いよいよ、予備校に通うこととなる初日、少しばかり緊張しながら、真美は予備校へと向かっていた。
下調べをして選んだ予備校ではあるが、はたしてどんな授業となるのか、どんな講師なのか、通う他の生徒はどんな人たちなのか、高校とはどれくらい雰囲気が異なるのか。リリアンという温室で育ってきた真美にとっては、不安も大きいスタートである。
それでも、もちろん不安ばかりというわけではない。その不安を打ち消してくれるような要素だってある。
何といっても、祐麒さんと一緒なのだから。浪人生だし、これから受験に向けて色々と厳しいことも待っているだろうから、浮かれていられるわけではないが、少しくらい楽しみを持っても良いだろう。
不安と期待、二つの気持ちを胸に、予備校の中に足を踏み入れる。周囲には、当然のように同世代の男女の姿が多くみられる。学校ではあるけれど、制服ではなく私服というところが、なんとなく新鮮。
あまりキョロキョロとして挙動不審になってもいけない。とりあえず、指定の教室に足を向ける。
「えっと……あ、ここだ」
教室の番号を確認して、一つ息を吐く。
そこまで緊張するほどのことではないけれど、最初はやっぱり心配にもなる。おそるおそる、といった感じで室内に入って、中を見回す。
前方に黒板と教卓があるのはおなじみだが、座席は一人一人個別のものではなく、横長の机に複数の生徒が座れるようになっている。確か、リリアン女子大の教室もこんな感じだったと、以前、取材に行った時のことを思い出す。
席は決められているわけではないから、自由に座ることができるのもちょっと新鮮。やる気のある人は早めに来て、前の方の座席を確保している。
真美自身はどこに座ろうかともまだ決めていないが、その前に探し人の姿がないか、視線をぐるりとまわしてみる。教室はそこそこの広さではあるが、座席が定まっていないのと、見慣れない人たちばかりなので、なかなか見つけることが出来ない。
出入りする人の邪魔にならないよう、立つ場所に注意を払い、目をこらして探し、ようやく見つけることが出来た。ちょうど、斜め後ろに座っている人の体によって隠される形になっていたので、なかなか見つからなかったのだ。
では、さっそくと思ったところで、浮かした足が宙で止まる。
え、何あれ、どういうこと、と心の中で戸惑いと混乱が発生。同じように他の人の陰になって見えていなかったけれど、祐麒さんの隣にはすでに誰かが座っていた。まだ席が全て埋まるほど混雑しているわけでもなく、十分に座るスペースがあるというのに、なぜわざわざすぐ隣に座っているのか。
いや、まあ、それはまだいい。座席は自由だし、自分の好きな座席位置とか、前が見やすい場所とか、色々とあるかもしれないし。
よくないのは、その隣に座っているのが女の子で、しかもあろうことか、祐麒さんと何やら話をしているのだ。
隣になったからちょっと挨拶、という感じではなく、それなりに親しく話しているように、真美には見える。だって二人とも、笑顔なんか見せている。
相手の女の子は、正面から顔を見ることのできる位置にいないから分からないが、横顔を見る限りは綺麗だった。真美よりも少し短いくらいの髪の下に覗いて見える瞳が、力強い光を放っているように感じる。
いったい誰だ、あれは。
混乱しつつも真美は、そそくさと教室の背後から迂回するようにして、女の子が座っているのとは反対側から祐麒さんの席に近づいて行った。同じ机の横まで行っても、女の子と話していて気がついてくれなかったのには凹みそうになったが、気落ちしている場合ではない。真美はあえて、女の子のことを意識しないようにして話しかけた。
「お、おはようございます、祐麒さん」
「あ、おはよう、真美さん」
すぐに、真美の方を向いて笑いかけてくれて、ちょっと嬉しくなる。そのまま祐麒の隣まで移動して、自分の場所を確保。
「なんか、初日って緊張しますね」
「ああ、うん、そうだね。どんな講義なのか、って考えちゃうよね」
「そうなんですよー」
いい感じで話し始めることが出来て、ほっと一息。
「――真美さん、私のことは無視? ちょっと悲しいな」
そこへいきなり、向こう側の女の子が割り込んできて、ぎょっとなる。
「いえ、無視だなんてそんな……て、あれ、私のこと?」
なんで名前を知っているんだ、そう言いかけて口をつぐむ。真美の名前を呼んだということは、当然、真美の知り合いなのだろう。だが、こんな綺麗な女の子、知っていたらそうそう忘れるはずがない。
こうして正面から見ても、整った黒髪に凛とした顔がよく合う、なんというか凛々しい正統派美少女とでもいう感じ。
「うーん、ショック。まさか、私のことを覚えていない?」
「え、ちょちょ、ちょっと待ってくださいっ。えーと、えーと、あの……」
と、そこでようやくピンときた。
その意志の強さを感じさせる瞳、耳によく通る声。
「あ、高城典さん!」
「ぴんぽーん」
リリアン時代の同級生である、典さんだった。
とはいっても、真美と特別に親しかったというわけではない。確か演劇部の部長で、何度か取材をしたことはある。舞台も見たけれど、演劇には素人の真美でも、典さんの演技は上手だと思った。
「その典さんが、なんでっ……」
「なんでって、私もこの予備校に通っているから」
「そそ、そうじゃなくて、ゆゆ、祐麒さんと知り合いなんですか??」
「ううん、話すのは今日が初めて」
「じゃじゃ、じゃあ、どど、どうして」
「ちょっと真美さん、少し落ち着いたら? 私は、学園祭の舞台で祐麒さんのことを見ていたから覚えていて。私も演劇部だったから。それで、私から声をかけたの」
「俺も最初は驚いたけれど。そんな覚えられるほどの演技じゃなかったしさ」
「いえいえ、そこは演技ではなく、花寺の生徒会長さんでしたから」
にこにこと、ごく自然に和やかに会話をする祐麒さんと典さん。
え、え、何これ、なんで、いつの間にこんなことになっているの??
「……でも、本当に真美さんと一緒だったんですね」
「だから言ったじゃないですか、真美さんに一緒に、予備校を選んでもらったって」
「ふぅん……一緒に、ねぇ?」
そう言いながら、典さんがちらりと、意味深な笑みを真美にだけ向けて来て、顔が引きつりそうになった。
いかんいかん、ポーカーフェイス。それは新聞部時代に培った得意技の一つ。
「随分と仲が良いのね、真美さん?」
「そ、そうでしゅか?」
「…………」
「…………」
赤面しつつ俯く。
さらに典さんが何か言おうと口を開きかけたところで、幸いなことにちょうど講師の人が教室に入って来たので、話はそこで打ち切りになった。
予備校初日だというのに、講義内容が全く頭に入ってこなかったのは、言うまでもない。
全ての講義が終了した後、三人の親睦を深めようということで、ファミレスに寄っていくことになった。そのこと自体に反対があるわけではない。祐麒さんとはもっとお話をしたいし、典さんとだって、あまり親しかったわけではないから、せっかくだし仲良くなっておきたいと思う。
思うのだけれど。
なんか、なんとなく、嫌な予感がするのだ。
ここで嫌な予感と言ったら一つしかないけれど、言葉にすると現実になりそうなのであえて言わないけれど。
不安は、今日一日を通して、典さんとの会話の中で何回か感じられた。典さんの、真美を見る目と祐麒さんを見る瞳。そして態度。祐麒さんは気づいていないし、それくらい些細なことだけれど、同じ女である真美には分かった。
更に真美を不安にさせるのが、典さんとのギャップである。
だって典さん、凄く美人だから。
リリアンにいた時は、そんな風に感じたことはなかった。おそらく、周囲に志摩子さんや祥子様という、次元の違う美少女がいたからではないだろうか。更に彼女達は、リリアンの中心ともいえる山百合会のメンバー。他の生徒の美貌を隠してしまうくらいの威力があった。
だけどこうして典さんを見ると、決して見劣りしないと思ってしまう。タイプ的には令さまに近いだろうが、令さまほどボーイッシュではない。凛々しさと綺麗さのバランスが良いのかもしれない。いや、別に令さまが悪いといっているわけじゃないけれど。
服装はシンプルだけど、さりげなくセンスの良さがみえるし、何よりスタイルが良い。いや、胸が大きいとか腰がくびれているとか、そういうのではない。姿勢がとても良く、立つ姿が美しいのだ。これはきっと、典さんが演劇をやっていたから、というのが大きいかもしれない。
そんなわけで、真美は典さんと自分を比べて考えてみて、落ち込みつつ不安を増大させていっているわけである。
周囲の綺麗な女の子たちと自分を比べたって仕方がない、というか、比べるレベルじゃないというのは、リリアン時代に何度も何度も思ったはずなのに。
「……真美さんどうしたの、元気ない?」
「あわっ、そ、そんなことないですよっ」
隣に座る典さんが覗きこむようにしてきて、慌てて手を左右に振る。
真美と典さんが並んで座って、正面には祐麒さん。まあ、これが妥当な座席位置だろう。
「そういうわけで、私は第一志望の大学に落ちたので、浪人することにしたの」
先ほどまで、典さんの入試の話を聞いていた。
合格した第二志望の大学でも、かなりいい大学なのに、それでも第一志望にこだわるというのは、凄いところだなと思った。
比べて、真美の不合格理由ときたら。
既に先ほど、典さんには話しているけれど、やっぱり笑われてしまった。まあ、下手に気を使われるよりも、笑われてしまった方が楽だったけれど。
「真美さんの志望大学は、聞いてもいいのかしら?」
「……え。えーと」
正直なところ、まだ決めていない。
リリアン以外の選択肢を考えてはいるけれど、では具体的にどこの大学かとなると、すぐには名前が出てこない。自分自身の学力もあるし、大学の特色とか、真美が望むようなことを備えているかとか、まだ調査中なのだ。
素直にそう、答えると。
「ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないじゃない。ちゃんと考えていて、慎重で、真美さんらしいわ。調査中、だなんて」
「そ、そう?」
「うん。で、祐麒さんは?」
典さんの言葉につられるようにして、真美も祐麒の顔を見る。
そういえば、今年はどこの大学を受けるのだろうか。リベンジを目指すのか、更に上を目指すのか。
「俺は、落ちたところにもう一度挑戦だね。今年一年勉強して、学力がアップして、もしもっと上を目指せそうなら、それも考えるけれど、まずは足元を固めないと偉そうなこともいえないからね。落ちたとこだって、届くかどうかわからないもんね」
「そうですよねー」
そうだよな、祐麒さんの言う通りだよな。いきなり上ばかり見据えていたら、足元をすくわれて転んでしまう。一歩一歩、確実に進んでいかないと。
「……な、なんですか?」
「ん? 別にー」
祐麒さんの言葉に頷くようにしていると、なぜか隣の典さんが、なんとも言い難い意味深な表情で真美のこと見ていたので、思わず僅かに体をひねるようにして避ける。
なんともいえない、座りの悪さとでもいうようなものを感じる。
「え、ええと、ごめんなさい、ちょっとお手洗いに行ってきます」
つい、逃げるように立ち上がる。
しまった、典さんと祐麒さんを二人きりにしてしまう、なんて心の狭いことを考えたが、真美に続くようにすぐに典さんも席を立つ。
「じゃあ、私も一緒に」
連れ立ってのトイレは女子にはおなじみの行動だが、こんなファミレスでしなくてもよいだろうに、なんて内心で思っていたら、案の定、用を足した後に洗面所で典さんから話しかけられた。
「真美さんて、思っていたよりも面白いのね」
「面白い? そうですか?」
洗面所の鏡越しに予想もしていないことを言われて、驚く。ファミレスとはいえ、かなり大きめの店舗で新しくもあるので、女子トイレの設備は充実しているのが嬉しい。
「うん、面白い。かわら版の記事を読んでいると、もっと真面目な人なのかと思っていた」
「真面目かは分かりませんが、少なくとも面白くはないかと……」
「いやいや、かなり面白い。ねえ、それよりも同級生なんだし、その他人行儀な敬語、もうやめない? これから仲良くしていきたいし」
「あ、うん」
敬語になっていたのは、なんとなく無意識にだ。典さんが大人っぽく見えたからかもしれない。今も、鏡に向かってメイクを直している姿なんて、同い年とは思えない。真美なんて、軽くファウンデーションを塗っているくらいだし。
「それに、さ」
メイクの道具をしまいながら、ちらりと視線を真美に向ける。
そして、片目をつむり、にこっと笑い。
「これからは、『ライバル』にもなるわけだし」
さらりと、そんなことを口にした。
『ライバル』
単語が、耳を通して脳に伝わる。
え。
え。
ええええええーーーーーっ!!
や、や、やっぱり、典さんもそうだったの? 本当に、どうしてこういう嫌な予感は当たってしまうのだろうか。
うう、どうしよう。でもここで誤魔化したり、曖昧にしたり、否定なんかしちゃったりしたら、取り返しのつかないことになるかもしれない。
だから真美は、きちんと典さんの方に体を向けて。
「ま、ま、負けませんから、ね。典さんには、譲りませんから」
精一杯に頑張って、告げた。
「もちろん、譲ってもらうつもりはないわよ。自分の力で勝ち取らないとね、志望校は」
「…………へ?」
さらりと言われた典さんの言葉に、ぽかんとなる。
「これから一年間、同じ浪人生受験生だもの、受験のライバル、でしょ?」
「あ、あ、あ……」
にっこりと笑う典さんを見て、真美は自分の失策を悟り、真っ赤になっていく顔を手でおさえる。
自分一人で先走り、早とちりして、勝手に自爆してしまった。典さんは別に、何のライバルになるかなんて、確かに言ってはいなかった。
「うわ、あ、あぁ~……」
「ふふっ、本当に真美さんて、面白いわね。そっか、まあ、そうだとは思っていたけれど、やっぱり祐麒さんをね」
隣では心底楽しそうに、典さんが微笑んでいる。
真美は一人落ち込み、洗面台の縁に手をつき、がっくりと肩を落としてうなだれる。
「でも、二人はお付き合いしていないの? 今日だって一緒の約束していたのでしょう」
「そんな、お付き合いなんて、まだとても」
知られてしまったからには仕方ない、諦めて答える。
すると、そんな真美のことを典さんは横からまじまじと見つめ、
「ふぅん。それなら、まだ私にも脈ありか。じゃあ、そっちの方でもライバルになりましょうか?」
なんて、とんでもないことをのたまった。
「えええっ!? ななっ、なん、ちょっ、典さっ」
「私、年上好みだと思ってたけど、祐麒さんみたいな人ならいいかもね。今日お話しして、好感持っちゃった。それに」
「そ、それに?」
「……それに私、ライバルがいたり、障害があったりした方が、燃えるのよ」
回答を聞いて、愕然とする。
そんな理由で、ライバルに立候補なんてしないで欲しいと泣きたくなる。
「へ、変ですよそんなの、ずるい」
「そう? じゃあ、今日一日ですっかり祐麒さんのこと好きになっちゃった、って言った方がいい?」
「う、そ、それはっ」
本気で好きになられたら困るけれど、だからといって変な理由でライバルになられるのも嫌だ。祐麒さんのことを好きでもないのにライバルになられるくらいなら、ちゃんと好きになってもらったほうが、いや待て、でもそうすると真美が勝てなくなってしまうのではないか? 何せ典さんは綺麗だし、話していても如才ない。実際、祐麒さんとも既にかなり打ち解けているようだし。真美なんていまだに、祐麒さんと二人でいるとお互いに緊張したり、ちょっと硬かったりと、そんな状態だというのに。
「――それこそ、真美さんが圧倒的リードしている証拠でしょうに。そんな不安に感じることないと思うけどな、私的には」
「はへ? な、何がですかっ?」
「んー、なんでもない。それより、そろそろ戻らないと、祐麒さんが待ちくたびれちゃうんじゃない? いつまでトイレ行っているんだ、って」
小さなバッグを手に洗面所を出る典さんの後を、急いで追いかけるが、頭の中はまだ少し混乱している。典さんの言葉は果たして本気なのか、真意はどこにあるのか、真美の嫌な予感が本当にあたってしまったのか、気になることはとにかく色々あるのだ。
前を歩く姿勢のよい背中を見つつ、真美は考える。
が。
「ねえ祐麒さん、聞いて、凄いのよ真美さんたら。今お手洗いで、祐麒さんのことは絶対に譲ら」
「うにゃーーーっ!!? だだだだめだめなにいってるんですか典さんっ!」
席に近づくなり、またとんでもないことを口にする典さんの言葉を、咄嗟に覆い隠す。
「駄目?」
「駄目に決まってるじゃないですかっ!」
泣きそうになりながら、典さんに詰め寄る。
これは絶対に、確信犯のいじめっ子だ。
「どうしたの二人とも、随分と仲良くなったみたいだけど」
「そりゃもう、ねえ、真美さん」
「あ、はは、うん、そだね、あは」
力なく笑う真美。
浪人生活、受験勉強だけでも大変なのに、また一つ、春先から大変なことを背負ってしまい、これから先どうなっていくのか全く分からない。
でも。
ちらりと前を見れば、祐麒さんが、『どうしたの、何かあったの?』っていう顔をして真美に目で問いかけてくれているのが分かる。
真美は微かに笑って、『なんでもないよ』と、返事をする。
大変かもしれないけれど、きっと、絶対に忘れられない一年になることだけは、分かるのであった。
おしまい