第十一話 『ターニング・ポイント』
暦の上では秋となったが、まだまだ蒸し暑い日々が続いている。仕事は相変わらず忙しいが、それでも体を壊さない程度ではあるし、殺人的な仕事量も景がうまいことマネジメントしてくれているようで、チームのメンバー全員が負荷を分散することができている。とはいっても残業が多いことに変わりはないのだが、毎日のように終電、または泊まり、なんてことは発生していない。
「すみません、加東さ――」
呼びかけて立ち上がりかけ、景のデスクの上が綺麗なことを見てとり、無言で椅子に腰を下ろす。
「そういや、外出中でしたっけ」
「お客さんのところ。打ち合わせ、&新しい仕事も貰うよう働きかけないといけないし、なんだかんだと大変よね」
隣の風見がキーボードを叩きながら顔だけを向けてくる。
下っ端の祐麒は、今のところ出てきた仕事量をこなすだけで精一杯なのであるが、仕事は何もしなくても降ってわいてくるものではない。果てしなくあり続けるようにみえるが、それらも地道な営業活動によって積み重ねられたものなのだ。
「やらなきゃいけない仕事は沢山あるし、これ以上はいらないと思うけれど、そうもいかないんでしょうねぇ」
上の立場になれば、今日明日の仕事さえあれば良い、というわけにはいかない。三か月後、半年後と、先を見据えた活動を行っていく必要があるのだ。
「どんなことしているんでしょうね」
「さあ、詳しいことは分からないけれど、ここのところ営業と連携して資料作っていたもんね。今日も、PC持って出かけたからプレゼンとかじゃない?」
「なるほど……」
パソコンに向かって設計書を作り、プログラムを書き上げてテストするばかりが仕事ではないとわかっているつもりでも、実際に自分が経験のしたことない仕事をさほど歳も変わらない景がやっているのかと思うと、改めて優秀な人なんだなぁと思う。
自分が景と同じ年次になったとき、果たして同じ仕事を行って同じ成果を出すことができるのか、非常に怪しいと感じる。
「ま、役割分担ってやつよ。こっちはこっちで出来ることをするだけ」
「そうですね」
素直にうなずき、仕事に再び集中する。
どうなるかも分からない先のことを考えたところで仕方がない。今は、目の前の仕事をきちんとやり遂げることが先決で、将来の道程を考えるのは帰りの電車の中でもできる。ということで、出来たばかりのプログラムをコンパイルすると。
「うあぁ、コンパイルエラーが……」
「あらあら、相変わらずだねぇ」
「プログラムセンス、ないんですよね俺……あぁ、くそっ」
頭を抱えたいのを堪え、祐麒はエラーを潰しにかかった。
同じような日がしばらく続き、疲労もたまっていくが若さと気合と根性で乗り越えてゆく。そんなことをずっと続けていくわけにもいかないが、若い時はそうやって多少の無理をしてでも頑張って乗り切れば、自分の身になっていくものだと信じて。
疲れた体を引きずって部屋に帰り、ビール一杯とつまみを口にして一息つく。そこまでお酒が好きだというわけではないのだが、飲みたくなってしまう気持ちというのも分かるような気がする。
テレビを観る気も起きず、風呂が沸くまでの間に携帯を確認すると、菜々から着信があったことを思いだす。会社で残業中だったので、終わったらかけ直す約束にしていた。時刻は既に零時を回っていたが、菜々ならば起きている時間であろうとコールする。
『――遅すぎです先輩、待ち疲れました』
電話がつながるなり、そんな声が届いてきた。
「ごめんごめん、でも本当に今、仕事が忙しくてさ。それで、何の用?」
『はい。あの、明日、お時間いただけないでしょうか?』
「明日……か」
当たり前だが、明日も会社だ。
『お仕事が終わった後、七時くらいに会えませんか? 実は、相談したいことがあって』
「――相談? 今、ここでよければ聞くけれど」
『いえ……電話では、ちょっと』
菜々から相談など珍しいどころか、初めてのことである。いつものようにからかってきているのかと一瞬、考えもしたのだが、声の調子などからしてどうやら冗談ではない雰囲気を感じ取る。
「明日じゃないと駄目なの? 週末なら」
『それは、明日じゃないと…………やっぱり難しいですか?』
「ああ……いや……」
目を閉じ、頭をかいて考える。
今、自分が持っているタスク量と納期、進捗状況。
「…………分かった、七時ね、多分、大丈夫。少し遅れる可能性はあるけど」
仕事が厳しいことは確かだが、たまには早めに上がってリフレッシュすることも必要だ。社内では"定時退社日"なんていう、殆ど守られていない言葉だけ独り歩きしているが、こういうきっかけがあれば、半ば無理矢理にでも仕事を切り上げやすい。というか、そうでもなければ早く上がるなど出来そうもない。遊びではなく、後輩から相談を受けることになっているのであれば、気分的にも後ろ暗くない。
『本当ですかっ!? 大丈夫です、少しくらいなら全然っ』
電話の向こうの声の調子が弾む。
『それじゃあ絶対に、忘れないでくださいよ。じゃあ、待ち合わせ場所は……』
約束を終えて電話を切る。
「――――しかし、なんなんだろうな」
気になることではあったが、考えたところで菜々の相談事などわかるはずもない。そもそも、普段だって何を考えて行動しているのかわからない、色々な意味で理解できないことの多い後輩なのだから。
「っと、風呂、湧いたか。少しでも疲れをとらないとな」
ぐっと伸びをして浴室に向かう。
明日も明後日も、まだ仕事は続くのだから。
そうして翌日、いつもと変わらぬ忙しい日中の仕事をこなしてゆく。時計を見れば既に17時となっており、どうしてこんなにも早く時間は流れてゆくのだろうと不思議に思う。
だが幸いなことにタスクは順調に仕上げられており、菜々との約束は守ることが出来そうだった。
「あーもー、わけわからんっ。こんなときに加東さんはどこ行ったのよー!?」
「確か、武藤さんと一緒にプレゼンですよね」
「ううう、煮詰まる……」
隣の席で頭を抱え込んでいる風見に対し、かける言葉もなく自分の仕事に打ち込む。
「福沢くん、冷たい」
「俺に風見さんの分からない所が分かるわけないでしょう」
「それでもさー、少しくらい助けようという気概が欲しいよね。ここでさっそうと助けてくれたりしたら、きっとあたし惚れちゃうよ?」
「いやー、そう言われましても」
「え、何その反応。もしかして福沢くん、いつの間にか彼女出来た?」
「できていませんけど、とにかく俺には無理ですから。今日は予定もありますし」
「なにー、まさかデートか、デートか?」
「違いますよ」
煮詰まっているためか、現実逃避したいようでやたらと構ってくる風見の手を逃れ、どうにか七時前には会社を出ることが出来た。約束の時間には少し遅れそうだが、こちらも働いている身であるし、それくらいは許してほしい。
会社の前の通りを駅に向かって歩く、その途中で電話が鳴った。ディスプレイを見ると、景の名前が表示されていた。
「――――はい、福沢ですけど?」
首を傾げつつ電話に出る。
『…………ふ、福沢、くん……?』
「はい、そうですけど。どうしたんですか、加東さんですよね?」
なぜか不思議そうな感じで問い返してきた景に対し、祐麒は確認の意味を込めて問い返す。もしかしたら間違えたのだろうか。
『ど、どうしよう……どうしよう、私。福沢くん、どうしたらいい?』
「え……っ? あの、どうかしたんですか」
『どうしよう……お願い福沢くん、私』
ただならぬ様子に、祐麒は足を止めて電話の向こうの景に改めて問いかける。
「落ち着いてください、加東さん。何があったんですか?」
『ないの……どうしよう……』
「ない? 何が、ないんですか?」
『……プレゼンが終わって、武藤さんと別れて電車に乗って……疲れていたのかな、座ったら少しウトウトして……目が覚めたら、なかったの』
「置き引き……?」
『どうしよう……PCが……ないの……』
「えっ……」
ようやくそこで、景が我を失っている理由が分かった。プレゼンのために持ち出していたPCを、帰りの電車の中で置き引きにあったということなのだ。PCの中には当然プレゼン用の資料が入っており、社外秘の資料であるわけで、更にもしかしたら他にもファイルやデータ、あるいは客とやり取りしたメールデータとかも入っていた可能性もある。祐麒にだってこれはまずいことだということが分かる、昨今では色々と問題沙汰にもなっている情報セキュリティのインシデントだ。
『どうしよう、探したんだけれど見つからなくて、私……ふ、福沢くん、お願い』
「お、お願いと言われましても、俺に出来ることは」
『……お願い…………来て…………』
「――――っ」
恐らく、今の景はパニックに陥って正常な精神状態でなくなっているのだろう。いつもの景なら、例えPCを盗まれるという状況だとしても、ここまで不安定な状態にはならないはずだ。
張り切っていた大きなプレゼンに向けて連日連夜の仕事をこなし、無事にプレゼンを終えて達成感と解放感に浸った中での事故に、大きなダメージを負ったのだろう。聞いたことも無いような弱々しい声に、今すぐにでも傍にいってあげたいという気持ちが湧き上がってくる。
「加東さん、今どこに――」
駆けつけよう、そう思ったとき、遠くに見える街頭テレビに夜の七時を告げるニュース番組が映った。
菜々との約束。
今まで、いつだって明るく人のことをからかっていた菜々が、初めてしおらしい声で相談に乗って欲しいと言ってきた。電話では駄目、会って話したいという、常ならぬ真面目な様子を電話越しにも感じ取ることが出来た。
頼られて嬉しくないわけがない。菜々は可愛い後輩だ、悩みがあり、相談してくれるなら助けてやりたい、力になりたいと思う。
思うのだが。
『…………福沢、くん』
力ない景の声が、胸に響く。
同時に、キャッチが入る。
ディスプレイに表示されているのは勿論――
"菜々"
「く…………」
電話機を握りしめる祐麒。
景のことは、祐麒が向かったところでどうにもならない。しかるべき人に連絡を入れて指示を仰ぐのが取るべき手段としては最善だろうし、きちんと説明すれば景ならすぐに理解するだろう。そう思いつつも、今の景の声を聞くと放っておくことは出来ない状態だとも思える。
菜々の方は、何の相談なのかはわからないが、今日でなくても大丈夫なのではないだろうか。一分一秒を争うようなことであれば昨日のうちに言ってきたであろうし、一日遅れたところで何が変わるとも思えない、のだが。
目を瞑り、歯を食いしばり、そして祐麒はどうするかを決めて走り出した――
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~なかがき~
景「……何これ、いきなりシリアスに?」
菜「てゆーか、失敗して頼るとかざとくないですか」
景「わ、私だって、したくて失敗したわけじゃないし! 頼ったのだって……」
菜「これじゃあ先輩、そっちに行きそうじゃないですか」
景「でも、先に約束していたのは菜々ちゃんでしょう。約束破るような人じゃないでしょ」
菜「ギャルゲーなら完全にここでルート分かれますね」
景「この物語ではどうなるのかしら……」
菜「ハーレムルート?」
景「いや、ここからどうやって……」
菜「私を引き連れて、加東さんを助けに行くとか?」
景「そんな無茶な……でも、菜々ちゃんの相談って何かしら。それも気になるわね」
菜「…………」
景「……と、とにかく、タイトル通りになりそうね、この後は」
菜「そう、ですね……」