4月となり、大学2年生としての生活が始まった。新たなカリキュラムで、当たり前だけれど1年のときには無かった講義ばかりで、また新鮮な気持ちで勉学に勤しむことができそうだ。
春休みの間には、思いもかけない出来事が蓉子の身を襲い、一時はどうなるかとも思ったけれど、こうして無事に日常生活を送ることができている。それは、とても素晴らしいことだと改めて身にしみて思う。
うららかな陽光を感じ、お気に入りの紅茶の香りを堪能し、のんびりとした春の午後を楽しむ。
窓の外を見れば、新入社員らしき男女のかたまりが、新しく綺麗なスーツを纏い、先輩社員らしき人に引きつられて歩いていく姿。あるいは、初々しい感じの制服に身を包んだ学生。見回せば、店の中にも新入社員と思しきウェイターやウェイトレスの姿が見える。どこか緊張して、動きや喋りもぎこちないところが、逆に好感をもたせる。
店の入り口の自動ドアが開き、店員の声が響き渡る。目を向ければ、待ち人が姿を現し、蓉子の方に向かって歩いてくる。
「すみません、待ちました?」
「ううん、そんなことないよ」
蓉子の前の席に腰をおろし、アイスコーヒーを注文する祐麒。
しばらくの間談笑して、店を出る。
ゆったりと、のどかな時間。信じられない体験から、蓉子も精神的に参っている時期があり、これが久しぶりの本格デートとなる。蓉子としても非常に楽しみにしていたので、ちょっとばかり気合いが入っている。それは、服装にもあらわれている。
大体、いつもはあまり派手な服は着ないし、どちらかというと落ち着いた、悪く言えば少し地味目のものが多かった。その辺が、どうも友人に言わせると、「蓉子は私服のセンスがいまいちだ」ということになるらしい。そんなことはない、「祐麒くんはいつも褒めてくれるもの」と反論するも、恋していればなんでも良く見える、蓉子は素材が良いから私服が悪くてもそれなりに見えるから、などと散々な言われようだった。
そこで心機一転、今日のデート服のコーディネートは、大学の友人である氷野せりかに頼んで選んでもらったものだ。
グレー×ブラックのボーダーTシャツの上に透かし編みオーバーセーターを重ね、まだほんのり肌寒いのでドルマン袖のマントパーカ(ミントグリーン)を更に上から。レースのミニスカートはカーキ。腰回りのタイトなラインから広がるたっぷり寄せたギャザーが、とってもガーリー。足元はソックスにレース付のサボ。
非常に可愛らしいけれど、確かに蓉子自身ではなかなか選ばない組み合わせかもしれない。
「それじゃあ、行きましょうか」
「はい」
今日は特に目的もなく、のんびりと街を散策する予定。ウィンドウショッピングをするもよし、美味しいスィーツのお店に行くもよし、ただ散歩するだけもよし。こういうとき、どこか気のきいた場所に連れていけると良いのだが、年下の男の子をどういったスポットに連れて行けば喜んでくれるのか、蓉子はいまだに分からないのだ。年上の女として、もうちょっとリードしてあげられればと思うものの、なかなかうまくいかない。
「大丈夫ですよ、そんなこと気にしなくて」
思っていたことをつい、口にしてしまうと、隣を歩く祐麒はわずかにはにかみながら、言った。
「だって、蓉子ちゃんと一緒にいるだけで、どこで何をしていても楽しいですから」
「わ……」
かーっ、と、顔が熱くなる。
恥しいからではない、嬉しいからだ。
「あのね、わ、私も」
「はい」
「ゆ、祐麒くんと一緒なら、どこに行っても楽しいから」
言ってしまった。
口にしてから、恥しくて、照れくさくて、なんとなく俯いてしまった。
「ありがとう、ございます」
「う、うん」
お互いに頬を赤くして、頷き合う。いまだにこんな状態になったりすることもある二人ではあったが、一緒にいる空間に居心地の良さを覚えているのは間違いないこと。
歩きながら、それぞれの手が掠めるようにして触れ合い、それだけで少し胸の鼓動が速くなる。
どうしようか、なんてまごまご迷っていると、そのうち祐麒の手が蓉子の手を包み込むようにしてきた。蓉子も手を開き、お互いの指を絡めるようにして手をつなぐ。ただ手をつなぐだけだというのに、ここまで緊張するというのもおかしなものだ。何しろ、付き合い始めてからもう何か月も経っているのに。
だけど、いいではないか。だって、手をつなぐだけでこんなにも嬉しいし、温かい気持ちになれるし、ドキドキするのだから。
「えと、そうだ、祐麒君と行きたいお店があったんだけど」
ちらりと、蓉子は祐麒の顔を見る。
もちろん祐麒は、笑顔で頷いた。
「え、ええっ、な、なんでお店、閉まっているの!?」
目的地に辿り着くなり、蓉子は驚き声をあげた。
目指していた店が閉まっていた。週末のかきいれどきに開いていないなんて思わなかったが、どうやらしばらく前から店内改装のため休みだったらしい。店の前で蓉子は呆然として、やがてハッとしたように振り返った。
「ご、ごめんなさい祐麒君、まさかお休みだなんて思わなくて」
「いや、そんなに気にしなくていいですから。改装だなんて、知らなかったのは仕方ないじゃないですか」
祐麒はもちろんそんなことで怒りはしないが、蓉子は焦る。デートではいつも祐麒がプランを考えてくる。珍しく今日はそういうのではなかったので、それじゃあ蓉子がリードしようと、実は頭の中でデートコースを考えていたのだ。
「え、ええと、じゃあ前に聖たちと一緒に行った、パスタの美味しいお店に……」
気持ちを切り替えて他の店に足を向けてみたが、どうやらその店が雑誌か何かで紹介されたらしく、店の外にかなりの待ち行列が出来ていた。時間的にも悪かったのか、とてもじゃないが、ちょっと待てば入れるようになる人の数ではなかった。
「な、な、なんで……」
ぷるぷると震える蓉子。
「そっ、それならっ、次はっ」
と、望みを託してもう一つ目をつけておいた店に行ってみたのだが、悪いことは重なるもので、なぜか店は開いていなかった。
「な、なんでなんでなんでーっ!?」
店の前でうろたえる蓉子。
まさか、考えていた三つの候補がどれも駄目だなんて、予想していなかった。狼狽しながら、ふと祐麒の方を見るが、すぐに顔をそらしてしまった。
せっかく自分の方から素敵な店があると言っておきながら、全く案内できないなんて、もしかして呆れられないだろうかと不安になる。年上の大学生のくせに情けない、頼りにならないと愛想を尽かされないだろうかと考える。
どうしてだろう、高校生まではお決まりのようにクラス委員になり、生徒会長になって、なんでもそつなくこなしてきた優等生のはずなのに、なんでこんなにうまくいかないのか。どうしたら良いのか分からず、焦りと恥しさでどんどんと顔が熱くなってくる。
そんな蓉子の手を、そっと握ってくる祐麒。
「落ち着いて、蓉子ちゃん」
「あ、祐麒くん、あの、ごめんなさい……」
しゅん、と項垂れて謝る蓉子。
情けない、こんな年上の彼女じゃあ、祐麒も嫌になったりしないだろうか、などとネガティブな思考が渦を巻く。
もちろん蓉子は知らない。
普段は優等生的な蓉子が、こうして失敗してあたふたしている姿を見せるのも可愛いなぁ、なんて祐麒が心の内で思っているなんて。
「いいじゃないですか、今日はもともと特に予定も決めていなかったんだし、ゆっくりと見て回りましょうよ」
「う、うん、ごめんね」
「だから、謝るのはなしですってば」
優しく笑いかけ、蓉子の手を引いて歩き出す祐麒。
情けないと思いつつも、嬉しくなる蓉子なのであった。
適当に入った店は正解だった。オムレツ、オムライスの店なのだが、ふんわり卵の食感が抜群で、蓉子も祐麒もとても気に入った。少し外れた時間に入ったため、人が少なく静かで落ち着いていたこともポイントが高かった。
「当たりでしたね、今のは。蓉子ちゃんのお店が開いていなかったからこそ、見つけられたんですよ」
「もう、それって皮肉にしか聞こえないから」
最後に蓉子に連れて行かれた店から少し離れた場所に見つけたのだ。蓉子は拗ねたようにしているが、顔は笑っている。
「さて、次はどうしましょうか。何か見たいものとかありますか?」
「うーん、そうねぇ」
目的もなく、他愛もない話をしながら歩いていく。
洋服、アクセサリー、家電、生活雑貨、どんな店に行っても楽しめるだろうが、どうしようか。考えながら歩いていると、デパート内の案内板に目がいった。
「ねえ祐麒君、これ、観に行ってもいい?」
蓉子が示したのは、ちょうど開催されている陶芸展。名前だけみれば地味な展示会のようで、若者がそうそう立ち寄るような場所とも思えないかもしれないが、蓉子は結構好きだった。
祐麒に異論があろうはずもなく、エスカレーターで展示場のある階へと上がっていく。
展示場のフロアに到着して歩き出すと、向かいから歩いてきた二十代前半くらいの女性二人組の微妙に興奮した会話が耳に飛び込んできた。
「……すっごいカップルだったね!」
「うん、びっくりした。美男美女って、こんな場所にいたりするもんなんだ」
「どこかのモデルさんかなんかかな、男の子の方、ちょーイケメンだったよねぇ!」
「あそこまでいくと、僻むこともなくなるよねー」
そんなことを話しながら、通り過ぎて行く。
「ええと……入口はこっちかしら」
かしましい会話を聞き流しながら、陶芸展の会場へと足を向ける。
「あれ、こっちは出口みたいですよ」
「本当だ。じゃあ、入口は、あっちかしら」
どうやら反対側から来てしまったようで、入口の方に行こうとしかけたところで。
出口から一組のカップルが姿をあらわした。
「――えっ?」
女性の方が、声をあげた。
声につられて、カップルに視線を向けると。
「お、お姉さまっ?」
立っていたのは、紛れもなく祥子であった。
私服といえども見間違えるはずもない美貌。烏の濡れ羽色のような、つややかな黒髪に、均整のとれた完璧なプロポーション。
妹の姿を目の当たりにして、蓉子は動揺した。
「え、しゃ、しゃちっ!?」
「……は?」
「しゃちこ……いえ、さ、祥子っ。どうしてここに」
「それは私の台詞です、お姉さま。でも、偶然でもお会いできて嬉し――」
喜びにほころびかけた祥子の表情が強張る。何かを睨みつけるような視線のその先には、祐麒と繋がれた蓉子の手。それも、指を絡め合った繋ぎ方の。
「あっ、こっ、これはっ」
「蓉子さまと祐麒君……? え、あ、もしかしてお二人って?」
横にいた美少年、もとい美少女の令が目を丸くして蓉子達のことを見ている。ブーツカットのジーンズにスプリングコートの令は、どこからどう見ても美少年そのもので、祥子と並んで歩いていれば、それは噂もされるものだろう。
「おおおお姉さま、一体これは、ど、どういうことっ……」
蓉子と同じように動揺しているのか、取り乱した様子で祥子が尋ねてくる。今まで、祥子には話していなかった。隠していたつもりはないが、どこか話しづらいと思っていたのも確かなこと。
妹にデートシーンを見られたことによる羞恥が、蓉子の身を焦がす。
「祥子、あの、これはねっ」
何を話せばよいのだろうか。いつかは祥子にも言わねばと思い、その時のことをシミュレートして伝えるべき言葉を考えたりもしたはずなのに、肝心な時に全く思い出せない。
「ちち、違うの、これは……あっ」
咄嗟に祐麒の手を離してしまい、瞬時に後悔する。
ちらりと横を見ると、祐麒は分かっているとでもいう風に軽く頷き、何も口にせず黙っていた。
蓉子の胸がズキリと痛む。
決してやましいことなどないのに、祐麒とは正式にお付き合いをしている仲だというのに、これではまるで後ろめたいみたいではないか。祐麒は何も言わなくとも、傷ついているに決まっている。
「蓉子さまと祐麒君って……お、お付き合いされているんですか?」
口にできなかったことを言ってきたのは、令だった。恥しそうにしながら、それでもどこか瞳を輝かせながら訊いてくる。
祥子は、令の言葉を耳にして更に動揺したようだ。男嫌いの祥子からしたら、姉が男と付き合うことなど許せないのかもしれない。
隣の祐麒を見ると、祐麒もまた蓉子のことを見てきた。だけど、何も言わない。それはそうだ、ここは蓉子が自ら伝えなければ意味がないから。
「え、ええ……そう、なの」
意を決し、蓉子は口にした。そして改めて、祐麒の手を取った。祐麒は、力づけるかのように蓉子の手を握り返してくれる。
恥しい。妹に言うのが。でも、言わなければ。
「私、祐麒君とお付き合いさせてもらっているの」
信じられないものでも見るような目で、祥子は蓉子のことを凝視していた。
「そんな、お姉さまが、そんな……」
「ちょっと祥子、祝福してあげるべきことじゃない。それに、とてもお似合いのお二人だと思うけれど?」
令が必死にフォローをするが、祥子は身を小刻みに震わせ聞こえていない様子。
「えーっと、お二人はいつごろからお付き合いされているんですか?」
これまた場の雰囲気をどうにかしようとしているのか、令が質問してきた。
「それは、去年の……」
「きょっ、去年!? ということは私は、一年もお姉さまから知らされていなかったと」
ガーン、という効果音が聞こえそうなほど、祥子はショックを受けているようだった。
「ごめんなさい祥子、隠しているつもりはなかったのだけれど、結果的には……」
蓉子が謝りかけたその時。
鬼の形相で祥子が大股で近づいてくると、蓉子と祐麒の腕を掴んだ。
「え、ちょっと、祥子さんっ?」
「お、お姉さまから離れてください祐麒さんっ。い、いくら祐麒さんといえども、お姉さまとそんな」
パニックになっているのか、祥子は強引に二人を引き放そうと力を入れてくる。
「さ、祥子、ちょっとやめなって」
令があたふたとしながら止めようとするが、祥子は聞く耳を持たない。むしろもっと強い力で、祐麒の体を蓉子から突き放す。
「うわっ!?」
蓉子と繋がれていた手が離れ、祥子に押された勢いで令に突っ込んでいく祐麒。
「――きゃあっ!?」
「わふっ!?」
そうしてなんと祐麒は、令の胸に顔から飛び込んでいった。運動神経抜群の令も、いきなりのことに避けることもできず、抱きついてくる格好となった祐麒を受け止める。そして、状況に気がつくと、みるみるうちに顔を赤くしていく。
「きゃああああっ!?」
蓉子は悲鳴をあげた。
美少年にしか見えない令だが、それでいて実はかなり胸が大きいことを、蓉子は知っている。
「れれれ令っ、祐麒君から離れなさいっ!」
祥子の手を振りほどき、祐麒の手を掴んで勢いよく引っ張る。
「うわあっ!!」
勢いがつきすぎて、令の体から剥がせたのは良いが、反対方向に振り回されてよろめいた祐麒は、今度はそのまま祥子の方へと突っ込んだ。
「うぶっ!?」
「――――!?」
そのまま、祥子の胸に顔を埋める。
蓉子は知っている。令以上に凶悪的なバストを、祥子は誇っているということを。
「ご、ごめんなさいっ」
「っ!!!?」
慌てて離れようとした祐麒は、うずもれた顔をはがそうとして祥子の胸に触ってしまった。服の上からとはいえ、充分なボリュームを持っている祥子の胸は、祐麒の手の平の上に乗った。
声もなく、首から顔にかけて真っ赤になっていく祥子。
「なっ、何をしているの祥子っ!? ゆ、祐麒君から離れなさいっ!」
「わ、でも、さ、祥子さんがっ!?」
衝撃のあまりか、祥子は気を失う寸前のように見え、体から力が抜けて一人では立っていられない様子で、祐麒がその体を支えるようにしている。
「とにかく、離れないと駄目なの!」
「ちょ、よ、蓉子ちゃんっ!?」
「蓉子様、落ち着いてっ」
蓉子と令も加わり、四人でわやくちゃになる。
「ゆっ、祐麒君の馬鹿ーーーーっ!」
そしてデパート内に、蓉子の悲鳴が響き渡った。
騒動になりかけたデパートでのアクシデントだったが、どうにかこうにか騒ぎを収めて撤収した。祥子は具合が悪くなったようで、心配ではあったがそのお陰であれ以上の混乱を防げたとも言える。
その祥子は、令に支えられるようにしてタクシーに乗って帰っていった。この後、祥子に色々と訊かれるだろうと思うが、説明をしてこなかった自分自身のせいだから仕方がない。今は、それ以上に大切なことがある。
「……祐麒君の、浮気者っ」
「あ、あれは不幸な事故じゃないですかっ」
帰り道、蓉子はずっと不機嫌であった。
なんとか蓉子の機嫌を取り戻そうとする祐麒であったが、なかなかうまくいかない。
「本当は、ラッキーな事故だったと思っているんじゃないの? 祥子と令の、あ、あんな」
「思っていませんって」
言いながらも、祐麒の頬はほんのりと赤みを帯びる。
「じゃあ、どうして赤くなるのよ。やっぱり嬉しかったんでしょう、祥子と令のは大きいですものね」
子供じみていると分かっていても、ツンとした態度を取ってしまう。デパートでの出来事はトラブルであり、そもそも蓉子にだって責任の一端はある。理解はしているけれど、それとこれとは話は別である。
「違いますってば」
「違わないでしょう」
「違いますよ、だってお、俺は蓉子ちゃんくらいが一番好きだからっ!」
「えっ、な、何を言っているの!?」
いきなりの発言に、蓉子は慌てて腕で胸元を隠す。祐麒とは、まだ胸を晒すなんてことをする関係ではないのに、なぜそんなことを言い切れるのか。まさか、どこかで覗きでもしたのか。
「いや、海で水着姿見ましたから」
「そ、そうだったわね……じゃなくてっ」
「とにかく俺は蓉子ちゃん一筋ですから、信じてくださいっ」
真剣な瞳でじっと見つめられると、恥しくなって目をそらしてしまう。
「……じゃ、じゃあ、信じられるようなことをして欲しい」
拗ねたように口を尖らせながら、蓉子は言う。
「何をすれば、信じてくれますか」
「ええと……ちゅ、ちゅうとか?」
「ここでですかっ? いや、てゆうか、俺は嬉しいからいいですけれど」
まだ人の姿も多い街中である。当然、誰の目にもとまらずそんなこと出来ようはずもない。そもそも、祐麒のことを信じるとか信じない以前の問題の気もする。
「蓉子ちゃんが良いなら、その」
「ま、待って、何が? 私、なんて言った?」
「え? だから、ちゅうを」
と、祐麒が口にすると。
途端に赤面する蓉子。
「ちっ、ちちちちゅうだなんて、そそそっ、そんなこと、私、言わないものっ」
「い、言いましたって」
「そんな恥しいこと、言わないもん!」
「分かりましたから、待ってください蓉子さんっ」
「あ、『蓉子さん』って言った。あれほど駄目だって」
「蓉子ちゃん、待ってってば!」
春の夕暮れ時の街の中。
二人の影は、追いかけっこでもしているようで、それでいていつしかお互いの手は一つに重なり合っていた。
おしまい