二月に入って寒さが一層厳しくなった。
だが、そんな中で逆に熱くなっていくものもある。
何かといえばそれは、二月のイベント、バレンタインデーである。女子高のリリアンではあるが、大好きなお姉さまにチョコをあげるのが定番になっている。もちろん、彼氏のいる女の子はその相手にも渡すわけだが。
日が近づくにつれ、徐々に熱気が高まってくるのが分かる。
そんな中で一人、私はどこか皆の流れについていくことが出来ず、かといって一人で落ち着いているわけでもなく、どこか中途半端に漂っているような感じだった。
「ふーん、由乃さんは今年、オリジナリティを出してみるんだ」
「そうよ、去年は溶かして型に入れただけだったけど、今年は味に工夫をいれてみようと思うの。毎年同じじゃあ、成長が見られないじゃない。そういう祐巳さんは?」
「私も、去年とは変えようと思っているんだけど、具体的にどうしようかは決まっていないんだ」
由乃さんと祐巳さんが話しているのも、バレンタインでそれぞれのお姉さまに贈るチョコレートの話だ。
私のお姉さまである佐藤聖さまは既に卒業されてしまっているから、私には学園内に贈るべきお姉さまはいない。由乃さん、祐巳さんもそのことは分かっているけれど、あえて遠慮して話さないようなことはしない。その方が不自然だし、気を遣われているようで私も嫌だ。逆に言えば、それくらい気を許しあった仲になったともいえるわけで、私はむしろ嬉しい。
「志摩子さんは、乃梨子ちゃんにあげたりしないの?」
「あげようとは思っているけれど……どういうのがいいのか良く分からなくて」
「乃梨子ちゃんだったら、志摩子さんから貰うチョコなら何でも嬉しいと思うけど」
「うんうん、乃梨子ちゃんて、志摩子さん相手の時だけすごく表情とか態度、変わるもんね」
姉とは逆に、三人の中で妹がいるのは私だけ。そのことでも、特にお互い気にしたりはしない。こういうのは縁であり、無理矢理どうこうするものではないから。
しばらく、チョコレートについてああでもない、こうでもないとお喋りに興じる。こんな風にお友達とバレンタインについて歓談できるなんて、入学当初は想像もしていなかったから驚きだ。
「あー、でもさー。お姉さまのためにチョコレートを作るのは楽しいけれど、誰か一人くらい男の子に上げる、とかいないの? あたし達、花の女子高校生だというのに」
「一応、祐麒にはあげるけど?」
「家族にあげる分は含みません! そうじゃなくて、ボーイフレンドよ。もしくは片思いの彼でも良いけれど」
「うーん?」
祐巳さんはどうもピンとこないようで、首を傾げている。
「まあ、あたしもそんな相手いないけどね。意外と志摩子さんとか、相手いるんじゃないの?」
「私? 私も特にはいないけれど……」
言いながら思い浮かべるのは一人の顔。
あれ、もしかして私、祐麒さんにチョコレートを渡したいと思っているのかしら? でも、直前に祐巳さんの口から名前が出たし、多分その流れで思い浮かべてしまっただけ。
「誰か、そういうネタを持っている人、いないかしら」
「由乃さん、なんか三奈子さまみたいだよ。それに、もし持っている人がいても、そういうことは人に言わないと思うよ」
「そっかぁ」
私たちの間でその手の話が出ることは少ないし、盛り上がることもなかなか難しい。
だけれども、私の中ではずっとそのことが頭に残っていた。
「うぅ~~ん」
家に帰った私は自室で本とにらめっこしていた。
チョコレートのお菓子のレシピ本だ、帰りに本屋で購入してきた。
単にチョコレートといっても、本当に沢山の種類があるものだと改めて知らされる。さすがに本格的なものを作るのは難しそうだし、私にも出来るものにしよう。
渡すのであれば、やはり日持ちのするものの方が良いだろうか。量がさほどでもなければすぐに食べてくれるかもしれないが、チョコレートケーキとなると結構な量になる。ケーキで一切れだけ作るとか、一切れだけ渡すとかはやりたくないし。
そういえば、甘いものはそもそも好きなのだろうか。チョコレートといっても甘いミルクチョコレートもあれば、ビターなものもある。
今までの記憶から、果たして甘いものはどうだろうかと考えてみる。クリスマスの時には甘いケーキも美味しそうに食べていたから、きっと大丈夫。でもやっぱり、少しビターな方が良いかもしれない。
「――志摩子? いるんじゃない、もうすぐ夜ご飯よ」
「え……あ、ごめんなさい」
どうやら母に何度か呼ばれていたようだが気が付かなかったみたいで、直接部屋に様子を覗きにきたらしい。
「あぁ、もうすぐバレンタインだものね」
母は私が見ていた本に目を落とす。
「もう決まったの?」
「それが、まだ」
「どんなものでも、志摩子が作ったものなら喜んでくれるでしょう」
「そ、そうかしら」
「乃梨子ちゃんにあげるのでしょう?」
「………………あ」
そう言われて。
私はその時まで乃梨子のことがすっかり頭から抜け落ちていたことに気が付かされた。
「……あらあら、どうやら志摩子は違う人にあげることを考えていたようね」
くすくすとおかしそうに笑う母に、私は顔から首のあたりまで真っ赤になっていく。頬が熱い。
どうやら、カマをかけられたらしい。
「相手はどなたなのかしら?」
「も、もう、お母さんっ」
「ふふ、志摩子もそういう顔をするようになったのね」
「そういう顔、って?」
真っ赤になってゆでだこのようになった娘を見て、何が楽しいのだろうか。私は少しばかり恨みを込めて母を睨むが、笑って受け流された。
「恋する女の子の顔よ」
「こ……恋……」
「もう少ししたらいらっしゃい。顔が赤くなくなったらね」
軽口をたたいて、母は出て行った。
一方、私はというと。
「恋……なのかな……?」
祐麒さんにバレンタインのチョコレートを渡したいと思い、どのようなチョコレートを作ろうか、どのようなチョコレートなら喜んでくれるだろうか、そんな風に色々と考えることは楽しかった。時間が経つのを忘れるほどに。
「で、でも、人に喜んでもらえるよう考えることは楽しいし……祐麒さんにはクリスマスプレゼントをいただいたけれど私は何も差し上げられなかったから、せめてバレンタインくらいは、と思うのは当然のことで」
私は何を一人で言い訳じみたことを口にしているのだろう。
本を閉じると、私は母に言われたとおり、顔の熱が冷めるのを待ってから食事へと向かった。
バレンタインデー当日が近づいてきていた。私も、いくつか候補を絞ってはいるものの、最終的にどれを作るかまだ決められていない。それでも、そろそろ決めないと間に合わなくなってしまうので、材料を買いに出かけていた。
「ええと……わぁ、凄い混んでいるわね」
予想はしていたものの、専用のコーナーは沢山の女性で賑わっていた。バレンタインデー前の休日ともなれば当然のことか。
なんとなく場違いな気がするものの、人ごみに紛れてそろそろと売り場を見て回る。
(どれにしようかしら……あ、可愛いラッピング。そうか、チョコレートにばかり気を取られていたけれど、包装も重要よね。でも、あまり可愛らしいと受け取りづらいかもしれないし)
いつまでも迷っているわけにはいかないので、コレと決めて材料と包装をあわせて購入。店を出ると、自然と息を吐き出していた。
「疲れるけれど……なんだか楽しいわね」
こんな風に誰かのことを想ってチョコレートを作ろうとするなんて、生まれて初めてのことかもしれない。
少しだけ、ほんの少しだけ浮かれながら帰る途中で、ふと思った。
こんな風にチョコレートを渡したいと思うのは私だけのはずがないと。
何せ花寺学院の生徒会長、リリアンの学園祭では山百合会の舞台劇で主役を張って知られているし、なんでも何人かの勇気ある女子生徒からは年賀状も届いていたとか。チョコレートを貰わないわけがない。それに、クリスマスのボランティアで知り合った和葉ちゃんなんかも、きっとあげるに違いない。
そう考えると。
「……頑張らなくちゃ」
思わずぎゅっ、と拳を握る。なんか、今まで以上に少し気合いが入った。
珍しいことだった。確かに私は一度、「こうだ」と思うと頑固なところがあるけれど、対抗心とか、競争意識とか、そういうのが足りないと言われることが多かったのに。
家に帰ると、改めて材料が足りないかどうかを確認、更に雑誌で作り方の予習をする。特に問題ないことを確認すると、試しに一回、作ってみることにした。いきなりぶっつけ本番というのは危ない気がしたから。
私が作ろうとしているのはチョコレートケーキ。溶かして固めるだけではどうかと思い挑戦することにしたのだが、果たして上手にできるだろうか。
とりあえずレシピ通りに作ってみよう。
チョコレートは湯煎にかけて溶かし、バターと砂糖と卵黄を混ぜたところに溶かしたチョコレートを投入。アーモンドパウダー、小麦粉、そしてブランデーをちょっと加え、更にメレンゲを混ぜる。
オーブンで焼き上げたら溶かしたチョコレートを表面に塗り、クリープを茶漉しでかけて出来上がり。飾り付けもしたいけれど、まずはチョコレートケーキ本体の出来が重要なので、そこまではしないことにした。
試食は、夕食を終えた後のデザートとして両親も含めて行うことにした。
「――うん、生地の出来具合も、チョコレートの濃さも、悪くないんじゃないかしら」
「儂には少し甘すぎるかもしれんな」
「その辺は使用するチョコレートや量で調整というところかしらね」
父と母、それぞれからもまずまずの評価を得られて、まずはホッと胸を撫で下ろす。私も口にしてみたけれど、確かに男性にとっては少し甘いと感じられるかもしれない。購入していた他のビターなチョコレートを使う方が、良いだろうか。
「……しかし、嬉しいような悲しいような」
ケーキを食べ終えた父が、なぜか寂しげにつぶやいた。
「バレンタイン前に儂に試食させるということは、当日の楽しみというものがな。まあ、娘から貰えるだけでありがたいんだが」
「それは仕方ないですよあなた、何せ本命の方に差し上げるための試食なんですから」
「そうよなぁ、娘の成長を喜ぶべきなのだろうが、娘の父親としては」
「いいじゃないですか、志摩子も年頃の娘なんですから。むしろ、そういう相手がいなかったことの方が不思議なくらいですよ」
父と母の会話を聞いて、顔が熱くなってくる。
「べ、別に、祐麒さんとはまだそういう仲では」
「あら? 私、別に祐麒さんとは言っていないけれど……ふふ、やっぱりそうなのね」
「あ……」
母に笑われて、私は恥ずかしさで真っ赤になってしまう。
父からも視線を感じる。私は赤くなったまま俯く。
「――まあ、あの若者なら誠実そうだし、いいんじゃないか?」
「ふふ、随分と一生懸命に作っていたものね」
フォローだかなんだか分からない言葉をかけられて、私は余計に恥ずかしくなってしまい、逃げるようにして自室へと戻るのであった。
そうしていよいよバレンタイン当日。
前日のうちにチョコレートケーキを無事に作り終えた私だけど、朝になって一つ気が付いた。
「これ、どうしよう……」
ケーキはきちんと箱に入れてラッピングもした。
したのだけれど……
「い、いくらなんでも大きすぎるわよね」
何せ1ホール分だ、袋に入れて持っていくにしても大きすぎて目立ってしまう。美味しく、見た目よく作ることに夢中で大きさに気が回っていなかった。
学校に持っていけば絶対に目立ってしまう、だからといって家に置いておくわけにもいかず、やむなく私は途中の乗り換え駅のコインロッカーに入れておくことにした。
「だ、大丈夫よね、季節的に」
学校に持っていくにしても、どうせ一日置いておくわけで、コインロッカーに置いておいても変わることはないだろう。
多少、気にはなりつつも私はそうして登校した。
学園では、当然のようにバレンタインムードで浮かれている感じがして、空気がふわふわしているようだった。
「……はい、志摩子さん。こ、これ、私から」
「ありがとう乃梨子。これは、私から」
「え、し、志摩子さんからも? わ、やたっ、う、嬉しい~っ」
「そ、そう? うふふ……」
私からもチョコレートを貰えると知った乃梨子は、余程嬉しいのか、乃梨子には珍しい満面の笑みを見せた。
しかし私は内心で冷や汗をかいている。
言えない。
チョコレートケーキのことばかり考えてすっかり忘れていて、あまり物の材料であわてて作ったものだなんて。
でもまあ、ちゃんと乃梨子のことを想って心を込めて作ったことに間違いはないわけで、それなら問題ないだろうと自分を納得させる。
乃梨子以外の下級生の子からも幾つかチョコレートを受け取った。さすがに、令さまのような袋いっぱいのチョコを受け取るなんてことはないけれど、それでも嬉しかった。
学園での授業が終わって放課後。
私は急いで学園を後にして、ケーキを保管しておいたコインロッカーに向かう。無事にロッカーからケーキを取り出したところでホッとしたのもつかの間、重大な手落ちに気が付いた。
「…………どうやって祐麒さんに渡そう」
作ることに夢中で渡す算段を全く考えていなかった。というか、作ればどうにかなると思っていた。
あ、あれ、私ってこんなに思慮が足りなかっただろうか。
ケーキの箱を抱えたまま、ロッカーの前で立ち尽くす。
このまま花寺学院まで出向いて、正門の前で祐麒さんが出てくるのを待ち構える? もっとも正統的な手段かとも思えるが、恥ずかしくてとてもじゃないけれど出来そうもなかった。一応、リリアンの白薔薇さまでそれなりに知名度があることは認識している。
もし、何か噂になったりして祐麒さんに迷惑をかけることになったら堪らない。私自身はともかくとして……
「あれ……私自身は……?」
思わず、自分自身の考えに首を傾げそうになったが、今はそれよりもどのようにして渡すかが問題。
「あ、そうだ、携帯電話!」
バッグから手帳を取り出して頁を捲る。
私自身は実はいまだに携帯電話を持っていないのだけれど、祐麒さんの持っている番号は教えてもらっていた。
手帳から祐麒さんの番号を探しだし、最近では随分と少なくなった公衆電話を探し出して受話器を手に取る。
番号をプッシュし、コール音が鳴り響くのを聞きながら、祐麒さんが電話に出たら何と言って呼び出せばよいか考えていないことに思い至る。さっきから、いやこの週末あたりから私は一体どうしてしまったのだろう。もっと、慎重な性格なはずだったのに。
とりあえず、祐麒さんが出る前に切って、考えを改めてからかけ直そうと思ったのだが。
『――はい?』
受話器から祐麒さんの声が聞こえた。息が止まる。
『もしもし…………悪戯電話?』
公衆電話からかけているから、疑っているのかもしれない。私は慌てた。
「あ、あのっ。突然すみません、私、と、と、トドです」
『鯔?』
「あうぅ、ち、違います。藤堂です」
電話BOX内で良かった。今の私は耳から首まで真っ赤になっているだろうから。
『あ、藤堂さん、どうしたんですか……あ、ちょ、ちょっと待って下さい。ちょっと場所移動しますんで』
何やらざわざわとした音が少し小さくなり、静かな場所へと移ったのが分かる。
『――お待たせしました。びっくりしました、藤堂さんから電話がくるなんて』
「ごめんなさい、突然。大丈夫ですか、迷惑ではないでしょうか」
『迷惑だなんてとんでもない、藤堂さんからの電話ならいつでもウェルカムですよ!』
「まあ」
『えと、それで、はい、なんでしょうか』
「あ……あの、実は…………」
それから約三十分後。
「…………っ、お、お待たせ、しましたっ」
息を乱した祐麒が駆けつけてきて、志摩子は目を丸くする。
ここはショッピングモール内のちょっとした休憩場所。外で待つには寒く、どこか喫茶店なんかに入っても良かったが、これから渡すもののことを考えると、なんとなく何か食べるような場所は避けたいと思ってしまったのだ。
しかし、よほど全力でここまで走ってきたのか、うっすらと汗までかいている。
「そんなに急がなくても、大丈夫でしたのに」
「いえ、と、藤堂さんを、ま、待たせるわけには……い、いきませんからっ……はぁ」
とはいっても、いくらなんでも頑張り過ぎではないだろうか。私たちは祐麒さんが落ち着くまでこの場所に留まり、ようやく息も整ったところで場所を移すことにした。
やっぱり、このざわついた場所で渡す気にはならない。
ショッピングモールを出ると、肌に突き刺すような冷たい風が吹き付けてくる。
「さ、寒いですよね。ごめんなさい、どこかやはり暖かい場所へ行きましょうか」
「俺は大丈夫ですけど、藤堂さんの方こそ」
「私も、大丈夫です。あの、出来れば静かな場所がよくて」
「それじゃあ……ちょっと歩きましょうか」
祐麒さんに促されて歩き出す。
寒い中をいつまでも歩き続けるのは申し訳ない。しばらく歩いたところで、私は近くの公園に足を向けた。
公園内には何人か人の姿はあったけれど、さすがにこの寒い時期なので多くは無い。私は意を決することにした。
「あ、あの、祐麒さん」
誰もいないジャングルジムの手前で立ち止まり、私は祐麒さんと向き合う。寒さのせいか、祐麒さんの頬も赤くなっている。
いつまでもまごまごしていて風邪をひかせでもしてしまったら堪らない、私はずっと手に提げていた紙袋を胸の前に持ち上げた。
「あの、こ、これ、バレンタインのチョコレートです。良かったら、受け取ってください」
「あ……ありがとう。凄く、嬉しい」
私が差し出した紙袋を、祐麒さんは嬉しそうに受け取ってくれた。祐麒さんが「嬉しい」と言ってくれたけれど、どうしよう。私も凄く嬉しい。
「いや……でもびっくりした。その、藤堂さんから電話で呼ばれたとき、期待はしていたんだ。今日はバレンタインだし。それが、ずっと気にはなっていたんだけど、こんなに大きいのが貰えて」
「あ……あの、そそ、それは」
やっぱり5号のホールケーキでは大きすぎたに決まっている。改めて私は恥ずかしくなってしまった。
「ご、ごめんなさい。ご迷惑ですよね」
「そんな、迷惑だなんてとんでもない。嬉しいですよ、藤堂さんの愛情の大きさだと思えば、なんて」
「そ、そんなっ」
「すみません、じょ、冗談です」
「それじゃあ、全然大きさ足りませんっ」
そんなことを言われるのであれば、6号でも7号でも作ってくれば良かった。なんて思ってつい口にしてしまったが。
「……え、あの、そ、それって藤堂さん」
「え…………………………っっっっ!!??」
祐麒さんの声が聞こえて、祐麒さんの顔を見つめて、祐麒さんが言った言葉、私が口にした内容を思い返してみて、私はとんでもないことを口走ったのだと理解する。急速に熱くなっていく体と頬。
「ち、ちがっ、違うんです今のは、って、いえ別に嘘というわけではなくて、その、う」
「落ち着いてください藤堂さん。すみません、俺が何か変なこと言っちゃったから。ええと、あの、今のは聞かなかったことにしますから」
「そ、それは駄目ですっ! あ……うあぁ」
叫んでしまった自分にまた混乱。
もはや、どうしたらよいのか分からなくなってしまった私は。
「…………し、し、失礼しますっ!!」
「え? あ、と、藤堂さんっ!?」
くるりと背を向け、駆け出した。
要は、逃げ出したのだ。
幸か不幸か祐麒さんは追いかけてこなかった。真っ赤になって熱くなった両頬を冷えた手の平でおさえながら、私はただ走る。
どこをどう通ったのかも分からないままに、いつの間にか私は自宅に辿り着いていた。
「――お帰りなさい。どうだったの志摩子、って、あら真っ赤よ。それに息も乱れて、どうしたの?」
「な、なんでもないのっ」
母の目から逃れるように、私は足音を消すこともなくバタバタと自分の部屋に駆け込んで扉を閉める。
バスを降りてから家までも走ってきたので、呼吸は乱れているし、汗もかいているし、心臓の動きも速い。私は自らを落ち着かせようと、とりあえず鞄を置き、コートを脱いでクローゼットにしまい、ぺたんと腰を下ろした。
馴染んだ自分の部屋に居ると落ち着いてくる。
しばらく休んでいると、呼吸も落ち着いてきた。
汗も引いてくる。
ああ、でもどうして。
暖房も入っていない室内は冷え切っていて、汗が冷えて余計に寒いはずなのに、胸の奥の方から体が熱い。
呼吸は普通に戻ったのに、胸に手を当てると、鼓動はいまだに早鐘を打つような勢い。
「……やだ、私ったら祐麒さんを置いて逃げてきちゃった…………」
頭を抱える。
自己嫌悪で泣きたくなった。
両親を心配させないよう、夕食は普通にしていたつもりだったけれど、やはり父や母から見たら変だったのだろう、心配そうな目で見られていた。ただ、何も言ってこないのは、私に気を遣ってくれているからだろう。
夕食を終え、重い気分のまま自室で塞ぎこむ。自分の駄目さ加減に呆れてしまう。どうして私は、こんななのだろう。
そんな風に部屋でグダグダとしていると。
「――志摩子、電話よ」
母からの声に、顔を上げる。
「祐麒さんからよ」
「っ!?」
慌てて跳ね起きる。
電話を取るのは怖い。でも、放っておくわけにはいかない。
すると、私の不安を見透かしたのか、母が安心させるように笑ってきた。
「大丈夫よ。ほら」
「う、うん……」
受話器を受け取り、深呼吸をしてから耳にあてる。
「――もしもし。お電話かわりました」
『ああ、藤堂さん。良かった、出てくれて』
「あ、あの……先ほどは、大変失礼いたしました」
何はともあれ謝罪する。物凄く失礼なことをしてしまったのだから。
『いえ、いいんですよ。なんか、俺が変なこと言っちゃったから、すみません』
「いえ、私がいけないんです、本当にごめんなさい」
『あ~、と、ほら藤堂さん、前から言っているじゃないですか。もう"謝り合い"はやめましょうよ、ね?』
受話器の向こうで苦笑している祐麒さんの姿が浮かぶ。
『それよりも俺、伝えたいことがあって電話したんですよ』
「伝えたいこと……?」
『はい。チョコレート、すげー美味かったです! それを伝えたくて』
「あ……」
お腹のあたりから、じんわりと温かなものが溢れてくるような気がした。先ほどまでの不安や自己嫌悪が、不思議なほど綺麗に消えていく。
「ありがとう、ございます」
『ちゃんと、俺一人で全部食べますから、安心してください!』
「え、あ、あまり無理しないでくださいね」
『大丈夫ですよ、あれだけ美味しければいくらでも入っちゃいますから』
「まあ、祐麒さんたら」
心が軽くなる。
色々と失敗ばかりしてしまったけれど、渡せて良かったと思う。
電話を終えるころには、食事後まで引きずっていた重い気持ちは完全になくなっていた。
「あら、志摩子」
子機を戻しに行くと、母が声をかけてきた。
「ふうん。さっきまでこの世の終わりのような顔をしていたのに、随分と楽しそうになっちゃって、そんなに祐麒さんからの電話が嬉しかったのかしら?」
「そ……そんな、こと」
あまり意識していなかったが、言うくらいだからよほど表情がふやけていたのか。私は顔を伏せる。
「ふふ、私達がどうこう言うよりも、やっぱり祐麒さんからの一本の電話の方が、よほど良い薬になるみたいね」
「だ、だから」
「いいじゃない。恋せよ乙女、ってね」
お茶目にウィンクしてみせる母。
何か反論しようとして、私は口を閉じる。
今日、口から飛び出した言葉、私自身の思いがけない反応、それらは全て母が言うように恋心から生まれたものなのだろうか。
ふと、顔を横に向ける。
窓ガラスに映る私自身。
私は私自身を見つめて。
私は私自身に見つめられて。
「……本当は、どうなの?」
問いかけてみるけれど。
答えは、私の中にしかない。
2月、バレンタインデー。
私の気持ちは、チョコレートのように苦くて、そして、とても甘いものだった。