「はぁ? 祐麒を引っ叩いて逃げてきたぁ!?」
祐麒と景がコンサートを観に行った翌日。
珍しく大学にやってこない景に、これはもしや昨夜はお泊まりかと、わくわくしながら景の下宿先に聖が出向くと、どんよりと暗いオーラを纏った景が現れてどん引いた。
目の下には隈がくっきりと出来、髪の毛はぼさぼさ、目は充血して真っ赤、肌も荒れていると、酷い状態。
一体、昨日に何が起きたのかどうにか聞き出したのが今しがたというところだった。
「何ソレ、なんでそうなったの? 断るとかなら分かるけれど、叩いて逃げるって」
「あーうー、だからーーー」
景はぐだぐだだった。
今まで、こんな姿を見たことがなかった。
「祐麒クンは貴女のことを好きだと思っていたのよ」
「思うのは勝手だけどさ、現実は違ったわけでしょう。で、カトーさんのことを好きだと分かったからって、なぜにそこまで取り乱すの? 混乱したなら、返事を待ってもらうとかできるじゃない」
「だって……祐麒クンは佐藤さんのこと好きだと思っていたし、だから、可愛い年下の男の子としか思っていなかったのよ。ううん、どちらかというと、懐いてくる子犬かしら」
「まあ……分からない気もしないけれど」
子犬というよりかは子狸だけどねと、内心で訂正する聖。
「それが、いきなり変わったのよ。"男の子"だったのが、"男の人"の顔に変わって私を見るの。私を、"女"として……そう、"女"として見て、それでいきなり肩を掴まれたから、私……」
頭を抱え、体を震わせる景を見て、聖は驚いた。
「カトーさん……」
ただ単に、異性から告白されて狼狽している、というわけではないようであった。
「カトーさんは、"男"が怖いの?」
聖の言葉に、景の動きが止まる。
おそるおそる、頭を両手で抱えたまま顔をあげて聖のことを見上げてくる景。その瞳は、普段のクールさ、冷静さなど微塵も無く、ただひたすらに怯える幼子のようだった。
「昔に何があったのか知らないし、嫌なら聞かないけれど……祐麒には、せめてちゃんと返事してあげなよ。ね」
「…………うん」
テーブルに突っ伏し、それでも頷く景を見て、聖は肩をすくめる。
そして。
(頑張れよー、祐麒)
落ち込んでいるであろう祐麒に、心からエールを送る。
一方でもう一人の当事者である祐麒は、聖の想像通り落ち込んではいたものの、頭に疑問符も浮かんでいた。
景はなぜ、あのような行動に出たのであろうかと。
祐麒が強引に迫ったというならば、引っ叩かれても仕方がないと思う。だが実際には、手を伸ばしただけで触れたわけではない。
そして、怯えたような、泣きそうな、それでいて祐麒に対してどこか申し訳なさそうな顔を見せた。考えれば考えるほど、分からなくなる。
ただ一つ確実なのは、「祐麒クンのことは嫌いじゃないの」という言葉。あれがなかったら、祐麒も沈み込んでいたかもしれない。だが、嫌いではないと言ってくれたのなら、まだ望みがあるのではないか。
「……そうだよ、俺は加東さんにまだ何も伝えられていないし、加東さんの気持ちを聞かせてもらってもいないのだから」
落ち込むことは、いつでもできる。
中途半端な状態になったことで、逆に気力が湧き上がってきた。どうなるにせよ、このままでは終われないと。
それから、祐麒の奮闘は始まった。
とにもかくにも景を捕まえないことにはどうしようもないが、学校での待ち伏せ作戦は憚られるので、聖に連絡をつけて景の連絡先を教えてもらった。なりふり構ってなど居られなかったから。
とはいえ、聖も無断で教えるわけにもいかず、景から許可をもらってメールアドレスだけを入手してもらうことができた。それも、携帯メールではなく、PC用のメールだ。
色々と考えて、メールを送った。
景の迷惑にならないよう、大量のメールは送っていないし、内容も様々に考えた。景は、時間はかかっても返信してくれたが、内容は短く、深いものではなかった。ただ謝罪の言葉と、いつか話すからという文章が添えられるのが常だった。
そう言われてしまえば、祐麒も深く突っ込むことは出来ないので、ごく当たり障りのないメールを送ることにした。
学校でのこと、家でのこと、祐巳や聖のこと、そして景と一緒に行って以来クラシックに興味を持ち、CDなんかを色々と聴いていること。なるべく景の心の重荷にならないよう、明るく楽しい話題を心がけるようにした。
時に、聖からもエールが来た。
「少年、青春してるかい?」
単に楽しんでいるだけのようにも見えるが、弱気になりかけると叱咤してくれて、祐麒のためというよりも、むしろ景のために応援してくれているような気がした。
景と会うことが出来ず、メールだけを頼りに連絡を続けるうちに時間だけが流れるが、焦っても仕方ないと自分に言い聞かせる。景との線が切れてしまうことを考えたら、遥かに希望が見えるではないかと。
そんな状況に変化が訪れたのは、十二月も後半が近づいたころ。世間ではクリスマスに向けて盛り上がっている時期である。
祐麒は景に対してクリスマスイブに遊ばないかと、何度もメールを送信しそうになった。だがそれは即ち、デートの誘いに他ならないわけで、今の景を誘うということは、より一層に景を悩ませることになるのではないかと思い、誘えずにいた。
ギリギリまで考え、誘うか誘わないかの決断をしようと思っていたのだが、驚くことに景の方から連絡があったのだ。
『近いうちに、会えませんか?』
短い、ただこれだけの文。
祐麒はもちろん、OKと返事をする。
期待もあるが、それ以上の不安もある。
景から連絡をしてきたということは、何がしかの結論を景が出したからではないかと考えるのは、変ではないだろう。調整した結果、会うのはクリスマスの三日前。
幸い、クリスマスプレゼントは用意していた。あるかもしれないと思って、お金も貯めていたし、食事をするためのお店なんかも調べていた。
だが、一番大切なのは、そんなものではないはずだった。
一日が過ぎ、二日が経ち、やがて景との約束の日がやってくる。
「あれ、祐麒おめかししてどうしたの? もしかして、デート?」
興味深そうに覗き込んでくる祐巳に、首を横に振る。
「……ちょっと、違うかな。行ってくる」
「ふーん。ま、頑張ってね、私は祐麒の味方だよ」
「さんきゅ」
祐巳の見送りを受けて家を出て、既に暗くなった街へと向かう。クリスマスを間近に控え、あたりは華やかで賑やかで、楽しいことしかこの世にはないように見える。
「……寒いな」
コートを着ていても、冷たい風が隙間から入り込んでくるようで、体が震える。時間を確認すれば、待ち合わせ時間の三十分前だが、どこかの店に入る気にはならなかった。もしも景がその間に来たら、この寒い中で待たせることになってしまうから。
景が姿を見せたのは、約束の時間の一分前になってからだった。
「お待たせ、祐麒クン」
こうして顔を合わせるのも久しぶりだった。景は落ち着いた様子で、淡く微笑んでみせるが、どこか顔色が悪いようにも見えた。
「……それじゃあ、行きましょうか。お店、予約してあるの」
言われるがまま、景に従ってついていき、イタリアンレストランへと入る。
食事をしながらの会話では、景は笑顔で、前に聖と一緒に遊んでいた時と同じような雰囲気を心がけようとしている、そんな感じがした。無理矢理というほどではないが、どこか不自然さが抜け切れていない。
祐麒に気を遣わせないようにとの心配りであることは明確だったので、祐麒も景にあわせるようにして、時間を過ごした。
楽しそうに見えて、どこか空虚な空間。
祐麒が欲したのは、そのようなものではなかった。今日、景が祐麒を呼びだしたのは、このためではあるまい。今はきっと、景も色々と心の内を整理し、準備するための時間に違いない。
訊き出したい、景の気持ちを聞きたいという言葉が喉から出かかるのを堪え、デザートまでを終えた。
そんなだから、思いのほか早くに店を出ることになった。
殆ど会話がない状態で歩き、やがて広場へと辿り着いた。夜とはいえそこまで遅い時間ではなく、クリスマス前ということで人の姿もまだ多い。そんな中、広場の隅の目立たない場所のベンチに景は腰を下ろした。
祐麒は近くの自動販売機で温かい紅茶を買い、景に手渡す。
「……ありがとう」
受け取り、蓋を開けて口をつける。
「寒くないですか?」
「温かいから、大丈夫」
言葉が途切れるが、焦らせるつもりはない。景が話し出すまでいつまでも待つつもりだった。
十分ほど無言で紅茶を飲み、やがて、景が口を開く。
「……聞いてくれる?」
「はい」
「あ、でもね、別にたいした話じゃないのよ? 私の個人的な問題で、きっと、珍しい話でもなんでもない、どこかで聞いたことがあるような話」
「はい」
「――――私ね。昔、男の人に襲われたことがあるの――――」
「えっ!?」
「あ、でもね、大丈夫だったの。その、大事に至る前に、助けられたから」
景は話す。
それは、景が中学三年生の冬だった。高校受験に向けて塾に通っていたその帰り道、遅くなったことで近道をしようと、人気の少ない公園を抜けようとしたところで男の集団に捕まってしまった。
夜の冬の公園など、寒いし人がいるはずもない。景はそのまま公園の奥に連れられ、男たちにコートを脱がされ、体の自由を奪われた。
「ただね、ちょうどその時、私生理中で、凄い血が出て。男の人って、そういう血を見るのに慣れていないでしょう? 大量の出血に驚いて、その気はなくしちゃったみたいなの。だから、最悪の事態にはなってないのよ」
「か、加東さん、もう、いいですから」
そんな辛い過去を話す必要などない。血が出ているところを見られたということは、そこまで脱がされたということだろう。女性が、自分自身のそんな話をするのが、嬉しいわけがない。
祐麒が聞いていいものではないのだ。聞く権利など、持っていないのだから。
しかし、そんな祐麒の思いを景が打ち砕く。
「……祐麒クンの私への気持ちは、その程度だったの? 私の嫌な話だから……聞きたくないの?」
「ち……ちが……」
景に辛い話をさせたくなどないが、聞くのを逃げることも許されない。確かに、嫌なことに目を閉じ、耳を塞げば良いというものではない。
でも、どちらが正しいのか。聞くべきなのか、聞かざるべきなのか。正解など誰にも分からないが、景は、祐麒に聞かせると選択をしたのだ。ならば祐麒は、全てを聞くべきではないのか。
「男の人達はびっくりしたんでしょうね、こんな汚い場所に突っ込めるかって怒って。でも、ここまできておさまりがつかないから、せめて……どうにかしろって、取り囲んで迫ってきて」
口元を抑える景。
「……私の、……握らせて……顔に、口に近づけて……」
景が目を閉じる。
体が震えている。
数秒間、無言の間が続き、やがて落ち着いたのか景が再び言葉を紡ぐ。
「……塾の友達がね、私の忘れものに気が付いて追いかけてきてくれて、それで私が男たちに連れ去られるのを見て警察を呼んでくれて。だから、大丈夫だったの。でも……捕まった男の人達は、私がその公園を通ると連絡を受けて待っていたの」
「……え?」
「それはね、私と同じ塾に通っていた男の子が連絡をしていた……その子も脅されて仕方なくだったのだけれど、私ちょっと、気になっていた子でね……」
かける言葉もなかった。
まさか、そんな過去があったなんて。
「それで私、男の人が怖くなって、急遽高校の志望校は女子高に変えて、大学も女子大にして。そんなことがあったから、どうしようもなくて。祐麒クンはね、可愛い年下の男の子で、弟というか、言い方は悪いかもしれないけれど懐いてくる子犬のようで、男性らしさを感じさせなかったから大丈夫だったの。祐麒クンは佐藤さんを好きで、私を恋愛対象としては見ていないとも思っていたし。それがこの前、祐麒クンが私のことを"女"として見ていると知って、その瞬間に迫ってこられて、思い出しちゃったの。だから叩いてしまって……ごめんなさい。そういうことでね、ああ、ほら、どこかのドラマとか漫画とかで、よく聞くような話でしょう?」
「そんな、こと」
ドラマや漫画で、そういった過去を背負っているとか、そういった仕打ちを受けるという話は確かに聞いたりもする。だけど、実際に知り合いの口から聞くのとでは、雲泥の違いだった。
苦しみながら吐き出される言葉の端々から伝わってくる恐れ、表情に現れる怯え、息遣いから感じられる慄き、同じ空間に存在することで分かることがある。景の苦しみの底なんて分からないけれど、それでも簡単にトラウマだの辛い過去だのの一言で済ませられないことくらい、感じ取れる。
祐麒が景に、何を言ってあげられるのだろうか。何を言ったところで、軽いものにしかならないと理屈ではなく理解する。
景は、続ける。
「あの日以来、私は恋愛することを自分の奥深くに封印してしまったと思うの。何重にも扉で塞いで、そういう気持ちが外に現れないように」
いつしか、広場にいる人の姿もまばらになってきた。さすがにこの寒さの中では、いつまでも外にいるのは辛いだろうし、イルミネーションの綺麗な場所は駅に近い方にあるので、少し外れた広場の人が少なくなるのは必然か。
「……だけど、祐麒クンの想いを知った時、私……実は嬉しかったの」
「え?」
「ううん、その時は分からなくて、その後……その日以降、冷静に考えて、分かったのだけれど。祐麒クンがくれるメールも、私のことを気遣ってくれているのが分かって、嬉しかった。つまらない返信ばかりでごめんね」
「そんな、とんでもないです! 俺は、ただ」
「嬉しかったんだけどね、それでも駄目なの。祐麒クンはそんな人じゃないって分かっている。分かっているけれど、理性でどうこうできないの。私のことを女として見ている、それはつまり性の対象として見られているということで、だから祐麒クンの気持ちを知ってから、本当に駄目で」
「加東さん、今も、無理をして……」
話している間、景は一度も祐麒の方を見ていない。いや、思い返せば食事の時から、目を反らすことが多かった気がする。
「あ、ううん、普通にしている分には、大丈夫。でも」
何か、景をあからさまに性の対象としてみるような行為をされると、駄目ということだろうか。例えばキスを迫ったり、抱きしめたりとか。
「ねえ祐麒クン。祐麒クンは私のこと、今、どう想っているの?」
そこで初めて、景が顔を上げて見つめてきた。
「それはもちろん……好きです」
躊躇うことなく、答える。
景の瞳が揺らぎ、震える唇が言葉を紡ぐ。
「どうして? 会ってまだ、たいして間もないのに」
「それは、その……正直なことを言えば、最初は見た目でした。俺の、好みのタイプにぴったりで。それで、一緒に遊んで、性格とか雰囲気とか、そういった部分も凄く好きになっていって」
「そう……」
「ただ、好きになったんです、加東さんのことが。それだけじゃ、駄目ですか?」
「駄目じゃ……ないよ」
呟くように言うと、景は空になった紅茶の缶を置いて立ち上がった。祐麒から二メートルほど離れた場所で真正面に立ち、視線をあわさずに口を開く。
「私もね、祐麒クンのことが、好きよ? 多分……あの日以来、男の人を好きになんてなれなかったから少しだけ自信ないけれど、それでも好きだと思う。少なくとも好きに近い気持ちだと思う。だけど、気持ちと関係なく体は、脳は反応するの。祐麒クンと付き合って、祐麒クンの優しさに包まれたらすぐに治るかもしれない。でも、もしかしたら何年も治らないかもしれない。そうなっても、祐麒クンは耐えられる? 手を繋ぐことも、抱きしめることも、キスすることも、体を重ねることも出来ない関係で、いられる? それにあと言っておくけれど……私、物凄く嫉妬深くて独占欲が強いの。他の女の人と仲良く話をしているだけで怒ると思う。何もさせないくせに、独占欲だけ強い女なんて、我慢できる? でもね、でも、もし我慢できるというなら」
そこで息をつき、ちらと祐麒を上目で見て。
「我慢できるというなら、私は――」
白い息を吐き出し。
「加東、景は――」
寒さに、そして何かの感情に頬を赤くして。
「あなたの……あなただけの私に、あなただけの景になるわ…………」
宣言した。
冬の晴れた星空の下で、強く美しい姿を見せる景。
体が熱くなり、心臓の脈打つ音が急にうるさく感じ始める。
「俺なら、大丈夫ですよ。加東さんのことを考えたら、何でも我慢できるし、何でも耐えられます。それに」
苦しそうな表情をしている景に、笑いかける。
景がそんな顔をする必要はないのだから。
「それに俺、そんな何年もかけず、俺の力で加東さんを絶対に安心させてみせますから、そんな不安は杞憂に終わりますもん」
言い切る。
ここで不安を見せるようでは失格だ。根拠など何もないけれど、景を思う気持ちに嘘偽りはないのだから、自信を持って断言してみせるのだ。
大丈夫だ、と。
「俺のラブ・パワーは無限大ですよ」
「ぷっ……何、それ。ネーミングセンス皆無ね」
「あ、ようやく笑ってくれましたね」
「祐麒クンのせいでしょう」
景の顔は俯いており、祐麒とは視線をあわせていないが、それでも笑ってくれているという事実が嬉しかった。
そう、きっと大丈夫。
「あの……凄くクサい台詞、言ってもいいですか?」
本当に、現実で口にするとは思わなかったような言葉が、頭に浮かんだ。
「そうゆうことは、聞いたりしないで言うものではないかしら」
「いえ、どん引きされても困りますので……」
「いいわ。なぁに? クサい台詞って」
多分、もっと歳をとって思い出したら頭を抱えて逃げ出したくなるような言葉。黒歴史だなんて言って封印しているかもしれないが、分かっていてあえて今、ここで言うべきだと思ったのだ。
「さっき加東さんは、何重にも扉を閉めて封印してしまったと言っていましたね。俺、思ったんです。その加東さんの閉ざされた心の扉を開くために、俺は生まれてきたんだって」
心の奥深くで信じる。景の返答は分からなかったけれど、関係ない。あくまで、祐麒がどう思うかということが大切だから。
景が、祐麒だけの景になると言ってくれたのと同じように。
――俺も、貴女のためだけの、俺になりますから――――
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