祐麒くんの消えてしまった世界をさまよいはじめてから、幾度目になるのか、私は打ちのめされながらも歩き続けるしかなかった。
毎回毎回、おそらく同じような想いを抱き、同じような行動をして、それでも祐麒くんの姿を見つけだすことが出来ない。無限のループにはまった私は、出口も、光も見えずに、それでも前に進むしかない。先が見えなくても、足元がおぼつかなくても、這いつくばってでも先に向かう。
狂ってしまいそうだった。
ひょっとしたら、本当に発狂してしまったこともあるのかもしれないが、それは今の私には分からないこと。ループをするたびに記憶は失われ、嫌な記憶だけが積み重ねられていく。
初めてのデートに備えて購入した、マニュアル本。
初デートに備えて購入した、二着の洋服。
初デートのときに購入した小説。
みんなで海に行ったときに購入した水着。
携帯電話のメール送信履歴、デジカメの画像、プリクラだけではなく、一つ、また一つと消えてゆく、私が祐麒くんと出会ったことを示すもの。
思い出は、物にも宿ってゆくもの。それらが消えて無くなっていくということは、思い出そのものも消えてしまうということなのだろうか。
やつれた体を引きずるようにして、私は祐麒くんの姿を追い求めて街を、公園を、野原を、学校を、考えられるあらゆる場所を巡っていく。色々な場所で祐麒くんと私自身の幻影を見かけ、私は立ち尽くす。
祐麒くんとよく立ち寄ったコーヒーショップ。チェーン店のコーヒーが、あんなに美味しいものだと知ったのは、いつだったか。他愛もない話だけで、あれだけ幸せな気持ちになれたのは、貴方がいたから。
初めて手をつないで歩いた公園。祐麒くんは顔を真っ赤にしながら、震える手で私の手に触れてきた。応じる私も、きっと、負けないくらいに赤くなっていた。私の手を包み込んだ祐麒くんの手の平は、優しいぬくもりにあふれていた。
待ち合わせ場所に使っていた駅前の広場。私も祐麒くんも、早めに着いて相手のことを待つタイプだった。あるときなんて、二人同時に一時間前に到着して、思わず向かい合って笑ってしまった。
アルバイトをしていた店の近くに行くのは、辛すぎた。祐麒くんと出会い、想いを育て、そして祐麒くんに告白された場所。私が、私の気持ちを伝えた場所。
どんな場所でも、祐麒くんと一度でも一緒に歩いたところなら、思い出の欠片を見つけだすことができた。
ジュースを買った自動販売機、肉まんを頬張りながら歩いた歩道、店のおじさんに冷やかされたアンティークショップ。
祐麒くんと一緒に行っていない場所だって、同じだ。クリスマスプレゼントに何を贈るか思い悩みながら巡り歩いたお店、祐麒くんに教えてあげようと思って未だに教えられていないお勧めの屋台クレープ、氷野さんに祐麒くんとのことをからかわれて真っ赤になった大学へと向かう道、そこかしこに祐麒くんの想いは存在している。
もちろん、今、私が立っている公園もそう。二人で見た、桜。二人で見に来ようと約束した、桜。
いつしか私は、ループした公園にまでやってきていた。
幸せそうな人たちの姿を見ながら、私は何となく理解していた。
私の中にある祐麒くんへの想い、それすらも消えてしまった時、この悪夢のループは終了する。
そう、祐麒くんが存在したことを示す物がすべて消え、私の中からも消え去った時、この歪な世界は綺麗になるのだ。
理屈とか、理論とか、そういうものではない。
ただ私は、わかったのだ。
果たして、私が祐麒くんのことを忘れ、そしてループせずに、この世界を先へ進んでいけば、私は幸せになれるのか。
一瞬、そんな弱気なことを考えてしまい、慌てて首を振る。
絶対に、私は忘れない。消されるわけがない。
胸の前で両手を組み、大事な何かを奪われないように力を入れる。
私の予想が外れなければ、また今日、この公園でループする。何も得ることのなかった七日間が終わり、また、一週間前に戻る。
そこで私は、何を思うだろう。
私が今回で感じた以上の恐怖を味わうかもしれない。
――だけど、負けないで。
私は強く思う。私自身にエールを送る。何もなしえなかった私には、それくらいしか出来ることがないから。
予感が私を襲う。今まで何度も味わってきたはずだけれど、今の私にとっては二度目としか思えないのが不思議なことである。それでも、なぜか「くる」というのが分かる。
そして
春の風が私を包み、世界は変わる。
私は驚愕に目を見開いた。一週間前に戻っている服装、景色、そして、恐ろしい記憶。混乱しつつも急いで家に帰り、部屋に入ると、すぐに確認作業に入る。
だけどやっぱり、ないものはなかった。祐麒くんのことを思い出させるようなものが、消えて無くなっている。だけどまだ、残っているものもある。私は藁にすがる思いで、机の引き出しを開ける。
「ひぃっ……っ!!?」
掠れた悲鳴が喉の奥から漏れる。
無かった。
引き出しにしまっておいたはずの、ロザリオ。祐巳ちゃんからクリスマスにもらった、プレゼント。
他の引き出しの中も確認し、中のものをぶちまけ、それでも見つからない。
無くなってしまった。とうとう、ロザリオまでもなくなってしまった。
「ああああああっ!!!」
私は半狂乱になりながら、部屋の中をひっかきまわし、残っているものを求めた。ベッド、机、本棚、鞄の中、暴れるようにして、必死になって探す。
「蓉子、どうしたのいったい!?」
途中、様子が変なことに気がついたのか、母が部屋の前までやってきたけれど、私は部屋の鍵をかけ、何でもないと言い張って母を追い返した。
今の自分を見せることなどできなかった。
そして私は、クローゼットの中に唯一残された、クリスマスに祐麒くんからプレゼントで貰ったジャケットとキュロットを取り出し、きつく抱きしめた。
追い詰められた。
もはや、他に残されているものなど、ない。
幾度繰り返したのかは分からないが、私に残された時間に猶予はないと、感覚的に悟る。だけど、どうしたらよいのか皆目、見当もつかない。こんな絶望の中、飽きるほどに繰り返した試行錯誤の末に、今の私がここにいるのだ。何をしたって無駄ではないかと、弱気が囁きだす。
そんな弱気に対抗するように、ささやかな声が私の中から聞こえてくる。
負けてはいけないと。
諦めてはいけないと。
私はその声に応じようと、必死に心を奮い立たせる。
心は折れない。
折らせない。
それでも――
私が立ち上がるのに、丸一日を要した。
どうにか失調から立ち直り、平静を装って活動を開始する。他の人の前では、いつもと変わらない様子を見せる。調子がおかしいと、様子が変だと思われて、行動に変な制約をかけられるわけにはいかないから。
しかし、行動といってもどうすればよいのか。思いつくようなことはすぐにやってしまい、何の成果も得られなかった。
アルバイト先に行き、学校に行き、祐巳ちゃんの家に行き、二人で訪れた場所に行き、やがて当ては尽きる。
焦る私を余所に、一日、また一日と流れすぎてゆく。
行動しても駄目なら、考える。思考を巡らす。何か、きっとどこかにヒントがあるはずだ。今までの行動、残された記憶、ループしてからの世界、ささいなことでも見落とすなと、自分に言い聞かす。絶対に何かがあるはずなのだ。
公園のベンチに腰を下ろし、手を組んでひたすらに考え続ける。
視界をよぎる、平和な光景。
犬の散歩をしているおじさん、仲良く並んで歩く高校生らしきカップル、シャボン玉を飛ばして遊ぶ子供、ランニングをしているおばさん、鳩に餌をあげている老人。
眺めながら思考を高速回転させている刹那、何かがひっかかった。
違和感、とでもいうのだろうか。
些細なことのようだけれど、何かが気にかかったのだが、それが何かを明確に言い表すことが出来ない。
私は立ち上がり、その辺をうろうろしながら必死に考える。
ひょっとすると、何かのきっかけになるかもしれない。すでに七日目に入っており、今までの考えから予想すると明日の八日目に、またしても私はループする。そうすると、今の記憶は全て失われてしまう。ゆっくりと考える余裕などない、今、考えるしかないのだ。
目をつむり、頭をかきむしり、意味もなく足踏みを繰り返し、それでも辿りつけない。焦慮が私の全身を覆いはじめたとき、身体に軽い衝撃を受けた。
「きゃっ」
「あ、ご、ごめんなさい」
周囲に注意を向けられていなかったせいか、子供にぶつかってしまったのだ。尻餅をついた子供に手を貸して起こすと、虹色の光が目に入る。
子供が作り出した、シャボン玉だった。転んだはずみで作られたのか分からないが、一つだけ漂うシャボンの玉は陽の光を受けて、輝いている。
空を舞うシャボンは、やがて、不意にはじけて消えた。
「あれ…………?」
頭の中で、何かがざわめく。
急速に働き始める、思考回路。
この世界にきてからの様々なことを思い出す。そして、積み上げられていた、祐麒くんがいないことを示す記憶。
携帯電話、デジタルカメラ、プリクラ、花寺学園、卒業アルバム、祐巳ちゃん、福沢家、アルバイト先、リトルリーグ、プレゼント、思い出。
高速で流れてゆく、私の中に蓄積されていた記憶。
どこか、違和感がある。
ひっかかる何かがある。
いつの間にか、子供はどこかに消えていなくなっていた。犬の散歩をしていたおじさんも、カップルも、ジョギングのおばさんも、いなくなっている。老人はかわらずに鳩に餌をあげている。
そして。
「あ……え……?」
唐突に、思いいたる。
ひょっとしたら私は、とんでもない思い違いをしていたのではないだろうかと。全く見当違いのことをしていたのではないか。まさか、そんなことがと思いながらも、その考えを否定しきれない。
ベンチに腰を下ろし、頭を抱えるようにして自分ひとりの思考の世界に閉じこもる。
閃いたことを整理し、再構築してみる。
訳の分からない、とんでもない考えではあるけれど、そもそも今の状況そのものがとんでもない事態であり、まともに説明できるようなことではないのだ。だとすると、ありえないことではないのかもしれない。
全然、論理的ではないし、ただの思い付きかもしれない。
そうだとしても、決して、辻褄はあわなくはない。
むしろ、一度そうだと考えだすと、それしかないのではないかと思い始める。
「と、なると……」
どうすればよいのか。
具体的な方法は分からないけれど、それでも考えられる手は、一つしかなかった。
第六話に続く