三年間を過ごした高校の卒業式が終わり、後輩達との別れ、先生方との挨拶も済ませ、あとは帰るのみ。通い慣れた校舎の正門を通り抜ければ、さよならだ。もちろん、何かしらのイベントで来ることもあるかもしれないが、実質的にはほとんど無いも同然だろう。色々と忙しなく、トラブルやアクシデントも多かったが、まあ充実した三年間だったのではないだろうかと思う。
しかし、ここで油断してはならない。
なぜなら、実はこれからまだ、最後の難関というか、最後の試練というかが待ち構えているのだから。
本来なら、逃げ出したいところである。待っていると分かっていて、とんでもないことになると分かっていて飛び込んでいくなんてしたくないけれど、逃げた後の方が大変なことになるということを経験して知っている。だから、裏門からこっそり帰るとか、ずっと校舎内で夜まで時間をつぶすとか、そういう手段は考えたけれど切り捨てた。
少しだけ我慢すれば良いのだし、どうせ高校に戻ってくることなんてほぼ無いのだ。ちょっとくらい噂になろうと、無視してしまえば良い。人の噂も七十五日というし、どうせすぐに忘れられるだろうさ。それよりもむしろ、先で待ち構えている大学の方に知られなければ良いのだ。幸い、花寺の大学に進むわけではないので、同じ大学に進学する同級生は凄く多いというわけではない。大丈夫だ、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
「どうしたユキチ、随分怖い顔しているなお前」
「あ、もしかして泣くのを堪えているとか? ユキチ、かわいいね」
ともに三年間を過ごしてきた友人、小林とアリスが両隣から声をかけてくる。
「そんなんじゃない……二人とも、少し離れていた方がいいかもしれないぞ」
「ああ……ひょっとして、アレか」
「ユキチも大変ね」
「俺的には羨ましくもあるのだが」
「小林は当事者じゃないからな」
冷めた笑みを浮かべ、歩みを止めた小林とアリスを置いて一人で進んでいく。
何百回通ったか分からない道を、感慨に吹ける間もなく歩いて行く。待ちうける近未来図の方が余程に気になるから、感傷に浸っている余裕も時間もない。他の卒業生たちが記念写真を撮ったり、後輩と話したり、仲間とふざけあっている中を、一人で正門に向かっていく。
彼女がいるやつだって居るから、正門まで行けば彼氏を待っている彼女の姿、なんてものは決して珍しいものではない。
また、これはあまり居ないが、格好良くてモテて、複数の女の子のファンが待ち受けている、なんてことも過去にはあったらしい。
更に、モテて、なおかつ複数の彼女を持っていて、そんな複数の彼女が待ち受けていて正門で修羅場なんていうろくでなしも、かつていたらしいとの伝説がある。
では果たして、この俺はどうだろうか?
正門に近づくにつれ、異様な雰囲気が強く、濃くなっていくのが明らかにわかった。正門近くに黒い群れが集っているのは、花寺の学生服を身にまとった連中で、どこか一点を遠巻きにして見ているのがありありと分かった。悩むまでもなく、視線が集まる中心ポイントに向かえば良いことを俺は理解した。
気を引き締め直し、足の歩みを速める。ここまできたら、さっさと済ませてしまうに越したことはない。
近づいてくる。
なんともいえない気配が、他の花寺の生徒を寄せ付けない雰囲気が、他者を圧倒するような空気が。
一度、目を閉じ、大きく深呼吸をしてから、俺は正門から出た。
周囲の野郎どもが注視している方向に顔を向けて――
俺は、自分の考えがいかに甘かったかを思い知った。
「祐麒くん、待っていたわよ」
「あたしたちをこんなに待たせて、罪な男ね」
「…………」
誰も近寄れないのも納得である。
彼女達が美しいというのももちろんあるけれど。
大きな胸元をさらに強調するかのような、肩も背中も剥き出しにした色気むんむんの漆黒のベアトップドレスにロンググローブ、ワインレッドの鮮やかなストールを重ね、ドレスにあわせたハイヒールを履いている江利子。深いスリットから見える脚が艶めかしい。
ディープVカットのデザインで、これまた胸の大きさを強調するかのようなシルバーグレイのワンピース。タイトミニから伸びた太腿が魅惑的なラインを描き、外人のような容貌が色気を何割増しにも見せているように感じられる聖。
ジャケットの下からは胸の谷間も分かるキャミ。プリーツミニスカートも含め白地がベースだが、キャミ、ジャケットポケット、ベルト、スカート、それぞれに黒のラインが入りメリハリを利かせたセクシーなスーツを身にまとっている蓉子。
そんな、どう考えても場違いだとしか思えないような三人が待ち構えていたのだから。声もなく驚きつつ、それでも惰性で三人の方に歩いて行くと、妖艶な笑みを浮かべた江利子、不敵な笑みを浮かべた聖、なんともいえない表情をした蓉子に囲まれた。
「うふふっ、卒業おめでとう、祐麒」
「待ち疲れちゃったわ、早く行きましょうよ」
するりと腕を絡めてくる聖に、胸を押し付けるようにしなだれかかってくる江利子。
「ちょ、ちょっと聖、江利子、その辺にしておきなさいよ」
唯一、蓉子だけが少し恥しそうに周囲からの視線を気にして、小声で二人に注意をしているが、全く効果がない。
「別にいいのよ、やりたくないなら蓉子はしなくたって」
「そうそう、あたし達だけで祐麒を祝ってあげちゃうから」
挑発されるようなことを言われて、蓉子の視線が左右を彷徨い、やがて祐麒に固定される。ただ一人の良心として期待したいところだが。
「……も、もう、お店の方は予約していますから……あ、ボタン、曲がっていますよ」
恥しそうにしながらも、正面から手を伸ばしてきて制服の着崩れを直そうとする。スーツとはいえ、一般企業に勤める女性が着るようなものではなく、キャバ嬢あたりが着そうなやけにセクシーなもので、普段は真面目で固い蓉子が胸の谷間を僅かにとはいえ見せてきているので、俺の目も思わず吸い寄せられてしまう。
しかし、なんだこれ。周囲から見たら、夜の街に現れたマフィアのボスを出迎える愛人のキャバ嬢達、みたいな図になっているのではないだろうか。それにしてはまあ、マフィアのボス役が垢抜けない上に子供っぽ過ぎる気もするが。
「それじゃあ、行こうか。ふふ、卒業記念に、今日はたっぷり、サービスしてあげるから」
「まあ、あちらの方はとっくの昔に卒業して、今じゃ立派な夜の帝王だけどね」
「ちょ、聖さん、江利子さん、出鱈目なこと言わないでくださいっ!」
いくらなんでも、嘘を真実だと思われたら敵わない。まあ、例え何も言わなかったとしても、この状況を見たらどんな想像をされ、何を噂されるかは有る程度分かるが。
「ご、ごめんね祐麒くん。祐麒くんの卒業を派手にお祝いしようって、聖と江利子が、いくら私が止めても聞いてくれなくて」
「何よ、蓉子だって最終的には結構ノッていたじゃない」
「そうよ、そんなエロいスーツ選んでさ。気づいてた祐麒? 蓉子のスカート、前面にファスナーついていて、ほら、全部開くと超エロいんだから」
言いながら、ごく自然に聖の手が伸びていって蓉子のスカートのファスナーを一番上まで引き上げた。
「きゃああああああっ!?」
真っ赤になって蓉子が手でスカートを抑えるが、それでもはっきりと見えてしまったのは、鮮やかな白。どうやら下着は蓉子らしく清楚なようで、少し安心する。
「ううううううっ」
涙目になりながら、必死でファスナーを下ろす蓉子。
「んもう、祐麒ったらこんな人前でスカートの中見ちゃうなんて、本当にエッチなんだからー」
「だけど、そんなワイルドなところも魅力ぅっ」
聖と江利子が、わざとらしく口をそろえる。
「うぉ、生徒会長、なんと恐るべし……」
「あんな美女を侍らして卒業とか、まさに前人未到、空前絶後」
「し、しかもあの三人って、以前の三薔薇さまたちだぜ。そろい踏みだ」
「年上の薔薇様を落としたって噂は本当だったのか……いや、むしろ噂以上!」
「あ、あんな美女たちと毎晩ヤリまくりなのかっ!?」
「花寺史上に残る、歴史的事件だこれは……っ」
聞こえてくるそんな声に、頭痛と目眩が一気に沸き起こってきた。
甘かった。
舐めていた。
油断しすぎていた。
この人たちが、ただ単に門の外で出待ちをしているわけがなかったのだ。
旧三薔薇様の全員が出待ちをしてくれているだけでも、おそらく花寺史上初の出来事だったはずなのに、これで完全に三人とも、『生徒会長の女』的扱いとなり、予測の遥か斜め上方に軌道が変わってしまった。
「どぉ、私達からの卒業祝いイベントは」
「忘れられない卒業にしてあげるって、言ったもんね」
「なんなら今夜、本当に忘れられない一夜にしてあげましょうか……私達三人がかりで?」
腕でベアトップの胸を持ち上げるように見せつけながら、江利子が甘い誘いの声をかけてくる。
「そ、そんなことしないわよっ!?」
「あら、そ。じゃあ、私と聖の二人がかりで、三人プレイかしら」
「そそ、そんなのダメっ! それなら私もっ、私も一緒じゃないと駄目っ! 4Pじゃないと駄目っ!!!」
「……………………」
「……蓉子、あんた勇者だよ」
「さすがの私も、そんな大声でそんな大胆な宣言は出来ないわぁ」
「え……え、えっ?」
きょろきょろと、周囲に顔を動かす蓉子。
花寺の男子生徒はみな赤面しつつ、気まずそうに顔をそらしたりしている。
公衆の面前で、大きな声で大胆な宣言をしてしまった蓉子を、どのようにして見たらよいのか分からないのだろうし、あるいは淫らな妄想をしてまともに蓉子たちのことを見られなくなったのかもしれない。
「や、やだっ、違う、今のは違いますからっ」
茹だったような顔を両手で抑えながら、蓉子はいやいやをするように体を左右に振る。
「と、とりあえず、さっさとここから離れましょう」
「そうねえ、行きましょうか」
「ふふ、さよなら、みなさん」
「江利子さん、投げキッスとか、余計なことしなくていいですからっ!」
テンパって目をぐるぐるさせている蓉子の腰に手を回すようにして押し歩く。そして両の腕には江利子と聖が絡みついてくる。
三人の愛人とこれから卒業記念パーティでヤリまくる、そんな風に見られているんだろうなあと、心の内でため息をつく。
なんで、こんなことになってしまっているのか。
思い返してみれば、きっと色々あるのだろう。今の事態を避けることの出来るタイミングだって沢山あったはずだ。
肩を壊さずに野球推薦で高校に入学出来ていれば。
祐巳が祥子に見染められさえしなければ。
柏木に目をつけられ、生徒会なんかに属さなければ。
正月に小笠原家に泊まりに行って聖と出会わなければ。
そんな様々な過去のポイントを探ってみるが、大きな変革の波は、やっぱりあの電話を受け取った時なのかなあと思う。
そう、あれは高校二年に進学したばかり、まだ桜も散っていない四月のことだった――