝ちゃっていた……?」
ぼんやりとしていた目の焦点が徐々にあってくる。きょとん、とした顔をして祐麒の顔を見つめ、軽く顔を左右に振って、やがてまた祐麒の顔を見上げる。
と、その顔にさーっと赤みが差していく。
「あれ、何しているのよ、祐麒っ!?」
自分の格好に気がついたのだろう、祐巳が慌てだした。
「やだ、なにこれ??」
「お、お前が俺の部屋で寝ちゃうから、仕方なく運んでやっているんだろうが」
「あ……そか。ご、ごめん、迷惑かけちゃった?」
「そんなことないけど。ま、起きたんなら、自分の足で歩けよ」
そう言って祐巳を降ろそうとすると。
「えーっ、ここまで運んで来たんなら、最後までやってよー」
「なん……だと?」
祐巳の言葉に、降ろそうとしていた動きがぴたりと止まる。
「だってさ、お姫様抱っこで運ばれるなんて、初めてだし。いいでしょ、どうせすぐそこなんだし」
抱きかかえている状態で、見上げるようにして懇願してくる表情は、反則技だった。
「し、仕方ねえなぁ」
「わは、やったぁ」
喜んで微笑む祐巳の顔を見ないようにして祐巳の部屋に足を踏み入れ、ベッドの方へと近づいていく。そして、ゆっくりとお尻からおろし、続いて上半身をそっとベッドの上に寝かせて完了。
「これでご満足ですか、お姫様?」
「ええ、ありがとう」
「――なんだそれ、お姫様口調のつもりか? 似あわねえなぁ」
「なによぉ、祐麒だって王子様には程遠いくせに」
「俺は王子なんかじゃないし」
「えー、お姫様をお姫様抱っこするのは、王子様に決まっているじゃない」
口を尖らせる祐巳に、黙って肩をすくませる祐麒だったが、内心では少しドキッとしていた。祐巳がお姫様で祐麒が王子様だなんて、それではまるで恋人同士みたいではないか。もちろん、祐巳は冗談半分で、そんなことを思っていないことは分かっているのだが。
「知るか、それよかさっさと寝ろ。腹出して寝て、風邪ひくなよ」
「そんな子供じゃありません~」
ひらひらと手を振って、祐麒は祐巳の部屋を出る。
そのまま自分の部屋に戻り、扉を閉めたところで、力が抜けたようにしゃがみこむ。
「くそっ……本当に、困るぞ……」
頭を抱え、呻くように呟く祐麒であった。
翌朝、祐麒の目覚めはよくなかった。
どうしても、昨夜のことを思い出してしまい、そのたびに頭の中が混乱していたから。
あまり眠ることのできなかった祐麒だが、それでも朝はやってくる。朝になれば、嫌でも祐巳と顔をあわせることとなる。
「……おはよう」
「あ、おはよう祐麒。朝ごはんだよ」
「お、おう」
挨拶した祐巳は、びっくりするほどいつもと変わらなかった。
そもそも祐巳は、お姫様抱っこのことなども、別にどうとも思っていないのだろう。意識しているのは祐麒だけなのだ。
ほっとしながらも、どこか少し残念に思うという複雑な感情をもてあます。機械的に朝食を済ませ、洗面所に向かう。祐巳ほどではないが祐麒も癖っ毛で、学校に行く前はきちんと確認、セットしていくのだ。
洗面所で髪の毛をセットし初めて少しすると、祐巳がどたどたと駆けこんできた。
「ごめーん、時間ないからご一緒させてね」
「ちょっと、おい、祐巳っ」
祐麒の抗議の声など無視して、祐巳は鏡に向かい髪の毛を整え始める。ぴょんぴょん跳ねる髪の毛を、一生懸命に櫛で梳かす祐巳。
さほど広くない洗面所、一緒に鏡を利用するため、祐麒の斜め後ろに立つ格好の祐巳。その体は、髪の毛のセッティングに夢中になっているせいか前かがみになり、いつしか祐麒の体に完全に密着していた。
背中に押し当たる、ほんのりと、ふんわりとした感触。冬服の制服とはいえ、それでも伝わってくるものはあるのだ。しかも、祐麒の想像力というものが、実際の感触を何倍にも増幅させている。
「あれ、祐麒、手が止まってるよ。のんびりしていると、遅刻しちゃうよ」
「う、うるさいな。それよか、胸が当たってる」
「ああ、それは失礼。でもさ、そんなこと言って、本当は嬉しいくせに」
珍しく、祐巳が冗談口調でからかってくる。
「さっさとセッティングしろよ、遅れるぞ」
口調が乱れないように気をつけながら、相手をする。
「はいはい、分かりました」
跳ねていた髪の毛をどうにか二つに結わいて、いつも通りのツーテールになる。この髪形になると、一気に幼く見えるようになるが、祐麒としては見ていて落ち着く。いつも通りの祐巳という感じがするからだ。
「よし、出来上がり、っと。あ、祐麒、あんたまだ髪の毛跳ねているよ」
「ん? どこが」
「横の方」
鏡に映っている自分の頭を見ても、角度のせいか良く分からなかった。だが、その程度であれば充分に許容範囲だと思った。
「駄目駄目、身だしなみはきちんとしないと。ほら、直してあげるから、頭出して」
「別に、いいってのに」
「すぐすむから、ほら」
しばしば起こることだが、こうゆう時の祐巳はしつこい。仕方なく、頭を差し出す。
「そう、素直にそうすればよいの。ここをこうして、っと」
少量のヘアワックスとブラシで、祐麒の髪の毛を整える祐巳。
「祐麒、もうちょっと頭、傾けて」
「こっち?」
「そうそう、それでね……へへへっ」
「ん、なんだよ気持ち悪い笑い方して」
そう思った次の瞬間。
頬っぺたに、しっとりと、柔らかな感触が当たっていた。
音にするなら、まさに、「ちゅっ」、という感じ。
「――――え?」
あっけに取られた。
自分の勘違いだと思ったが、目の前の鏡に写っているところをバッチリと見てしまった。鏡の中で祐巳と目があう。
「あはは、昨日、部屋まで運んでくれたお礼。でもなんか、いざやってみると、恥しかったかもというか、弟にキスとか気持ち悪いかもー、うえっ」
祐巳も鏡で自分達の姿を見てしまったのだろうか、誤魔化すように顔をしかめている。その頬が僅かに赤くなっているように見えるのは、照れか、恥しさか、それとも祐麒の気のせいだろうか。
「馬鹿じゃないのか、俺だって、姉にしてもらったってだな。だ、大体、お礼にそんな、は、恥しいやつ」
「う、うるさいなぁもう、じゃあねバイバイっ」
くるりと回転するように祐麒から離れ、洗面所の入り口に移動すると、祐巳は照れ隠しをするかのように、「んべっ」と舌を出してから去っていった。
「…………」
一人、取り残された祐麒は。
「何がお礼だよ。何が、「べぇ」だよ……」
洗面台に手をつき、もう片方の手で額を抑えて頭を左右に振る。
そして。
「やべぇ……可愛すぎるだろ……」
頬にいまだ残る熱を感じながら、ごく自然と、そう口にしてしまい。
ざわめく自分の心の中を、どうにかして覗こうとでもするように、鏡に写る顔を、じっと見つめるのであった。
おしまい
【おまけ】
部屋に戻りって扉を閉め、その扉に背を預けるようにして息を吐き出す。
部屋の外の様子をうかがっても、特に追いかけてくる様子はない。
「あーもう、やりすぎちゃったかな」
頬っぺたとはいえ、キスをしてしまうなんて。
欧米ではこれくらい当然のことかもしれないけれど、ここは日本なのだ。
姉弟で親愛の印にキスをするなんて、聞いたこともない。
「でも、祐麒ったら」
思い返してみて、思わず口もとがほころぶ。
あの、驚いた表情。そして、みるみるうちに真っ赤に染まっていく頬。
「そんなに、お姉ちゃんにちゅーされたのが嬉しかったのかな?」
昔から、お姉ちゃんっ子だった祐麒。中学生の頃は反抗期だったのか、少し疎遠になったりもしたけれど、高校に入ってからはまた接する機会も多くなった。野球をやめて時間が出来たというのもあるだろう。
中学の頃はまだまだ子供みたいだと思っていたが、高校生になると随分と変わってきた。童顔であることに変わりはないが、身長はもうとっくに祐巳を追い越しているし、体つきも逞しくなってきた。
昨夜などは、祐巳をお姫様抱っこをしてベッドまで運んだりもしたのだ。
「いつの間にか、そんなんなっちゃって」
感慨深くもある。
だが、まだまだ子供であることに変わりはない。姉のキスであそこまで動揺してしまう位なのだから。
「ふふ、次は何をしてあげようかな」
そう呟き、祐巳は弾むような足取りでベッドに近づくと、そのまま寝転がるのであった。