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加東景は、少しばかりイラついていた。
原因はといえば、今まさに景の目の前で酔いつぶれて布団の中で眠ってしまっている、一見すると外人のような面立ちをした友人―――ならぬ恋人、佐藤聖である。
人の部屋に勝手に押し入ってくるのは別に構わない。そんなの前からだし、今や景とは恋人同士になったわけだし。酒を飲むのも、別に良いし、それで酔いつぶれたって知ったことではない。眠ってしまうのだって、慣れた。
しかしながら、だ。
景は眼鏡のフレームを指で直し、わずかに乱れた髪の毛を手で撫でるようにしながら、幸せそうに眠っている聖の顔をねめつけるように見下ろす。
聖の告白を受け入れ、正式に恋人として付き合い始めてから早三ヶ月。
三ヶ月の間に、一体何度、聖は景の部屋に泊まっただろうか。最早、数えるのも面倒くさいくらいである。
にもかかわらず、だ。
―――この女、いまだに私の体を求めるどころか、キスすらしやしない!
と、景は内心、毒づいた。
しかも、景自身はといえば、すぐ隣で聖が寝ているということを意識してしまい、なかなか眠れずに寝不足になるのが常だというのに。恋人となる前までは、泊まりに来たところで何とも思わなかったのに、恋人となった途端に意識してしまうとは情けないが、景とて若い女なのだから仕方ないではないか。仮にも、恋人が隣に寝ているのだ。今まで既に身体を重ねたことがあるならまだしも、そういうことにはなっていないのだから。
元はといえば、聖のほうが景を求め、告白をしてきたくせに。なんで、自分がこんなにもいらつかなくてはならないのか。
「はあぁ」
そこまで考えて、景は頭を抱えてため息をついた。
これではまるで、景が欲求不満みたいではないか。
「……別に、いいんだけどさ」
眼鏡を外し、布団の中に入り込むと電気を消す。
景が布団に入ってきた気配を察知したのか、聖は言葉にならない寝言のようなものをつぶやきつつ、寝返りをうつ。
そんな聖に背中を向けて目を閉じる。
感じられる温もりがまた心地よいのが、悔しかった。
大学にいる間は、正直それほど気にならない。
勉強をしに来ているという自覚のせいだろうか、とにかく、大学では平常心を保っていられるし、変な気持ちが湧き上がってくることもない。
しかし、大学を出ていざ二人になると途端に意識をしてしまう。
女同士だから、あからさまにイチャイチャするようなことは避けたい。今時の女の子同士のコミュニケーションが、例えどんなに濃密だとしても、人前で見せ付けるようなことはしたくない。
同性同士ということに対しては、やはり世間の偏見というものはあるだろうし、あえて目立つようなことはしたくない。
……とゆうか、人の目がないところでも、イチャついたことなどないけれど。
こうして考えてみると、恋人らしい行為など本当に一切していないことに気づかされる。家に泊まるくらいなら、女の友人なら十分にありえることだった。
「お待たせ、カトーさん」
待ち合わせと考えれば恋人らしいかもしれないが、単に昼食を一緒にとろうとしただけのこと。周囲に目を向ければ、中庭には他にも友人を待っているらしき学生の姿も散見される。何も、珍しいことではないのだ。
適当に挨拶を返して、ランチボックスの蓋を開ける。聖は、学食で購入してきたらしきサンドウィッチと紙パックのカフェオレをベンチの上に置いた。
「カフェオレなんて、珍しいわね」
「たまにはねー、こういうのも飲みたくなるし。カトーさんは今日は、お弁当?」
「……今月はちょっと、厳しくて」
少しムッとしながら、持ってきたおにぎりに海苔を巻いて、一口かじる。適度な塩加減が口の中に広がると、それほどでもないと感じていた食欲が、一気に増幅される。
ちなみに、今月の家計が厳しいのは、新しい下着を購入したり、参考のために本を購入したりしたためである。
「へー、そうなんだ。カトーさんでもそういうこと、あるんだ」
景の懐事情など詳しく分からない聖は、呑気な口調で言いながら、サンドウィッチをかじる。
天気もよく、気候もよく、のんびりと昼食を進めていく。中庭ではいくつものグループが、楽しそうにお喋りしながらお昼を満喫している。
とりとめもない話をしながら、景もそんなお昼の風景の中に溶け込んでいく。これはこれで心地よいと思うが、心の中では先ほど考えていたような灰色の情念が渦を巻いているので、完全に晴れ晴れとした気持ちではいられなかった。
やがて、二人はほぼ同時に食べ終わる。
「佐藤さん、口の端にマヨネーズついてるわよ」
「ん? んー」
注意すると、なぜか聖は首を伸ばすようにして、景の方に顔を突き出してきた。
「……それくらい、自分で拭きなさいよ」
仕方なく、ポーチからティッシュを取り出す。
「違う違う、そうじゃなくてー」
「は? 何よ」
「そうじゃなくてさ、こう、"ちゅっ"って感じでとってほしいなー」
聖の言ったことの内容を吟味し、その姿を頭の中で想像し、赤面しつつ景は首を振った。
「そっ、そんなことできるわけ、ないじゃないっ」
「えー、どうしてさ」
「どうしてもこうしても、ないでしょっ」
周囲に他の学生も多くいるし、どこで見られているかも分からない。そんな中で、そんな恥しいことができるわけがない。見られる角度によっては、下手したらキスしている、なんて思われるかもしれない。
基本的に景は真面目であり、常識人であり、人前でいちゃつくということに対しては、嬉しさよりも羞恥心の方が上回る。
「いいじゃない、これくらい。あたし達、つきあっているんだしさー」
聖の言葉に、思わず拳を強く握りしめる。
付き合っていると言いながら、恋人らしいことは今まで何もしてこなかったくせに、こんなときだけ恋人ということを前面に押し出してくるとは。
「知りません。さっさと拭きなさい」
ティッシュを一枚、聖の膝の上に投げ捨てる。
聖はしぶしぶ、自分で口元を拭う。
「つまんなーいなー」
横目で見てくる聖を無視。あんまり甘えさせるわけにはいかない。景は空になったランチボックスを片づけ、水筒から緑茶をコップに注いで口をつける。
やはり、甘ったるい時間など、聖との間では持つことなど不可能なのだ。そもそも、聖の告白にイエスと答えたことが間違いだったのではなかろうかと、そんなことまで考え始めてしまう。
緑茶を飲み終え、ふぅと息をついたところで、いきなり脚に荷重がかかった。
下を見ると、にやにやと笑う聖の笑顔とご対面。
「ちょっ、と、何しているのよ??」
「ごはん食べたら眠くなってきちゃったから、お昼寝」
「そうじゃなくて、なんで、人の上でっ」
勝手に膝枕をされてしまっていた。
「いや、一度やってみたかったんだよね」
「だからっていきなり、こんな場所で」
「あー、でも思ったより寝心地よくないかも。脚の骨とかあたるし」
「……勝手に寝ておいて、その言い草とはね。だったらさっさと降り」
「でも、カトーさんの膝枕だと思うと、それだけで心が満たされるから」
「なっ……」
聖の恥しい台詞に、頬を赤くしながら絶句する景。
しばし、何かを考え込むように目を閉じてじっとしていたが、やがて諦めたのか、力を抜いてベンチの背もたれに体を預ける。
「少しだけよ」
言いながら、聖の頭を撫でる。
柔らかな髪の毛が指にからんできて、それがどこか心地よい。聖も、景にされるがままになっているが、決して不快ではなさそうだ。
しばらく、そんな風にして時間を過ごす。時折、聖がむずがるようにして頭を揺らす。
「佐藤さん、あんまり動かないで……ひゃんっ!?」
突然、甲高い声が景の口から飛び出した。
周囲の学生たち何人かが、すこし驚いたように景の方を見ている。苦笑いを浮かべて誤魔化す景だが、またも声が出そうになり、咄嗟に手で口をふさぐ。
何が起きているかというと。
膝枕をされていた聖が、いつの間にか顔を景の体の方に向けており、その体勢のままいきなり景のヘソを舐めてきたのだ。
「さ、佐藤さん、悪ふざけはもうやめ……あンッ! やっ」
小さく可愛らしい悲鳴をあげる景。
別にヘソ出しスタイルなどしていないが、ローライズのパンツに、短めのシャツということで、確かにヘソが出やすい格好ではある。そんな景の魅力的なヘソが目の前にちらついて、聖は思わず口が出てしまったのだ。
唇を押し付け、窪みの中にそっと舌を忍び込ませる。
くすぐったさを伴う気持ちよさが、その中心点から景の体を駆け抜けていく。
「カトーさん、なんか可愛い」
耳慣れない景の声色を耳にして、聖も調子に乗る。ふーっ、と息を吹きかけ、舌先でヘソのまわりをなぞるようにして舐める。
「やっ……ん、あ」
必死に声を押し殺す景。昼休みの時間はまだたっぷりと残っており、学生たちの姿が減る気配はない。
「カトーさんのおへそ、可愛い。ほら、お腹がヒクヒクと震えてる」
「うぅっ……い、い……」
「ん、何? 気持ちいい?」
「い……いい加減にしなさい」
言うなり、聖の頭に置いていた両手に力を込め、聖の首をひねる。
「ーーーーーーーーっ!!!!!!」
声をあげることもできずに、悶絶する聖。その隙に景は脱出し、そそくさと僅かに乱れた服を直す。
「し、しっ、死ぬって!? カトーさん、あたしを殺す気っ!?」
首をおさえ、涙目になりながら抗議してくる聖だが、景は落ちかかる髪の毛を指ですくいあげて冷たい目で睨みつける。
「変なことをする貴女が悪いんでしょう」
「へ、変なことじゃないよぅ、ヘソちゅっちゅは、れっきとした愛情表現で」
「知りません」
ベンチから立ちあがると、首をおさえてしゃがみこんでいる聖をその場に置いて、景はさっさと校舎に向かって歩き出すのであった。
午後の講義が終わった。
隣の席では、聖がしきりに首をひねっては渋い表情をしている。
「うー、まだ首が変な感じ」
「自業自得でしょ」
黒板を見て、まだ書き写していない個所をノートに書きながら、横を見ることもなく景は答える。
「あの先生、板書早すぎ。量も尋常じゃないし」
ぶつぶつと文句を言いながら、ノートをとり続ける。聖は、とっくにノートをとる気など失せているのだろう、さっさと帰り支度をしている。
しばらくして、ようやく景も写し終わる。
「あー、腕が疲れたー」
こんな講義を一年間続けられたら、腱鞘炎になってしまうかもしれない。疲労した景は息を吐き出し、片づけを始める。
「あっ、と、いけない」
シャープペンシルが転がり、床に落ちてしまった。どこに落ちたか床を見るが、ぱっと見てもその姿は目に入らない。仕方なく景は、机の下の身をかがませた。視線を左右にふると、シャープペンシルは聖の脚元に転がっていた。手を伸ばして拾い上げ、さて席に戻ろうかというところで、ふと、悪戯心が沸き起こった。
「どうしたのカトーさん、見つからないのー?」
机の板を通して、聖の声が聞こえてくる。
「何、あたしのところにあるの? なんならどこうか? ちょっと待って……え、ちょっ、ひあっ!?」
体を震わせ、聖が鳴き声を漏らす。
机の下で景が聖のお腹に抱きつき、聖のヘソにキスをしていた。シャツをまくり、強引にシャツの中に頭を入れるようにして、唇を押し付ける。
「どうかしたの、佐藤さん?」
教室を出ようとしていた他の生徒が振り返り、怪訝な目を向けてくる。
「う、ううん、なんでもない……んっ」
刺激に耐えつつ、聖は応じる。
机の陰になっているせいか、入り口付近にいる生徒から景の姿は見えていないらしい。もし、景の姿が見つかり、何をしているか判明したら、どのように思われるか。
そう考えると一気に心臓の動きが速くなる。それは緊張のためであるが、同時に、不思議な興奮を伴ってもいた。
「ちょ、ちょっとカトーさん、やばいって……っ!」
小声で景を制しようとする聖だったが、景はその声を無視するように、舌を這わせた。体が、顔が熱くなる。
形の良い聖のヘソに、鼻先を埋める。
「佐藤さん、帰らないの?」
「あ、う、うん、カトーさんを待ってるから。えと、トイレ行ってて」
「ふぅん」
教室内には、既に他に残っている生徒はいない。あの子さえ行ってしまえばと、必死になって聖は耐える。
「それじゃあ、先に帰るね。バイバイ」
「うん、さよなら」
教室を出ていく生徒に、引き攣りそうな笑顔で手を振る。
彼女の姿が完全に消えたところで、聖は音を上げた。
「カトーさん、ちょっ、もう駄目だってっ」
景もようやく、聖の体から顔を離し、ゆっくりと机の下から姿を現して椅子に座る。
「もー、酷いよ、カトーさん」
上気した顔で、瞳を潤ませながら抗議する聖。
一方の景も、自分のしでかした大胆な行動に今さらながら恥しくなり、顔を赤くする。それでも、意地を張ったように強気で答える。
「いいじゃない。だって、愛情表現、なんでしょ、おへそへのちゅうは」
「え……あ、うん、まあ」
「な……何よ、その反応はっ。こ、こっちの方が恥しくなるじゃないっ」
「な、なんでさっ。自分が言ったくせに」
「うるさいわねっ」
お互いに気恥しくて、誤魔化すように責任のなすりつけあい。
「うう……カトーさんはいじめっ子だ」
肩と口をすぼめ、いじけるフリをする聖。
「元はといえば、佐藤さんのせいじゃない」
眼鏡の位置を直す景。
「それに、根本的に間違っているし」
「え、こ、根本的にって、何が??」
景の言葉に、驚いて顔を向けてくる聖。
「分かんないの?」
「え、と、分かりません」
「それはね……と、その前に佐藤さん、シャツ乱れてるわよ」
「これは、カトーさんがぐしゃぐしゃにしたんじゃん」
目を下に向けると、聖のシャツの下のボタンは外され、裾もめくれている状態。文句を言いながら、乱れた裾を直そうとボタンを指でつまむ聖。そこに、景の手が伸びる。
「私が直してあげるから」
「いいよ、そんなの。母親じゃあるまいし」
「いいから」
なかば強引に聖の指を押しのけ、景がボタンを留める。なんとなく恥しそうに、斜め上に顔を背ける聖。
「……はい、これでよし。ねえ、佐藤さん?」
「うん?」
呼ばれて顔を下に向けた瞬間。
潜り込んでいるような格好となっていた景の顔が伸びあがり、聖の唇が、景の唇によって塞がれた。
それはほんの、1秒くらいのことだった。
景はすぐに顔を離すと立ちあがり、呆然とした表情の聖を見下ろす。
「愛情表現だったら、こっちでしょう?」
言われて。
唇に指で触れて。
みるみるうちに聖の顔が火照っていくのが分かる。
あれ、こんなにも純情な女だったかと、首を傾げそうになる。聖といえば、可愛い女の子にセクハラを繰り返し、抱きついたりキスしたり、好き放題にするイメージがあったのだが。
驚きに目を見開き、見上げてくる聖は、なんとも可愛らしいではないか。
「ほら、帰りましょう」
「え、あ、うん……」
差し出した手を、おそるおそる掴む聖。
聖の手の握りながら。
自分がリードする方でも悪くないかと、思うのであった。
おしまい