夢だと、思いたかった。
だけど、それは夢でもなく現実であり、鏡はそれを証明するかのように、今の自分の姿を映し出していた。
……こんな現実は、嫌だ。
「ほら、似合う、似合う。可愛いわよ」
と、嬉しそうに隣で笑っているのは、鳥居江利子さん。
そして今、鳥居さんに『可愛い』と言われている祐麒の格好は、デニムのパンツにカットソー、ジャケットをあわせたごくシンプルなものだったけれど、女性モノというだけで随分とイメージが違って見えた。加えて、髪型を少し変えられて、淡くメイクも施されているというせいもあるかもしれない。
「令のサイズが丁度合って、良かったわ。でも、本当にスカートはいいの?」
「結構ですから!」
冗談かと思っていたが、実は結構本気で、スカートを穿かせたがっていたらしい。妥協して今の格好になったというのに、スカートなんてとんでもなかった。
あの、突然の交際宣言から開けた翌日の放課後、何故だかわからないけれど、祐麒はカラオケボックスに連れ込まれて着替えの練習をさせられていた。カラオケ以外の目的で、部屋を使用してはいけないと思うが、今のカラオケではコスプレ衣装なんかも用意されているから、そこまでうるさく言われないのか。しかし、入り口の前を人が通り過ぎるたびに、心臓が跳ね上がる。
「しようがないじゃない、私の家じゃ親や兄貴たちがうるさいし、ユキちゃんの家に行くわけにもいかないでしょう?」
というのが、鳥居さんの言い分であった。
それはそうかもしれないが、ほぼ無理矢理に連れてこられて、着替えさせられるのは勘弁して欲しいというか、うら若き女性の前で着替えるなど純粋に恥しい。
「何、言っているのよ。それくらい慣れておかないと。それより、バイトの日までに一人で着替えられるようになってね」
不幸中の幸いなのか分からないが、ヘルプ扱いの祐麒は、学生ということもあって土日が中心のシフトとなっている。次にお店に行くのも週末で、少し間が空いている。
ということで、こんな場所で特訓をしているわけだが。
「本当に、着替えないと駄目ですか?」
手にした店の制服を見て、眉をひそめる。
しかし、鳥居さんは容赦なく。
「もちろん。ほら、教えてあげるから」
狭い個室の中のテーブルをずらして僅かなスペースを作り、手ほどきを受けて、制服の着方を覚えていく。こういうのは結局、慣れが大きい。何度も繰り返しているうちに、ぎこちないながらも一人で着替えることができるようになった。全く、嬉しくはなかったが。
「うん、上出来、上出来」
鳥居さんは満足そうに頷いたけれど、祐麒はもやもやとした気分のままだった。
「……あの、やっぱりやめましょうよ。絶対、よくないですって」
やがて祐麒は思い切って、言った。鳥居さんの勢いに押されてつい、承諾してしまったけれど、冷静に考えれば何をどういわれようと、断るべきだと思った。
祐麒自身のこともあるし、家族や学校に迷惑がかかるかもしれないし、そのお店にだって迷惑をかけるかもしれない。
「着替えることができたって、更衣室には他の人もいますよね。どうしたって、目に入っちゃうだろうし、俺が男だって知られたら気分良くないだろうし。例えどんな事情があろうと、騙すことに変わりはないし」
そうだ、悩むことなど何もない。
最初からきちんと、断っていればよかったのだ。
「……どうしても?」
「はい」
きっぱりと、言い切る。
メイドの格好なのが、決まらないところではあるけれど。
すると、鳥居さんは。
「そう、分かったわ。確かに、あなたの言うとおりよね」
意外なほど素直に、頷いた。
短い付き合いではあるが、もっとこう、しつこいというか、一度喰らいついたらそう簡単には離さないような人なのかと思っていた。
鳥居さんは、持ってきたいくつかの服(女物)を紙袋にしまい、立ち上がる。
「ちょうど時間だし、行きましょうか」
どこか気だるそうな口調で言うと、扉を開けて出てゆく。
ちょっと、申し訳ないかなとも思ったけれど、ここで意を翻したところで何も良いことなどない。これで良かったのだと、自分自身、納得をする。
「…………って、鳥居さん、俺の着替えまで持ってかないでくださいよっ?!」
メイド姿のまま、祐麒は慌てて追いかけるのであった。
晴れて、メイド喫茶の呪縛から解放され、健やかな日を送りはじめた祐麒。これで、心置きなく学園祭の準備に集中できると、晴れやかな気持ちで生徒会室に向かう。
「おーおー、幸せそうな顔しちゃって。そりゃそうだよな、あんな美人の彼女が出来ちゃって」
隣を歩く小林が、冷やかしているのだか、ひがんでいるのだか分からない口調で話しかけてくる。
そういえば、あの場にいた皆はまだ誤解しているのだと思い出し、否定しようとするが取り合おうともしない。
「何、言っているんだよ。あの美しい薔薇さま方が嘘なんてつくか」
見た目に騙されていると、声を大にして言ってやりたかったが、その時。
「おい、ユキチ」
「あ、はい、柏木先輩」
現在の生徒会長殿が、廊下の曲がり角からあらわれて声をかけてきた。
「例の彼女、来ているぞ」
「え? 彼女って」
聞き返すと、柏木先輩は髪の毛を軽く手でかきあげながら、目を細めて祐麒のことを見つめてきた。
「彼女っつったら、お前の彼女しかいないだろうが」
「え……もしかして」
「もしかしなくても、黄薔薇さまの鳥居江利子さんだよ。校門のところで、お前のことを待っているぞ」
「やっぱり、ラブラブなんじゃないかっ。全く、下手な嘘つきやがって。そこまで警戒しなくても、邪魔しないっての」
小林の文句を無視して、祐麒は走り出した。
校門に姿を見せているとは、一体、どういうつもりなのか。アルバイトの件は、はっきりと断ったはずであり、彼女が祐麒にこだわる理由なんてもう無いはずだった。それなのになぜ、今日また、わざわざ花寺までやってきたというのか。
生徒達の間を縫うようにして走り、校門を目指す。
ちなみに、あまりに全力で走ったため、それほど愛する彼女に早く会いたいのだと、後に小林によってあらぬ噂をまかれることになるのだが、それはまた別の話。
祐麒としてはただ、一刻も早く、鳥居さんの来訪真意を確認することが重要だった。
校舎を出て、正門に目を向けると、明らかに分かるいつもとの違い。門を中心に、人だかりが出来ている。
彼女持ちで、彼女が校門で待っているというシーンは、ないわけではない。だけれども、あれくらいの美少女となると、そうそうある訳ではないし、加えて彼女はリリアン女学生の頂点に立っているともいえる薔薇さまの一人。打ち合わせにも来ているし、薔薇さまだということを知っている者もいるだろう。
生徒たちは、決して鳥居さんを取り巻いているわけではない。遠くから、さりげなさを装って、でも実は物凄く不自然な様子で鳥居さんのことを注目している。だから鳥居さんの周りは、ぽっかりと空間が出来ているような格好となっている。
鳥居さんは、その不自然な状況に気づかないはずがないのに、居心地悪そうにするでもなく、済ました顔で佇んでいた。
そして、祐麒が人の群れを抜けて近づく姿に気がつくと。
「あ、祐麒クン」
と、さらさらの髪の毛を揺らしながら、麗しい笑顔を向けてくる。
瞬間、周囲が異様なざわめきに包まれた。
生徒会の仕事をしているとはいえ、一年生でもあり、部活動も行っていない祐麒は特に有名人というわけではない。見た目、何の特徴もない平凡な学生が鳥居さんの待ち人であったことに対する、動揺と驚愕と疑念のオーラが立ち昇るのを、祐麒は感じていた。
「鳥居さん……こんなところまで、どうしたんですか?」
聞こえないよう、小さな声で言ったものの、祐麒が口を開いた途端に周囲は静寂に包まれていた。なぜか、運動部の掛け声まで消えてなくなっている。
しかしそんな中、鳥居さんはしれっとして、のたまう。
「どうもこうも、彼女が彼氏のお迎えに来るのが、そんなにおかしいかしら?」
小さな声ではない、むしろよく通る声で周囲にはっきりと聞こえるように言う。
一瞬の空白時間。
そして、次の瞬間に爆発する、『おー!』とも『えーっ!』とも聞こえる、ギャラリーのどよめき。
明日から、いやこの瞬間からしばらくは時の人となり逃げられなくなることを、祐麒は瞬時に悟り脱力した。
「あの、俺、生徒会の仕事があるから……」
力なく、そう言うと。
いつの間にかやってきていたのか、小林が隣に立ち、わざとらしく咳払いをする。
「いや、仕事は俺が代わりにやっておくから、お前は遠慮なく行って来い。せっかく迎えにきてくださっているのに、追い返そうなんてお前は鬼か、悪魔か!?」
小林が言うと、周囲からもなぜか非難の声が沸き起こった。
救いを求めるように視線を巡らすと、柏木先輩と目があった。しかし目があうと柏木先輩は、にこやかに不気味な笑みを浮かべ、頷くのみであった。
「それじゃ、いきましょうか祐麒クン」
祐麒の腕に、鳥居さんの腕が絡む。
ボリュームアップする、野次馬どもの歓声、奇声、怒号、悲鳴。
それらの大音声を背に受けながら、鳥居さんはにこやかに観衆に向けて手を振り、唖然としている祐麒を引っ張るようにして歩き出すのであった。
学校を出て、しばらく歩いたところでようやく我に返り、体を離す。同じようなことを、ついこの前にやったと思いながら、口を開く。
「と、鳥居さん、一体どういうつもりですか?」
「どうもこうも、だから迎えに来たって言ったでしょう」
腰に手を当て、ちょっと不満そうな顔をする。
しかし不満なのは、むしろ祐麒の方だ。
「でも、なんであんな……皆から誤解されるようなことをっ」
「こそこそすると、余計に無用な詮索されるものよ。ああいうときは、堂々と見せ付けてしまえば、妙な噂も流れないわよ」
「妙じゃなくても、十分に噂になりますって!」
「いいじゃない、どうせ生徒会の皆さんには言ってしまっているんだし」
「よくないですって……」
頭を抱えたくなる。
なんなんだ、この人。
「――あ、それとも、もしかして」
ふと立ち止まり、顎にほっそりとした指を当てて、上を向く鳥居さん。
「実は彼女がいるとか? あるいは好きな人とか」
こちらに視線を向ける。
「……いや……今のところ、いないですけれど……」
「それなら、大きな問題はないわよね……おっと、いけない。急がないと遅れちゃうわ」
「遅れるって、どこに?」
「ほら、早く早く」
どうして自分はこうも流されてしまうのかと思いながら、急かす鳥居さんに、とりあえずついてゆく。
そして、やがて辿り着いた先は。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。なんで、ここにまた」
連れて来られたのはそう、例のカフェであった。
当然、祐麒は躊躇して立ち止まる。カフェでのアルバイトの件については、きっぱりと断り、鳥居さんも納得したはずだった。
それなのに、なぜ。
「ああ、それ、ちゃんと解決しておいたから」
鳥居さんは、何事もなく言い切る。
解決したとは、どういうことか。男である祐麒がメイド喫茶みたいな店でウェイトレスとして働くということに、どんな解決策があるというのか。
「あー、ほら、急がないと間に合わなくなっちゃう」
時間を確認し、祐麒の手を取り、ぐいぐいと引っ張っていく。本気で抵抗すれば、男の祐麒の方が力はあるから止まることは出来ただろうが、無下にふりほどくことも出来ず、結局、建物の中に引きずり込まれる。
「おはようございまーす」
「おはよう、江利ちゃん」
中に入ると、女性と出くわした。
「麻友さんもこれからですか?」
「そうよ」
私服だったから一瞬、分からなかったけれど、フロアチーフの麻友さんだった。シャツにジーンズというラフな格好は、当たり前だけどメイド服の制服姿とは全く印象が異なって見えた。
と、麻友さんの目が祐麒に向けられる。
なんとなく祐麒は、鳥居さんの後ろに隠れるようにしてしまった。何せ今は、花寺の制服姿なのだから。
しかし麻友さんは、驚くわけでも、不思議がるわけでもなく、逆に軽く笑うようにして祐麒のことを上から下まで見つめてくる。
「……へえ。本当に男の子だったんだ」
「え?」
麻友さんは笑顔を崩さない。
だけれども、その笑顔がなぜか逆に怖かった。
「でも、全く問題ないわね……まあ、この前でそれは分かっていたけれど」
「えと、あの?」
訳がわからず、麻友さんと鳥居さんに交互に顔を向けると。
「大丈夫よ。祐麒クンのことは、もう皆に説明してあるから。皆、歓んで受け入れてくれたから」
「可愛さは言うことないし、むしろ、助かるくらいだわ。この前お店に出ていなかった娘にも写真見せたけれど、驚いていたし。ユキちゃんなら十分に、ウチの看板アイドルになれるわ」
勝手に納得している二人。
しかし祐麒はいまだに混乱し、理解できていなかった。
一体、何があったのか。その説明は、鳥居さんがしてくれた。
「ユキちゃんがね、男の子であることを皆に説明したのよ。理解してもらった上で、このお店に受け入れるかどうか確認したら……見事、反対無しの全員一致でユキちゃんの受け入れが可決されたのよ。これで、隠すことなく、後ろめたいことも無く、堂々と働くことが出来るわよ」
会心の笑みを浮かべる鳥居さん。
「ま、着替えだけは時間をずらしてもらうことになるけれど……あー、でもそのうち違和感無く、普通に一緒に着替えちゃったりしてー」
頬に落ちる赤みがかった髪の毛を手で撫ぜながら、麻友さんは、口を開けて豪快に笑う。
なんだ、どういうことだ。なぜ、そんな簡単に受け入れるのだと、空回りする思考で立ち尽くしていると。
「あ、麻友さん、早く入ってくださいよー、今忙しいんですからっ……あ、ユキちゃんだ! 今日からよろしくねー」
メイド服の女の子が、どたばたと動き回りながらも、笑顔で手を振ってきた。思わず、反射的に手を振り返す。
「皆が待っているわ、さっさと着替えちゃうわね」
「お願いします」
「なんなら江利ちゃん、一緒に着替えてあげたら? つきあっているんでしょう?」
「えー、でもやっぱり、恥しいですから」
「初々しいわねぇ。じゃ、ユキちゃん、待っててね」
ウィンクをして、麻友さんは更衣室に消えていった。鳥居さんは基本的に定期的なバイトとしてはお店に入っていないので、今日は祐麒の付き添いである。鳥居さんは店長に挨拶をしてくると言って、去っていった。
残された祐麒は、腑抜けたように立ち尽くす。腑抜けた思考で、ここでも鳥居さんとは恋人設定なのか、などととりとめもなく考える。
もがけばもがくほど、絡まりついてくる。逃れられない罠にはまった感覚に陥る。
呆けている間にも、何人か店の女の子と顔を合わせたが、誰一人として祐麒のことを不審な目で見る者はいなかった。むしろ、新しい仲間として、実にフレンドリーな態度で挨拶してくれる。喜ばしいことのように思えるが、逆に『それでいいのか!?』と問い返したい。
「お待ちどうさま。さ、どうぞユキちゃん、着替えて」
更衣室から、メイド服に着替えた麻友さんが出てくる。どちらかといえばボーイッシュなタイプに見えた麻友さんだったが、制服になると一気に可愛い系になった。しかも眼鏡娘である。
「ユキちゃんが着替えているときは、このプレートにしてね」
扉にぶら下がっていたプレートを入れ替えている麻友さん。
観ると、そこには。
『注意! ユキちゃん着替え中』
と、やけに可愛らしい、ポップ調の文字が描かれていた。
「じゃ、フロアで待っているわね」
否応無く、更衣室に押し込まれる。
呆然としながらも、無意識に先日使用したロッカーに歩み寄り、制服を手に取る。
悲しいかな、特訓の成果か、随分とスムーズに着替えることが出来た祐麒なのであった。