俺は今、とある科学の研究所――というほど大仰なものではないけれど、そんなような感じの建物の前に立っていた。
事の発端は、菜々ちゃんの一言。
「その薬を作った人に聞けばいいんじゃないですか?」
というもの。
まあ、なんで今までそんなことも考えなかったのか不思議なことである。迂闊というか、抜けていたというか、何と言われても仕方ないところだが、至極もっともな意見だったので素直に採用させていただいた。
アリスに薬の出所を尋ね、電車とバスを乗り継いでやってきたわけだ。アリスも同行すると言ってくれたが、とりあえず紹介だけしてもらうことにした。アリスの持ってきた薬から始まったとはいえ、それまでの事情を知らないアリスに一緒にきてもらわなくてもと思ったし、さらにいえば、今の姿をあまり学校の知り合いに見られたくないのもあった。
その代わりにというわけではないが、隣には菜々ちゃんがいる。
ちらりと横の菜々ちゃんに目を向けると、いつもと変わらぬ、何を考えているのか読めない表情でいる。
一方で俺は、一昨日の菜々ちゃんとのことを思い出してしまい、すぐに赤面してしまう。考えてみれば、わずか一日前には半裸で睦みあっていた相手なのである。菜々ちゃんの肌の柔らかさ、温もり、甘い声、快感に酔う喘ぎ、俺の体を這う菜々ちゃんの舌の感触、それらのものが生々しく思い出され、下腹部のあたりが熱くなる。
「大丈夫ですか、落ち着いてください」
俺の様子を見て緊張していると勘違いしたのか、菜々ちゃんが繋いでいる手に力をこめてきた。
ここに来るまでの間、実はずっと手をつないでいるのだ。どちらからというわけでもなく、なんとなく、ごく自然とそうなっていた。
「それじゃあ、行こうか」
自分自身を鼓舞するように口に出して言うと、足を踏み出す。
アリスを通じてアポはとってあるので、門前払いされることはないはずである。ちなみに、今も当然のように女のままである。結局、あの日からまだ男の姿には戻れていない。
不安と期待を込めて、俺は研究所の中へと入っていった。
検査を受け、数日後に改めて訪れ、そこで告げられた結果は衝撃をもたらせた。曰く、俺の体は完全に女性のものであり、男性である要素は何一つないとのこと。まあ、女体化しているのだから当たり前なのかもしれないが、それでも検査して得られた結果だけに、ショックを受けていた。
「いやあ、君、本当に男の子だったの? もう完璧に女の子でしかないんだけどね、これを見る限り。生理もきているし、セックスして受精すれば子供だって産める体だよ」
薬の開発者だと言う眼鏡をかけた三十代の男が、真剣味のかけらもなく言う。
「ほんと君、ユウキちゃんだっけ、可愛いねぇ、僕の好みだよ。なんだったら本当に子供が出来るか僕と」
「死ね!」
「あぶっ!!?」
とんでもないことを口走る男に怖気がはしり、俺は瞬間的に男の股間をひざ蹴りしていた。同時に菜々ちゃんが鳩尾に肘を打ち込んでいる。
崩れ落ちる男の胸倉をつかみ、俺は言いよる。
「おいアンタ、薬の開発者なんだろ!? どうにかしてくれよ、おい。治す方法だって当然、あるんだろ!?」
「うぅ……ちょ、ちょ、ちょっと待って、くれって」
股間をおさえ、冷や汗を流している男を見下ろす。
「南方先生、本当に戻す方法を教えてください」
菜々ちゃんが嘆願する。
そうか、この男は南方という名前なのかと、この時点でようやく気付く俺。
「も、戻すといっても、もともとあの薬は一時的に女体化させるだけの効力しかないはずだから、そんなものは作っていない」
「はあっ!? でも実際にこうしてずっと女の体のまま戻らないんですよ!?」
詰め寄ると、南方は怯えたように一歩後退する。
「おそらく、長期間ずっと女性の体であり続けたせいで、君の体が自分の体を女性だと認識してしまったものと思う。そういえば、動物試験で実施した時も、毎日投薬した動物は結局最後まで元に戻らなかったなぁ、って、ぐ、苦しいっ」
「そ、そーゆうことは先に言えよな……」
「ユウキさん、落ち着いてください」
菜々ちゃんに諌められ、とりあえず絞めていた南方の襟を離す。南方は、げほげほと咳きこんでいたが、「び、美少女に首を絞められるというのも、なかなか……」とか、気持ちの悪いことを呟いていた。
「ちょ、ちょっと待てよ。それじゃあ俺も、もしかしてこのまま戻れないってこと?」
改めて、頭を抱える。結局、何の解決策も見つかっていないわけで、この先女として生きていかなければならないのだろうか。可南子と仲良くするためという、ある意味で自業自得なわけだけれど、だからといって一生女になるなんて、考えてもいなかった。
女として生きるってことはなんだ、いずれは男と恋愛して、結婚して、子供を産んで育てていくというのか。
「……や、ちょっと待って。そんな、いきなり」
目眩がする。
これまで男として十数年間生きてきて、自分の性に対して疑問を持ったことはない。それが、不意に女として生きろと言われても無理がある。
「まあ、そんなに落ち込まないで。まだ、完全に女性として固定されたと決まったわけじゃないし」
「ほ、本当に?」
「断言はできないけれど、話を聞くと数日前に一度、男に戻ったんだろう? ということは、十分にその可能性はある。あれから薬は飲んでいないんだよね? だったら尚更だ」
「そ、そうか……」
僅かに希望が見えてきて、胸を撫で下ろす。
言われてみると確かに、少しの間ではあったが男に戻った時間があった。
「そう考えると、またいずれ男に戻れる可能性は十分にある。もしかしたらまた、女の子になっちゃうかもしれないけれど、それでも男に戻ろうとしているから、一時的にでも男に戻れているはずで、だからすなわち男に戻れるかもしれないわけで」
「……あなた本当に、科学者ですか?」
ぐだぐだな説明に、菜々ちゃんが冷やかな視線で応じているが、俺としては心が幾分か軽くなった。そうだ、完全に女の子になってしまったのだとしたら、男に戻るなんてことが起きるわけがない。男の姿になったということは、体は男に戻ろうとしている、ということではないだろうか。ただ、まだ薬の力が強すぎて女の体に逆戻りしてしまったというだけで。であれば、しばらくすれば男女の姿になっている期間も逆転し、いずれは完全に元の状態、即ち男に戻れるのではないか。
「だけど、油断しちゃいけないよ。また男の姿に戻れたとして、もしその時にまた薬を飲んでしまったら、今度こそ女の子として固定されてしまう可能性は高い」
南方の言葉に、唾を飲み込む。勿論、男の姿に戻れたなら薬を飲むなんてことをするつもりはない。
だけど。
「まあ、もし本当に女の子になっちゃったとしても大丈夫」
「……え?」
やけにきっぱりと言い切る南方。なんだかんだいって、いざというときの処方箋なり対処法なりを持っているのかと期待する。
「その時はほら、僕がお嫁さんに貰ってあげるから! 僕ならユウキちゃんとエロく幸せな家庭を築くことガボハァッ!?」
俺の裏拳と菜々ちゃんの崩拳が同時炸裂して吹っ飛ぶ南方。
どうやら、期待したのが間違いだったようだ。
結局、何の解決策も見つからないままに研究所を後にした。出来ることといえば、何もしないで流れに身を任せることで、もう薬を飲まないということくらい。それでも、必ず戻れるといった保証はない。
もし、やっぱり戻れないとなったらどうしようか。どうするといっても、戻れない以上は女として生きていくしかない。そうなった場合、南方の言ったように……
「うわあああっ、いやいや、無し無しっ!」
頭の中に浮かんできたおぞましい想像を慌てて打ち消す。南方と並んで立ち、そして二人の腕の中には赤ん坊がいて、なんて未来、来させてはならない。
自分自身の考えに身を震わせていると、腕をつんつんとつつかれた。
隣には、菜々ちゃんが歩いている。
菜々ちゃんは、小さな手で俺の手を握ってきた。
「あの、大丈夫です」
「……ん、何が?」
「もし、元に戻れなかったとしても……その、私がずっと、ユウキさんのこと面倒見てあげますから」
「え?」
きょとん、として菜々ちゃんのことをまじまじと見てしまう。菜々ちゃんは、どこか怒ったような、あるいは拗ねた様な顔をしている。気のせいか、頬がほんのりと赤くなりつつあるように見える。
「だ、だから、私がずっと、側にいてあげますから……大丈夫です」
「え、な、菜々ちゃん、それって」
ずっと、というのはいつまでのことを言っているのだろうか。俺が女として一人で生きていけるようになるまで? それとも、本当にずっとという意味だろうか。側にいてくれるというのは、何を意味しているのか。友達としてか、それとも、それ以上の関係を意味しているのか。大胆な菜々ちゃんの言葉に、俺の方も胸の鼓動が速くなり、顔が熱をもってくる。
「べ、別に同情とか、そういうんじゃないですからね、変な勘違いしないでくださいよっ」
「あ、う、うん」
危うく誤解してしまうところだった……って、ん? 同情ではないとすると、なんだ。
「この前の夜のこととか、わ、私だって、誰にでもするようなことじゃ、ないんですから」
真っ赤になって、俯く菜々ちゃん。
この前の夜というのが、俺が生理になってパニックに陥った日のことだというのは、すぐに理解できた。俺と菜々ちゃんが、お互いを慰めあった夜。ずっと話題に出すこともなく、菜々ちゃんの言動もいつもと変わりないように見えたから、あの日のことはお互いに隠したままにしておくのかと思っていたが、そうではなかった。
「そ、それって、菜々ちゃん」
「可南子さんはユウキさんの体のことを知りません。でも、私は知っています。私なら、男の祐麒さんでも、女のユウキさんでも、受け入れられます」
「な、菜々ちゃん……」
二つ年下の菜々ちゃんが、凄く大人びて見える。
俺は何も言うことができなくて、ただ無言で歩くしかなかった。
電車を乗り継ぎ、地元の駅に戻ってくる。その道中も会話はなく、中途半端に重苦しい空気だけがつきまとっていた。
駅から出ると、まだ強い西日が俺達を照らし、思わず目を閉じる。
ぶるっ、と、ポケットの中の携帯が震えた。
取り出して表示を見てみると。
「……可南子ちゃんっ!?」
電話の主は、可南子ちゃんだった。このところ、連絡を取ろうにも全くとることのできなかった相手。隣にいる菜々ちゃんの身が強張り、握られた手に力が入るのが分かった。
「……もしもしっ、か、可南子ちゃんっ!?」
『――やっぱり、そうなんだ』
電話の先の可南子の声は、落ち着いてはいたがメリハリがない。
「え、ちょっと可南子ちゃん、何がそうなんだって――」
「……あ」
俺が全てを言いきる前に、隣にいた菜々ちゃんが怯えた様な声を発した。なんだろうと思って菜々ちゃんを見ると、目を見開いて何かを注視している。その菜々ちゃんの視線を追っかけてみると。
道の先に見間違えようもない、長身、長髪の少女の姿。
「か、可南子ちゃ」
『やっぱりユウキちゃんと菜々ちゃん、お付き合いしていたんだ』
可南子ちゃんは、穏やかな表情をして俺と菜々ちゃんの繋がれた手を見ている。
「え、これは、ちがっ、可南子ちゃんっ」
『おめでとう、うん、二人ともお似合いだと思う』
「え、な、何を言って」
『もう、妬けちゃうなあ。あんまり、私の前で二人でイチャイチャしないでね、あはっ』
笑っている。
俺と菜々ちゃんのことを祝福してくれている。きっと、それは嘘じゃない。だけど、同時に物凄く寂しそうな、悲しそうな目をしていて。
『それじゃあ、またね』
電話は唐突に切れ、同時に可南子は背を向けて走り出した。
「かっ、可南子ちゃ――」
追いかけようとして、駆けだしかけた体が後ろに引っ張られる。
「菜々、ちゃん……」
ぎゅぅっと、菜々ちゃんが俺の手を握りしめている。
その顔は苦しそうで、辛そうで、今にも泣き出してしまいそうで、そんな菜々ちゃんを見るのは初めてだった。
戸惑っているうちに、可南子ちゃんの姿は消えてしまった。
俺は呆然とするしかない。なんで、こんなことになっているのだろう。菜々ちゃんも可南子ちゃんも、二人とも好きで、大切だと思っているのに。
色々な問題に押されて、俺は呆然とするしかなかった。
もうすぐ夏休みも終わろうとしている。
学校から出された課題は全て終えているけれど、最も大きな宿題がまだ終えられていない。それ即ち、男の姿に戻ること。
研究所で調べてもらったあの日から結局、一度も男の姿に戻れていない。何もしていないうちに戻れるんじゃないか、なんて甘い希望は、一日たつごとに、一時間が過ぎるごとに、どんどんと小さくなっていく。
それだけじゃない、可南子ちゃん、菜々ちゃんのことだって終わっていない。可南子ちゃんはメールをするようにはなってくれたが、俺と菜々ちゃんのことを冷やかすようなことや、あとは当たり障りのない内容ばかりである。電話には出てくれないし、会おうともしてくれない。
菜々ちゃんはといえば、そんな風に一人でいると落ち込みがちな俺を家から連れ出し、いろんなところに引っ張り回してくれる。菜々ちゃんなりに気を遣ってくれているのだろうし、有り難いことではある。可南子ちゃんに目撃された日以来、また普段通りの菜々ちゃんに戻って俺をからかってくるけれど、俺の方はふとした瞬間にあの日の菜々ちゃんの表情や、あの夜の菜々ちゃんの体の感触を思い出したりして、なかなか落ち着かない。
菜々ちゃんは、俺のことが好きなのだろうか。男なのに、女になってしまった俺のことを好きでいてくれるのか。
というか、そもそも俺の気持ちは――
「こら、ユウキさん、何をボーっとしているんですか?」
「わ、と、ごめん菜々ちゃん」
「疲れているんですか?」
「んー、そうかも」
夏休みも終わるということで、最後にもう一回泳ぎに行きたいという菜々ちゃんに連れられてプールに行った帰り。泳いで、遊んで疲れたというのもあるが、三回も男連中にナンパされて、その相手をするのに疲れてしまった。まあ、一組には奢らせるだけ奢らせてやったので、元は取れたが。
「……ユウキさん、あの時本当、小悪魔だったですよ」
じーっと、蛇のような目で見つめてくる菜々ちゃん。
「あは、は、いや、どうせだったらねえ?」
男に戻りたいと言いつつ、女であることを利用している自分自身に腹も立ちそうになるが、お金という現実問題もあるわけで。
「さて、どうしようか、ファミレスでも寄っていく?」
まだ夕方であり、すぐに帰宅しなくても問題ないし、疲れた体を癒したいというのもある。菜々ちゃんも特に異論はないようで、近場のファミレスに向かって歩き出す。
と、その時だった。
「――――っ!?」
久しく感じなかった、体の異変。
「どうしましたか、ユウキさん?」
「こ、れは――っ、ヤバイっ」
熱くなる体を抱えるようにして、近くのビルの路地裏に入りこむ。勘の良い菜々ちゃんもすぐに察したようで、俺の体を隠すようにして後に続く。
やがて、ビルの非常階段らしき下のうす暗い場所に到着したところ、不意にそれはやってきた。
「……あ、も、戻った……?」
実に久しぶりのため、なんだか違和感を覚えるが、間違いなく男の体に戻っている。発した声も同じ。服がきついのは仕方ないが、それでも、いつ男に戻ってもいいように大きめ、少し緩めの服にしているのでどうにか耐えられる……下着を除けば。さすがに下は無理なので、とりあえずスポーツブラだけ脱いで、改めて体を確認。問題は、ない。
「や……やった、戻った……!」
感動する。紛れもない男の、自分自身の体に。
「良かったですね」
「あ、ああ、うん。でも、あまり喜びすぎても、あとで失望するのも怖いしな」
「でもこうして戻れたんですから、きっと大丈夫ですよ」
何の根拠もないけれど、菜々ちゃんは俺を安心させようとしてくれているわけで、素直に頷いておく。
しかし、本当に久しぶりである。この前は戻ったとはいえ、すぐに寝てしまって起きたら女になっていたので、こうして男として活動するのはいつ以来であろうか。
「あっと、電話です、ちょっと失礼します」
携帯電話を取り出す菜々ちゃんを尻目に、俺は四肢を確認する。あるべきものがあるというのは、素晴らしいことである。
なんて、菜々ちゃんには見せられないような事で一人、浸っていると。
「――えっ、ちょっと、どうしたんですかっ!?」
後ろで、菜々ちゃんが大きな声をあげた。
「大丈夫なんですか、可南子さんっ!?」
「えっ、可南子ちゃんっ!?」
振り向くと、菜々ちゃんが必死の形相で携帯電話に向かっている。俺も慌てて菜々ちゃんの真横に位置取って顔を寄せ、どうにか向こうからの声を聞けないか耳をすます。
「可南子さんっ、ちょっと、かなっ――」
しかし、無情にも通話は切れる。
「か、可南子ちゃんがどうしたって!? 菜々ちゃん、今の電話は」
「よ、良く分からないんですけど、可南子さん、凄い苦しそうで、なんかリリアンにいるらしいんですけれど、そこで倒れたみたいで」
珍しく菜々ちゃんが慌てふためいている。
俺は携帯電話を取り出して可南子ちゃんに繋げようと試みるが、電源が切られているのか留守番電話に繋がるだけだった。
何が起きているのか分からないが、可南子ちゃんの身に何かが起きていることは確かだ。ならば、やることは一つしかない。
「待ってください!」
しかし、走り出そうとした俺の動きを止める、菜々ちゃんの鋭い声。
「どこへ、行くつもりですか」
「それはもちろん、可南子ちゃんの……」
言いかけて、気づく。今は、男の姿であるということ。それに。
「リリアンは、関係者以外立ち入り禁止です。男性であればなおさらに。ここは私が行きますから、祐麒さんは待っていてください」
学園の入り口では警備員が出入りする者をチェックしている。基本的には、学園関係者しか中に入ることはできない。
「私が……可南子さんの様子をみてきますから」
もう一度、菜々ちゃんは同じことを言った。その瞳は、何かを懇願するかのような光をともしている。
拳を握りしめ、歯を食いしばる。
分かっている。菜々ちゃんは、俺のことを心配してくれている。俺と可南子ちゃんを会わせたくないなんて、そりゃあ多少は思っているかもしれないが、心の底からそんな風には思ってなどいない。
それでも、俺は。
「祐麒さ……」
かけられる言葉など何もない。
俺はただ無言で、走り出した。背中に、痛いほどの視線を受けながら、ただひたすらに走る。
男の体って、こんなに早く走ることが出来たのかと思い、本当に良いのかと自問し、迷い、それでも余計な思いを振り払って走り続ける。
息せき切って家に到着し、帰宅の言葉を口にする間もなく二階に駆け上がり、扉を開く。
「はっ、はあっ、祐巳っ、り、リリアンの制服を、貸してくれっ!!」
「……はぁ?」
部屋では、ベッドで横になって、ポテチをくわえながら漫画を読んでいた祐巳が、不審そうな顔をして俺のことを見つめていた。
可南子ちゃんの電話を受けてから、既に一時間半ほど経過している。この時間が短かったのか長かったのか、それは分からない。ただ俺にできることは、全力で走るだけ。
しかし、もどかしいほどに体は進まない。
足は短くなって脚力も体力も落ちているし、スカートは大層走りにくいし、ついでに胸も邪魔だ。
夏休みだけれど部活動か何かで登校してきている生徒が、スカートもセーラーカラーも髪の毛も、全てを乱れさせて走る俺のことを見て、目を丸くしている。構うもんかと、大股でひたすらに走る。汗が張り付いて気持ち悪い。
女だ。
薬を飲んで女の体になって、祐巳から借りたリリアンの制服を身につけて、今俺はリリアン女学園の敷地内を走っている。菜々ちゃんから一時間ほど前に受けたメールでは、保健室とのこと。容態はよく分からない。携帯の電源が切れてしまったから。だが、保健室ということは何かしら可南子ちゃんに良からぬことが起きたのだろう。悪化していたら、もしかしたら救急車か何かで病院に運ばれているかもしれない、そんな悪い想像をどうにか振り払って、校舎内に入る。
夏休みで人が少ないのをいいことに、校舎内もバタバタと走る。保健室は、大抵の学校なら一階にあるはずだという目算の通り、一階の分かりやすい場所に保健室と書かれたプレートを発見。
躊躇うことなく扉を開け放ち、中に飛び込む。
「可南子――ちゃんっ」
「……え?」
ベッドの上、上半身を起こしている可南子ちゃんの姿を発見。
「え、ユウキちゃん? どうして……きゃっ!?」
「よ……かった、無事、だったんだ……」
ほとんど飛びつくようにして、可南子ちゃんの首に抱きつく。無事な姿を目にして、ずっと駆けっぱなしだったダメージがようやく体に響いてきたようで、力が入らなくなって可南子ちゃんの体に倒れ込むようになる。
「だ、大丈夫、ユウキちゃん?」
「……うにゅぅ……」
力の抜けた俺の顔を、優しく胸で包み込むようにして抱いてくれる可南子ちゃん。やばい、何も考えていなかったけれど、お、おっP――
「何してんですか、ユウキさん」
冷たい声とともに、首根っこを掴まれて可南子ちゃんから引き離される。当然、菜々ちゃんである。
「いや、はは、えとそれより可南子ちゃん、大丈夫なの!? た、倒れたって聞いたけれど――」
慌てて尋ねると、可南子ちゃんは苦笑する。
「ああ、心配かけてごめんなさい。ちょっと日差しにやられて、倒れちゃったの。周りに誰もいないし、どうしようかと思って電話したんだけど、そうしたらその後にランニングで通りかかったバレー部の人に助けてもらって」
「そ、それで容態は、熱射病とか」
「そんな大層なものじゃないの。ここんところ寝不足でご飯もあまり食べられていなかったので、そのせいだろうって先生が。少し寝ていたら、もう良くなったから。ごめんね、なんか凄い心配して来てくれたんでしょう? そんな、リリアンの制服まで誰かから借りてきて」
「あ……いや、無事ならいいんだ、うん」
ほっとする。
何事もないのなら、それが一番だ。
「えと……それより、そ、そろそろ降りた方がよくないかしら? 菜々ちゃんも怖い目で見ているわよ?」
俺は今、ベッドの上で可南子ちゃんの太腿の上に跨っていて、可南子ちゃんとは至近距離で見つめ合っている状態。
「ほら、可愛い恋人を怒らせちゃ駄目でしょう」
両腕を掴まれ、離されそうになる。
「ちょ、ちょっと待って。その、菜々ちゃんとのことは本当に誤解だから。あの、こ、こ、恋人同士とか、そういうんじゃないから」
「また……私に気を遣わなくて、いいのよ?」
「ほ、本当だからっ」
「え~っ……でも。ねえ、菜々ちゃん?」
と、可南子ちゃんが菜々ちゃんに尋ねると。
菜々ちゃんは少し不機嫌そうながらも、答える。
「……ユウキさんの言う通りです、私達別に、付き合っているとかいうわけじゃありませんから」
「そう……なんだ」
「ほら、ね?」
「えと、じゃあユウキちゃん、本当に私のことそんなに心配して、汗ぐっしょりになって力が入らなくなるくらい全力で、ここまで来てくれたんだ」
「あははっ、う、うん、まあ」
「嬉しい……」
と、可南子ちゃんがふわりと、俺を抱きしめてきた。可南子ちゃんの胸と俺の胸が押されあい、形を変える。
「可南子ちゃん、お、私、汗臭いから」
離れた方がいい、と言おうとしたのだが。
「んっ」
「―――――ッ!?」
そのまま可南子ちゃんは、俺に、キスしてきた。
五秒間ほどだろうか、それくらいしてゆっくりと唇を離す。目の前には、頬を赤らめ、瞳を潤ませた可南子ちゃん。
え、何、可南子ちゃんにキスされた? あまりの展開についていけないが、蕩けるような気持ちよさは間違えようもなく。
「ちょちょっ、可南子さん、何をしているんですかっ!?」
慌ててベッドに身を乗り出し、間に割って入ってくる菜々ちゃん。
「え、だって菜々ちゃんとユウキちゃん、付き合っているわけじゃなかったんでしょう? だったら」
「だからって、キスしていいわけじゃないでしょうっ!?」
「だって、嬉しくてつい……菜々ちゃん、妬いているの?」
可南子ちゃんが言うと、菜々ちゃんは頬を紅潮させながらも、強気に言い返した。
「べ、別に、キスくらい私もしたことありますし。それも、おっぱい同士のキスとか、下のお口でのキスとかもしましたしーっ」
と、とんでもないことを。
「なななななな菜々ちゃんっ、な、何をっ!」
「お、おっ……下のお口っ!? そそ、それって、ちょ、ユウキちゃんどゆことっ!?」
「いや、違う、下って、あの時はお互いにパンツ穿いていたから直接じゃあ」
「じゃ、じゃあパンツ越しにはしたっていうこと!?」
「ええ、もちろん。あの日はユウキさんが生理中だったので。そうでなかったら当然、直接に」
なんで菜々ちゃん、このタイミングでそんなことを口にするのか。
「わ、わ、私もっ、それなら私もユウキちゃんとする! 菜々ちゃんと何でもないというなら、同じことを私としてもいいでしょう、ユウキちゃんっ!?」
可南子ちゃんも引くに引けないのか、それともオーバーヒートしているのか、恐ろしいことを迫ってくる。いや、そりゃ嬉しくないわけではないのだが、でも。
「ユウキちゃんっ!?」
「ユウキさん!?」
二人の美少女に迫られる、そんなシチュエーションだけれど、迫られている俺も女なわけで。
「ちょ、ちょっ、ちょっと待ってーーーーー!?」
薬を飲んだことを後悔していない、なんていうと嘘になる。
だけど、可南子ちゃんのために飲んだ気持ちは嘘じゃない。
しかし、その結果がこれですか。
俺の、情けなくも悲痛な叫びが、夏休み最後の日にリリアン女学園に響き渡った。