バレンタインデーを間近に控えているとはいえ、そんなこと受験生には全く関係のないこと。チョコに現を抜かしている暇があったら、問題集でも単語帳でも見ていた方がまだ有意義というものというのが受験生に共通する認識のはず。
しかしながら小笠原祥子には通用しなかった。なぜならば、既に本命である大学の試験は終えており、あとは結果を待つばかりになっていたから。
「祥子さま、今年のバレンタインは……」
「分かっているわアンリ、準備は万端よ」
背後でかしこまるアンリに向け、祥子は落ち着いて答えた。入学試験の結果こそまだだが、手ごたえとしては問題なかったと思っており、あとは卒業式を待つだけ。二年生くらいまでは色々なこともあり、まだ精神的な落ち着きが足りなかった祥子だが、最上級生となってからはグンと大人びてきて余裕さえうかがえる。
祐麒とのことは、慣れない異性関係ということもあって本人を前にすると心が乱れてしまうが、こうして一人でいれば慌てることもない。
「最高のショコラティエにお願いして作ってもらった、最上級のチョコレートを用意しているわ」
小笠原家の力を使ったと言われるかもしれないが、使えるものならば最大限に使って相手の心を射止める。祥子に妥協という言葉はない。
「それでは駄目です」
しかし、一言の元にアンリから否定される。
「なっ……! な、何を言うのアンリ」
まさか使用人から駄目出しを食らうとは思ってもおらず、眦を吊り上げて振り向きアンリに食って掛かる祥子。
仕える主人から怒りをかい、並の使用人ならば泣いて許しを請うような状況だが、アンリは真摯なまなざしで祥子を見つめる。アンリもまた、真剣に祥子のことを思って進言しており、命をかける気概であった。
「確かに、最高のショコラティエに作っていただいた最上級のチョコレートかもしれませんが、それは世界一ではありません」
「そっ……そんなこと。世界一なんて、そう簡単に出来るわけないでしょう。大体、何を持って世界一だなんて決めるというの」
長い髪の毛をばさりと背中に流しながら、祥子はアンリを睨みつける。
「もちろん、それを決められるのは祐麒さまです」
「祐麒さんが……でも、それは」
「もうお分かりかと思いますが、祥子さまの手作りチョコレート、それこそが世界にただ一つしかないチョコレートなのです」
「な……そ、それは」
驚きに目を見開く祥子。お嬢様である祥子だからか、手作りのチョコレートを渡すという発想はしていなかった。もちろん、リリアンではチョコレートを貰うことも多く、その中には手作りが多いことも知っていたが、自分が手作りして渡そうという思いは持っていなかったのだ。
「でも、私お菓子作りなんてしたことないわ。失敗したら……」
「失敗しても良いのです」
「え? どうして」
自信満々に言い切るアンリに、祥子は不振の眼差しを向ける。そもそも完璧主義者でもあり負けず嫌いでもある祥子、自分が失敗するなんて嫌だし、失敗したものを贈るなんていうのも考えられないことだった。
「祥子さまが普段なさらないお菓子作りを頑張ったということが伝わります。むしろ、世の殿方にはその方が喜ばれることもあります。これは、私が愛読している恋愛バイブル(少女漫画)にも書かれているので、間違いありません」
「そ……そうだったの……」
衝撃を受けて慄く祥子。自分の価値観からは信じられないことなのかもしれない。顎にほっそりとした指をあてて考え込む祥子だったが、やがて決心したように顔をあげてアンリに目をむける。
「分かったわ。それじゃあ……アンリ、必要なものを用意して頂戴」
「既に用意してあります。キッチンへどうぞ」
アンリに先導されてキッチンに向かうと、言われる通り材料、調理器具、レシピと全てが揃えられていた。
「シェフはいないの?」
キッチン内を見回して言う祥子。
「レシピはありますから、それを見て作りましょう。頑張ることも重要です」
「……その言いようではアンリも手伝ってくれないのね。いいわ、自分で作るから」
髪の毛をかきあげて後ろで纏め上げ、置かれていたエプロンを手に取って身に付け、手を消毒してお菓子作りに向き合う祥子。やると決めたら即座に行動に移すところは、さすがというところである。
レシピに目を通し、その通りに仕上げていく。アンリは時折、祥子に尋ねられるタイミングで返事はするものの、基本的には見守るだけである。
そうして、まずは試作品が出来上がった。
「……どうかしら」
「……見た目は、問題ないですね」
二人で顔を見合わせた後、手に取って口に運ぶ。
「味も、問題ありません」
「そうね……でも、なんだか」
口ごもる祥子。
その気持ちはアンリにも分かるようで、なんとも言えない表情をしている。
見た目も味も問題ない、だが大成功したというほど美味しいわけでも見た目が美しいわけでもなく、大失敗した酷い味や見た目でもない。要は、手作りをしたものの逆に全く特徴がないのだ。
「これ……本当に手作りの方が良いのかしら?」
「まだ最初の作品です。これから更に良いものに仕上げていきましょう。まだバレンタイン当日まで日もあります」
「そうね、最初からうまくいくわけもないものね」
気を取り直し、祥子は改めてチョコレート作りに向かう。
アンリと二人で色々と試していき、そうしてやがてバレンタイン前日となったのだが、二人の表情は晴れやかとは言い難かった。
「……結局、最初に作ったモノからあまり変わらないわね」
「そ、そんなことないです。確実に進歩していますよ、今ではチョコレートのムースケーキだって作れているじゃないですか」
そう、確かにアンリが言う通りに確実に進歩はしているのだ。基本的に祥子は優秀であり、レシピ通りに作るのでレシピ通りのものが出来上がるところまでは普通に達する。しかし、レシピ以上のものにはならない。
たとえば同じようなブラウニーやケーキを令が作った場合、遥かに美味しくて見た目も鮮やかなものが出来上がるのに、祥子が作ったものはそうならない。アンリと相談してアレンジを加えたりすることにも挑戦したが、そうすると逆に加える前よりも一段落ちる。レシピ通りに作ることが出来れば十分ではないかとも言えるが、最高のショコラティエの作る最上級のチョコレートを諦めて手作りにしてこの出来では、祥子が満足できないのも致し方ない。
「本当に、手作りのものを渡す意味あるのかしら。やっぱり元々用意していたものの方が良いのではなくて?」
「そんなことはありません。高校生男子にとっては手作りチョコレートの方こそが最上だと、私の恋愛バイブル(少女小説)には書いてありましたし、事実、集計結果もそのようになっています」
「そ、そう」
自信満々のアンリに、やや気圧される祥子。
「そうね……ここまでやって、今さら手作りをやめるというのも悔しいわ。でも、これ以上の味を求めるのは難しそうだから、せめて見た目をもっと良くしましょう」
現実的な路線に向かう祥子。現状、レシピ通りのためか見た目はやや質素というか、素朴な感じであり、十分に改善の余地はある。
「はい、頑張りましょう、祥子さま」
こうして二人、納得のいくまでデコレーションを考えた。
翌日、バレンタインデー当日。
最高とまでは言えないかもしれないが、それでも満足いく出来栄えのチョコレートを作り上げ、余裕を持って登校した。既に授業はないため、午前中まで使って作り上げたチョコレートである、祥子もどこか達成感のようなものを覚えていた。
薔薇の館に入って腰を落ち着け、温かい紅茶を淹れて一息ついていると、やがて二年生たちが姿を現した。
「お姉さま、これ、バレンタインのチョコレートですっ」
「ありがとう、祐巳」
可愛い妹から手渡されるチョコレートを受け取ると、自然と笑みが浮かぶ。貰った小箱を鞄にしまおうとしたところで、祥子は動きを止めた。
「――お姉さま、どうされました?」
「え……あ、ええ、なんでもないわ」
答えながら、祥子は内心で頭を抱えていた。
(しまった……どうやって渡せば良いのかしら……っ!?)
作ることばかりに頭がいっていて、渡すときのことが頭の中から完全に消え失せていた。そもそもリリアンでは貰うことばかりだったし、渡すにしても学園に足を運べば普通に渡すことが出来たのだ。
だが、今回渡したい相手はリリアンにいないどころか、在籍しているのは男子校である。
(花寺まで行って渡す……む、無理よ!)
男が沢山いるところ、しかも出待ちなどしていようものなら注目を集めること必至、そんな場所に赴けるわけがない。
(それならば呼び出して……駄目よ、こちらから渡すのに、なんで偉そうに呼び出すなんて。それならばご実家まで……図々しいわよね)
悶々と悩む祥子。
結局、これといった解決策を見出すことも出来ずに学園を後にし、とりあえず花寺学院へと足を運んでみたが、門から出てくる沢山の男子生徒の姿を目にして、これは駄目だと首を振って踵を返す。
さて、どうしようか。
☆
「ううっ、寒いなっ」
外に出た途端に突き刺すような風が吹き付けてきて、反射的に首をすくめる。
「おいユキチ、お前、今年はどれだけチョコレートもらうんだ?」
「知るかよ。そう簡単にもらえるもんじゃないだろ」
「そんなこと言って、祐巳ちゃんから貰うくせに」
「家族からのは貰ったうちに入らないだろ」
「お前、祐巳ちゃんみたいな可愛い子から貰えるなら、アリだろ、アリ。大体お前は贅沢すぎるぞ、祐巳ちゃんから貰えるのに……って、まさか誰か他にも!?」
「別にいないよ」
絡んでくる小林を適当にあしらいながら帰途に就くも、校門の前で他校の女子が待ち構えていてチョコレートを渡してくれる、そんなことはやはり無かった。
小林と別れ、家に帰る電車に乗り換え、やがて駅に到着する。
日が落ちてきて気温もぐんぐん下がって来たのか、学校を出た時よりもさらに寒くなっている気がして、必然的に歩みも速くなる。
「これはマジで、この冬一番の寒さじゃないか?」
白い息を吐き出しながら帰宅を急ぐ。
ようやくたどり着いた家の中に入ると、暖かな空気が体を包んできてようやく力みが抜ける。
「お帰りー。あ、はいこれチョコレート」
「――サンキュ」
先に帰ってきてリビングのソファでごろごろしていた祐巳が身を起こし、ひょいと無造作に手渡してきた。
嬉しくないわけはないが、ここまで適当な感じなのもどうかと思う。とはいえ貰う身で文句を言えるわけも無し、ありがたく頂戴して自分の部屋に行く。
早速、祐巳からもらったチョコレートを開封して食べながら本を読んで夕食までの時間を潰すこと小一時間、携帯に着信が入った。
画面に表示されていたのは"アンリさん"の文字。
首を傾げつつも電話に出る。
「――もしもし?」
☆
完全に日が暮れて空は暗くなり、照明の光に待ちは照らし出されるようになっている。その照明がキラキラと輝いて見えるのは、先ほどから小雨が降り出したから。ただでさえ気温が低いというのに、風に雨というコンボが道行く人々を容赦なく叩いていく。
「…………ふぅっ」
細く息を吐き出す。
コートを着ていても体の芯から冷えてくるようで、寒さから身を守るように出来る限り体を縮こまらせていても効果は全くない。
もっと違う、どこか温かい場所にするという手はなかったのだろうか。
あそこのコーヒー店――窓際の席から見える方向が反対だから駄目。
本屋の中――入口の隣がレジだし、奥に行ったら外が見えないから駄目。
薬局――狭くて人の出入りも多くて見失いそうだから駄目。
そんな感じで色々と検討した結果なのだから、仕方ない。最後までこの場所で粘るしかないだろう。
ここまですることになるとは我ながら思わなかったが、何事も中途半端にするのは嫌いなのだから、こうなったら意地でも目的を達するまでやめる気はない。
「っくしゅ! それにしても……遅いわね。生徒会の仕事かしら」
ハンカチで赤くなった鼻をおさえる。
かれこれ、どれくらいの時間が経っただろうか。確認したところで無駄なのでやらないが、気にはなる。
駅の改札を出て家路に着く多くの人、逆に電車に乗るべく急ぎ足で改札内に入っていく人を、何人、何百人、見たのだろう。
その中で、探し求めているのはただ一人。
「…………あ」
思わず、声を上げる。
冷え固まった足を動かし、ゆっくりと向かっていく。
「――祐麒さん」
彼の人が改札から出てきて、人波に紛れて駅の外に出ようかというところで声をかける。
「え、あ、祥子さん、どうしてここに?」
目を丸くする祐麒。
「祐麒さんを待っていたんですよ。分かっていらしたのではなくて?」
待ち始めた頃は緊張をしていたが、時間が経つにつれて落ち着いてきて、声が上ずることも無く、どもることもなく、さらりと自然に言うことが出来た。
「え……と、そ、それって、もしかして」
「もしかしなくても、今日はバレンタインデーですから……」
鞄から、用意していたプレゼントを取り出そうとして。
「……あっ」
長い間外にいたせいでうまく手が動かず、掴みそこなって落としてしまった。慌てて拾い上げようとすると、同時に拾おうとした祐麒の手に触れてしまった。
「あ、ごめんなさい」
「うわっ!? ちょっと祥子さん、凄く冷たい手なんですけどっ!? もしかして、ずっとここで俺のこと待っていたんですか」
「はい、そうですけど」
途中から、指の感覚もかなり薄れてきていた。手袋を持ってきていないのは失敗したと後悔はしたが、持っていないものは仕方ない。
「風邪でも引いたらどうするんですか」
「大丈夫です、もう受験も終わりましたし」
「そうゆうことじゃなくて……ああ、もう」
「え、ちょ、ちょっと祐麒さん、何を……」
「いいから、じっとしていてください」
「は、はいっ」
祐麒は自分の鞄を地面に置くと、祥子の方に手を伸ばしてきた。何事かと身をすくめようとしたところ、祐麒に強く言われて動きを止める。
すると、首周りにもふっとした暖かなものが巻き付けられた。
「こ、これ……」
先ほどまで祐麒が巻いていたマフラーである。感じる温もりは祐麒の温もりであろう、そのことに気が付いて顔が火照る祥子。
「あと、手も」
「っ! あああ、あの、ちょ」
冷え切っていた手が、祐麒の手によって包まれる。
「は、恥ずかしい、です」
「祥子さんがいけないんですよ、こんな寒いところにいるから」
「そ、それは。大体、祐麒さんがもっと早く帰ってきてくだされば良かったんです、悪いのは祐麒さんです」
待っていたのに怒られてムッとなり、思わず言い返してしまう祥子だが、手はいまだ祐麒に握られたまま。その手が徐々に温かみを取り戻し、血行が良くなって血色がよくなってくる。
「それを言われると……でも、待っていてくれたのは凄く嬉しいんですけど、もしも俺を見逃していたらどうするつもりだったんですか。これ以上、もっと冷えて本当に風邪引いちゃっていたかもしれませんよ」
そう言われて、更にムッとなると、祥子は再び言い返すべく口を開いた。
「そんなことはありません。例えどれだけの人がいようと、私が祐麒さんを見逃すなんてしませんから。例え何百人の流れの中にいても、祐麒さんなら見つけられるわ」
胸を張る。
すると。
「あ……そ、そう、ですか」
なぜか真っ赤になって俯き、そろりと手を離す祐麒。
「……それでは私、そろそろ帰りますね。渡せて、良かったです」
随分と遅くなってしまったが、無事に渡すことが出来たから全てが報われた。何日も前から用意してきたことが。
「祥子さん」
頭を下げて背を向け、改札から出てくる人の波に逆らうように歩き出すと、名前を呼ばれた。
振り返る。
「――これ、ありがとうございます。凄く、嬉しいです」
そう、言ってもらえて。
祥子の方も、物凄く嬉しい気持ちになった。
祥子の姿が消えて見えなくなるとすぐに、どこに潜んでいたのかアンリが現れて祐麒に深々と頭を下げた。
「――ありがとうございました、祐麒さま」
「いや、いきなり『もう一度制服を着て駅まで出てきてください』と言われた時は何かと思ってびっくりしましたけれど、俺の方こそお礼を言わないとですね」
アンリの電話によって呼び出された祐麒は、駅に向かう途中でセバスチャンの運転する車に拾われて隣駅まで連れて行かれた。そして、何の説明をされることもなく、ここから家まで帰ってくれて放り出されたのだ。
その理由は、既に分かっている。
「祥子さん、既に俺が帰っているっていう可能性は考えなかったのかな」
「思い込み、というやつでしょうか。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
再び謝るアンリだったが。
「いえ……悪いとは思いますけれど、そんな風に待っていてくれたなんて嬉しいですし、それに」
「――それに?」
目で問うてくるアンリに対し、祐麒は赤くなりながら小さく笑う。
「祥子さんでも、そういう抜けた部分があると思うと……可愛いなって」
そう、思うのであった。
☆
一方その日の夜遅く、祥子は自室にて。
「――ああ、私ったらあんな恥ずかしいことを言ってしまうなんて、寒さで思考能力が落ちていたんだわ……っ」
と、自らの発言の恥ずかしさに気付き、ベッドの上で枕を抱きしめて身悶えしていたのであった。
おしまい