気になる会話を聞いたのは、アルバイトをしていたレストランに、久しぶりに足を向けた日のことだった。
その日私は、新作メニューの試食をして欲しいという依頼を氷野さん経由で受けて、やってきた。祐麒くんは非番ということで、これまたタイミングの悪いことだけれども平日の昼間なのだから仕方がない。私は丁度、休講が重なって早く帰ることになって店を訪れている。
店の人たちは私が働いていた頃とほとんどメンバーが変わっていないため、ちょっと懐かしくもあり、照れくさくもあった。お店の人たちには、私と祐麒くんがつきあっていることは周知のことでもあったから。
少しお喋りをしながら、シェフ自慢の新作パスタとデザートを試食して、その味に十分に満足し、感想をつつがなく告げて店を出ようとして、ポーチを忘れたことに気がついた。身を翻して店内に戻り、休憩室の前を通りかかったところでその声は聞こえてきた。
『……やっぱり、信じられないなぁ、福沢が……』
耳に入ってきた単語にぴくりと反応する。
この店で『福沢』といったら、それは祐麒くんしかいない。気になった私は、声が聞こえてきた休憩室の扉に近寄って、耳を澄ませてみた。
『福沢が水野さんと付き合うなんてなあ』
『そうよね、なんてゆうかあの二人……』
趣味が悪いとは思いながら、何を言われるのか黙って聞き耳を立てる。
『釣り合わないわよね』
「…………っ!」
その一言が、ぐさりと胸に突き刺さった。
思わず、一瞬、息が詰まる。
私が扉の外にいることなど知らない中の人は、構わずに会話を続ける。
『福沢に、水野さんみたいな女性は勿体無さ過ぎる。絶対に、高嶺の花だよなあ』
『あんな完璧な女性が隣にいるんじゃ、祐麒くんだって大変よねえ』
『そうそう、もっと分相応な相手にするべきだ』
『祐麒くんには、私みたいな同じ目線の可愛らしい女の子が似合うと思うのよねー』
『自分で言うか』
私は胸を抑えながら、足早にその場を立ち去った。
今の二人は、確か、それぞれ私と祐麒くんに好意らしきものを抱いていた二人。だから、きっとあんなことを言っていたのだろうけれど、ショックだった。多少の悪意はあったかもしれないが、少なからず私たちは周囲からそのように見られているのだろう。
即ち、釣り合っていないと。
それは私のせい?
確かに私は自分でも融通の利かない性格だと思うし、堅いところもある。それが、真面目で堅苦しいとか、優等生だとか言われる原因だということも分かっている。可愛げがないというのも自覚しているけれど、実際の言葉を耳にすると、やはり堪える。
私は、祐麒くんの隣にいてはいけないのだろうか。
そんな暗い思いの泥沼に沈んでしまいそうになるのであった。
「……どうか、したの?」
祐麒くんの心配そうな声に、ハッとして顔を上げる。
「あ、ううん、なんでもないの」
笑おうとするけれども、うまく笑えただろうか。
休日、夕方の街の中。また夜からアルバイトに入るということではあるけれど、それでも今日は久しぶりに、お昼過ぎからデートということで出かけていた。
せっかく、久しぶりに二人きりでゆっくり出来る時間だというのに、こうして二人で肩を並べて歩いていると、この前、アルバイト先で耳にしてしまった言葉が蘇ってきて、意味がないと分かっているのに周囲を気にしてしまう。
他の人からは、どのように見られているのだろうか。
あまり背の高くない祐麒くんと私は、ほぼ同じ目線となる。
私がもっと、背が低ければよかったのだろうか。それとも、祐麒くんの身長がもう少し高ければよいのだろうか。
無意味で生産性のない思考が渦を巻く。
確かに私は、他の同世代の女の子たちが話すような、流行の歌とかテレビドラマとか、ファッションとか噂話とかそういったものには疎かった。服装だって、氷野さんに言われるまでもなく地味系というか、周りから言わせると大人っぽいらしい。
今日も、グレーのスーツにブラックのパンツというシックな格好だ。ラフな祐麒くんの姿と比べると、確かに浮いているのかもしれないし、可愛げもない。
丁度、通りに面しているブティックのショーウィンドウが、ふと目に入った。飾られている、キュートな色使いのアンサンブルにカーゴスカート、ブルゾンとフリルパンツ。こうゆう服を身につけたら、私も可愛く見えるのだろうか。
「あれ?」
店先で立ち止まってしまった私の側に、祐麒くんが歩み寄ってくる。
「欲しい服とか、あるんですか?」
「ううん、別にそういうわけじゃないの。ちょっと、いいなって思っただけ」
「ふーん」
祐麒くんが隣に並んで、私が眺めていた服を一緒に見つめる。
「入ってみます?」
「あ、別にいいの。欲しいとまで思ったわけじゃないから」
うながすようにして、再び歩き出す。
やっぱり、どう考えてみても私には似合わない。
ああ、何か、一度考え出すと、どんどんと思考がネガティブになっていく。考えてみれば、私は由乃ちゃんや祐巳ちゃんみたいに可愛いわけではないし、かといって祥子や志摩子のような美しさを持っているわけでもない。聖や令のように凛々しいわけでもなければ、江利子のような色っぽさを持ち合わせているわけでもない。
大人っぽいとかはよく言われるけれど、ただそれだけだ。
陽の落ちかけた街を、並んで歩く。ちょうど、話題が途絶えて二人の間に沈黙が訪れる。決して居心地の悪い無言ではない。今までにも時々あったけれど、ただ一緒にいるだけで、優しい気持ちが私たちを包み込んでくれるから、別に無理に話さなくても良かった。
でも。
こういうとき、他の女の子だったらどうするのだろうか。
何か、楽しいこと、祐麒くんを笑わせられることでも話すのだろうか。私には、そんな気の利いた話の持ち合わせなどなかった。大学の授業の話とか、政治の話をしたところで面白くもないだろう。勿論、祐麒くんのことだからどんな話をしたところで嫌な顔せずに聞いてくれるだろうけれど。
私たちとすれ違っていく、やはり高校生同士くらいのカップルの姿がやけに目に眩しく映る。ショートカットで活動的そうな女の子の方が楽しそうに話しかけ、男の子もそれに応じておどけた仕草を見せて。
ころころと表情を変える女の子が物凄く生き生きとしていて、とても輝いて見えて、羨ましかった。
周囲を見回せば、そんな、どこにでもある光景が、やたらと眩しく見えた。人は自分に無い物を強く欲するのだと実感する。
祐麒くんは私に、どのような私を望んでいるのだろう。
歩いていると、冷えた風が通り抜けて髪を揺らした。風は道に散っている寂しげな落ち葉を追い立てるようにして流れてゆく。
「……ねえ、祐麒くん」
私は立ち止まり、半歩先を行く祐麒くんを呼び止めた。祐麒くんは私の声を聞き、私から三歩ほど離れたところで足を止めると、振り返った。
きょとんとしている祐麒くんに対して、私は両手を頭部の左右に持って行き、それぞれの手で髪の毛をつかんだ。
「祐巳ちゃん、なーんて」
愛すべき祐巳ちゃんのいつもの髪型。同じ髪型にすれば、私も同じくらい可愛くなれるんじゃないかと思ったりして。ちょっとだけ、髪が長くなったから出来るお遊びみたいな真似事だけど。
「…………ぶっ」
「なっ…………」
しばらくの沈黙の後、祐麒くんは耐えかねたかのように顔を背け、手で顔を隠すようにして吹き出した。
「な、何よ、そんなに笑うことないじゃない」
「い、いや、わ、笑ってなんかないから」
「嘘、今、笑ったじゃない」
せっかく、人が恥ずかしいのを我慢してやったというのに。笑ってないとか言っているけれど、今も身体が小刻みに震えているのは笑いの衝動を耐えているからだろう。
羞恥と、ちょっとの怒りで顔が熱を持ってきた。
「ご、ごめん。あまりに可愛かったから」
「もう、知らない」
「ホントだってば。あ、もう一回、見たいな」
「やだ、もう絶対やらない」
言われれば言われるほど、恥ずかしさも比例するように上がっていく。もう、なんであんなことをやってしまったのか、自分自身が分からない。
本当に、恥ずかしくて、馬鹿みたいだったけれど。
だけど。
「お願い、もう一回見せて」
手を合わせて拝んでくる祐麒くん。
「嫌だっていったら、イヤ」
私はそっぽを向いて歩き出す。
「蓉子さ~ん、怒らないでよ」
「怒ってなんかいません」
すがるように追ってくる祐麒くんと、素っ気無くあしらう私。
「怒っているじゃないですか、そんなに眉間に皺寄せたら、可愛い顔が台無しですよ」
「そんなお世辞を言っても駄目よ。どうせ私は可愛くありませんから」
「お世辞じゃないですってばー。もう、許してくださいよ」
「そうね、じゃあ」
私は立ち止まり、祐麒くんの方に振り向いた。
そして、斜め前方に見えるお店を指差して口を開く。
「あそこで、ガトーショコラとオレンジペコをご馳走してくれたら、許してあげる」
「うっ……もちろんOKですとも。なんならストロベリータルトを付けてもいいくらいですよ」
「ふふっ、うそうそ。一緒に、食べましょう」
「いや、男に二言はないですから、俺がおごりますよ」
「無理しなくていいのよ。この前、今月はピンチだって言っていたじゃない」
「いや、大丈夫ったら大丈夫……だと思う」
「……くすっ」
「ははっ」
笑いが弾ける。
少し前までの恥ずかしいとか、怒っていた気持ちなんて、あっという間にどこかに消え去ってしまっていて。
祐麒くんも楽しそうに笑っていて。
今の私たちは、さっきの高校生のカップルと同じように見えるだろうか。
少なくとも、私でも祐麒くんにそんな顔をさせられるんだなって、ささやかながらも私はそのことに満足したのであった。
喫茶店に入り、約束どおりのケーキと飲み物を注文する。
運ばれてきたケーキに舌鼓をうちながら、会話をする。大丈夫、たったそれだけのことで、私は温かい気持ちになれる。先ほどの、心の中のもやもやとしたものも今は綺麗に消え去っていた。
周りに流されることなく、自分と、祐麒くんを信じていれば良いのだと、自分自身に言い聞かせる。自信を持とう、祐麒くんは私を選んでくれたのだから。
と、お喋りをしながらもそんなことを考えていると。
「それで、さ」
祐麒くんが何やら言いにくそうにしながらも、口を開いた。表情を見る限り、特に嫌なことを話そうとしているわけではないようだが、一体、なんだろうか。
「もうすぐ、クリスマスなんだけど」
勿論、知っている。
付き合い始めてから、初めて迎える聖なる日。まだ、特に何かを言われていたわけではないけれど、さすがにその周辺の予定は空けていた。
ちょっと、ドキドキする。
どこに誘ってくれるのだろうか。それとも何か、特別なことでも用意してくれたりするのだろうか。私自身は、別に高級レストランに行きたいとか、有名スポットに行きたいとかの望みがあるわけではない。
ただ、願わくば祐麒くんと一緒に楽しい時間を過ごせればよいなと思っているだけだ。美味しい料理よりも、素敵な夜景よりも、豪華なプレゼントよりも、私にとってはそれこそが望むものだったから。
「ええと、さ」
「うん」
「うちに、来ない?」
「…………え?」
ちょっと、予想外のお誘いに私も戸惑う。
というか、え、うちにって、即ちそれは祐麒くんの自宅に来ないかと言っているわけで、今まで3ヶ月のお付き合いの中でも言われなかったことで。
「で、でも、それって」
「実は、さ」
私が何か言うのを遮るようにして、祐麒くんが続ける。
「うちの両親が連れて来い、会わせろってうるさくてさ。で、良かったらうちで一緒にクリスマスパーティ、っていうほどのもんじゃないけど、どうかって」
「え」
それって、祐麒くんのご両親に私の存在が知られているということかしら。いや、別に隠さなくちゃいけないことではないし、祐麒くんが話していてもおかしくはないけれど、でも、ご両親とご対面することになるのか。
え、ちょっと待って。
祐麒くんの、ご両親と?!
「もちろん、無理にってわけじゃないから。そんないきなり、ね、だから断ってくれて構わないから……」
「あ、待って」
私は慌てて声をかける。
紅茶を一口飲み、心を落ち着ける。
「行っていいのであれば……お邪魔させてもらおうかしら」
「あ、うん……でも、大丈夫?」
「大丈夫って、別にそんな大仰に構えることないのでしょう?それに、やっぱりご両親には私のこと、ちゃんと知っていてもらいたいし。いつか行くことになるのであれば、それがクリスマスのときでも構わないわ」
そうだ、真剣にお付き合いをしているのであれば、これは避けられないこと。もちろん、私だって不安はある。ご両親に気に入られなかったらどうしようとか、失敗してしまったらどうしようとか。
平気なフリをして了承したけれど、そんな私の不安が表に出てしまったのだろうか。祐麒くんがそっと、私を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だって。大丈夫か、って聞いた俺が言うのもなんだけれど、大丈夫だから。だって、蓉子さんを気に入らなかったら、他の誰を連れていったって気に入られるわけないんだから」
「え……うん……」
「それどころか、うちの親の方が蓉子さんに呆れられたらどうしよう、とか思っているんだから」
「え、何それ?」
「祐巳がさ、前紅薔薇さまっていうことで、褒めちぎっているから。母さんもリリアンの出身だから、逆にうろたえちゃって」
おどける祐麒くん。私も思わず、笑ってしまった。
「だから、大丈夫」
「うん」
少し、気持ちも落ち着いた。
まだ、心の整理をするための、様々な準備をするための日にちも時間もある。
そう、決戦はクリスマス・イブ―――――――
第三話に続く