<前編>
「るんるんるん」
秋も深まり、学園祭の準備期間に突入したリリアン女学園高等部校舎内を、桂は一人、弾む足取りで歩んでいた。
この時期、どのクラスも学園祭の準備に盛り上がり、熱気がある。そんな雰囲気が、桂は好きだった。
廊下を歩き進めるうちに、見覚えのある髪型が目に入った。桂の元気パワーはさらに倍増し、走ってはいけないと言われている廊下を小走りに、その人めがけて突撃する。
「やっほ、祐巳さんっ」
「わわっ、桂さん」
振り向いた祐巳さんは、表情豊かな彼女らしく驚きを顔全体で表してくれていた。
「お久しぶり。ねえねえ、今年の山百合会の劇は、何を演じるの?」
「うーんと、それはねえ……って、駄目だよ、まだ秘密なんだから」
うっかり口走りそうになるのを、慌てて抑える祐巳さん。惜しい。
「そうなんだ。でも、今年も花寺からお手伝いが来るのでしょう?楽しみね、去年の王子様も格好良かったし」
「ああ……今年は期待しないほうがいいよ、桂さん」
「え、なんで?」
桂は少しびっくりした。普段、祐巳さんは人の悪口なんて全く言わない人だから。その口調は、本心からのものに感じられた。
しかし、その理由はすぐに判明した。
「今年の花寺の生徒会長はね、私の弟だから」
「えーっ?! 本当? あの、年子の弟さんっていうお方?」
驚きのあまり、喋り方が変になってしまったが、まあそれはどうでも良くて。それよりもこれは、ニュースではありませんか。
「あ、じゃ、じゃあ、ひょっとして姉弟でラブシーンとか?!」
すると祐巳さんは、心底うんざりしたというような表情で。
「やめてよ。祐麒とラブシーンなんて冗談じゃない、気持ち悪い」
「えー、そうなの」
どうやら、祐巳さんといえども家族に対してはそれなりにきついことも言うようだ。まあ確かに、弟とキスシーンなんて、好ましいものではないだろう。
「でも、祐巳さんの弟さんだったら、結構可愛らしいんじゃないの」
「そんなことないよー。今日も放課後に来るけれど、期待しないほうが」
「そうなのかなぁ。でもさ」
と、さらに話を弾ませようかとした時、祐巳さんの両房の髪の毛がぴょんこと跳ねた。
「あ、志摩子さーん」
手を上げて左右にぶんぶんと振る祐巳さん。後ろを向くと、志摩子さんが優雅な足取りと上品な微笑で歩んでくるのが見えた。
今年も同じクラスだけれど、いつ見ても綺麗だ。本当に、同じ年齢とは思えないし、むしろ同じ人間とは思えないと、桂は感じてしまうくらいだ。
それほど親しいというわけではなかったけれど、去年、祐巳さんが山百合会のメンバーになってからは、祐巳さんを介してたまにお昼を一緒に食べたりもした。そうしてお話してみると、確かに綺麗で上品だけど、志摩子さんも別に普通の女の子とそう変わるわけでもなくて。
今年は、同じクラスにもなれたことだし、祐巳さんが居なくても仲良く出来るよう、折を見ては話しかけていたりするのだけれど、なかなかうまくいかない。志摩子さんも、白薔薇さまとなって忙しいようだし、あまり自分の望みばかり押し付けるわけにもいかないし、気さくにお喋りできるような仲にまではまだ程遠かった。
「あ、ごめん桂さん、もう行かないと」
「ううん、ごめんね、忙しいのに引き止めて」
「ごめんなさいね桂さん。お話している最中に」
「あー、別にただの雑談だから、気にしないで」
祐巳さんと志摩子さんは桂に手を振って、廊下を歩いていく。二人で楽しそうに、何やら話しながら。
その後ろ姿を笑顔で見送りながら、桂はどこか寂寥を感じていた。
凄く久しぶりに祐巳さんと話したような気がするのに、あまり話すことも出来ずに別れてしまった。
去年の同じ頃は、桂と同じグループでよく一緒に行動して、お喋りだってよくしていた。別に『親友』というほどではなかったかもしれないけれど、ごく普通に仲の良い友達として、たまには休日に一緒に遊びに行ったりもした。
それが、一年前の学園祭から一変した。祐巳さんが紅薔薇の蕾であった祥子さまに見初められ、ついには蕾の妹となり、桂と同じ『普通の子』から一転して山百合会幹部。今や、高等部内に知らない人はなく、一年生からもダントツの人気を誇る紅薔薇の蕾。
クラスが変わった今年になってからは、さらに接点も減って接する機会自体が少なくなった。山百合会の仕事が忙しいというのもあるだろう。
だけれども、桂はつい考えてしまう。
祐巳さんにとって、自分とは一体なんだったのだろうか。単なる、クラスメイトの一人に過ぎなかったのか。
学園祭に向けて盛り上がる中、そんな些細なことで、桂の心はどこか沈みつつあった。
「らんらららん」
スキップをするように、桂は荷物を抱えながらクラブ棟を目指して歩いていた。
さきほどはちょっと気分が落ち込んだけれど、そういつまでも悩んだりせず、気持ちをすぐに転換できるのは自分のいいところだと、桂は思っている。もっともそのせいで、落ち着きが無いとか、周囲に左右されやすいとかいう欠点をよく指摘されたりもする。
昨年度、俗に言う『黄薔薇革命』のとき、感化されるようにロザリオを姉に返してしまったのは、その典型的な例だろう。そんな桂のことを分かっているのか、桂のお姉さまは愚妹に再びロザリオを渡してくれた。
もう二度と、このロザリオを返したいなんて思うことはないだろうけれど、あの時の気持ちも分かって欲しかった。
山百合会という、同じ生徒でありながら華やかで、みんなの憧れの存在。そしてそんな中に、ついこの前まで隣で一緒に眺めていた祐巳さんが入っていって。祐巳さんは山百合会の他のメンバーの中でも、負けることなく輝いていて眩しかった。
羨ましくないわけがなかった。嫉妬もした。今となっては、祐巳さんに対してそんな感情を持ってしまった自分が嫌になるけれど、しようがないじゃない。なぜなら桂は、ごくごく平凡な少女なのだから。だから、自分と同じだと思っていた女の子が、ある日突然、華やかなステージの上で輝いている姿を見せられたら、妬みたくもなったりする。
だから、あの時はそうすることで、自分も山百合会の人達のような、どこかそんな存在になれると、無意識のうちに考えていたのだ。
今思えば、馬鹿なことだったけれど、あの時は本当にそう思っていた。
自分の過ちに気づいたとき、桂は泣いた。
きっともう、お姉さまはこんな馬鹿な自分を妹にしたいだなんて思わないだろうと思ったから。
だけれども、お姉さまは手を差し伸べてくれた。きっと、全て分かっていたのだろう。
やっぱりお姉さまには敵わない、と思った。
だからもう、お姉さまを裏切るようなことはしないと自分自身に誓った。
「桂ちゃーん」
「はいっ。あ、里穂さま、ごきげんよう!」
クラブの先輩に呼び止められて、元気に挨拶をする。祐巳さんもよく口癖のように言っていたけれど、元気だけが取り得なのだから。
すると先輩は、笑いながら桂の方に歩いてくる。
「今日も元気ね、桂ちゃんは」
「はい、それだけが取り得ですから」
「ふふっ。あ、そうそう。悪いんだけれど、一つ頼まれてくれるかしら」
そう言って、その先輩は一枚の紙を鞄から取り出した。
「これ、生徒会に出す書類なのだけれど、出すのを忘れていて。これから出しに行こうかと思っていたんだけど、桂ちゃん、山百合会にお友達いたわよね」
「あ、はい、いいですよ」
書類を受け取ると、桂は薔薇の館に向かって駆け出した。
「あ、ちょっと桂ちゃん。そんなに急がなくていいのよ。ほら、校舎内は走らない」
「はーいっ!」
そう返事をしつつも、ペースは緩めない。ここは校舎を出たところなのだから、少しくらい走ったって良いはず。それに、思いもかけず、また祐巳さんに会う理由が出来た。
弾む心と同調するかのように、足取りも軽く駆けてゆくのであった。
薔薇の館へと向かう途中で、見間違えるはずのない特徴のある髪型が目に入った。どうやら、一人でいる模様。これはラッキーと、桂は手を上げて呼びかけようとした。
「祐巳さ……」
「祐巳さーん!」
桂が言いかけたところに、他の人の声が覆いかぶさってきた。
見ていると、桂とは異なる方向から一人の少女が小走りに駆けてくる姿が見えた。お下げの髪を揺らしているその人は、由乃さん。
桂はそれほど親しいわけではないが、同じクラスになったこともあった。その頃は、大人しくて可憐な女の子、と思っていたけれど、めっきり元気な女の子に変わっていた。
その由乃さんが駆け寄ると、祐巳さんは笑顔で迎えて、何やら楽しそうに話し出す。そして、二人でそのままお喋りしながら、薔薇の館とは反対方向に歩き出した。
きっと、何かの用なんだろうけれど。
たまたま、タイミングが悪かっただけなのかもしれないけれど。
なぜか、ものすごく寂しかった。先輩から預かった書類が、秋風を受けて空しくはためいていた。
「遅くなっちゃった」
小走りに部室へと戻る。
祐巳さんは由乃さんとどこかへ行ってしまったけれど、頼まれた書類は届けないといけないから桂は薔薇の館へ行った。そこには、乃梨子ちゃん、瞳子ちゃん、可南子ちゃんの一年生トリオがいるだけだった。
書類を届けたらすぐに辞去する予定だったが、ついつい、噂の一年生達がどんな子なのか気になってしまった。祐巳さんや志摩子さんから時々、話を聞いたりしていたが、やはり本人達と直接に話をしたくなったのだ。この辺は、ミーハーな自分らしいと桂自身も思うところだ。
三人の一年生は、聞いていた通りの子達だった。遠目からもわかる、そのデコボコぶり。実際に話してみると、それぞれ個性が強く、非常に面白かった。三人とも最初は、初めて会う桂に話しかけられて戸惑っていたようだが、すぐに桂のペースに乗ってきた。
祐巳さんと同じで、平凡でごく小市民であることを自覚している桂だが、それだけに他の人からあまり嫌われることがなく、いろんな人と結構すぐに仲良くなるのが得意だった。
乃梨子ちゃんも、瞳子ちゃんも、可南子ちゃんも、みんないい子だ。
瞳子ちゃんがまず最初に口を開き、可南子ちゃんがそれに横槍を入れる。言い争いになる二人に対して、丁度いいタイミングで仲裁に入る乃梨子ちゃん。バランスもいい。それに、桂みたいな、なんの取り柄もないような普通の人に対しても、先輩として立ててくれる優しい子達。
将来、薔薇さまになるのかどうかは分からないけれど、あの三人ならきっと良い薔薇さまになれるだろう。
「……っと、いけないいけない」
そうやってすぐに、別のことに気を取られてしまうのはなかなか治らない。先輩から頼まれごとがあったとはいえ、もう部活はとっくに始まっている時間。早いところ部室に行って、着替えて、テニスコートに行かなければならない。
鞄を肩にかけなおして、歩むスピードを再び上げると、すぐに部室に到着した。
「ごきげんよう、遅くなりました―――って、もう誰もいないか」
その通り、部室の中には誰一人いなかった。だけど、みんなの鞄やら荷物やら、誰かがいた形跡は残っている。
それは即ち、すでにみんな着替えをすませて部活に行っているという事だ。
「急がないと」
鞄を適当な場所に置くと、ウェアを取り出して着替え始めた。
すると、そのときだった。
何やら外から騒がしい声と足音が聞こえてくる。何だろうと思いつつも、どこかの運動部が何かやっているのか、くらいにしか考えず着替えを再開しようかとした瞬間。
いきなり、部室のドアが開いた。
「―――ふぇ?」
「―――あ」
着替える手が止まった。
それはそうだろう。突然、部室に入り込んできたのが、見たこともない、しかも男の子だったのだから。
「ご、ごめ――あ、いや、これには深……くはないけど、それなりに理由が」
慌てて弁解し始める男の子。
だけど、桂の思考はぴたりと停止したまま動かない。幸いだったのは、まだ着替え始めたばかりだったので、肌がほとんど露出していないことだった。
しかし、しばらくすればさすがに脳みそも少しは回転してくる。そこでようやく、悲鳴を上げようかとしたそのとき。
「――どっち行った?確かこっちのほうに」
「部活棟の方じゃない?」
「む、それは危険。ひょっとして着替えとか狙っているのでは」
などという声が、わずかに開いたドアの向こうから聞こえてきた。それを聞いて、入ってきた男の子が、絶体絶命、といった顔をして頭を抱えた。
「違う、違うのにぃ~っ」
その表情を見て、ふと、桂の脳裏に何かが閃いた。本当に、本当に偶然だったけれど、頭の中で光が照らされたような気がしたのだ。
「あ、あの」
思い切って、声をかけてみる。
男の子は顔を上げたけれど、桂が着替え途中だということに気がついて、すぐに顔を下に向ける。
「ごめん、でも俺、本当に覗きとか変質者じゃなくて」
「こっち、ここに、隠れて」
「……え?」
再び顔を上げた男の子は、天然記念物でも見るような目をしていた。
「ほら、早くしないと、見つかっちゃうよ」
着替え途中だった身体を隠しながら、桂はロッカーの扉を開けて、中を示す。そこは桂のロッカーで、中にはまあ、それなりに物が入ってはいるけれど、目の前に居る男の子は小柄だったので、なんとか入れるのではないかと思った。
戸惑っている男の子を半ば強引に引っ張り、ロッカーの中に押し込む。
「動かないでね。あと、ロッカーの中、何か触れてもぜーーーったいに無視してね」
それだけ一方的に言って扉を閉めたすぐ後、部室の扉が開けられた。
「きゃっ?!」
「あ、ご、ごめんなさい」
部室に入り込んできた数人の生徒が、桂の姿を見て謝った。その中には、同じ運動部で見知った先輩もいた。
「あ、桂ちゃん、いきなりごめんね。ここに変質者、来なかった?」
「へ、変質者、ですか」
「そう。あろうことか一人でリリアンの敷地内に入り込んだみたいなのよ。あれは変質者に間違いないわ」
「ええと、見てないです。本当に、そんな人が?」
「そうよ。桂ちゃんも気をつけてね」
その先輩は、じーっと室内を見回してから、ようやく納得したのか一人、頷いた。
「ごめんなさいね、着替え中に。それじゃ」
「あ、はい」
入ってきたときと同じように、みんなは連れ立って出て行った。近くの部室でも、何やらドアを開ける音や声が聞こえる。テニス部と同じように、捜査(?)が行われているのだろう。
しばらくして、表が静かになったところで桂はロッカーの扉を開いた。
「もう大丈夫だと思うよ。狭かったでしょう」
「いや……平気」
男の子はそう言っているけれど、表情は歪んでいた。
(あああ、そういえばこの前着ていたウェア、入れっぱなしだったかも。ひょっとして汗臭かったのかな)
なんてことを思ってしまったが、そんなことは口に出さず、とりあえずさっさと引っ張り出して、ロッカーから遠ざけて、扉を閉める。中には他にも、男の子には見せられないようなものがイロイロと入っていたりするのだから。
「あ、ありがとう。でも、なんで……」
「あの、貴方、ひょっとして福沢祐巳さんの弟さんでは」
「え、俺のこと、知っているの?!」
「ああ、やっぱり!」
桂は手を叩いた。
あの時、取り乱した様子をみた瞬間、不意に友人である祐巳さんと姿が重なったのだ。そうすると、平凡な桂の頭だったが、すんなりと話がつながった。お昼に丁度、話をしていて、今日の放課後に来ることを聞いていたということもある。
そして、それに何より、顔を見れば祐巳さんとそっくりだ。
祐巳さんか、他の山百合会のメンバーとはぐれて一人のところを、一般の生徒に見つかって変質者に間違われていたのだろう。
リリアンの敷地内では、同世代の男性が一人で歩いていることなんてありえないので、学園祭時期で花寺の生徒会がお手伝いに来ていると知っていても、実際に男の人を見かけてしまったら、なかなかそうだとは思わないだろう。
「祐巳の、友達だったんだ。ありがとう、助かった。いきなり変質者扱いされて、途方に暮れていたんだ」
祐麒さんは弱々しく笑った。
「災難でしたね」
つられるようにして、桂も微笑んだ。
「いや本当にありがとう。何か、お礼でも出来ればいいんだけれど」
「お礼?」
「下手したら警察に突き出されていたかもしれないからね。恩人には、お礼をしないと」
そこまで大したことをしたつもりはなかったけれど、本人にしたら痴漢として捕まって、前科一犯になるかならないかの瀬戸際だったようだ。
お礼をしてもらうことなんて全く考えていなかった桂だったが、ふと閃いた。
こんなチャンスは、滅多にないではないか。
「それじゃあ、せっかくだからお礼、してもらおうかな」
「俺に、出来ることなら」
「もちろん。ええとですね―――」
そして桂は、とあることをお願いしたのであった。
中編に続く