梅雨はまだ明けていないけれど、気温だけは容赦なく上昇し、蒸し暑さと不快感ばかりがぐんぐんと上がっていく季節。夏本番になれば、それはそれで猛暑が襲い掛かってくるかもしれないわけだが、じめじめと暑いよりかはまだマシだと思える。今はそんな、中途半端な時期。
夏休みはもう手の届くところに来ているように見えるのに、その前に試験なんてものが待ち構えているわけで。学生の本分は勉強というのも理解はできるけれども、気持ち的にもすんなり納得できるかというのは、また別の話。
祐麒も、一学期末試験に向けて勉強をしようとして、諦めた。
なぜなら。
「わーっ、きたきた!」
運ばれてきた『桃とミルクプリンのフルーツ・ココ』という、すでに夏メニューのデザートを目の前にして、三奈子さんが瞳を輝かせて歓喜する。祐麒の頼んでいるトーストとドリンクなんてゆう味気ないものに比べても、色鮮やかで見た目にも美味しそうである。
試験勉強用の教材とノートを脇に片付けて、目の前の座席でスプーンを手に、どれから口をつけようかと考えている彼女を見る。
ここはいわゆるファミリーレストランで、いつもあまり混雑していない穴場の店だった。特に、昼食時も夕食時もはずした今の時間帯は狙い目だった。
部屋のエアコンの調子が悪く、気分転換も兼ねて珍しく外に勉強をしに出たのだが、家を出てしばらくすると電話がかかってきて、店に入って10分もしないうちに彼女はやってきたのであった。
丁度、近くにいたというが、タイミングが良いのか悪いのか。
今日の三奈子さんは、パフスリーブのフリルブラウスにデニムのジーンズという、蒸し暑さを忘れさせてくれるような、さわやかないでたち。『似合ってますね』と誉めると、『ネットオークションで買ったんだよ』と、買うまでの経緯やお得な値段について、嬉しそうに話してくれたのが可愛かった。
そういうわけで、とりあえず形だけでも参考書とノートを広げていた祐麒であったが、三奈子さんが一緒にいる以上、勉強にいそしむことは断念せざるをえなかったわけである。
「テスト、もうすぐだっけ?大変だねえ、苦学生は」
「苦学生じゃありませんけどね。三奈子さんこそ、大学最初の試験でしょう?大丈夫なんですか?」
ミルクプリンを堪能しながら体を(歓喜に?)震わせている目の前の人に、冷静につっこみを入れる。
一応、これでも付き合いは長い。自分がブレーキ役にならねば、という自覚はあった。必ずしも、実践できているとは限らないのが痛いところではあるが。
「馬鹿にしないでよね、講義は真面目に出ているのよ。ノートはちゃんと全部取っているし、試験勉強だって計画的にこなしているんだから」
「へー、本当ですか?」
「なんで信じないかなー。ジャーナリストを目指す身として、真面目に勉学に励んでいる勤労女学生をつかまえて」
そういえば、将来の希望としてそのようなことを言っていたことを思い出す。普段、そんな気配をなかなか見せないので、祐麒はすっかり忘れていた。いい加減に見えて結構、ちゃんと考えているんだなと感心する。
「それよりさ、これ美味しいよ!祐麒くんも一口食べてみなよ」
「いいんですか?じゃ、お言葉に甘えて」
目の前に押し出されてきた皿を手元に寄せ、スプーンで掬って口の中に入れる。冷たくて甘い、清涼な食感が巡る。
「あ、これ美味しい」
「でしょでしょ?」
まるで自分が作ったかのように、得意そうな顔をする三奈子さん。
そして彼女の口からは、すぐにまた新たな話題が提供されてくる。
「もうすぐ夏休みだね。ね、祐麒くんは何か計画とかあるの?」
「とりあえず、受験勉強?」
「うわっ、つまんない!せっかくの夏休み、もっと遊べ、学生よ」
「自分が受験終わったからって、人をそそのかさないでくださいよ」
コーラを飲み、トーストをかじる。
三奈子さんはちょっと行儀が悪いけれど、両肘をテーブルの上について手に持ったスプーンをぷらぷら揺らしている。
「ずっと受験勉強しているわけじゃないでしょう?」
「まあ、学園祭の準備もあるし、仲間とどこか遊びに行こうかって話しもありますけれどね、まだ具体的にどこ行くかってのは決まってないけど」
「私はねー、皆と旅行にいくでしょ、部の合宿もあって、あ!それからね、そろそろ免許が取れそうなんだよね」
「今、どの辺でしたっけ」
「仮免。この前、無事合格!免許取ったら、乗せてあげるね」
「一回、落ちましたよね仮免。本試験、大丈夫なんですか?」
「もう大丈夫よ!本免は一発で受かってみせるから。そして路上デビューした暁には、"サーキットの狼"、いいえ、人はきっと"フェラーリの女豹"と呼ぶことでしょう」
「気合、入ってますね。って、サーキットになんか出ないでしょうしフェラーリなんか乗れないでしょう。てゆーかそれじゃ死にますよ」
言葉の応酬がごく自然に続いてゆく。
どこか、それが心地よい。
「でもさ、免許取ったら家の車借りるからさ、二人で遊びに行こうよ。どこか行きたいところとか、ある?夏だしやっぱ、海とかいいかな。気持ち良さそうだよね、海岸線をこう、颯爽と」
「そうですねえ、でも三奈子さんの運転、危なそうだしなあ」
「失礼ねえ、さっきから」
「まあ、期待せずに待っていますから」
コーラを飲んで一息つく。
と、ここまできてようやく、祐麒は愕然とした。
今までの行動や会話を落ち着いて検証してみるに、どれをどうとっても、カップルが、恋人同士がするようなことだったではないだろうかと。
注文した料理をお互いに同じスプーンで食べて。
夏休みの計画を話し合って、しかも二人でどこへ行こう、何をしようということを疑問も持たずに話し、決定していた。
一方の三奈子さんは、祐麒が何を考えているかなど知る由もなく、楽しそうに話を続けている。
「花火大会もあるよねえ。今年はさ、私の浴衣姿、見せてあげるよ。また去年みたいに、泳ぎに行くのもいいよねえ」
楽しいことを、子供のように指折り数える三奈子さん。その表情は、あくまで無邪気で。純粋に、楽しいことを待ち望んでいるようで。
それともひょっとして、祐麒と一緒に行くことを楽しみにしているからなのだろうか。いつもと変わることのない笑顔からは、その真意を読み取ることは出来なかった。
意識し始めると、なかなか追い払うことが出来ない。その後もお喋りを続ける三奈子さんであったが、祐麒は色々なことが気になり始めて、なかなか集中できなかった。
「……そろそろ、出ましょうか」
「え、もう?」
「もう、って言っても大分時間も経ったし、混んでもきたし。それに、店員さんも『いい加減に出て行け』オーラを出していますよ」
「あー、そうね。んじゃ、会計しちゃいましょ」
バッグを持ち上げ、テーブルに置かれていた伝票に手を伸ばす三奈子さん。
「俺、払いますよ」
「いいからいいから、お姉さんに任せなさいって」
「そういうわけにもいきませんから」
「素直に奢られればいいのに……そうね、それじゃ」
そこで一拍、置いて。
「半分こにしよっか」
にっこりと笑う、三奈子さんであった。
店の外に出ると、途端にむわっとした不快な空気に包まれる。じっとりと、体の中から徐々に汗が滲み出てくるようで、気持ちが悪くなる。
空は、雨が降りそうな、降らなさそうな、どんよりとした曇り空。
「すっきりしないねー」
両手を左右に大きく広げ、天を見上げる。
空と同様、祐麒の心の中もすっきりとしていなかった。
自分は果たして、三奈子さんのことをどう思っているのだろう。しばらく前から、いや、もっと前から気になっていたはずなのに、避けていたこと。もちろん、嫌いなわけはない。では、好きなのだろうか。それも、人間としてとか、友人としてとかではなく、異性として、女性として好きなのか。
同時に、三奈子さんは自分のことをどう思っているのか。単に気の合う友人として、つきあっているだけなのだろうか。
楽しかったから、今までで十分に楽しかったから、きっと考えてこなかった。
でも、このままでいいのだろうか。もちろん、今の関係のままでも楽しい日々は送られてゆくだろう。だけど、それだけで満足しきれなくなる日がくるかもしれない。いや、すでにそうなのかもしれない。
触れ、感じた、三奈子さんの指が、手の平が、髪の毛が、吐息が、祐麒の中で次第に大きくなっていく。
三奈子さんの声が、笑顔が、祐麒の心の中を占める割合が増えていく。
衝動的に、聞きたい欲求が高まってくる。
「……どうしたの、そんな、今日の天気みたいな顔しちゃって」
立ち止まる祐麒を、不審な顔して見てくる、三奈子さん。
数歩先で、ポニーテールを揺らす彼女を見て、祐麒は口を開いた。
「三奈子さん」
「ん、なに?」
邪気もなく、問い返してくる。
「あのさ、三奈子さんは―――」
やめておけ、と警鐘を鳴らす自分と、思い切って言ってしまえと後押しする自分が、心の中でせめぎあっているような気がした。
口に出したら、どうなるのか分からない。
でも、今のままでいていいのかも分からない。ただ、今を逃すと、次に言う気になる時がいつ来るのかは、全く予想がつかなかったから。
だから、やっぱり聞こうと思った。
「三奈子さんは―――」
「ん―――あ」
言いかけたところで、遮るように上方を見上げる三奈子さん。手の平を上向きにして、何かを受け止めるような格好をする。
受け止めたのは、雨粒。
鉛色の雲から落ちてきた、雨の滴。
「降ってきた―――」
言う間にも、雨の勢いは急に強くなってきて。
「夕立かな……うわ、本降りになってきた。行こう、祐麒くんっ」
「あ、でも」
「あー、話はあと、あと。ほら、濡れちゃう!」
逆らう間もなく、ぎゅっと手を握られる。
「あ―――」
そして、体を強く引かれる。
「ほら、走って、走って!」
振り返る三奈子さん。すでに雨で濡れ始めた髪の毛が、額に張り付いていた。
「うわーーー、こりゃ駄目だーーー!」
まるでスコール。
周囲を見れば、同じように走り回る人の姿が。そして当然、自分たちも同じように水しぶきを上げながら走っているわけで。
「はやく、はやく……って、何、笑っているの、祐麒くん?」
「え?」
祐麒の方を見た三奈子さんが、不思議そうな顔をする。
いつの間にか、笑っていたようだ。
「……いや、三奈子さん、ひどい格好だなって思って」
「なによーっ、祐麒くんだって髪の毛めちゃくちゃよ」
二人とも、濡れた服はぐちゃぐちゃで、変な皺がついた形で体に張り付いているし、髪の毛は乱れて顔に引っ付いて、顔面も、涙なのか、鼻水なのか、涎なのか、雨なのか、分からない感じに水が滴っていて。
三奈子さんは、怒ったように笑っていて。
「……三奈子さんとなら、こういうのもいいのかなって」
「えーっ、なに?!聞こえないーっ」
雨音と、水を跳ね上げる足音にかき消されて、祐麒の言葉は届かなかったようだけれど。
つないだ手の感触は、間違いなく二人を一つにしていたから。
熱い鼓動を感じられるから。
彼女となら、どんな大雨でも、とてつもない風が吹いていても、手をつないで一緒に走っていけるんじゃないかと、祐麒は確かに思ったのだった。
そうして
二人の
二度目の夏が、幕を開ける―――
おしまい