バレンタインデー当日、街のお菓子屋さん、ケーキ屋さんをはじめとして、スーパーや百貨店でもどうにか今日中に出来る限り売ってしまいたい、というような勢いで色々なチョコレートやらチョコレートケーキやらを売り出していた。
そんな人波の中を、祐巳は一人でうろついていた。不覚というか申し訳ないというか、チョコレートを用意するのをすっかり忘れていたのだ。受験に集中していたという理由はあるものの、妹である瞳子、去年まで姉であった祥子にはきちんと用意をしていたのだから、本当に間が抜けていたとしかいいようがないだろう。
用意し忘れていたというのは、家族である父と祐麒の分だった。
何せ父は、今でも祐巳から貰うチョコレートを本当に楽しみに待っているのだ。いや、いい年になったからこそ、娘から貰うチョコレートが嬉しいのかもしれないが。それが、今年に限って無いと知ったら、どれだけ落ち込むか分からない。娘ながら、随分と親ばかだなあと思う。
祐麒は祐麒で、「別に俺にチョコなんていいのに」と、ぶっきらぼうに言うけれど、父にあげて祐麒にあげないと拗ねるだろう。それに祐麒は男子校だから、クラスの女の子からチョコレートを貰うなんてことはないのだ。いや、もしかしたら祐巳が知らないだけで、実は誰か生徒からチョコレートを貰っていたりして。なんか想像すると、ちょっと嫌だった。
あるいは、リリアンでも有名だから、誰かリリアンの女子生徒からもらうようなことがあるかもしれない。今年も年賀状はなかなかの盛況だったから、可能性がないとは言い切れない。
意外と、実は既に彼女がいたりしてと、そんなことも考える。
考えてみて、いるはずがない、とは思わなかった。別に彼女がいてもおかしくない年齢だし、男子校とはいえ先ほども言ったとおり、リリアンと交流があって元生徒会長である祐麒はリリアンでもそれなりに有名で、人気もあった。
加えて、いつごろからか覚えていないが、挙動も変わったように思える。部屋ではよく電話をしているようだし、メールを見てにやにやすることも多くなったし、休日に遊びに行く回数も増えていた気がする。受験勉強が本格化してからはさすがに多く外出はしていなかったようだが。
それに何より、あのクリスマスプレゼントだ。どう考えても女の子から貰ったものだとしか思えない。
やはり、彼女がいるのだろうか。
チョコレートを買いに来たはずなのに、なぜか悶々とそんなことばかり考えながら、デバートの売り場コーナーをうろうろしていた。
「あら、祐巳さんじゃない」
混雑したフロア内、色んな商品に目移りしながら歩いていると、不意に右手の方から声をかけられた。
目を向けてみると、大学生くらいの女性が親しげに祐巳に向けて片手をあげていた。
「み、三奈子さま?」
驚きの声をあげる。
顔を見ること自体が非常に久しぶりだというのも会ったが、何よりリリアン時代と随分変わったように見えたのだ。
髪は見慣れたポニーテールではなく、ふわふわっとゆるやかなウェーブを描いて胸のあたりに垂れており、上にニットを被っている。コートの下に見えるのはニットチュニックにデニム。
全体的に、大人っぽく、女性らしくなっているように見えた。
「お久しぶり、元気かしら?」
「は、はい、お陰様で。三奈子さまもお変わりなく」
「やーだ、かたいわよ祐巳さん。もうリリアン卒業したんだし、"さま"なんてつけなくていいのに」
気軽に祐巳の肩をたたき、さらには頭まで撫でてくる。あまりに気安すぎないかと思ったが、さほど嫌だとは感じなかった。かつて、新聞部の部長兼編集長として色々と暗躍していた頃の三奈子は苦手だったが、新聞部を離れると意外と良いのだ。
だから、
「ねえ、せっかく会ったんだし、お茶でも飲んでいかない?」
という三奈子の提案に、すんなりと頷いていた。
デパート内のちょっと小洒落たカフェに腰を落ち着け、三奈子と向かい合ってケーキを食べながらのお喋り。
三奈子が話してくれる大学生活の話、祐巳が話す今のリリアンの話、どちらも興味津々で、話は弾んだ。
はじめのうちはすこし緊張気味だった祐巳も、ほんの数分も話をしていたら、三奈子の話術に引き込まれたのかそれとも私服どうしという気軽さか、いつの間にか対等な友人のようになっていた。
「――それで、志摩子さんったら一人で乃梨子ちゃんのこと惚気ちゃってるんだよ、本当にいつまでもラブラブなんだから、参っちゃうよねえ」
「ふふ、志摩子さんらしいじゃない」
「でも、見せ付けられているこっちとしてはさあ……って、あ、やだごめんなさい」
「何、どうしたの、急に?」
「いえ、なんか、凄いフランクな喋り方になっちゃってて」
会話の途中で自らの言葉遣いに気がつき、慌てて頭を下げると。
「そんなこと気にしなくていいのに。私も、友達になれたみたいで嬉しいし」
頬杖をつきながらストローでレモンティーをかき回し、気を悪くした様子も無く、微笑む三奈子。
不思議な感覚だった。
お嬢様というわけではないが、両親からはきちんと礼儀というものを教わっており、目上の人に対しての礼節はそう欠かしたことはないはずだった。それがまるで、三奈子が発する雰囲気とでもいうものに巻き込まれるかのように、あっさりと慣れ親しんだ間柄みたく接してしまった。
「友達というか……そう、なんか"お姉ちゃん"、っていう感じで」
軽く手を打ち鳴らす。
取材から離れた三奈子は、気さくで、それでいて実は他の人のことを色々と気にかける優しい人なんだということを、祐巳は知っている。それでいて、しっかり者の妹には弱いとか、突き進んで失敗したり、慌てふためいたり、どことなく祐巳と似ている部分があったり。
だから思わず、親しさを感じてしまうのだろうか。
目の前にいる築山三奈子という女性は、明るくて、年上だけど可愛らしくて、とても魅力的なんじゃないかと思えてきた。
「お姉ちゃん、か」
ふと、呟くように言った三奈子がじっと祐巳を見つめてくる。
「へ、変なこと言ってすみません。気にしないでくださいね」
笑って誤魔化そうとしたものの、なぜか三奈子は祐巳の顔から目を離すことなく、輝く瞳をぶつけてくる。
目をそらすのも失礼な気がして視線を受け続けるが、そこまで注視されるとむず痒いような気になってくる。
やがて、祐巳がそろそろ無言のプレッシャーに耐え切れなくなりそうになったとき。
三奈子の口元が緩んだ。
「……そっか。お姉ちゃん、お姉ちゃん、ね。うむ、お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん」
なぜか、"お姉ちゃん"と呟き続けた。それはもう、少しばかり不気味なくらいに。親しみを感じたのは気の過ちだったかと、さすがに祐巳も引きそうになる。
「あの~、どうかしました、三奈子さま? 何か姉というものにトラウマでもあるとか」
「は? 何それ、相変わらず祐巳さんは面白いこと言うわね」
ケラケラと笑い出した。
本当に、一体なんだったのか意味不明である。祐巳はため息を吐き出し、温かい紅茶のカップに口をつけた。
「ところで祐巳さんが買ったチョコレートは、お付き合いしている男性にあげるの?」
三奈子の一言に、ぶふぉっ! と口に含んだ紅茶を噴出した。咄嗟に手で口を抑えたから大惨事にならなかったが、手と口はベタベタになってしまった。
ハンカチで拭きながら、祐巳は三奈子に目を向ける。
三奈子の視線は、先ほど祐巳が購入したチョコレートが入っている紙袋に注がれていた。
「ち、違いますよお、これは家族にあげる分です」
「ふーん、そうなの? 実は付き合っている彼氏とかいるんじゃないの?」
嬉しそうな表情で聞いてくる三奈子。生き生きとした表情は、『りりあんかわら版』の編集長だった頃を彷彿とさせる。
「やだなあ、そんなのいませんよ。そ、それより三奈子さまのほうこそどうなんですか、大学生になられて、いい人でもできたんじゃありませんか?」
祐巳としては三奈子の矛先を変えるつもりで口にしただけで、さほど深く考えて言ったわけではなかったが、その言葉を聞いた途端に三奈子の口も、動きも、ぴたりと止まった。
「うーん、そうねぇ」
そして、思案するような素振り。
だけどその様子は、困惑しているというよりも、どこか楽しげな感じさえ受けた。
「え、え、ひょっとして本当ですか?」
大学生であるし、進学先は共学ということでおかしなことなど全く無いはずなのに、物凄く驚いていた。そもそもお嬢様学校で、且つ女子校であるリリアンでは、周囲でそういう話がされることが極めて少なかった。だからある意味、この手の話は新鮮なのだ。
「どう、思う?」
逆に、問い返してくる三奈子。
「そのお顔を見る限り、いると見ましたっ!」
興奮気味にテーブルの上に身を乗り出す。
人のことだというのに、胸が少しドキドキする。ああそうか、スクープを手に入れるって、こういう気持ちになるのだろうかと思ったりもする。三奈子がオープンにお付き合いをしているのであれば、スクープでもなんでもないのだが。
果たして三奈子の答えはなんだろうかと、唾をのみこんで待っていると。
「知りたい? それはぁ……ヒミツ♪」
人差し指を立てて左右に振り、悪戯めいた顔を見せる三奈子だったけれど、その笑顔のあまりの眩しさに、これはきっと誰か素敵な人がいるのだろうと思う祐巳なのであった。
その後、他愛もない話をして過ごして、そろそろ店を出ようかという頃合。
「そういえば祐巳さんって、確か兄弟がいたわよね」
前触れも無く、三奈子はそんなことを言ってきた。
「はい、弟がいますけれど、ご存じないですか? 学園祭のとき、山百合会の劇にも出ていたんですけれど」
「あー、あれね、うん、見た見た」
「で、それが何か?」
首を傾げると、三奈子は脇に置いてあったトートバッグを膝の上にのせ、中に手を入れて何かを取り出した。
「じゃじゃーん。これです」
「これって?」
テーブルに置かれた、二つの箱。
一つは赤いリボンが飾られていて、もう一つは青いリボンが結ばれていた。
「バレンタインのチョコレート、差し上げようかと思って」
「え、な、なんでです?」
「いやー、大学の皆とかに色々あげようと思っていたんだけれど、今って丁度、大学は春休みじゃない。つかまらない人がいて余っちゃったから。ここで会ったのも何かの縁、在学中は祐巳さんにも色々と迷惑かけちゃったし、ね」
「はあ……」
ね、と言われても困るというか、予想だにしていなかった三奈子からの贈り物に戸惑うばかりという状態であった。
そんな祐巳の様子に構うことなく、三奈子は綺麗に包装された箱を手に取る。
「祐巳さんは女の子だからこっちの赤いリボンの方ね。で、弟さんにはこっちの青い方」
ずいと、差し出してくる。
「そんな、悪いですよ」
「いいから、いいから」
押し合いになる。
ありがたく貰っておけばよいのだろうが、一度断ってしまって受け取りづらくなってしまった。それに、二人分も貰うなんて、申し訳ない。祐麒とだってほとんど面識はないだろうに。
「もう、頑固だなあ」
「三奈子さまだって」
「うーーー……あ、そうだ」
と、何を思いついたのか、三奈子は再びトートバッグの中を漁り、何かを取り出した。
それは、小さなカードだった。
続いてペンを手に取り、おもむろにカードに何かを書き込んでいく。
時折、ペンで頭をかいて「うーん」と唸ったりしながら、どうやら何かを書き上げると、カードを折りたたみ、リボンに挟み込むようにしてから再び箱を差し出してきた。
「はい、メッセージカードつき、それも祐巳さんと弟さん宛てよ。これで、もう受け取るしかないでしょう」
と、半ば強引に手渡されてしまった。
ここまでされて、今さら差し戻すわけにもいかず、祐巳はようやく笑いながらありがたく受け取ることにした。
まさか、三奈子からバレンタインのチョコレートが貰える日が来るなんて、しばらく前までは想像もできなかった。
「おっといけない、いつの間にかこんな時間に」
腕時計に目を落とし、三奈子が立ち上がり伝票を手に取る。慌てて祐巳も財布を出そうとするが、そんな祐巳の手を押し留める三奈子。
「つきあってもらっちゃったし、ここは払わせて。一応、私の方が先輩なわけだし、アルバイトもしているから」
お金を出す暇も与えず、さっさと会計を済まされてしまった。そして、店を出てあっさりと別れる。
「それじゃあね。楽しかったわ、祐巳さん」
「はい、私も楽しかったです、三奈子さま」
ぺこりと頭を下げる。
背を向けて歩き出す三奈子だったが、数歩進んだところで振り向いて、思い出したかのように口を開いた。
そして。
「弟さん――祐麒くんにも、よろしくね」
片目をつむり、どこか小悪魔めいた微笑を投げかけて、三奈子は今度こそ去っていったのであった。
三奈子との思いがけないひと時を終え、追加の買い物をしてから帰宅する。夕飯を食べて、リビングでのんびりと過ごす。そう、祐巳の受験は三日前に終わっており、のんびりと過ごすことができるのだ。
テレビを観ながら怠惰な時間を満喫していると、二階からゾンビのような顔と足取りをした祐麒が降りてきた。祐麒はそのままのろのろとリビングに入ってきて、崩れ落ちるようにソファに腰を落とす。その様はまるで、真っ白な灰に燃え尽きたボクサーのようだった。
「ちょっと祐麒、大丈夫? 今日は疲れただろうし、もう休んだら?」
声をかけても返事が無い。
ただの屍か。
ちなみに祐麒は今日も試験があったばかりで、さらにあとまだ最後の一校が残っているので、気を抜くわけにはいかないのだ。
「しようがない、元気のない祐麒に、お姉ちゃんがいいものをあげよう」
テーブルの横においてあった袋から、今日購入したばかりのチョコレートを取り出して渡す。ちなみに、今年は結構奮発していて、祐麒に先んじて渡した父親はまるで子供のように喜んで、母に笑われていた。
しかし、祐麒ときたら。
「……あぁ、ありがと」
と、重苦しい声で呟くように言うだけ。まるでありがたみなど感じていないご様子である。
しかもそのチョコレートの包みを、まるで呪いでもこめるかのような目つきで睨みつけ、小声でなにやらぶつぶつと言っている。
「なんで……今年はないのか…………いやいやまだ今日は終わっていない……でももうこんな時間だし……忘れているのか…………ありえるけど……」
意味不明だ。
よほど、今日の試験の出来が悪かったのだろうかと、心配になる。だけど、確か本命の大学は最後に受けるところだと言っていたし、ここは気分を新たに最後の一校に集中してもらいたい。
そこで祐巳は、最後の武器を取り出した。
「祐麒、驚いて。なんと今年のバレンタインはもう一つあります。とある女の子から祐麒に渡してくれって、頼まれちゃったの。やるね、このこの」
わざとふざけた口調で、青いリボンに包まれたチョコレートの箱を祐麒に差し出す。
さすがの祐麒も、ぴくりと反応を示す。だけど、思ったほどの効果はないのか、表情はまだ虚ろ。祐巳以外の女の子からバレンタインのチョコレートを貰うのが、嬉しくないのだろうか。
祐麒は頼りない手つきで箱を受け取ると、リボンに挟まれていたカードに気がついて取り出し、広げた。
「――――え」
目が、見開かれる。
何て書いてあるのかは知らなかったが、かなり驚いているようだった。
「ちょ、ちょっ、ゆゆゆ祐巳っ! ここここれ、どういうことだよっ!?」
カードとチョコと祐巳の顔を、忙しなく見比べる祐麒。先ほどまでの死人のような様相がまるで嘘に見えるほど、顔に生気が蘇ってきている。
「祐麒、知っているかな? 去年、卒業されてしまったんだけれど、新聞部に在籍していた築山三奈子さまと今日、偶然に会ってね。そしたら、そのチョコレートを渡されたの。あ、でも勘違いしない方がいいよ。たまたま余っていたのを、たまたま会った私にくれただけで、実際私も同じの貰っているし」
説明したが、果たして祐麒は聞いているのかいないのか、やたら興奮して、ソファの上に立ち上がっていた。
ひょっとして、祐巳と母親以外の女性からチョコレートを貰うのが初めてなのだろうか。いや待て、クリスマスプレゼントの彼女はどうなった。ひょっとして、その彼女と何かあってチョコレートを貰えなくて、それであんな死にそうな顔をして落ち込んでいたのか。そうだとすると、我が弟ながら少しかわいそうだなと思いながら、祐巳もまた三奈子から貰ったチョコレートを取り出して、ふと気がつく。
貰ったときはあまり気にしなかったし、同じかと思っていたが、リボンの結び方が微妙に異なっていた。包装紙は同じだから、同じ店なのだろうけど、祐巳の持っている赤いリボンは綺麗に結ばれているのに、青いリボンは曲がっていて歪に見える。結び方も、異なっている。違う人がやったにしても、違いすぎないかと思う。
「ねえ祐麒、そっちのちょっと見せて」
声をかけたが、祐麒は祐巳の声など耳に入っていないのか、勢いよく二階にかけ戻っていってしまった。
まあ、さほど気にすることはないのかもしれない。単に持ち運んでいるうちに、ずれてしまっただけかもしれないし。
祐巳に手渡された方のカードを抜き取り、開いてみてみる。
"祐巳さんへ Happy Valentine's!!
お姉ちゃんより(笑)"
というメッセージが記されているだけの、シンプルなカード。
「あれ?」
祐巳は首を傾げる。
何の変哲も無いカードなのに、なぜか、どこかが気にかかる。
「うーん……ま、いっか」
本当に何かあれば、いつか思い出すだろう。祐巳はカードをテーブルの上に置き、リボンと包装を解いて中を覗いてみる。
綺麗な一口サイズのチョコレートをつまみ、口の中に放り込む。
どこか、暖かな甘みが口の中にほわりと広がった。
おしまい