人の噂も七十五日とはいうけれど、さすがに一日しか過ぎていなければ、そう簡単に噂が消えてしまうこともない。しかし、噂の当事者である二人とも学園にはいないというのに、それでも噂が広がっていくのはさすが薔薇さまというべきか、女子高校生の噂好きの恐ろしさか。
学校中というわけではないが、クラスの中ではほとんど広まっているし、そこから派生して他のクラスや学年にも、それなりに波及しているようであった。
何がといえばそれはもちろん、昨日の祐巳さんの一言である。しかも、尾ひれ足ひれがくっついて広がっているようで、
『鳥居江利子さまが、花寺の生徒会長である福沢祐麒さんのお宅に行った』
『江利子さまと祐麒さんは、親密なおつきあいをされているらしい』
『前黄薔薇さまが祐麒さんのお宅に行ったのは、ご両親にご挨拶するためとのこと』
『黄薔薇さまと祐麒さんは結納を行った』
『令さまと祐麒さんはお付き合いしている』
『由乃さんも加えて三角関係になっている』
……とまあ、由乃が直接にしろ人づてにしろ聞いた内容を集約すると、こんな次第である。どうやら、
鳥居江利子 → 前黄薔薇さま → 黄薔薇さま →(現黄薔薇さま)令 →
と、いうような感じで、話は歪に捻じ曲がりながら伝わっていったらしい。加えて、ちょうど先週、お弁当のことが話題に上がったということも、話が膨らみながら広がることに一役かっているようだ。このままいけば、黄薔薇(前含む)三人が一人の男を巡って泥沼の愛憎劇を繰り広げている、なんてことになりかねない。
しかもやっかいなことは、祐麒くんの実の姉である祐巳さんが噂の発生源ということだ。江利子さまが祐巳さんの家に行ったというのは事実であるらしいから、全くの嘘から始まったわけでなく、微妙に説得力があるのがいやらしい。
「……ごめん、由乃さん。まさかこんなことになるとは」
「ま、まあ、いいんだけどね」
本当はあまりよくないのだが、目の前でさすがに落ち込みがちな祐巳さんの顔を見ていたら、何か言う気も失せてしまった。元々の発端が祐巳さんにあったとはいえ、意味不明な展開を見せている噂話について責任はない。
ちなみにここは、薔薇の館の二階。お弁当を持ち込んで、昼食をとりながら話をしていた。祐巳さん以外に、志摩子さんと乃梨子ちゃんも来ている。
「私のところにも伝わってきましたよ。確か、『令さまと結婚して、由乃さまを愛人にしようとしたら、前カノである前黄薔薇さまが復縁を迫って押しかけてきた』とかなんとか」
冷静な口調で乃梨子ちゃんが言ったが、一体、どんな伝わり方をしたら、そのようなトンデモ話になるのか経緯を知りたいくらいだ。
「乃梨子、"前カノ"って何かしら?」
「"前の彼女"ってことですよ。要するに別れた彼女。"元カノ"でもいいかと思います」
「"元カノ"?」
「ええとですね……」
可愛らしく小首を傾げている志摩子さんの姿に、頬が緩んでいる乃梨子ちゃんが嬉しそうにレクチャーしている。
「あまりに話がメチャクチャになりすぎて、真美さんも記事にしあぐねているようだし」
由乃と令ちゃんは、少なくとも自分たちに関する部分については全く根拠のないものだと分かっている。となると、残りの二人は花寺生徒会長にリリアンOG。いくら、りりあんかわら版といえども、現在リリアンにいない人を中心とした記事を、事実確認もないまま大々的に書くわけにはいかないだろう。
このまま騒ぐことなく静かにしていれば、きっとこの噂も来週くらいには収まっているとは思うから、もう少しの辛抱だと言い聞かせて過ごすしかあるまい。
「……じゃあ私は乃梨子の"今カノ"ということなの?」
「そ、そそそそ、そうなりますっ!」
何やら脳みそにお花でも咲いていそうな会話が、すぐ側の白薔薇さんところから聞こえてきた。乃梨子ちゃんはいったい、志摩子さんに何を教え込もうとしているのか。
「ま、ともかく、またしばらく騒がしくなるかもしれないけれど……」
小さくため息をつきながら、お弁当箱のから揚げチキンをつまみあげた。一口、かじりついたところで、ぐわっしぐわっしという感じで誰かが階段を上ってくる音が耳に飛び込んできた。
勢いよく扉を開けて姿を見せたのは、予想通り令ちゃんだった。あんな派手な音を立てる人は、山百合会メンバーの中でも一人しかいない。
「由乃とお姉さまが一人の男性を巡って果し合いをするって本当?!」
入るなり、そんなことを口走る姿を、由乃はげんなりとした表情で見つめた。ある意味、江利子さまと果し合いをするというのは面白そうだが、あの古狐相手に戦うならば、それなりの準備をしないと苦戦、もしくは返り討ちにあうことは必至だ。
「落ち着いて、令ちゃん。一体どんな風に話が伝わったかは想像つくけれど、あっさりそれに振り回されないでよ」
「そそそそんなこといったって、由乃ぉ」
また、ヘタレモードに入っている。
由乃と江利子さまに男が加わったせいで、完全に気が動転している。どうやら、令ちゃんの耳に入った噂の中では、令ちゃんは蚊帳の外だったようだ。
動転している令ちゃんを座らせる。乃梨子ちゃんが淹れてくれた紅茶を飲んだところで、ようやく令ちゃんも落ち着いたようだった。
「ほら、祐巳さん。ちゃんと説明してよ」
「う、うん」
祥子さまを除く四人から視線を向けられて、ちょっとばかり萎縮しながらも祐巳さんは口を開いた。
「…………家庭教師?」
皆の疑問調の言葉に、無言で首を縦に振る祐巳さん。
そう、なんと江利子さまが祐巳さんのお宅に行ったというのは、祐巳さんの弟さんである祐麒くんの家庭教師として、ということらしい。だから別に、二人が、何がどうしたなんてことは全然ないわけなのだけど、興奮した祐巳さんが大声で、さも何か起きたかのように言ったものだから、憶測が憶測を呼び、今のような状況となってしまった。
「反省してます」
「まあ、祐巳さんのせいってわけでもないし」
「良かったぁ……そうだったんだ」
胸を撫で下ろす令ちゃん。
「その、江利子さまは綺麗な方なんですよね」
まだ直接は会ったことのない乃梨子ちゃんが聞いてくる。まあ、美人といえば美人だろうが。
乃梨子ちゃんはさらに続けて、低めの声でぼそりと一言。
「綺麗な年上の家庭教師と若い男子が、部屋で二人きり……」
「「やめてーーーっ!」」
奇しくも、祐巳さんと令ちゃんが同時に叫んだ。
「乃梨子ちゃん、変な漫画とかの読みすぎじゃないの」
と、由乃は茶化すように言ったけれど。
想像して気分が悪くなった。
翌日。
令ちゃんと並んでリリアンに向かう途中。
「とにかく、毅然とした態度でいてよ」
「わかってるって」
「私たちがどっしりしていれば、また噂なんてすぐに消えるから」
「もう大丈夫だって」
「本当かなぁ。昨日の様子を見ているとあやしいなぁ」
「昨日のあれは、しょうがないじゃない。由乃とお姉さまがそんな状況になっているなんて聞いたら……」
「いや、聞いた瞬間に嘘だって分かるでしょ」
色々と文句を言いながらの登校だったけれど、これが出来るのもあとわずかだと思うと寂しいものがある。家が隣同士でいつでも会えると思っていても、令ちゃんが進級するたびに置いていかれる様な気分になるのはどうしようもないことだ。
空を見上げれば、どんよりと灰色がかって重苦しい雰囲気。風も冷たくて、思わず肩をすくめたくなるけれど、それでも由乃は幸せを感じている。心臓が弱かった頃は、夏の暑さも冬の寒さも身体にこたえたし、無理をさせてもらえなかった。でも今は、全身で季節を受け止めることが出来る。
かつては、たとえどんなに空が晴れ渡っていようと、心の中はどこか曇っていた。
今は逆だ。真っ黒な空だったとしても、由乃の中ではいつだって青く澄み渡った空が広がっているのだ。
隣を歩く、頭一つ分背の高い従姉の姿を見上げる。
寒そうに白い息を吐き出しながらも、武道で鍛えあげられた身体は寒さに背中を丸めるなんてことはない。いつだってピシッと背筋を真っ直ぐに伸ばし、優しい目で由乃のことを気遣いながら見つめている。
由乃はそっと、令ちゃんの手を握った。
令ちゃんは、ちょっとびっくりしたような顔をしていた。さすがに高等部に入って、手をつないで登校なんてことはほとんどなくなっていたから驚いたのだろう。
でも、令ちゃんは由乃の気持ちを分かってくれたように、ただ何もいわずにちょっとだけ強く握り返してくれた。
「大丈夫だよ由乃、私たちは」
にっこりと、爽やかアイドル風スマイルを見せる。
「そうね、令ちゃんさえしゃんとしていればね」
「何よ、言ったわね」
「言うわよ」
「ふふっ」
お互いに自然と笑い声がこぼれおちる。
つないだ手はお互いに手袋をしていたけれど、温もりは間違いなく伝わっていた。
その日は午前中で由乃は学校を早退し、病院への定期検診に向かった。手術から一年が経過し、何事も無く過ごしているし部活動も行って体力もついたし、問題ないだろうとは思っているけれど、それでも検診を怠るわけにはいかない。何せ、自分が大丈夫だといくら言い張ったところで、両親や令ちゃんが口うるさいのだ。
電車を乗り継いでいつもの病院に行って、顔なじみの看護婦さんとお喋りして、いつもの先生に診断を受ける。結果はもちろん、どこにも異常なし。先生も太鼓判を押してくれましたとさ。
「はあぁ……」
健康だとはいうものの、検診を受けるとやっぱりそれなりに疲れる。そしてそれ以上に、お昼を食べていなかったので、空腹で気持ちが悪い。
由乃はとりあえず駅まで出ると、目に付いたファーストフードへと足を向けた。
注文した月見バーガーとアップルパイとアイスティーをゆっくりと胃の中に落としていくと、ようやく人心地ついた。
「あー……ん」
かじりつく。
口も小さく、ちょっと前までは体が弱かったということもあり、由乃は食べるのが遅かった。
食べながら、街並みをなんとなく見つめる。二階の窓際という位置のため、外を行きかう人の姿はよくわかる。病院で検査を受けているうちに時間も過ぎていたので、学校が終わって帰宅途中なのか、あるいは寄り道なのか、学生服姿も結構目に入る。
以前はなかなか考えられなかったけれど、今の由乃の体であれば、学校帰りの寄り道だって問題なくできるのだ。(最も、基本的に寄り道は禁止であるが)
令ちゃんと一緒に出てくるのも良い。一旦、家に帰って着替えるのではなく、あえて制服のままどこかに寄って、ちょっと遊んでくるのも良い思い出になるのではないか。
もちろん忘れちゃいけないのが祐巳さん、志摩子さん。真面目そうな志摩子さんを連れ出すのも面白そうだ。同級生でいけば、あとは蔦子さんと真美さん。二人とも喜んでついてきそう。
また、いずれ妹を作ったら、やっぱり妹とも、そんな何でもない日常を積み重ねたい。誰が妹になるのか、思い浮かぶ姿はあっても、まだ現実味を帯びない状況だけど。
そして……
仲良さそうに歩いてゆく男女の姿が、窓越しに映る。共に学生服を着ている彼女たちは、恋人同士なのだろうか。自分にもいずれ、そういった人が出来るときがくるのだろうか。そのとき、自分の隣を歩いているのはどんな人なのだろうか。
同年代の男性の知り合いが少ないというのもあるが、どうしても思い浮かんでしまうのは彼の顔。
一緒に歩いて、他愛もない話をして、クレープでも食べて、雑貨屋さんでも冷やかして。よく考えてみると、令ちゃんとしょっちゅうしているようなことだけれど、相手が異なるとまるで違う世界のように思える。
想像の世界から、再び現実に戻り外の世界に目を向ける。また別の男女が仲良さそうに寄り添いながら歩いているのが見える。そう、丁度あんな感じで……
「……って、えええええええええええええっ?!」
今自分がいる場所も忘れて、思わず由乃は大声を発して立ち上がった。勢いで、派手な音を立てて椅子が倒れる。
「―――あ、す、すみません」
店内の他の人の目が、何事かといっせいに由乃に向けられる。頭を下げ、椅子を元に戻して誤魔化すように座ったが、目は再び窓の外の街を向く。
窓にへばりつくようにして、目を大きく見開いて、群衆の中に確かにとらえたその姿を追いかける。それは、すぐに見つけられた。忘れられもしないし、見間違うはずもない。
同じ場所でも、それぞれが、それぞれ別にいるならば、まだ有りえると思えたかもしれない。しかし今、瞳に映る光景は有りえないと言うか、目にしてなお信じられないもので。
「な、なんで? どういうことなのよ?」
並んで歩くくらいならまだしも、寄り添って、腕を組んで仲睦まじく歩いている姿は、どう考えてもただの知り合いとかの線を越えているようにしか見えない。間違っても、ただの家庭教師とその教え子、なんて関係ではありえない。
そう、仲良く腕を組んで歩いている片方は、学生服の上からコートを着た祐麒くんで。その祐麒くんの腕を取っているのは、ファーのついた可愛らしい白のダウンコートを身にまとい、スリムなジーンズに形の良い脚を通し、高校を卒業したというのにあいも変わらずヘアバンドで綺麗な額を出している、鳥居江利子さま本人に他ならなかった。
「―――あああ、ちょ、ちょっと待って」
呆然としている場合ではなかった。
我に返ると、由乃は食べかけのアップルパイを放置したまま階段を駆け下り、店の外に飛び出した。
首をぐるりと左右に動かして、二人を見つけた付近を探してみるものの、既に二人の姿は人の波にまぎれたのか、はたまた街のどこかへと移動したのか、どこにも見つからなかった。
江利子さまが家庭教師として祐麒くんのことを教えに行っていることは、祐巳さんから聞いていた。だけれども、それで二人がデートするなんて事態に飛躍するとは思いも寄らなくて。
「幻、じゃないよね……」
呟いてみたけれど。
笑顔に彩られた祐麒くんと江利子さまの姿は、確かに由乃の心と記憶に焼きついたのであった。