マリア像の前での一件から、黄薔薇の蕾はしばしば私の前に現れた。別にロザリオを渡そうとするわけではない。一緒に歩いてちょっと話をしたりするくらい。時には、本当に何もせずに私のことをただ見ているときもあった。
ただ、私が注目されるようになったのは間違いないことで、いつの間にか『黄薔薇の蕾の妹候補』と呼ばれるようになっていた。
「―――江利子!」
呼ばれたのは、黄薔薇の蕾と出会ってから十日ほどが過ぎた頃。
振り返るとそこには。
「……蓉子」
久しぶりに見る、蓉子の姿があった。
中等部三年のときにクラスが別となってから、同じ学園に通いながらもほとんど顔を合わせることがなかった。お互いの存在を知るのは、試験結果が発表されるときくらい。私は意識的に、蓉子と会うのを避けていたのだ。なぜだかは、自分でも分からない。ただ、心が、体が、蓉子の姿を見ると逃げ出していた。
敵わないと悟った相手だから、接したくなかったのか。そんな私の気持ちを知っているのかは分からないが、蓉子の方も特に接触はしてこなかった。
それなのになぜ、今になって声をかけてきたというのだろう。
走ってきたのか、蓉子は私の前で立ち止まると、少し息を切らしていた。乱れた息を整えて、私の方をちらりと見る。
胸の鼓動が、大きくなって鳴り止まない。
およそ一年ぶりにまともに見た蓉子は、おそろしいくらい綺麗になっていた。もともと、大人っぽい美少女であったが、高校生となってその美貌には磨きがかかったというか、ある意味順当に育ったというか。加えて、手で軽く汗を拭いながら無邪気に微笑みかけてくるその笑顔には、まだまだ少女といえるあどけなさも残していて。
前かがみになったその姿勢から、制服の首筋、鎖骨が覗いて見えて、中等部の頃には感じられなかった女の色香みたいなものが私を惑わせる。
「江利子?どうしたの?」
じっと蓉子のことを見つめて固まっていた私に、困ったような顔をして聞いてくる。
「いえ、なんでもないわ。久しぶりね、蓉子」
自身の動揺を悟られないよう、平静を装って話しかける。しかし内心は、激しくなっていく鼓動を抑えるのに必死だった。
「本当ね、同じ学園に通っているのに」
「それで、どうしたの。久しぶりに話したかった、というわけでもないでしょう?」
「それもあるのだけれど……」
ちょっと拗ねる蓉子。
正直、ヤヴァイくらいに可愛い。
「江利子、黄薔薇の蕾に声をかけられているのでしょう?」
「そう、みたいね」
「みたいね、って、そんな他人事みたいに。ねえ、ロザリオを受け取るの?」
「何よ、蓉子。あなたまでそんなことを聞きに来たの?」
うんざりとして、私はため息をついた。この数日間というもの、同級生たちから何回、同じ質問をされたことか。まさか蓉子までそんなことを聞いてくるとは思っておらず、私は少し失望した。
「だって、気になるじゃない。江利子が黄薔薇の蕾の妹になれば、私たちの仲間になるんだもの」
「……え?」
「えーと……あれ、江利子、知らない?私、紅薔薇の蕾の……」
「――ああ!」
そうだ、そういえば蓉子は高等部に入って、ゴールデンウィーク前には紅薔薇の蕾の妹になっていたのだ。順当といえば順当過ぎる結果に納得した記憶はあるが、当たり前すぎてインパクトには欠けていたのだ。
「ごめんなさい、すっかり忘れていたわ」
「もう……まあ、江利子らしいといえば江利子らしいかもね。江利子ってば、あまり興味の無いことは覚えていないものね……っていうことはもしかして江利子、私のこと、気にもしていなかったのかしら」
「ちちち違う違う、たまたまよたまたま。うっかりと」
悲しそうな顔をする蓉子を見て、慌てて言い繕う。
あれ、なんで私ってばそんな言い訳しているんだろう。
「本当かしら?」
「本当だってば。で、その紅薔薇の蕾の妹が、私に何の御用で?」
「江利子、人の話聞いていた?」
「ああ、そうね、私が黄薔薇の蕾のロザリオを受け取るか気になって来たのよね」
「そう。ねえ江利子、どうするの?」
「どうするのって言われても……実際にロザリオを差し出されたわけでも、妹になれって言われたわけでもないから」
「えっ、そうなの?!」
蓉子は、心底おどろいたようだった。
「私、朱音さまの様子を見て、てっきりもうその話をされているのかと」
間抜けなことに、このとき初めて、黄薔薇の蕾が"朱音"という名前だということを私は知った。
「私すっかり、江利子が薔薇の館に来るものだとばかり思っていたわ」
「ちょっと早合点すぎるんじゃないの?」
「そう……でも江利子、朱音さまは素敵な方よ。きっと江利子も好きになると思うのだけれど」
「そう言われてもね……」
もちろん私だって、彼女とここ数日間だけど触れ合って、決して悪い印象は抱いていなかった。むしろ、今までの上級生よりも遥かに好感を持っているくらいだ。
「あーあ、私、また江利子と一緒に働けると思って凄い喜んでいたのに。いつ、薔薇の館に来るんだろうって、待っていたのに」
「え」
ドキリとする。
「今、薔薇の館に一年生は私一人だし、同じ学年の仲間が入ってくれると助かるし。それが江利子だったら、更に嬉しいのに」
うわあ……やばい、やばい。
静まれ、私の動悸よ。
「雑用をこなす手が増えるから、嬉しいんでしょう」
「あは、バレた?」
苦笑いして、ぺろりと舌を出す蓉子。
な、なんでこう、この娘はこんなにも人の心の琴線をくすぐるようなことばかり、無意識にやってくるのだろうか。
「でもごめんなさい、私の早とちりで。江利子にとっても大切なことですものね、ゆっくり考えて決めて頂戴」
「そう、ね」
「あ、いけない。もう薔薇の館に行かないと、お姉さまに叱られてしまうわ。それじゃあね、江利子。また」
「ええ、また」
軽く手を振って、蓉子は去っていった。
後ろ姿を、私は消えて見えなくなるまでじっと目で追っていた。
本当に、これはまずい。
私は理解した。なぜ、蓉子と会うのを避けていたのか。きっとそれは、会ってしまえばこうなってしまうことを、無意識のうちに悟っていたからだ。
中学の時、初めて出会った日から、加速度的に魅力的になっていく蓉子の側にいて、彼女に惹かれていきそうになる自分が分かったから。だからクラスが別となったのを契機に、知らず知らずのうちに私は、つとめて蓉子と距離を置こうとしていたのだろう。
でも、もう遅い。
この時点で私の心の中はすっかり、蓉子のことで埋め尽くされてしまったのだから。
その3へつづく