自宅で、リビングから冷蔵庫に貼られていたチラシに目をこらしているときだった。ファッション雑誌を手にリビングに入ってきた妹の笙子が、私に非難の視線を向けてきた。
「お姉ちゃん、目つき悪いよ」
「え?」
笙子の声を聞いて私は、ふっと気を緩めた。
それまで目に力を入れていたため、こめかみのあたりが痺れるような感じがする。
「どうしたの、そんな怖い顔しちゃって」
すたすたと歩き、冷蔵庫の扉を開いて中から麦茶のボトルを取り出す笙子。私は目の横の辺りを指で押しながら、首を振る。
「いや、なんか最近、視力が悪くなってきたようなのよね。以前だったら、この辺からでも何て書いてあるか分かったのに」
「勉強のしすぎなんじゃないのー」
コップに注いだ麦茶を喉に流しながら、笙子が冷蔵庫に貼られたチラシを見る。
「なんだ。スーパーの特売のチラシだよ」
「別に、内容はどうだっていいのよ」
ため息をつく。
そんな私の様子を見て、笙子はごく軽い口調で言った。
「目が悪くなったならさ、眼鏡でも買えば?」
どうしてコンタクトではなく、眼鏡をすすめてきたのか笙子の真意は分からないが、その時の私は特に疑問を持つこともなかった。
―――そうして私は、大学生になって初めて眼鏡をするようになった。
<前編>
その日私は、その場所に来たことを心から後悔していた。
その場所とは、いわゆる『合コン』である。同級生の知り合いの子から頼まれ、本当は行きたくなどなかったのだが、前にちょっとしたことで借りを作ったこともあり、仕方なく引き受けた。
しかし、参加したのはやはり間違いであったと、すぐに気がついた。男女六人ずつの合コンだが、女性陣はといえば皆それぞれお洒落をして、化粧をして、可愛い服、格好いい服を着て自分を良く見せて。私みたいに野暮ったい女は他に一人としていなかった。この手のことに疎い私でも、気がついた。どうやら私は、他の女の子の引き立て役として連れてこられたらしい、と。
別に、それならそれでも構いはしない。元々、他の女の子みたいに、この場でいい男を見つけようとかいう気は更々なかったし、逆に構われないほうが気は楽だ。これで借りを返せるなら構わないのだが、問題は自分自身の気持ちだ。こんな、ただ無駄な時間を過ごしているのが勿体無くて仕方がないのだ。
しかも、運ばれてきた飲み物に口をつけてみれば、妙な味。どうやらアルコールが入っているようで、身体は熱くなってきて思考は鈍くなる。とゆうか、みんな未成年だろうに、アルコールなど口にして良いのか。
合コンが始まってから一時間ほどして、気分が少し優れなかったせいもあり私は一度、お手洗いに中座した。それなりに大きなビルの中にお店があったためか、お手洗いは店を出たところにあり、店の中と違ってそこだけがやけに静かだった。これ幸いと、私は近くにあったイスに腰掛け、大きく息を吐き出した。慣れない場所で慣れないことをしていたせいか、やけに疲れていた。
「……大丈夫、ですか?」
そんな声が聞こえたとき、最初、自分に対するものだとは思わなかった。もう一度、少し強めの口調で言われてようやく、顔を上げた。
見ると、やはり合コンに参加していた男性陣のうちの一人が、心配そうにこちらのことを見つめている。
「大丈夫、ちょっと疲れただけだから」
素っ気無く言って、手を振る。どこかに行ってくれという合図だったのだが、相手は気づかなかったのか、その場に立ったままでいる。
気分が悪く、苛々していたということもあり、目の前の男が鬱陶しくなってきた私は少し声を荒げ、半ばやけくそ気味に口を開いた。
「さっさと戻っていいわよ、私なんかいてもいなくても同じだろうし。私、人数あわせと他の子の引き立て役で連れてこられただけなのよ。ああもう、疲れた」
これでさっさと行くだろうと思ったが、相手はなぜか、笑った。不審げに眉をひそめて見上げていると。
「あ、すいません。いや、実は俺も人数あわせで先輩に半ば無理やり連れてこられたんですよ。こういう場、慣れないから疲れちゃって」
肩をすくめる。
私に話をあわせているのかと疑ったが、ため息をつく仕種や表情を見る限り、どうやら本当に今回の合コンを楽しんでいる様子ではなかった。
「……ん、ちょっと待って。先輩って、確か今日の相手も一年生よね。先輩ってことは……ああ、その人は浪人しているのね」
一人つぶやき、一人で納得したが、目の前にいる彼は首を横に振った。
「いや、実は俺、まだ高校生なんです。二年生」
その言葉を聞いて、内心では、高校生がこんな場所に来てお酒なんか口にしていていいのか、と思った。いや、未成年という意味では、私も同じであるが。
しかしながら、実際に私の口をついて出たのは、全く異なるものだった。
「ふうん、なんだ、私より年下なのね。名前、なんていうんだっけ」
「福沢祐麒です」
フクザワ、という苗字とその顔が誰かと重なったように感じられたが、像が鮮明にならなかったのでイメージを追い出す。特に珍しい苗字でもないから、学校のどこかで同じような名前の人がいたのかもしれない。
「そっか、じゃあ祐麒もあんまり楽しくないのかしら?」
思えば、お手洗いに行ったくらいから私はすっかり酔っていたのかも知れない。後になっても記憶は確かに残っているのだが、普段の自分だったらしないような行動を取っていたと思うから。今で言えば、年下とはいえ、初めて会った、しかも男の子のことを名前で呼び捨てにするなんて。だけど、このときの私はそのことを疑問とも思わなかったのだ。
新しく買ったばかりの眼鏡のフレームを押し上げ、目の前の祐麒を改めて見れば、確かに随分と幼さの残る顔立ちであった。高校生だというのも頷ける。
「そっか、じゃあ、ちょうどいいわね」
恐らく、このときは完全にアルコールがまわっていた。私の思考能力は、完全にネジが飛んでしまっているようだった。
うっとうしく落ちかかる髪の毛をかきあげながら、レンズ越しに祐麒の顔を見据える。
「あの、えーと、内藤さん?」
「内藤さん? そんな呼び方やめてくれる、笙子だか分からないじゃない」
「え、ショウコって?」
「だから、私は笙子じゃないから。克美。ほら、カ・ツ・ミ」
「えと、克美さん」
「何?」
口から吐き出す息が、お酒臭い。
このまま家に帰ったら、笙子になんて思われるだろうか。いつも、真面目だ、真面目だと言われているというのに。
「そ、そろそろ席に戻りませんか。あまり長時間席を外すのも」
「ああ、そうね」
私は立ち上がり、合コンの席に向かって歩き出す。祐麒もまた、私の後ろを少し遅れてついてくる。
合コンは、当たり前だが私達二人がいなくても盛り上がっていた。
だが。
「ごめん、清水さん。私、このへんで出るわ」
「えっ」
誘いをかけてきた彼女に告げると、彼女は驚きの目を向けてきた。
構わずに、私は続ける。
「こっちの彼も、一緒だから」
「ええっ!?」
席に戻ろうとしていた祐麒も、目を丸くして声をあげた。
しかし私はいつになく強気で通す。これもお酒の魔力なのか。
「ほら、行きましょう祐麒」
清水さんに五千円札を渡して、祐麒の袖を掴んで引っ張ると、祐麒は慌てながらも逆らおうとはしなかった。
半ば呆然と、声をなくした十対の瞳が私と祐麒の背中に注がれていた。
店を出て私と祐麒は、特に何を話すわけでもなくただ歩いていた。
しかし、次第に私の体調は悪くなっていた。
悪酔いをしたのか、頭は痛く、気持ち悪さが段々とこみ上げてくる。耐えられないほどではないが、足元は覚束なく、やがて私はしゃがみこんでしまった。
「大丈夫ですか?」
心配そうな声。
「あまり、大丈夫じゃない」
頭を抱える。
視界がグラグラ揺れているような気がするのは、眼鏡が目にあっていないからとかそういうことではあるまい。
意識はきちんとあるのだが、頭痛と気持ち悪さが伴って、まともに歩けそうになかった。
「肩、貸しましょうか?」
見かねたのか、おずおずと聞いてくる祐麒。
私は一瞬だけ迷ったものの、すぐに頷いた。今日出会ったばかりの男の体に触れるどころか、肩を借りるなどまともな状態であればありえないことだが、今の私は普通の状態ではなかった。
祐麒が隣にしゃがみこみ、私の脇の下に自分の肩を入れるようにする。私は、祐麒の首の後ろに腕を回し、体重を支えてもらうようにしてゆっくりと立ち上がった。
これならなんとか、駅くらいまでは歩けそうだった。
夜の街中を、二人して肩を組んで歩く。
恥しい、というような思いは今の時点では無く、体重をほとんど預ける格好になっているから、女の体重とはいえ重くて大変だろうな、などと埒もないことを考えていた。実際、隣の祐麒の呼吸は、歩くごとに少しずつ荒くなっていたから。
そうして駅の近くまで歩いてきたとき、私は歩いているうちにずれてきた眼鏡の位置をなおそうとして、だけど酔っていたせいか過って落としてしまった。
あ、と思ったときには遅かった。
丁度、祐麒が足を踏み下ろす地点に落ちた眼鏡は、そのまま祐麒の靴の下で乾いた音を立てた。
「ああっ!?」
慌てて足を上げる祐麒だったが、もう遅い。
眼鏡はレンズが割れて飛び散り、フレームはひしゃげてしまっていた。見るからに、もうどうしようもない状態で、まだ買ったばかりなのにと内心でため息をつく。
「す、すみません!」
祐麒が必死に割れた眼鏡の破片なんかをかき集めているが、どうしようもないと思いながら私は見つめていた。気がつけば、どうやら一人で立って歩けるくらいには回復をしていたようだ。
「ええと、落としたのは私だから、気にしなくていいわよ」
「そ、そういうわけにもいきませんよ」
地面に膝を突き、暗い道に目をこらしている姿は、必死なんだろうけれども人込みの中では勘弁してほしいと思った。何より、私は眼鏡どうこうよりも早いところ家に帰って休みたかった。
「本当、別にいいから……」
「あの、せめて弁償させてください」
「そんなの別に」
と、言っても聞き入れそうに無かったので、この場を収めるために私はとりあえず頷くことにした。
「あー、でも、どうしましょうか。いつどこで……」
頭が痛く、面倒くさくなった私は祐麒の言葉を遮って、
「じゃあ、明日私の大学まで迎えに来て。四時半ごろには出られるはずだから。私の大学、知っているわよね?」
一方的に言いつけた。
祐麒は、神妙な顔をして頷いた。
「それじゃ、今日はこれで」
なんとか一人で動けるまで復活した私は、さっさと駅の中へと歩き出していた。
後はただ、ネオンの煌めきを反射させたレンズの破片だけが、道端でかすかに光っていた。
「……最悪だわ」
合コンから明けた翌日の今日、私は何度、その言葉を発しただろうか。
もちろん、前日のことについてである。
酔ってはいたものの、記憶は鮮明に残っている。だからこそ、厄介である。冷静になって思い返してみれば、かなりとんでもないことをしたものだ。
初対面の男の子を呼び捨てにして、合コンの席から強引に連れ出して、体調の悪くなった私のことを介抱させてと、引っ張りまわした。おまけに、買ったばかりの眼鏡も壊してしまうし、本当にろくでもない。
初めて摂取したアルコールもまだ完全に抜けきっていないのか、気分も優れないまま大学に来たので、授業にも集中できそうにない。
私は、のろのろと教室に足を踏み入れた。
「あーっ、内藤さん、来たっ」
不意に、自分の名を呼ばれた。
見てみれば、昨日の合コンに参加していたメンバーのうち二人が、手を上げて私に合図を送っていた。今まで、そのようなことをされたことがない私は、戸惑いつつも彼女達の方に近づいていった。
「ちょっと、昨日はやってくれるじゃない」
席に近寄るなり、そう言って腕を叩かれた。
「は?」
「まさか、内藤さんにあの子を持っていかれちゃうとはね」
「え?」
「あの子可愛かったじゃん、ゆっことかさえちゃんも、ちょっと狙っていたみたいだよ」
「えーと、あの、なんのこと?」
戸惑いながら、本当に意味が分からないので聞いてみると。
「何、とぼけてんのよ。途中で、二人で仲良く抜け出しちゃってさ。内藤さん、真面目に見えて意外と手が早いんだね、ちょっと驚いちゃった。んで、彼はどんな感じだった? 上手だった?」
「いいよねー、結局、昨日の合コンで良い男の子ゲットしたの、内藤さんだけだもんね」
「ホント、どうやって落としたの?」
まくし立てられて、最初は理解が追いつかなかったけれど、数秒ほどしてようやく意味をのみこむ。
「えええ、ち、違う違う! 別にそんなんじゃないから!」
激しく首を振って否定する。
しかしながら、相手は聞く耳を持っていないというか、完全に思い込んでしまっている。
「いまさら、隠さなくてもいいじゃん」
「そ、そ。単なる真面目な優等生かと思っていたけれど、なんか親近感湧いちゃった。意外と男好き?」
「だから、激しい勘違いだからそれ!」
いくら私が誤解だと説明したところで、全く信じてくれない。
確かに、他のメンバーから見れば私は、合コンの途中でお気に入りの男の子をつかまえて、さっさと二人きりになるために抜け出したように見えるのかもしれないが。
現実には、単につまらないから帰ろうとしただけで、甘い展開など何一つなかったし、そんなつもりも毛頭なかったのだが。
「年下の男の子をぺろりと食べちゃうなんて、羨ましいなー」
「高校生だったんでしょう? その頃の男の子なんてHな欲求ばかりで凄く激しいんじゃないの?」
「何々、高校生の可愛い男の子を、内藤さんが優しく手ほどきしてあげたんだって?」
と、帰宅する頃には、更にとんでもない言われようになっていた。
勿論、冗談半分というところもあるだろうが、噂というものは一人歩きするものだ。私はどんよりと曇った表情で校舎から足を踏み出した。
今もまだ、同じ講義を受けていた清水さん達が前方で楽しそうにお喋りしている。彼女達は昨日の合コンで成果がなかったためか、まだしばらくは私が標的になりそうだった。
ため息をつきつつ、重い足を引きずるようにして歩いていると。
「内藤さん、内藤さん。彼、来ているわよ」
と、前を歩く清水さん達が、半ば楽しむように、半ば羨むようにして私の方を振り返った。
何事かと、歩を進めると、何と校門に寄りかかるようにして立っているのは、学生服姿ではあったけれど間違いなく祐麒だった。
「な、なんで、こんなところに」
愕然としている私を尻目に、清水さんたちは祐麒を取り囲んで騒いでいる。
「可愛い!」とか、「本当に高校生だったんだ」とか、「赤くなっちゃったわよ」なんて囃し立てるようにしている。女子大生に囲まれて、祐麒は中心で困惑しているようだった。
しばらくして我に帰った私は、慌てて皆を分け入って祐麒の元に駆け寄った。
「ちょっと、何であなたが此処にいるのよ!?」
詰め寄ると、目を見開いて驚く祐麒だったけれど、私の勢いに押されながらも口を開いた。
「だって、克美さんが昨日、学校の前で待っていろって言ったんじゃないですか」
「…………あ」
そうだった。
すっかり忘れていたが、言われてみればその通りで、私が此処まで来いと言ったのだ。
「えー、なに、昨日の今日でもう迎えに来させているの?」
「やっぱり、そうなんじゃない。へぇ、もう尻に敷いているの」
皆にからかわれ、事実とかけ離れているとはいえ流石に恥しくて、顔に血が昇ってくるのが分かった。
赤くなったら赤くなったで色々と言われるのは想像がついたので、とりあえず私はこの場を逃げることにした。
「ほ、ほら祐麒。さっさと行こう」
祐麒の手を引っつかんで、強引に抜け出す。
後ろで、またも歓声があがる。
よく考えれば、これはこれで、二人で手をつないで仲良く帰る、みたいな姿になるのだと思い至ったが、今さらどうすることも出来ず、私は羞恥をこらえて祐麒と手を繋いだまま歩き去るのであった。